東京都教育委員の諸君、聞く耳をもたないのか
本来行政とは、主権者への奉仕のシステムである。自治体であれば、主人である住民に仕えなければならない。ところが、世の中理念と現実は大違い。主客逆転して、筋の通らない行政が満ち満ちている。これを是正する方策として、政治ルートと司法ルートとが想定されている。もちろん、政治ルートが本筋である。
しかし、政治ルートの実効性は極めて低い。行政そのものが多数派支配の機関という宿命を帯びているからだ。筋の通らない行政の被害者の多くは少数派で、少数派であるが故の理不尽な迫害についての「政治ルートでの解決」、つまりは選挙を通じての多数派横暴の是正は画に描いた餅でしかない。
そこで、筋の通らない行政の是正のために司法ルートに期待がかかる。行政訴訟法はそれなりのメニューを取りそろえて、主権者国民の裁判所へのご来店を待ってくれてはいる。しかし、これも現実にはそう簡単なことではない。手間も暇も、金だってかかる。そのうえで、確実に勝訴できるとは限らない。
それでも、行政に腹の据えかねるときには、たった1人でも訴訟ができる。いくつものメニューの中で、もっとも使いやすいのは国家賠償の制度だが、これは国や自治体の責任を追及すること。これとは異なり、筋の通らない行政の責任者である自治体の公務員個人の責任を追及する手段が住民訴訟。然るべき立場の公務員個人の責任を問題とし、その個人の行為の違法性と自治体に与えた損害について攻撃防御を尽くす舞台を設定することで、住民個人と権力をもった公務員との対等性を実現することができる。もっともっと、住民訴訟の活用がはかられてよい。
住民訴訟は、本来は財務会計上の違法行為を是正し、違法行為の責任者個人への民事的責任追求を通じて自治体の損害を回復するという制度。使い勝手がよいのは、他の行政訴訟では常に問題となる、処分性だの、原告適格だの、訴えの利益だの、主張制限だのといった手続的な面倒がないこと。仮に自分とは無関係な問題についても、当該自治体の住民でさえあれば、原告適格が認められる。この訴訟では、公益を代表して、住民個人が原告となって、公務員の違法を是正する構造なのだ。
この訴訟の多くは、知事や市長の個人責任追及のために使われる。首長の判断の間違いから、自治体に損害が生じた場合が典型。まずは、監査委員会に監査請求をし、棄却の裁決を経て、住民訴訟の提起となる。いまは、いきなり当該公務員個人を被告とはできない制度だが、自治体に公務員個人に対する賠償請求を義務づける訴訟が先行して、これが確定すれば、自治体は当該公務員(知事や市長)に損害賠償請求をしなければならない。
東京都教育委員会の責任追及の手段として、監査請求から住民訴訟を提起してはどうだろうという提案が一部にあるという。住民訴訟をやろうというのは、東京都や行政機関の責任ではなく、教育委員個人の責任を追及しようという意図以外にはない。東京都教育委員一人ひとりに賠償義務、あるいは不当利得返還義務があるという主張となる。
何をもって、各教育委員が東京都に対して損害を与えているというか、あるいは各委員が不当利得返還債務を負担しているというか。参考判例として箕面忠魂碑2次訴訟の一審判決(大阪地裁・1983年3月1日)がある。
この判決は、「忠魂碑の宗教的性質を認め、市教育長の忠魂碑前での慰霊祭への参列は公務とはいえないとし、その時間分の給与は不当利得となって市に対して返還義務を負う」と判断している。もっとも、慰霊祭参列の宗教性の認定は上級審で覆されてはいる。しかし、「違法な式典に参列した時間に相当する給与の返還義務」までが否定されたわけではない。要は、公務員としての業務遂行をしてないのに、その対価として得たものは、本来自治体が支払うべきでないのだから、不当な利得として返還しなければならないということだ。
