(2023年1月7日)
人が自分自身の考えや意見をもつことは、実は幻想に過ぎないのではないか。これが自分の意見だと思いこんでいるもの、自分が選び取ったと思いこんでいる普遍性をもった思想も、実のところ、誰かから刷り込まれたものに過ぎないのではないのか。
自分の精神の核になるものが、他からの意図的な働きかけで形作られているのかも知れないということは、自分とは何であるのかという根源的な問に関わる恐ろしさをもっている。
他からの強制や意図的な働きかけに安易になびくことを排して、揺るがぬ自分自身でありたい。自律した自分自身の意見をもちたい。そのために大事なことは、まずは権力や社会の多数派とは反対の位置に身を置くことだと考えてきた。権力を疑え、権力につながる一切に抵抗せよ、社会的同調圧力に抗え、という姿勢を堅持することだ。
そのように意識して初めて、大勢に流されぬ自覚した自分を確立できることになる。「そりゃ当たり前だ。何も力んで言うほどのこともなかろう」と思っていただけたらありがたい。
本日の毎日新聞朝刊2面のコラム「土記」に、「一切を棄つるの覚悟」というタイトルで、その実践者に触れた記事を興味深く読んだ。筆者は伊藤智永(専門編集委員)、時流の大勢に流されなかった実践者とは石橋湛山である。
その書き出しがよい。「世論の大勢にサオささない。多数派の「常識」を疑う。一般記事と違うコラムの役目だろう」。これに、「権力から距離を置き」あるいは「権力に抵抗しても」と加えれば満点となるところ。
戦前・戦中を通し頑固に自由主義の論陣を張った経済ジャーナリスト、石橋湛山(戦後、首相)は、世間から「理路整然と間違ったことを言う始末の悪い男」とうあきれられたという。
彼が、ワシントン軍縮会議直前の1921(大正10)年、経済雑誌「東洋経済新報」に匿名で書いた社説「一切を棄つるの覚悟」には驚かされる。
「(米国からのワシントン会議呼びかけで)先手を取られた日本は、列国を驚かす大覚悟で臨まなければ失敗する。植民地の朝鮮、台湾、樺太(サハリン)を棄てよ。中国、旧満州(現中国東北部)、シベリアから兵を引け。明治以来の日本が勝ち得た何もかも棄ててかかれば、奪われるものはない。
世評はこれを空想的平和主義の空論と冷笑するか。…しかし、わが軍備は脅威ではない、侵略しないというが、いつの世もそれで軍拡競争は起きる。植民地経営に実利はない。民族自立は歴史の流れ。世界に先んじて本土だけの国に戻り、世界中から信頼される貿易立国として繁栄しよう。
コラムはこう言う。「それでもあざけり、ののしり、黙殺した政府と国民が20年後、太平洋戦争を始める。死者310万人、沖縄戦、本土空襲、原爆投下の末に『一切を棄つる』日本となって、湛山が予言した経済大国を実現したのは周知の通り」
あの時代に、権力にも圧倒的な国民世論にもなびかず臆せず、自分自身であり続け、これだけのことを言ってのけた石橋湛山には敬意を表するしかない。
このコラム、最後がまたよい。
「湛山なら今、何を書くか。軍拡増税反対、ウクライナ即時停戦、日朝国交正常化、中国首脳訪日、天皇訪韓、日露平和条約締結。八方から怒声を浴びること必定。」というのだ。
「天皇訪韓」だけは抜き、「改憲阻止、核禁条約批准、全方位平和外交、野党の連携、学術会議の自律性堅持、原発再稼働反対」を加えれば、ほぼ満点だと思うのだが。そして今、湛山が苦労した時代ではない。けっして八方の全てから怒声を浴びることにはならないはずではないか。
(2023年1月6日)
統一教会問題の根は深い。深刻に教訓とすべきは、人の精神はけっして強靱ではないということである。周到にプログラムされたマインドコントロール技術は有効なのだ。自律的な判断で信仰を選択しているつもりが、気が付けば洗脳の被害者となる。その被害者が、次の被害者を生む洗脳行為に加担させられる。こうした連鎖反応が、社会を蝕むことになる。
そのことを「統一協会 マインド・コントロールのすべて」(郷路征記著・花伝社)が丁寧に教えてくれる。その書物のカバーに「人はどのようにして文鮮明の奴隷となるのか?」という刺激的なキャッチが心に響く。これは、「かつて臣民はどのようにして、天皇のために死ぬるを誉れと教え込まれたか?」と同じ構造の問ではないか。
