澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

司法本来の役割は、公権力行使の誤りを糺し憲法の理念を実現することにある。いやしくも司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで、人権の侵害や民主主義的秩序の荒廃に手を貸すようなことがあってはならない。

(2025年3月24日)
 《東京「君が代」裁判・第5次訴訟》が本日結審となり、判決言い渡しは本年7月31日午後2時(東京地裁709号法廷)と指定された。希望をもちつつ、判決を待ちたいと思う。

 実は、この訴訟の最終口頭弁論期日は、いったんは昨年12月16日に指定されていた。ところが、その一週間前になって突然期日延期となった。裁判長交代が理由であることが後に分かった。これまで、原告の切実な訴えに直接耳を傾け、岡田正則教授の証言にも積極的に質問をしていた裁判長の交代は、まことに残念ではあるが、我々は裁判官を選べない。3か月の延期となっての本日、更新弁論に続いて、260頁の原告側の最終準備書面を要約した意見陳述となった。

 本日の法廷の陳述は、原告お二人、弁護士7名の力のこもったものだった。この合計時間はほぼ1時間20分。充実した内容であったと思う。

 《東京「君が代」裁判・第5次訴訟》は、都立学校の教職員が、卒業式・入学式において起立斉唱命令に違反したことを理由とする懲戒処分の取消を求める訴訟である。原告数は15名、取消を求める懲戒処分の件数は26件である。

 26件の懲戒処分の内訳は、減給6件、戒告20件であるところ、戒告20件のうち16件は、過去に減給処分を受けて提訴で争い、取消の判決が確定したあとに、取り消された処分と同一の事実を理由として科された再度の戒告処分(「再処分」と呼んでいる)である。

 下記は、私が担当した、最後の意見陳述である。

1 司法本来の責務と、本来の司法への期待
(1) 結審に当たって、代理人の澤藤から貴裁判所に要望を申しあげます。
  司法本来の役割とは、公権力行使の誤りを正し、憲法の理念を実現することにあります。いやしくも司法が公権力の違法な行使を看過し追認することで、人権の侵害や民主主義的秩序の荒廃に手を貸すようなことがあってはなりません。
  残念ながら、今、我が国の首都の公教育は、あってはならない異常な事態に呻吟しています。その元兇は、憲法や教育の理念の何たるかについておよそ理解を欠いた東京都の教育行政ではありますが、司法も、その本来の役割を十全に果たしてきたかについて憾みなしとせず、一半の責任を指摘せざるを得ません。
  我が国の教育行政は、いつの間にか複数の国際人権専門機関から、繰り返し是正勧告を受けるという不名誉な人権後進国扱いになっています。実は、同時に我が国の司法の在り方も、国際人権機関からの批判の対象となっているのです。
(2) 原告らは、司法本来の役割に期待して、本件提訴に及びました。侵害された自らの思想・良心・信仰の自由を回復し、さらには、「10・23通達」以来の異常な都立学校の教育を本来あるべき姿に取り戻そうと願ってのことです。
  貴裁判所には、この原告らの切実な願いに、誠実に向きあっていただきたい。本件は、憲法訴訟であり、教育訴訟であり、憲法理念を行政に反映すべき行政訴訟でもあります。いくつもの重要な法的論点を提示しています。原告らの切実な期待に応えて、その判断に遺漏のなきよう十分な配慮をお願いいたします。

2 本件は立憲主義の根幹を問う訴訟です
  何よりも本件は憲法訴訟です。しかも、個別の憲法条文解釈のあり方を超えて、立憲主義の根幹を問う訴えとなっています。
  「国旗に正対して起立し、国歌を斉唱せよ」という本件職務命令は、国旗・国歌が象徴する国家に対する敬意表明の強制にほかなりません。国家とは、公権力の主体であり、公権力の唯一の源泉であります。本件起立斉唱の強制は、《権力主体として国家》が、主権者の一人であり、かつ《人権主体としての個人》に対して、「我に敬意を表明せよ」と権力を行使している構図なのです。
  この構図において、国家と個人との憲法価値の優劣が問われています。憲法は、明らかに個人の尊厳を、根源的な、国家に優越する至高の価値としています。従って、国家が個人に対して、国家象徴への敬意表明を強制することは、原理的になし得ないと言うしかありません。従って、本件各懲戒処分はすべて違憲・違法として取り消されなければなりません。

3 そして本件は、現代の「踏み絵」の違憲性を問う訴訟です
  もう一つの憲法問題が、各原告の基本権侵害です。その典型として、「日の丸・君が代」に対する敬意表明の権力的強制が、強制される者の信仰の自由を侵害するという問題として表れています。
  原告の一人は、起立斉唱の職務命令を受けて、信仰者であることと教師であることとが二律背反となる事態に初めて遭遇し、この葛藤を「踏み絵」と表現しています。信仰を貫けば制裁を受け、制裁を避けようとすれば信仰に反する行為を余儀なくされる、これが現代の「踏み絵」にほかなりません。
  貴裁判所には、真剣にこの原告の言葉に耳を傾け、その痛切さ、深刻さを理解していただくようお願いいたします。
  国歌斉唱時に、自らの信仰の命じるところに従って、自らが信じる宗教的信念を護るために、行事の進行を妨害することのない消極的な態様での不起立・不斉唱に制裁を科すことは許されません。この法理は、憲法を学ぶ者の初歩的な常識であり、国際的な共通認識でもあり、そして、神戸高専剣道実技拒否事件において最高裁が判例として示しているところでもあります。
  仮に司法が、本件の「踏み絵」の違憲違法を看過し追認するようなことがあれば、憲法20条1項の「信教の自由」は、画餅に帰すことになってしまいます。そして、その理は、憲法19条についても、同様なのです。

4 司法とは一人ひとりの独立した裁判官であることについて
  最後に釈迦に説法を申しあげます。憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」と定めています。
  行政が人権を侵害し教育を歪めているとき、これを糺すのが司法の役割であり、唯一司法のみがなし得ることです。その重大な役割を担う司法とは、実のところ一人ひとりの裁判官にほかなりません。「憲法の番人・人権の砦」とは、一人ひとりの裁判官が独立して果たすべき役割を指しています。違法な教育行政を糺し、個人の尊厳を取り戻し、次代の主権者を育てるにふさわしい教育を実現することができるのは、本法廷の裁判官席にある裁判官諸氏以外にありません。
  本件各原告は教員としての良心に従って、必死の思いで立ち上がって本法廷で訴えました。是非とも、この原告らの切々たる魂の叫びに、人として、また憲法擁護の使命を持った法律家として応えていただきたい。
  裁判官の使命は、安易に先例を穿鑿しこれを踏襲するところにはありません。本件具体的事例において、あるべき憲法理念、あるべき憲法秩序、憲法が要請する人権保障や教育の自由を見極めた上、血の通った、そして裁判官の良心に照らして道理のある判決を、心からお願いいたします。

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2025. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.