安倍首相よ 真榊料の奉納も憲法違反の疑義濃厚だ
本日(10月17日)から4日間が、靖国神社秋季例大祭。本来一宗教法人の宗教行事なのだから粛々と信者だけで内輪の儀式を執り行えばよいのだが、この神社の行事には、どうしても国が絡む。政治が絡む。歴史観が絡むし、軍国主義が絡んでくる。創建以来の東京招魂社・靖国神社の歴史がそうさせるだけではない。この神社が、いまだに「大東亜戦争聖戦論」を積極的に喧伝していること、このことに関連して、戦没者ではないA級戦犯を昭和殉難者として特別に祭神として祀っていることによるところが大きい。つまりは過去のことではなく、現在の靖国神社の在り方が、きな臭くも生臭くもある独特の臭いと、騒々しさを作り出しているのだ。
その今年の秋季例大祭に安倍晋三さんは参拝しないこととし、昨日(16日)参拝に代えて真榊料5万円を奉納したという。
安倍さんが神道の信者であり、熱心な靖国神社信仰者として、私的に参拝の思いが深いとしても、首相という地位にある(さして長くはない)期間、参拝を控えるのが賢明な態度である。大学は法学部の出身とのことだから、宮沢・芦部の名は知らなくとも、憲法の政教分離規定は学んでおられるだろうし、外交上の配慮も必要だろう。さらには「右翼の軍国主義者」と言われる材料提供を重ねることも得策ではあるまい。
もっとも、安倍晋三という人、本当に「私的参拝」の意欲や動機をもった人なのだろうか。靖国神社の信仰者なのだろうか。サラリーマン時代、彼は例大祭の度に靖国神社に参拝していたのだろうか。政治家になった途端に、靖国神社参拝を意識したのなら、「私的参拝」と言っても信じてもらうのは無理な話。
ところで、参拝はしなかったことは良しとして、真榊料奉納なら問題がないというのは間違いだ。「首相の参拝は不可、真榊料なら可」という定式があるわけではない。著名な参考判例として、愛媛県知事の靖国神社玉串料奉納を憲法の政教分離原則に違反するとした歴史的な最高裁大法廷の違憲判決(1997年4月2日)がある。
ちなみに、その判決の15人の最高裁裁判官の意見分布は13対2だった。反対にまわった守旧派裁判官の名は覚えておくに値する。三好達と可部恒雄。とりわけ、当時最高裁長官だった三好達。いまは、右翼団体の総帥、「日本会議」の議長である。「最高裁長官」だからといって、超俗の公平無私な人格をイメージしたら大間違い。所詮は、俗の俗、偏頗の極み、右翼の使い勝手のよい人物でしかない。
愛媛玉串料訴訟の事案と、安倍真榊料奉納とを比較してみよう。
寄付者は、愛媛県知事と首相。
寄付を受ける者は、両者とも宗教法人靖国神社。
寄付の名目は、玉串料と真榊料。
寄付金額は、愛媛県知事が9回で合計4万5000円、安倍首相が1回5万円。
玉串料には宗教的意味合いが深く、真榊料にはそのような意味がない、などという妄言は聞かない。「玉串」とは何で、「真榊」とは何なのか。その穿鑿は意味が無い。「賽銭」「献金」「布施」「供物料」「初穂料」「神饌料」「幣帛料」‥、何と名付けようとも異なるところはない。宗教的な意義付けをした金銭の授受があれば、愛媛玉串料訴訟の法理が妥当する。
残る問題は、愛媛の事件では、玉串料は露骨に公費からの支出であった。これに対して、安倍さん側は、「真榊料はポケットマネーからの支出」と言っているそうだ。しかし、「私費で出したのだから、問題はなかろう」とはならない。
公的参拝と私的参拝の区別について、当ブログで以前に論じたことがある。再び、公人性排除のメルクマールとされた、三木武夫内閣の靖国神社私的参拝4要件を思い起こそう。「公用車不使用」、「玉串料を私費で支出」、「肩書きを付けない」、「公職者を随行させない」というものである。
参拝に代わる靖国神社への「寄金」についても、その寄金が本当に私的なものなのかどうか、可能な限りあてはめて吟味しなければならない。誰が、5万円を靖国神社まではこんだのか。公職者が使われていないか。その際に公用車の使用はないか。真榊料とされた寄金の奉納者名に、「内閣総理大臣」の肩書は付けられていないのか。
以上は形式的な問題だが、政教分離の精神が求めているのは、政権と神社との象徴的紐帯の切断である。靖国神社という特定の宗教団体が国から特別の支援を受けているという外観を作出してはならないのだ。靖国は国を利用してはならないし、政権も靖国神社信仰を利用してはならない。相寄る衝動をもつ両者だが、真榊料を仲介とした結合を許してはならない。
(2013年10月17日)