明治維新後に生まれた新興宗教である天皇教というカルトは、その成立当初から政治権力と結びついていた。その周到にプログラムされたマインドコントロール技術によって、自律的な判断で信仰を選択しているつもりの国民が、それとは気が付かないうちに洗脳の被害者となった。その被害者が、さらに次の被害者を生む洗脳行為に加担させられる。こうした連鎖反応が、一国の国民全部を蝕むことになって、国を破滅に導いた。
天皇教の教祖にして現人神と祭り上げられた人物が、睦仁であり、嘉仁であり、裕仁だった。これが、ちょうど文鮮明・韓鶴子の役どころにあたる。天皇教は、皇祖皇宗の指し示すとおり、我が民族のみ貴しとする非合理な八紘一宇を説き、カミカゼが吹くとして侵略戦争に狂奔し、臣民に天皇のために死ね、と教えた。これが天皇教の重要な一部をなす靖国の思想である。
こうして、77年前までの日本は、天皇カルトが全国の全局面に蔓延し、一国の国民の精神を支配したカルトの国であった。学校と軍隊が主たるその布教所となり、教員が熱心な布教師となった。そして、権力に操られた新聞・出版メディアとNHKが、一般国民への天皇カルトの果敢な宣伝隊となった。
本日の赤旗の報道で初めて知った。統一教会では、漠然と「宗教2世」とは言わないらしい。親の入信前に生まれた子どもを「信仰2世」と言い、集団結婚した両親から生まれた子どもを「祝福2世」と言うのだそうだ。その数、前者が3万人、後者が5万人だという。
「統一協会は入信後に集団結婚した両親から生まれた「祝福2世」を“神の子”として特別に位置付けています。他方、親の入信前に生まれていた子どもは「信仰2世」として信者1世と同じ扱いをします。ただ、どちらの2世も家庭への高額献金や集団結婚の強要といった被害は共通しています。
協会関連資料や関係者によると、これらの反社会的行為を嫌って協会活動から離れる2世も多いといいます。
このため統一協会は2世を連れ戻すため必死になっています。すべての信者家庭が2世の協会復帰に「命を懸けなければなりません」と強調。「家庭連合に対して完全に背を向け、関わりを一切断っている2世だとしても、捜し出して導かなければなりません」と命じています。」
統一教会も必死になって組織防衛に活動しているのだ。
しかし、この8万人の一人ひとりに深刻な悩みがあるに違いない。宗教1世と併せれば、20万人にもなるのだろうか。このカルトが、ここまで蔓延してきたことは驚くべきことではないか。しかし、天皇カルトが洗脳した1億人に較べれば、まだ規模は小さいとも言えそうである。そして、危険な天皇カルトはまだ退治され切っていない。
先の郷路君の著作の一節に、「マインドコントロールによって他人に操作されることを防ぐ道は、マインドコントロールについての知識を持つことである」という、名言がある。なるほどと思う。国家権力や社会的な同調圧力による国民精神の支配から自律した精神を防衛するためにも広く通じることと言えよう。それが、日本の近代史を学ぶという意味なのだと思う。
(2023年1月5日)
昨日、1月4日が世の「仕事始め」。首相である岸田文雄も、この日仕事を始めた。その一年の最初の仕事が伊勢神宮参拝という違憲行為。年頭の記者会見を伊勢市で行うという、何ともグロテスクな時代錯誤。
いま、統一教会のマインドコントロール被害をめぐって、「政教分離とは何か」、「信教の自由の本質をどう見るのか」、「統一教会加害の社会心理学的背景は何であるのか」という真摯な論議が巻きおこっている。そのさなかでの天皇の祖先神を祀る神社への年頭参拝の無神経。戦前の天皇教は、日本国民1億をマインドコントロールすることに成功した。その残滓をどう克服するかが、マインドコントロールから解き放たれた戦後民主主義の最大の課題であったはず。にもかかわらずの天皇教本殿への首相参拝である。意識的か無意識か、政権トップが憲法の理念を尊重しようという姿勢に著しく欠けるのだ。この国の立憲主義は、まことに危うい。
その点では、立憲民主党・泉健太も負けてはいない。何と、元日には乃木神社の写真をツィッターに掲載したのだ。これに対する当然の批判に、感情的な反発をして物議を醸している。
彼の1月3日ツィッターはこう言う。
「『乃木神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。乃木神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」
