聖火リレーの行き着く先は?
(2021年3月26日)
ここ上野不忍池はかつての東叡山寛永寺境内の一隅。四季の移りの中で二度ばかりは、この地が極楽浄土となる。一度は盂蘭盆会を間近の蓮の華が咲き誇る頃。そして、もう一度が、花が咲きそろい鳥の鳴く頃。まさしく、本日のこの景色が極楽浄土さながらと言うよりほかはない。
本日の早朝、空は飽くまで青く晴れわたり、風はそよやか。池の畔のソメイヨシノが今を盛りと咲き誇り、ちらほらと散り始め。これにベニユタカやシロタエが彩りを添えている。花は紅、柳は緑。弁天堂近くではウグイスの鳴き声。行き交う人はまばらで、甲高い外つ国の言葉は聞こえない。
とは言え、この極楽、行き交う人々はまばらだが、皆マスクを着用している。一人の例外もなく。この世の現実から逃れられない極楽なのだ。
東京オリンピックも、希望や理念を語りはするものの、コロナ蔓延の現実から逃れることができない。
昨日から、聖火リレーが始まった。コロナ再感染第4波を押してのことである。初日から、火が消えて再点火するというアクシデントが2度。台風並みの風雨でも「絶対に消えない聖火」との触れ込みだったトーチの火が消えたのだ。本日(3月26日)には、火の消えたトーチのまま一区間が走られた。消えてはならない聖火が消えた。将来を暗示するものではないか。いや東京五輪の現実を語っているというべきか。
聖火リレーは、フクシマから始まった。10年前地獄と化した原発事故の地。アンダーコントロールという、あの男のウソを改めて思い出す。そして、復興五輪というゴマカシも。東京五輪は、東北復興に水を差したではないか。それを糊塗するための見え透いた演出。
政府は、「コロナに打ち勝った証しとしての東京五輪開催」と、まだ言っている。太平洋戦争も、原発依存の国策も、決定的な破綻に行き着くまで方向転換できなかった。東京五輪も同様なのだ。このままでは玉砕五輪とならざるを得ない。
聖火リレーの出発式典で、大会組織委員会会長の橋本聖子は、「東京大会の聖火は、神聖で力強く、温かい光となって日本全国に一つひとつ希望を灯していってほしい」「日本と世界の皆さんの希望が詰まった大きな光となり、国立競技場に到着することを祈念する」「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」などと述べたという。
はたしてこの火は、神聖だろうか。力強いだろうか。温かい光となるだろうか。全国に希望を灯せるだろうか。日本と世界の希望が詰まった大きな光だろうか。そもそも、無事に国立競技場に到着することができるだろうか。
「東北の人々の不屈の精神に心から敬意を表します」は、意味不明である。私は、東北の出身者として、「打たれても、叩かれても、虐げられても、中央には文句の一つも言わない」と、蔑まれた思いを抱かざるを得ない。
よく知られてるとおり、聖火リレーはヒトラー政権下の1936年ベルリン五輪から始まった。ファシズムの心理的演出手法として位置づけられたものである。
極楽の風景もコロナの現実から逃れることはできない。聖火リレーのまがい物の希望も同様である。まずは、コロナ拡大のリスクを冒してまで、聖火リレーなどやる意味があるかを考えよう。聖火リレーも東京五輪も、腐敗した政権や政治家の野心が民衆を統制する演出に過ぎないというべきであろう。確かなのは、東京五輪が大企業の金儲けの手段となっていること。
火は必ずしも聖なるものとは限らない。人家を焼く火災の火ともなり、おぞましい戦火とも、原発の核の火とも、煉獄の炎ともなる。コロナ禍のさなかに、Jビレッジを出た火は、途切れながらも、人から人へのリレーを重ねて行き着くところで、極楽の聖なる火となるだろうか、あるいは地獄の劫火となるのだろうか。