国権よりは人権を、国格よりは個人の人格を。
(2020年6月4日)
6月4日である。私の個人史には重要な日。31年前の今日、私の中の「革命中国」という輝ける権威が崩壊した。その日以降、中国は色褪せた一党独裁の人権抑圧国家となった。その思いは、基本的に今も変わらない。
愚かなトランプが、全国に澎湃と巻きおこっている黒人差別への抗議行動に連邦軍の投入を示唆して物議を醸している。抗議デモに暴力的な側面があったしても、その真の原因は人種差別と格差・貧困にある。これを力で押さえ込もうというトランプの流儀に反発が高まって当然である。その世論に押されて、トランプも容易に軍の投入はできない。これが、2020年アメリカの事態。
しかし、1989年6月4日天安門広場では、中国共産党の指示で人民解放軍の戦車隊が、広場を埋めつくした中国の民衆を武力で制圧した。弾圧の犠牲者数は、数百人説から数千人説、1万人超説まであって正確なところは分からない。分からないながらも、党と軍が、民主化を求める人民に銃口を向け武力で弾圧したことには疑いの余地がない。
帝国主義列強や国民党からの苛烈な弾圧を受けながら、人民の中に生まれ、人民の支援によって権力を掌握した中国共産党が、人民を弾圧する側にまわったのだ。しかも、徹底的な苛烈さで。
この弾圧を指揮した最高指導者は鄧小平である。彼は、民主化を求める民衆の行動を、動乱・反革命と規定した。中国にとって何より大切なものは、「政治の安定」であって、「複数政党による選挙や三権分立ではない」と言いきっている。
事件鎮圧後の鄧小平の言葉に、こんなものがある。
「しばらく前、北京で動乱と反革命暴乱が起こったが、これは何よりも国際的な反共、反社会主義の思潮が煽動したものだ。……中国こそ本当の被害者だ。
人々は人権を支持するが、もう一つ国権というものがあることを忘れてはいけない。人格を言うなら、もう一つ国格を忘れてはならない。とくにわれわれのような第三世界の発展途上国は、民族の自尊心を持たず、民族の独立を大事にしなければ、国家は立ち上がれないのだ」(89年10月)
「中国が動乱を平定した後、7ヵ国の首脳が中国を制裁する宣言を発表した。彼らに何の資格があるのか、誰が彼らにそのような権力を与えたのか! 本当を言えば、国権は人権よりはるかに重要なのだ。」(89年11月)
このコメントは、人権思想や民主主義の全否定に等しい。そもそも法の支配や立憲主義の理念に欠ける。言葉が通じないもどかしさを禁じえない。国権や国格などというものは本来観念する必要はない。国家は飽くまで国民に対する義務主体であって国民に対する関係での権利主体ではない。「国権」を観念し得たとしても、その国権の暴走による人権侵害を防止するためにこそ憲法がある。国権は常に人権に優越的な地位を譲らなければならない。「国権栄えれば人権亡ぶ」のである。そうさせないための民主主義の諸原則なのだ。
もっとも、鄧小平が言ったとおり、31年前の中国は「第三世界の発展途上国」であった。しかし、今中国は、堂々たる世界有数の大国になっている。「大国」の意味は、経済力と軍事力においてのもの、人権や民主主義の水準では相変わらずである。
本日の共同通信によれば、「中国外務省報道官は3日、『中国が選んだ発展の道は完全に正しかった』と述べ、武力鎮圧した当時の判断を正当化した。」というが、一方、「感染症の世界的流行や香港の抗議デモへの強硬姿勢により、国際社会の中国指導部に対する懸念は天安門事件後と同程度まで強まっているとの指摘もある。」という。
その昔、「東風は西風を圧倒する」という毛沢東の言葉を感動をもって受けとめた。西風とは、搾取と収奪、格差や貧困を必然化する西欧の資本主義社会を意味し、東風とは、その矛盾を克服する社会主義中国の未来像だと勝手に理解した。今の中国には、そのような理想の片鱗も感じられない。
6月4日。この日に改めて思う。国権よりは人権を、国格よりは個人の人格を尊重する国でなければならない。けっして、他人事ではない。