汝平和を欲すれば平和を準備せよ
6月6日東大で催された「立憲デモクラシーの会」パネルディスカッションが、時節柄大きな話題となった。総合タイトルは「立憲主義の危機」である。昨日(6月10日)の東京新聞に、その内容が要領よく紹介されている。見出しが「安保法案は立憲主義の危機」と付けられている。
メインの佐藤幸治講演が耳目を集めたが、パネルディスカッションでの樋口陽一発言録に注目したい。傾聴に値するものとして、その一部を東京新聞に採録されたままの形で転載する。
歴史に学ぶとは、負の歴史に正面から対面することであり、同時に、先人たちの営みから希望を引き出すことでもある。今の政治は負の歴史をあえて無視するだけでなく、希望をもつぶそうとしている。戦後レジームからの脱却だけでなく、戦前の先人たちの努力を無視、あるいはそうした努力について無知のまま突き進もうとしている。
1931年の満州事変の時、国際法学者の横田喜三郎(1896〜1993)は、「これは日本の自衛行動ではない」と断言した。その横田の寄稿を載せた学生たちの文集が手許にある。
その中で横田は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とのラテン語の警句を引き、「汝平和を欲すれば平和を準備せよでなければならない」と呼び掛けた。そして文集に、学生が「横田先生万歳!」「頑張れ!」と共感を書き込んでいる。恐らく、この二人の学生は兵士として出征しただろう。再び母校に戻ってくることはなかったかもしれない。
今、私たちが対しているのは、平和を欲すれば戦争を準備しようという警句通りの時代。しかし、かつて文集に書き込みを残した若者たちがいたし、この会にも若い人がたくさん参加している。われわれは日本の将来に対して、大きな責任がある。立憲主義の土台を維持できるかどうかは、世界に対しても大事な責任なのだ。
「平和を願う者は、戦争の準備をしなければならない」「平和を欲するのなら戦争を準備せよ」などとは言い古された常套句だが、状況によっては真実であることを否定し得ない。それだけに、まどわされぬよう警戒しなければならない。歴史的には、戦前われわれの上の幾世代かが、このとおりに考え実行して、国を滅ぼした。この警句は、言わば試され済みの亡国の思想にほかならない。
「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」とは、古典的な抑止力思想である。防衛的な自国を近隣侵略国の魔の手が狙っている。飽くまで自国の武力は善である。自国の武力を増強して「戦へ備える」ことこそが戦を避け、平和をもたらす、というのだ。語られるのは、「武力による自国の平和」である。当然に相手国も同様に考える。一国の武力の増強は相手国を刺激して相互の武力の増大を招く負のスパイラルを必然化する。武力を増強すればすれほど、一国の軍事化が進めば進むほど、平和なのだということになる。パラドックスというよりは倒錯の事態である。いつかは破綻を免れない。
70年前、戦争の惨禍から再生した我が国は、この倒錯の思想の克服を宣言した。「汝平和を欲すれば平和を準備せよ」の原則を確立した…はずなのだ。これが、日本国憲法の平和主義の理念であり、9条の精神である。今、時代の逆転を許してはならない。痛切にそう思う。
横田喜三郎は後に最高裁長官となった。前任の田中耕太郎や、その後の石田和外などの「反動」長官にはさまれた「ずいぶんマシな司法の時代」の長官という印象がある。しかし、15年戦争が開始した時代に学生に向かって「汝平和を欲すれば平和を準備せよ、でなければならない」と呼びかけていることはまったく知らなかった。あの戦前の暗い時代にも、9条の精神をもっていた人はいたのだ。共感する若者もいた。
確かに、戦前の先人たちの努力を無視してはならない。あるいは、そうした努力について無知であってはならない。平和を希求した先人についても、立憲主義を追求した先人についても、である。
(2015年6月11日)