政権の暴走を見かねた主権者がその姿を現した。
本日、午後2時。首都で全国で、国民が主権者として、政権の前に立ち現れた。そして、主権者の意思を明確にし、議会や政府を掣肘した。まさしく、今日こそは、国民主権原理が、真っ当に正しく機能した記念すべき日となった。
何度でも繰り返そう。私たち国民が主権者だ。安倍でも、山口でも、中谷でも、谷垣でもない。日本国憲法が制定されて以来、一日24時間・年間365日、切れ目なく主権者であり続けているのだ。
正確に言えば憲法を制定したのも主権者国民だ。憲法は国民が主権者の地位にあることを確認したにすぎず、主権者の地位は憲法によって与えられたものではない。だから、実は日本国憲法制定以前から私たち国民が主権者なのだ。
切れ目なく主権者であるとは、選挙期間中だけの主権者ではないということだ。投票箱の蓋が開いていても閉まっても、投票箱の用意が無いときも、私たち国民が主権者なのだ。
私たち主権者国民の多くは、切れ目なく政治のことばかりを考えてはおられない。資本主義経済の中で忙しく立ち働かなくてはならないし、一人ひとりの生身の人間には、文化的活動もエンタテイメントも必要だ。家族生活も友人との付き合いもコミュニティの中での活動も、非政治的な社会生活の分野は限りなく広い。非政治の多くの時間が必要なのだ。
だから、代議政治の合理性は認めざるをえない。国民が候補者の中から議員を選び、衆議院議員の中から内閣総理大臣が選任されて、行政府の長となる。こうして、憲法の定めた手続きに従って、立法府と行政府が作られ、これに政治を任せることにしたのだ。
さはさりながら、主権者は国会や内閣に、すべてを丸投げしてお任せしたのではない。選挙期間だけの主権者ではなく、投票日一日だけの主権者ではない以上は当然のことだ。常に、主権者の意思にそって立法や行政が行われているかを監視続けていなければならない。そして、内閣や国会が、明らかに主権者の意に背くとき、そして次の選挙による意思表示では遅すぎる場合には、主権者の直接の出番となる。国民が主権者として起ち上がらざるを得ない事態なのだ。主権者は代議制の枠を超えて、直接にその意思を表明しなければならない。今日が、その日となった。
主権者が直接の意思を表明するためのもっとも基本的な手段が集会でありデモである。多くの人が集まって、声を揃えて国会と内閣の不当を叫ぶのだ。立法や行政に携わる者は、謙虚にその声に耳を傾けなくてはならない。
今日の午後、国会周辺は小雨をついて集まった大群衆に包囲された。これが、観念としての主権者ではない、具体的な形と意思を伴った主権者なのだ。主権者は、安倍政権に「国民をなめてはいけない」とたしなめた。いや、違憲の法案をゴリ押しする政権に「今すぐ退陣」と怒りを露わにした。
まだ、大群衆のコールが耳に残る。
「戦争法案今すぐ廃案!」
「安倍内閣は今すぐ退陣!」
安倍よ、山口よ、中谷よ、谷垣よ。この主権者の声を生で聞いたか。この主権者の声をなんと聞くのか。
憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。新聞でもラジオでもテレビでもなく、「集会」を条文のトップに置いた憲法の真意を今日あらためて知った思いがする。「集会」は、政治を変えうるのだ。そのような手段として「集会の自由」がこの上なく重要なのだ。
メインのステージでは、岡田(民主)、志位(共産)、吉田(社民)、小澤(生活)の各党首が手を組んで戦争法案の廃案を誓った。日比谷エリアのステージでは、管(民主)、小池(共産)、福島(社民)の各議員が力のこもった演説をした。主権者が、野党各党の結束を指示している構図となった。
戦争法案の廃案を求める主権者の意思が明確になった今日以後も、安倍政権は敢えて主権者の意思に逆らおうというのか。
夏の陣が終わると、切れ目なく、いよいよ決戦の「秋の陣」が始まる。さあ、正念場だ。自信をもって、今日のコールを追求しよう。
「戦争反対!」「9条守れ!」
「憲法破壊絶対反対!」
「安倍内閣の暴走止めよう!」
「強行採決絶対反対!」
(2015年8月30日)