「戦争で死ぬ覚悟をするのなら、なぜ死ぬ覚悟で戦争に反対しなかったのか」ー特攻隊員だった岩井兄弟(99歳・97歳)の証言
戦争体験の承継は、時代の重要な課題である。終戦直後には、国民すべてが戦争体験者だった。その後しばらく、戦争体験の交流はあっても、世代間の伝承が課題として意識されることは世の大勢ではなかった。しかし、まったく戦争を知らない新しい世代が成人する時代となってからは、国民的な戦争体験の承継が大きな課題として浮かびあがってきた。さらに、戦後生まれの首相が9条改憲を鼓吹する時代ともなると、不再戦の誓いを出発点としたわが国再生の基本が揺らぐ事態を迎えている。国民誰しもが経験した戦争の悲劇の伝承は平和な未来のために不可欠の課題となっている。
戦争体験の承継手段は活字も映像もあるが、なによりも生身の体験者の語りが基本であり、訴える力がある。私も、父や母、叔父叔母などからもっと意識的に戦地の体験や銃後の生活の詳細を聞いておけば良かったと思う。録音し、あるいは書き残しておいてもらえばよかったのにと、深く悔やんでいる。
当人にしてみれば、辛くもあり,疚しくもある過去のできごと。日常生活の中では思い出したくもない体験。それをことさらに思い出して表現することには、格別の動機付けが必要であろう。そのような動機付けを得ることのないまま、没する人とともに貴重な体験が葬られてきた。
いまや、戦争体験を語ることのできる人は少ない。その話は貴重だ。できるだけ、聞いておきたい。しかも、特攻の訓練を経ての生き残りの兵士がその体験を語るとなればぜひ聞いてみたい。その稀少な機会が11月9日にあった。
「不戦兵士・市民の会」が主催する、「2019年不戦大学」としての企画。「元特攻兵(回天・伏龍・震洋)岩井兄弟(99歳・97歳)からの最後の証言」という表題。
99歳と97歳の兄弟が元兵士として揃っての講演。ともに、特攻の生き残りだという。兄・忠正は人間魚雷「回天」と人間機雷「伏龍」の隊員となり、弟・忠熊さんは爆薬を積んだモーターボートで敵船に体当たりする「震洋」の艇隊長になったという。特攻兵器として開発された人間魚雷「回天」はよく知られている。靖国神社に実物展示もある。これに比較して特攻用モーターボート「震洋」の知名度は低い。そして、人間機雷「伏龍」を知る人は少ないのではないか。
若い兵士たちが、どうして絶望の特攻を志願して散ったのか。どうして靖国に展示されているような遺書を書いたのか。その気持を思うとき、胸が痛む。生き残った人の代弁に耳を傾けたい。
そんな気持で、当日満員だった講演に参加した。私の印象に残ったのは、「戦争で死ぬ覚悟をするのなら、なぜ死ぬ覚悟で戦争に反対しなかったのか」という自省の言葉。
が、ブログにどうまとめようかと書きあぐねているうちに、毎日新聞(11月21日夕刊)に先を越された。社会面を埋めつくすほどの分量で、とてもよい記事になっている。表題が、「『喜んで死ぬ』本心でない 特攻隊員だった兄弟、最後の伝言」。その一部の大意を引用させていただく。
引用元は下記URL。
https://mainichi.jp/articles/20191122/k00/00m/040/143000c
辛くも2人は生き残ったが、多くの若者が特攻隊員として命を散らし、遺書が残されている。「遺書には勇ましい言葉が書いてある。『私は喜んで死ぬ』と書いてあるのを読んで感激する人もいるはずです。だけど、私は、待ってくださいと言いたい」。
忠正さんは、命を落とした隊員の無念を代弁するように語気を強めて会場に訴えた。「本当は死にたくない。でも(死ぬのが)嫌なのに殺されたと聞いたら家族も悲しむから、喜んで死んだと思ってもらおうと。もう一つは自分を励まさなきゃやれない。決して犬死にじゃないと自分を奮い立たせて慰める気持ちの表れなんです。そういうことを理解してやらないといけない。つらいんですよ、本人は……」
最後に、若者に何を伝えたいかと司会者に聞かれた2人の口から出てきたのは後悔の言葉だった。忠正さんは「この戦争は間違っているとうすうすながら分かっていたにもかかわらず、沈黙して特攻隊員にまでなった。死ぬ覚悟をしてるのに、なぜ死ぬ覚悟でこの戦争に反対しなかったのか。時代に迎合してしまった。私のまねをしちゃいけないよ、と今の若い人に伝えたい」。
忠熊さん(立命館大学名誉教授・元副学長)も「歴史は人間が作るもの。あの戦争は先人たちが道を誤った結果だ。青年、学生の行動により未来は変えることができる。そのためには、歴史を学ばねばならない。歴史を学ぶとは、過去にあったものが将来どうなって行くのか、どうすべきなのか、その筋道を学ぶことだ」
(2019年11月26日)