「70年ぶりに墓からよみがえった『教育勅語』」
自分についての正確な評価は、自分でできるものではない。自分のしていることの当否は、実は自分ではなかなか分からないもの。自分のしていることが他からどう見られているかは、なおさら分からない。だから、自分の行為の評価について、近くの誰かに指摘してもらうのは貴重なことと、ありがたく耳を傾けなればならない。個人についてのことだけでなく、一国のあり方においてもこのことに変わりはない。
3月31日における「教育勅語の教材としての使用を認める閣議決定」。このことに関心をもつ近隣諸国や国内の良識がどう見ているか。その声に政府は真剣に耳を傾けなければならない。権力の耳に痛い言葉こそ、真実というべきなのだ。
国外意見の代表的なものとして、「ハンギョレ新聞」(日本語版)の昨日(4月2日)付社説「70年ぶりに復活した日帝の『教育勅語』」を引用(抜粋)する。
http://japan.hani.co.kr/arti/opinion/26945.html
「日本政府は31日、『教育勅語』を学校で生徒らに教えることができるという方針を閣議(閣僚会議)で政府公式の立場として採択した。『朕惟フニ』で始まる教育勅語は1890年に『明治天皇』が日本帝国臣民の修身の道徳教育の規範を定めるために制定したものだ。随所で『爾(なんじ)臣民』という言葉を使うなど王が臣下に下す教旨の形式を帯びている。
内容を見ると『国家に緊急なことが起これば義勇をつくして公のために奉仕することによって天地とともに窮りなき皇室につくさなければならない。かようにすることは、ただに王の忠良な臣民であるばかりでなく』など、個人を国家そして天皇のための道具とする基調が元にされている。一言で言えば、すべての国民は天皇に忠誠をつくさねばならないという全体主義と軍国主義の理念が核心のメッセージである。教育勅語は日本が第2次世界大戦で崩壊した後の1947年の教育基本法によって学校現場から消えたが、今回の閣議の方針で70年ぶりに墓からよみがえったわけだ。
批判的な思考が形成される前の子供の時から全体主義や封建的観念、そして天皇を崇拝して服従すべしという主張をうのみした場合、成人してもなかなかその考えから逃れられなくなるはずである。第2次大戦末期の特攻隊の『神風』の根もこの教育勅語から生まれたといえる。さらに教育勅語は『間違いがなく』と明示しており、対話と討論を拒否して無条件に命令に従えという、権威主義的で独善的な態度を育てうる。自由な個人とその個人の安全と権利を保障する国家の役割、国民主権と個人の尊厳という現代的国家観とはあまりにもかけ離れている。
19世紀に明治天皇が帝国主義臣民に下した教育勅語を21世紀の日本の子供たちが身につけて育ち、将来の日本社会を構成することになるという想像をしただけでもぞっとするほどだ。また、これは北東アジアの平和と共存にも深刻な害を及ぼすことになるだろう。安倍首相は現在、歴史と未来に深刻な罪を犯している。」
隣国の知性による真っ当な論評として、政権は襟を正して聞くべきである。また、国内の良識にも耳を傾けてみよう。毎日新聞の昨日(4月2日)朝刊に掲載の「時代の風・森友問題の本質」という中島京子(作家)の指摘(抜粋)である。これこそ本質を衝く指摘だと思う。
http://mainichi.jp/articles/20170402/ddm/002/070/056000c
「話題になっている森友学園問題で、いちばん私が恐ろしいと思っているのは、…事件が発覚して最初のころに流れた、塚本幼稚園の動画だ。
子どもたちが『教育勅語』を唱和する姿は、まさに『洗脳』という言葉を思わせて背筋が凍った。臣民(天皇に支配される民)として、天皇の統治する国に緊急事態(戦争)があったら、自ら志願して死ねと教える戦時中の勅語を、無邪気な声がそらんじてみせるのは、異様だった。
さらに衝撃だったのは、園児たちが運動会の宣誓で唱えた『日本を悪者として扱っている、中国、韓国が、心改め、歴史教科書でうそを教えないよう、お願いいたします』というフレーズだ。なんてことを子どもに言わせているのだろうか。この子どもたちは大きくなって、中国や韓国の人とどう接するのか。
事件に関連して名前の挙がった人たちは、みなこの塚本幼稚園の教育を知っていたし、賛同していたという。たとえば、昭恵氏は、塚本幼稚園での講演で、この幼稚園で培われた芯が、公立の小学校へ行って損なわれてしまう危険がある、だから『瑞穂の国記念小学院』が必要だという旨の発言をしていた。首相の妻が、日本の公教育を否定する発言をしているわけで、私は、100万円寄付するより深刻だと思っている。
森友学園=塚本幼稚園を支えてきたのが、戦時中の思想に帰ろうとする政治運動であることは、いまやもう誰も否定しないだろう。団体名も出た。「日本会議」だ。現閣僚のほとんどが参加している政治団体だということだ。
私が恐ろしいのは、戦時中の思想に帰ろうとする政治運動に賛同している人たちが、日本の教育を変えようとしている事実、そのものだ。…「彼ら」、国家主義的な思想を持つ人々の悲願「道徳の教科化」が成り、検定教科書にイデオロギーを盛り込むことができるようになった。さらに、先月末、政府は「『教育勅語』を教材として使用することを否定しない」と閣議決定した。「憲法に反しない形で」と但書がつくが、戦後、違憲だから衆参両院で排除・失効されたのではないか。なぜ今、と驚愕する。
気がつくと日本国中が森友学園みたいな学校だらけになっているのではないかと想像して、私は怖い。森友問題が重要なのは、その危険を私たちに教える事件だったからなのだ。」
教育勅語容認閣議決定の問題性に関して、私に付け加えるべきものはない。あとは、国内外からの警鐘に、政府がどう対応するかだ。そして、国民がアベ政権の対応をどう見極め、どう評価するかだ。森友問題は、アベ政権の深刻な核心部分をさらけ出してしまった。これを容認するのか、拒否するのか。国民はその回答をしなければならない。「森友鳴動して、よみがえったのは教育勅語」であってはならない。
(2017年4月3日)