澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

石田和外、睦仁の教えを守り抜いた守旧の人。

(2021年1月1日)
年が変わった。しかし、「おめでとう」などという気分にはなれない2021年の年頭である。

去年今年を貫いているものは、内外ともに猖獗収まらぬコロナ禍、そして安倍から菅へと続く邪悪な政権。加えて、東京五輪強行という愚策というところ。

とはいうものの、今日の東京はこの上ない好天。空は飽くまでも青く澄み、風はない。散り敷いた落ち葉の黄や赤の色が鮮やかである。コロナ禍がウソのよう。

不忍池には氷が張り、遊歩道には霜が降りていた。インバウンドはなく、行き交う人は少ない。静かな中に、雀の群がかしましい。東京の風景も捨てたものではない。

例のごとく、五條天神で今月の「生命の言葉」を見る。新たに掲示されているのは、明治天皇(睦仁)の次の歌。

 あらし吹く世にも動くな人ごころ いはほに根ざす松のごとくに

御製というものは、御製であるというそのことだけで感興を殺ぐつまらぬものだが、とりわけこういう「上から目線教訓歌」には、虫酸が走る。どうせ不愉快に決まっているのだから、わざわざ掲示を読みに行くこともないのだが、「恐いもの見たさ」「つまらぬもの見たさ」という、不条理な誘惑に勝てない。

さて、いったい何だ? この歌は?

一見すれば、「たとえ、どのように嵐が吹きすさぶ、はげしい世の中の変動に会っても、巌の上に、どっしりと根を張っている松の木のように、しっかりとした信念を持って心を動揺させてはなりません。」という、昔あちこちにいた偏屈なじいさまのタワゴトのごとくではある。

しかし、これが「明治天皇御製(明治37年)」となると偏屈なじいさまのタワゴトでは済まない。明治37年とは1904年、日露開戦の年である。この歌が詠まれたのが、その年の何月であるかは知らないが、戦争と無関係ではあり得ない。

睦仁は、上から目線で臣民に対して教訓を垂れているのだ。「動くな 人ごころ」とは、決して「しっかりとした信念を持って心を動揺させてはなりません」などと、一般論を述べているのではない。「臣民たちよ。朕に対する忠誠の気持を揺るがせてはならない。その忠誠心をもって、この危急の時にロシアに対する闘争心を研ぎ澄ませ続けなければならない」と煽っている。そう、読むべきであろう。でなければ、気の抜けたサイダーのごとき、詠むにも聴くにも値しない意味のない駄歌・駄文に過ぎない。

もう一つ、思い出すことがある。1969年1月、かの石田和外が、5代目の最高裁長官になったときのメッセージ。彼は、こう言ったのだ。

 「裁判官は激流のなかに毅然とたつ巌のような姿勢で国民の信頼をつなぐ」

睦仁の歌での「吹く嵐に動かない、巖に根ざす松」が、「激流のなかに毅然とたつ、巌」となっているが、案外、和外の言葉は、この睦仁の歌を下敷きにしたものではなかったか。石田和外は、戦前だけでなく戦後も、時代錯誤の天皇崇拝者であったことで知られる。

この石田和外の言葉の表面を読んで、彼を「司法の独立」の擁護者と誤解してはならない。当時、戦後民主主義の結実として澎湃たる労働運動・平和運動・市民運動・学生運動等々が昂揚していた。この運動を押さえ込んで旧来の秩序を守ろうとする陣営との熾烈な軋轢が事件化し、種々の裁判闘争を生んでいた。そして、時代の潮流は裁判官をも巻き込みつつあった。これに歯止めを掛けたのが、骨の髄までの旧秩序派であり、天皇主義者でもあった、反動石田和外である。

彼の言葉は、こう読まねばならない。「日本の裁判官は今、日本国憲法の理念に忠実に人権や民主主義を守れという国民の声の激流のなかにある。しかし、それに押し流されてはならない。裁判官は、民主主義昂揚の潮流の中に毅然とたつ巌のような姿勢で、それを押しとどめ、これまでどおり自民党や財界や皇室などの厚い信頼をつながねばならない」

そして、彼はその言のとおり、司法の内部をパージしたのだ。石田和外、戦前の治安維持法裁判官であったが、戦後も実は何も変わらなかった。大日本帝国憲法下から日本国憲法に変わった世にあっても、睦仁の「あらし吹く世にも動くな人ごころ」という教えを守り抜いたのだ。「いはほに根ざす松のごとく」である。

今年も、多難な年になりそうだが、また1年このブログを書き続けたいと思う。

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