さて、都教委の諸君のことだ。委員会において、やるべきことをやらず、やってはならないことをやっておられる。たとえば、日の丸・君が代強制問題で、最高裁判決が実質において「思想転向強制システム」を違法と判断した。この重大事について検討しなければならないことをしていない。反面、実教出版社の「日本史」採択妨害など、してはならないことはきちんとしている。
都の教育委員の月例報酬分について、東京都から教育委員に損害賠償をせよ、あるいは時間相当の不当利得返還請求をせよ、などの提訴は十分に考えられるところ。まずは監査請求を行えば、その過程で、給与の額や支払い方法などは明瞭になる。
こんなことを考えざるを得ないのは、都教委事務局の鉄面皮ぶりに怒っているからだ。「東京君が代訴訟」の原告団で構成している「被処分者の会」が、9月9日付で、「請願書」を提出した。その趣旨は、「9月6日判決を中心とする一連の最高裁判決と、被処分者の見解を教育委員に報告して、十分な議論を尽くして欲しい。是非とも、最高裁の多くの補足意見が述べているとおり、事態打開のために話し合いの場の設定をお願いしたい」という内容である。
この請願に対して10月10日付で形ばかりの回答がなされた。「教育委員会への報告は行わないこととなりました」というのである。理由は、「請願の処理は、(請願についての取扱要綱によれば)、当該事案について決定権限を有する者が処理するとされており、これに基づいて、教育委員会決定とされる特に重要な事項を選定し、教育委員会の会議に報告しています。」からという。
つまりは、「教育委員会決定とされる特に重要な事項」だけを教育委員に対する報告事項とし、それ以外は「事務局段階で握りつぶす」ことの広言なのだ。
都教委が行った、「10・23通達→校長への職務命令発令強制→懲戒処分」「機械的な累積過重懲戒システム」が、少なくとも一部については最高裁が違法と断罪し、30件(25人)の処分を違法であることを認めて取り消しの判決を言い渡し、これが確定したのだ。これ以上の「重要事項」などあろうはずがない。
最高裁が都教委違法と断定したのは、確かに日の丸・君が代強制行為のすべてではない。しかし、その本質部分と言って良い。しかも、最高裁の多数の裁判官が補足意見を書いている。「違憲違法との決め付けまではできないが、妥当であるかと言えば話は別」「権力的な強制は思わしくない。都教委の権力行使は謙抑的に」と言っているではないか。
教育委員の諸君よ、のうのうと報酬をもらっておられる事態ではない。あなたがその一員である教育委員会の処分が違法として取り消された。しかも、最高裁の判断として確定しているのだ。違法な処分を受けた関係者にどう謝罪するのか、違法処分の再発防止はどうするのか、責任者の処分をどうするのだ。最高裁から指摘があっても、自分の違法には頬被りなのか。それが、仮にも「教育」に携わる者の態度か。教育庁職員のやっていることに責任がないと開き直ってはならない。監督不行き届きなのだ。いじめや体罰問題を起こした当人だけの責任ではなく、学校の管理体制が問題だとあなた方は言っているではないか。自分のこととして考えていただきたい。
違法あれば、その是正に提訴が常に最善の手段というわけではない。しかし、このまま事態の打開ない場合には、社会と教育委員各自に、問題の深刻さを訴え、被処分者個人と権力をもった教育委員との、議論における対等性を実現する手段として、「報酬分の返還」を求める住民訴訟の提起は、まことに魅力的な提案ではある。
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『東北アジアにも、ASEANなみの諸国連合を』
連日「ASEAN(東南アジア諸国連合)プラス3」首脳会議の記事が新聞を賑わせている。ところが、恥ずかしいことに、首脳の顔になじみがない。遠いアメリカやヨーロッパの首相や大統領の顔なら、おおよそは判別できるのに、である。記念写真の整列の順列が大きな意味を持つようだが、残念、よく分からない。
