澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「しのばず通信」に見る、それぞれの「私の戦争」「私の8月15日」。

「根津・千駄木憲法問題学習会」の機関紙「しのばず通信(9月8日号)」が届いた。毎月、切手のない封筒に入れての戸別配達。わが事務所の郵便受けにぽとり。

A4・1枚両面印刷の手作りだが、通算129号。毎月1回の例会を欠かさず、10年以上の継続となっている。その息の長い活動に頭が下がる。ここに集まるような人々が、憲法を支えているのだ。

月刊だから、9月号は「〔特集〕私の8月15日」となって、3人の寄稿が掲載されている。敗戦時、中学2年の男性、女学校1年の女性、そして当時13歳の女性。それぞれの「私の8月15日」が興味深い。1億通りの8月15日があったことをあらためて想起させられる。

「当時中学2年の男性」とは、少年事件問題の家裁調査官として著書も多数ある浅川道雄さん。「私の戦争体験」を次のように綴っておられる。

「私が生まれた昭和6年に「満州事変」が始まり小4の冬「大東亜戦争に突入ということで、私が物心付いた時に戦争は日常のことになっていました。戦争末期に体験した東京大空襲」は「死の瀬戸際」を感じるほどの強烈な体験でした。
 1945年5月25日に目黒の自宅を焼かれ、寄留先の八王子でも、8月1日にまた焼かれ、命からがら目黒に戻り、疎開先に留守番を兼ねて仮住居しているとき、敗戦を迎えました。
 中学2年の私は、5月の空襲でも、八王子の後も、生きている限り「小国民の義務」として三鷹の軍需工場へ通い続けました。「米軍が上陸してきたら、皇居と首都を守って玉砕するのだ」と配属将校に言われ、自分の心にも、そう言い聞かせていました。「どうしたら立派に死ねるか」が私の最大の関心事でした。そんな思いをけっして子どもたちに味合わせたくないと、固く思います。」

「当時女学校1年の女性」は、「戦争はいや! 私たちは戦争の語り部に!」と題して、「やがて戦争が終わったことを知ると、今夜から明るい電燈の下で暮らせ、空襲の恐ろしさもないのだという安心感に満たされた。」「でも、あれから71年経った現在、…民主々義の自由の風も、人びとが気付かぬうちに、じわじわと戦争前の時代のような匂いがしてきた」と警告している。

そして、「当時13歳の女性」の「私の8月15日」が、貴重な体験を次のように語っている。
「3月10日の東京大空襲で母はじめ5人の兄弟を失った私。更に土浦空襲でも予科練生だった兄を失って父と2人だけになってしまった私。
 あの日は父の部下だった方の所、千葉へ買い出しに行くとの事で父と一緒に列車に乗った。途中、天皇陛下の重大放送があるという事で全員、列車から降ろされて線路に並ばされた。正午、一段高い所に置かれたラジオにみんな頭を下げて陛下の玉音放送なるものを聴いた。が、ただガアガアと云っているだけで、何も聞き取れなかった。空が真っ青に澄んでいて暑い日だった。
 その日、父の部下だった方の家に2、3人の村人がやって来て日本は戦争に負けたのだと云った。そしてこれからはアメリカ軍がやってきて、女性はみんな陵辱され、男共と子どもはみんな殺される。だからみんな山に逃げなければいけないと云った。私は父が殺されて又一人になったらどうしよう。そして大人でも子どもでもないチビの私はどうなってしまうのかとたいへんな不安におののいた、私13歳の日本敗戦日でした。」

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8月15日の感想は一色ではない。おそらくは、「戦争が終わって、今夜から明るい電燈の下で暮らせる。空襲の恐ろしさもなくなった」という安堵感で終戦を迎えた人が多数であったろう。しかし、「日本は戦争に負けた。これからアメリカ軍がやってきて、女性はみんな陵辱され、男共と子どもはみんな殺される。」と敗戦の悲劇を恐怖した少なからぬ人もいた。これは、根も葉もない流言飛語の類だったのだろうか。

ずいぶん以前のことになったが、沖縄の戦跡をめぐったことがある。いくつもの、「ガマの悲劇」を聞かされた。現地で見て、想像していたよりもガマが広く大きいのに驚いた。数十人単位の避難民がそれぞれのガマで運命をともにしたという。

ガマの外から、米軍が日本語で投降を呼びかける。ガマの中の避難民に抵抗の術はなく逃走も不可能。投降するか確実な死か。極限の選択が迫られた。

あるガマでの現地平和運動活動家からの説明が印象的だった。
「このガマには二つのグループが避難していましたが、一つのグループは投降して全員が助かり、もう一つのグループは投降を拒否して自決か砲撃でほぼ全員が死亡しました。
 投降を受諾したグループのリーダーは、元はアメリカに出稼ぎ経験のある高齢男性でした。彼の気持の中でのアメリカは、「敵ではあっても、デモクラシーの国」であって、「鬼畜米英」という観念はなかったのです。みんなを説得して投降し、命を救ったのです。
 一方、投降を拒否したグループのリーダーは従軍看護婦の経歴を持つ女性でした。中国戦線での体験から、投降した中国人捕虜が皇軍によっていかに残虐に扱かわれていたかを知る立場にいた方です。この方は、みんなを説得して投降を拒否したのだと言いつたえられています。
二つのグループはガマの中で行動をともにしていましたが、最後の決断で分かれ、運命も分かれたのです。」

あのガマの闇が、歴史の闇に重なる思いだった。重苦しく合掌するのみ。
(2016年9月13日)

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