彼が、歴史を学ぶ姿勢をもっているとは思えない。よく似た論理を繰り返し、聞かされてきた。中曽根や、小泉や、安倍晋三や高市が、下記のように言ってたことと変わりはない。要は、政治家としての民主主義的な感度が問われているのだ。
「『靖国神社に参拝したら軍国主義に追従すると批判されても仕方ない』とか、もう酷いもんだ。そうした考えの方がよっぽど危険。私は過去の歴史に学ぶし、教訓にもする。靖国神社創建の経緯もある程度は知っている。でも当然だが、軍国主義者ではない。本当に失礼な話。」
前川喜平が、冷静にこう批判している。「明治天皇に殉死した長州閥の軍人を神と崇める行為。無自覚なのか意図的なのか知らないが、これにより失う支持者は、得られる支持者より多いだろう。」
乃木は、天皇制の時代に忠君愛国の手本となった軍人。君国のために多数の部下に「死ね」と命じた愚将の典型。これを神として祀る神社への参拝は、極右や安倍晋三崇拝者にのみふさわしい。およそ、平和や、民主主義や人権を口にする人が足を運ぶところではない。
1月4日朝の泉ツィッターには、さらに驚かざるを得ない。
「本日は伊勢神宮参拝と年頭記者会見の予定です。『皇室の弥栄』『国家安泰』『五穀豊穣』を祈願するとともに、やはり全国民皆様の』平和」と「生活向上」が大切。そのために一層働くことを誓ってまいります」
岸田に張り合って、泉も伊勢参拝なのだ。その上で、まず『皇室の弥栄』『国家安泰』を祈願するという。この人何を学んできた人なのだろうか。いまだに、天皇教のマインドコントロールに縛られたままのお人のようである。
もう一つ、1月4日毎日朝刊の古賀攻(専門編集委員)コラム「水説」に驚いた。『憲法1条を顧みぬ国』という表題なのだ。内容は、天皇の血統が絶えることを憂慮して対策を講ずるべきだという趣旨である。天下の毎日の編集委員がこう言い、毎日が恥ずかしげもなく紙面に掲載する、その現実を嘆かざるを得ない。
憲法第1条は、こう述べている。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権 の存する日本国民の総意に基く。」
この憲法第1条は、天皇を主語にしてはいるが、国民主権宣言条項である。天皇主権を否定し、天皇の地位は主権者国民が認める限りのものに過ぎないと明示する。国民主権の欠如を『憲法1条を顧みぬ国』と愁うるのは分かる。が、「このままだと皇室は確実に核家族化し、将来の天皇を身近に支える皇族がいなくなってしまう」と嘆いてみせる前に、日本の民主主義や人権のあり方をこそ嘆くべきだろう。
このコラムの書き出しはこうである。
「3年ぶりの新年一般参賀に姿を見せた皇族が<少ない>と思ったのは気のせいで、実際には愛子さまと眞子さんの入れ替わりだけだという。こちらが心配性になっているせいかもしれない。」
つまらぬことを心配しているというにとどまらない。愛子『さま』と眞子『さん』の使い分けがばかばかしい。
世襲という制度は忌むべきものである。人は平等であるという文明社会の公理に反する。克服すべき人間不平等時代の野蛮な遺物である。社会は、政治家の世襲については批判する。資産家の二代目三代目も軽蔑する。しかし、世襲制度の本家は皇室であろう。皇室や皇族の世襲をこそ批判しなければならない。
このコラムは、最後をこう締めくくっている。
「憲法1条は、天皇を国および国民統合の象徴、その地位を「主権の存する国民の総意に基づく」と定める。憲法秩序の骨格なのに、(皇位継承の安定化措置を提言する)17年前の首相演説はうやむやになり、国会が求めた報告も放置したまま。それで済ませる感覚が不思議でならない」
私はこう思う。天皇を「憲法秩序の骨格」と言ってのける感覚の論説委員がいまだに存在し、大新聞がそのような論説を掲載することが、不思議でならない。
伊勢神宮・乃木神社・天皇は、国家神道・軍国主義・権威主義・世襲制に貫かれている。いずれも御しやすい国民精神を涵養するためのマインドコントロールの小道具、大道具にほかならない。そして今、これを批判しないマスメディアに支えられている。
(2023年1月4日)
暗いニュースばかりが続く。本日、読売に「北朝鮮、李容浩元外相を処刑か…在英国大使館勤務経験の外務省関係者らも」という記事。この人、北朝鮮の核問題を巡る6か国協議の首席代表だった。北朝鮮を代表する米国通の外交官として知られ、米トランプ前政権との非核化交渉にもあたった人物だという。それがなぜ粛正。
