「核抑止力」の虚妄を衝く
本日(10月18日)の「毎日」夕刊トップは、「核不使用声明:『いかなる状況でも』明記 日本署名へ」というもの。
国連総会第1委員会(軍縮)で、日本が初めて署名する意向を表明した「核兵器の非人道性と不使用を訴える共同声明」の最終案を毎日新聞が入手したという。そこには、「いかなる状況下でも核兵器が二度と使われないことが、人類存続の利益になる」と明言されているという。
これまで日本は、この文言を、米国の核抑止力を損なうという理由で、受け容れがたいとしてきた。日本は、この「最終案」に署名することを表明している。一瞬、この見出を読んで日本の立場が変わったのかと喜んだのだが、どうもそうではないらしい。
声明案には、これまでになかった新たなフレーズが盛り込まれた。「核軍縮に向けたすべてのアプローチと取り組みを支持する」というものだそうだ。この「修正の結果、全体的に核抑止力を否定しない内容になったとして、日本も署名する方針に転換したとみられる」という、分かりにくい記事。記者の書きぶりの所為ではなく、交渉経過と日本の姿勢自体が分かりにくいのだ。
「核軍縮に向けたすべてのアプローチと取り組みを支持する」との文言が、核抑止力依存の原則を留保したことになるという文脈は分かりにくいが、日本がそれほどに「核抑止力」にこだわっていることだけはよく理解できた。
そもそも抑止力とは何か。核抑止力とは何だろうか。
抑止力の原型は次のようなものだろう。
A国とB国が対峙して、お互いに「自国は平和国家なのだが、相手国が平和国家であることは信用できない」「自国に侵略の意図はないが、相手国の侵略の意図は不明である」と考えている。この想定はかなり普遍性があるだろう。
他の要素を捨象して軍事力だけを考えた場合、相手国に侵略の意図あったとしても、この意図を挫いて侵略を防止するために最も有効な手段は、相手方を上回る軍事力を装備することである。武器と兵員の量と質において、相手国を圧倒できればなお安心となる。つまり、「相手国を凌駕する軍事力が、相手方の侵略の意図を挫く抑止力になる」という考え方である。
ところが、これはお互いさまなのだ。こちらが不信感を持つ相手先が当方を信頼するはずはない。両国が、ともに相手国を凌駕する軍事力を望めば、当然のことながら、際限のない軍拡競争のスパイラルに陥る。この負のスパイラルは、過去無数の現実であり、これからも生じうる。愚かな国際関係としか形容しようがない。自国の軍事力の拡大が、相手方の軍事力の拡大を招くのだから、「相手国を凌駕する軍事力」は、結局のところ相手国の軍拡を招くものとなり、相手国からの侵略の意図を挫いたとして安心できることにはならない。その意味で、抑止力になるとは言えない。
では、軍拡競争に陥らない態様の軍事力であれば抑止力になるのではないだろうか。「相手国を上回る軍事力」を望めば必然的に軍拡競争に陥る。それなら、「攻撃力においては相手国を上回らない、防御力に関してだけ万全の軍事力」というものを想定してはどうか。絶対に対外侵略はできないが、相手国が侵略してきたときにだけは滅法強い防御力を発揮するタイプの軍事力。これは、「専守防衛」の思想である。戦後の保守政権が、憲法9条の縛りの中でやむを得ず採用してきた、軍事力の形の基本と言ってよいだろうと思う。これはこれで、一つの見識であり賢明な姿勢であろう。普通の国の軍は専守防衛など宣言しない。9条あればこその「専守防衛論」である。
これについて、2点を述べたい。
まずは、核兵器が抑止力になるかという問題である。核は、侵略した敵軍隊と自国で闘って自国民を防衛するという種類の兵器ではない。その破壊力と事後の放射線被曝を考慮すれば、お互い、核兵器は自国では使えない。その意味ではもっとも非防衛的であり、もっとも攻撃的な兵器というべきだろう。「いざというときには、相手国の領域で使用して甚大な被害を及ぼすぞ」という威嚇は、専守防衛の思想とは無縁である。
核による報復のボタンを押すべきか否かは、恰好のSF的テーマである。押してしまえば、抑止力にはならない。押さずにいれば、核は無用の長物である。このようなジレンマに陥る以前に、核は抑止力として機能するだろうか。一国が核のボタンを押すときには、相手国も同様と考えれば、核の使用は両国が壊滅するときである。もしかしたら、当事国だけでなく人類が滅びるときであるかも知れない。核の使用をほのめかして相手国を威嚇するとき、実は自国に対しても滅亡を予告し、人類全体を威嚇しているのだ。そのような兵器は、現実的には使用不可能である。使用できない武器に抑止力はない。
専守防衛の軍隊が想定可能として、そのような軍隊を保持することは、本当に合理的な選択であろうか。国民の安全を実現する上で、最善の方策であろうか。国家は、自国の軍隊が自国民を擁護するものであることを当然とする。しかし、国民はそのことを信用してよいだろうか。自国の軍隊が、自国の人民に牙をむく事態を想像することは困難なことではない。また、侵略の武力と防衛の武力との厳密な懸隔はない。軍隊があれば、自衛の名による戦争の危険はつきまとう。なにしろ、専守防衛を言いながら、「敵基地攻撃能力」も自衛の範囲というのだから。
さらに、専守防衛にせよ、軍隊を保有するデメリットとコストを勘案しなければならない。近隣諸国からの信頼を得てこその経済的、文化的国際交流である。軍隊をなくすことでの信頼関係の醸成と経済的なメリットは計り知れない。戦争や侵略の動機は、主として経済的利害の対立である。厖大な軍事力を維持することは、経済的な損失を被っているのだから、「各国とも既に半ば敗戦」ではないか。それよりは、軍事に頼らない経済や文化の相互交流を目指すのが、得策であるはず。
国家間の戦争ではなく、「テロとの戦い」においても同じこと。世界的な希望の格差や貧困の存在がテロや紛争の原因となっている。軍事力は、その解決の能力をもたない。むしろ、憎悪と貧困の再生産をもたらすだけ。軍事的なリソースを格差や貧困の絶滅に向けたキャンペーンを行えば、「テロとの戦いに勝つ」のではなく、「テロとの戦いをなくす」ことができるだろう。
日本政府は、後生大事に「核抑止力」に寄りかかっていてはならない。「核」も、「軍事的抑止力」も廃棄する政策をもたねばならない。それが、憲法の平和主義である。
(2013年10月18日)