1967年ベトナム戦争中のアメリカが、東南アジアの共産化を恐れて、後援して発足させたのがASEANの起こり。最初の構成国は、タイ、インドネシア、シンガポール、フィリピン、マレーシアの5カ国。その後、ブルネイ、ベトナム、ミャンマー、ラオス、カンボジアが加わって現在は10か国で構成されている。
1990年代にベトナムが加わった頃からは、反共イデオロギーを超えた東南アジア地域統合体として成長した。10か国の総人口は6億人、GDPは日本の4割弱である。インドネシアのジャカルタに本部を置き、世界の50カ国あまりがASEAN大使を常駐させている。
2007年にはASEAN憲章が制定され、加盟国によって順次批准されている。民主主義の促進、核兵器の否定、武力行使・威嚇の拒否、国際法の遵守、内政不干渉などの条項がふくまれる。
2009年にはASEANインフラ基金も創設されて、日本と中国が各384億ドル、韓国が192億ドルを出資している。2015年までに域内経済を一体化させる「ASEAN経済共同体」創設に向かってすすんでいる。
さて、10月9日、ブルネイの首都バンタルスリブガワンで開かれた首脳会議の一番の関心事は、中国とフィリピンやベトナムなどとの間の南シナ海の領有権問題であった。今回、立役者となるはずのオバマ大統領が国内経済問題にてこずって会議に出られなくなるという事態となり、代わって中国の李克強首相の存在感が大きくなったと報道されている。日本の安倍首相にはオバマ大統領に代わって、仲を取り持つ器量や貫禄はとうてい望めない。
これまで、領有権紛争解決のために、法的拘束力のある「行動規範」策定に向けて、話し合いが続けられてきており、中国は自らの行動を縛ることになる「規範策定」には消極的だった。ところが、この会議では風向きが変わった。「紛争は直接の当事国の間の協議と交渉を通じて解決すべきだ」という従来の主張を繰り返しながらも、「行動規範策定に向けてASEAN側と協議を続ける」との柔軟な態度を取り始めたということだ。「南シナ海には船舶航行の自由があり、南シナ海での航行の自由は保障されている」と言うようになってきている。
紛争相手国であるフィリピンは、1992年に一度は追い出したアメリカ軍を再び駐留させるという強硬政策をとってまで中国と対決する気だった。そのフィリピンのアキノ大統領も、協議の進展に評価の姿勢をしめし、「紛争を拡大させないため関係国は自制すべき」と態度を軟化させている。
ASEANの存在感なかなかのものであり、会議の進展は平和的なムードだ。ところが、日本の安倍首相だけが浮いている。憲法解釈を変更し集団的自衛権の行使を可能にするいきさつを説明するために、「積極的平和主義」をすすめると公言した。「平和主義」ではなく「積極的平和主義」。これが「武力の威嚇をもってする平和」の宣言にほかならないことは先刻承知のこと。こうした日本の言動が、太平洋戦争で侵略されて忘れることのできない記憶を抱いているアジア諸国に及ぼす懸念を認識しないのだろうか。こんなことで、近隣諸国の懸念を払拭して友好な関係を確立できると思っているのだろうか。
日本は尖閣列島を国有化し、首相の靖国参拝問題、慰安婦問題と中国・韓国の神経を刺激し続けている。竹島問題の行方も知れない。今回の会議においても、中国の李克強首相とはかすりもせず、韓国の朴槿恵大統領とは朝鮮料理の話ができたと喜んでいる情けない事態となっている。
近隣諸国間の対話と信頼の醸成の場の必要性は安倍首相も感じたはずだ。ASEANのような共同体を東北アジアにも作らなければならない。定期的に会議の場が設定され、イヤでも隣国の首脳同士が顔を合わせ、口を利かなくてはならない。そのような関係をつくることが重要ではないか。いくらアメリカだけを頼りにしても、日本の平和的安全保障は成立しない。
(2013年10月11日)