「昨年夏から秋頃」だというこの人の処刑と前後して、いずれも英国大使館勤務経験の外務省関係者4〜5人も相次ぎ処刑されたとの情報もあるという。粛清理由か明らかではないだけに、野蛮な権力の不気味さや恐怖が募る。人の命を大切にしない国は本当に恐い。
野蛮さではイラン政府も負けてはいない。「ヒジャブ」抗議デモ参加者や連帯の意思表明者を逮捕するだけではなく、次々と死刑を宣告し執行している。しかも、クレーンに吊しての公開絞首刑だ。いたましいことこの上ない。政権批判を抑え込むための徹底した弾圧だが、人々に政権への怨念を募らせることにならざるを得ない。この事態に、命を掛けて抵抗運動に立ち上がる人々の姿勢に胸が熱くなる。
ロシアが占領するウクライナ東部ドネツク州マキイウカで1日未明に、ロシア軍臨時兵舎がウクライナにミサイル攻撃された件について、ロシア国防省は当初63人死亡と発表していたのを、4日朝、少なくとも89人が死亡と再発表し、複数のロシア兵が携帯電話を使用していたから、攻撃目標とされたとの見方を示した。ウクライナの戦果に、思わず快哉を叫びたくなる自分の気持ちが恐い。動員されたロシアに同情せざるを得ない。
そのロシアについて、本日の毎日夕刊に、「今年の『10大リスク』ロシア首位 『世界で最も危険なならず者国家』 米調査会社報告書」という記事。
国際政治のリスク分析を行う米調査会社「ユーラシア・グループ」は3日、今年の「10大リスク」をまとめた報告書を発表した。首位にウクライナ侵攻を続けるロシアを挙げ、「世界で最も危険なならず者国家になる」と指摘。核兵器による威嚇を強め、サイバー攻撃などを通じた「非対称戦争」に転じると予測している。
報告書は、欧米の武器供与を受けたウクライナの防衛力を前に「(ロシアには)戦争に勝つための有力な軍事的な選択肢は残されていない」と指摘。欧米を不安定化させるため、ロシア系ハッカーによる政府や企業へのサイバー攻撃、インフラの破壊工作、偽情報の拡散を通じた選挙妨害などを強めると予測した。何よりも核兵器使用の恐怖は拭いようがない。やはり、プーチンのロシアは恐ろしいのだ。
今年の『10大リスク』の2位は、中国共産党総書記として異例の3期目に入った習近平。昨年の「10大リスク」のトップは、中国の「ゼロコロナ」政策の失敗だったという。習近平、今年はプーチンに後塵を拝したことになった。それでもなお、権力集中を「極限」まで進める彼にはチェック機能が働かず、「重大な間違い」を犯すリスクが高いと指摘され。「現代の皇帝」が下す決定によって、公衆衛生や経済、外交の3分野でリスクがあると説明されている。
北朝鮮・イラン・ロシア・中国だけでない、ミャンマーも、アフガニスタンも、…。民主主義のない国が、人命をないがしろにする。民主主義のない国が世界の平和の脅威となる。民主主義のない国、報道の自由のない国ほど恐ろしい。そこでは、抑制の効かない権力の横暴が暴走するのだから。
(2023年1月3日)
あらたまの年のはじめである。正月にふさわしく、格調高く明るい希望を語りたい。…とは思えども、なかなかそうはならない。結局は本日も、格調もなく楽しくもない話題を取りあげることになる。
「世界日報」が、12月31日付けで「22年の日本 保守の後退と民主主義の危機」と題する【社説】を書いている。統一教会の立場を代弁するものだが、自民党と安倍晋三を持ち上げつつも、関係断絶宣告されたことへの怨みを述べて、自民党にすがりつき抱きつこうとする姿勢を露わにしている。自業自得とは言え、自民党にとっては迷惑この上ない「深情け」であろう。
【社説】は、「7月8日、奈良市で起きた安倍晋三元首相暗殺は、日本の保守政治を大きく後退させ、民主主義をかつてない危機にさらすことになった」と断じる。しかし、「日本の保守政治を大きく後退させた」のは、安倍晋三銃撃それ自体ではない。安倍銃撃の動機として明るみに出た『統一教会と安倍・自民党との長年にわたる醜悪な癒着の実態』なのである。問題をすり替えてはいけない。
隠されていた保守政治の大きな汚点がようやく語られるようになって、実は、虚飾のイメージで国民の信頼と政権与党の地位を騙し取っていた自民党が、等身大の正体を現したというだけのことなのだ。「民主主義をかつてない危機にさらすことになった」は、見当外れも甚だしい。安倍晋三と自民党の正体が露見して、支持率が下がるのは「民主主義が健全に機能している証左」以外のなにものでもない。
また、【社説】は「脅かされる信教の自由」の小見出しで、「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みが動機であったとの容疑者の供述が警察から流されると、マスメディアの関心は旧統一教会叩(たた)きに集中した。一方的な中世の「魔女狩り」を思わせる報道によって形成された世論を意識して、岸田文雄首相は自民党と教団との関係断絶を宣言した」とも言う。
私は、「日本の報道は信頼するに値する」とも、「世論は常に正しい」とも思ってはいない。むしろ、日本の報道は権力や政権与党に甘く、その報道に誘導された日本の世論は適正な自民党や安倍晋三批判をなし得ないことを残念に思ってきた。その私の目からは、統一教会に対するメディアや世論の批判が『一方的な中世の魔女狩り』を思わせるものとはとうてい思えない。
さらに、【社説】は、「(岸田首相の)旧統一教会との絶縁宣言は、日本政治をワイドショー政治に堕としめるものである」とも言う。悔しさや怨みだけは伝わってくる。「今までさんざん利用しておいて、具合が悪いとなったらポイ捨てか」と言わんところは分からぬでもない。が、悲しいかな。この一文には、人を説得し、人に訴える何物もない。
【社説】は、安倍晋三を天まで持ち上げている。「『日本を取り戻す』を目標に、国家の安寧と民族の誇り回復のために活発に行動してきた安倍氏がいなくなったことで、保守政治は大きな柱を失った」「安倍氏亡き後、誰が日本を取り戻す主体となるのか、大きな課題である」という。なるほど、安倍晋三と統一教会、思想的には気の合った双子みたいな間柄。かくも一体、かくも紐帯が強いのだ。
そして、【社説】は本音を語る。「国会でも信教の自由の重みに対する認識を欠いた発言が、平然と飛び交うようになっているのは憂慮すべき状況だ」「政府は同教団への解散命令請求を視野に質問権を初めて行使したが、信教の自由をないがしろにすれば民主主義の基盤を揺るがす。日本を中国のような全体主義国家に転落させてはならない」と。
要するに、これまで統一教会には安倍晋三という強力な後ろ盾があった。安倍亡き後も、細田、下村、萩生田等々の頼むに足りるコアな同志的関係の政治家がいる。その支持をつなぎ止めておきたいのだ。そのための呪文が「シンキョウノジユウ」である。「シンキョウノジユウは民主主義の基盤である。だから、統一教会のシンキョウノジユウを貶める言動は、民主主義の基盤を揺るがす」という「論理」ないしは「屁理屈」。
全ての基本権は尊重されないが限界を有している。ヘイトスピーチは表現の自由(憲法21条)の限界を超えて許容されない。裁判を受ける権利(32条)の限界を超えたスラップの提訴は違法となる。信教の自由も、他の基本権に優越する特別の地位をもっているものではない。他者の基本権と衝突する局面での調整において限界を有する。
人の弱みに付け込んだ霊感商法の勧誘、非常識な高額寄附の要請、真意に基づいたと言えない婚姻の斡旋、未成年の子供の人権への配慮のない養子縁組…。どれもが、信教の自由の限界を超えたものとして違法たりうる。その指摘は、けっして「」民主主義の基盤を揺るがす」ものではなく、「中国のような全体主義国家への転落」を意味するものでもない。人権を大切に思う人々が、統一教会の所業を黙過してはならない。
(2023年1月2日)
新年にふさわしい明るい話題ではない。それでも、野蛮な大国の現実について警鐘を鳴らし続けねばならない。
我々は、香港についての報道を通じて、野蛮と文明との角逐を垣間見ている。残念ながら、そこでは野蛮が文明を圧倒しているのだ。野蛮とは、剥き出しの暴力に支えられた権力である。そして、文明とは『法の支配』や『権力分立』によって権力を統御し人権を擁護しようという制度と運用を指す。疑う余地なく、この意味での文明あってこそ人身の自由があり、思想の自由・表現の自由の謳歌がある。
暮れの各紙が、「中国、香港最高裁判断覆す」「国安法違反、外国弁護士の参加巡り」という見出しで、香港発の共同通信記事を報じている。
「中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会は(12月)30日、香港国家安全維持法(国安法)違反事件の被告の弁護人を外国の弁護士が務めることができるかどうかを巡り、香港政府トップの行政長官の許可が必要だとの解釈を示し、香港最高裁の判断を事実上覆した。許可がない場合は、香港国家安全維持委員会の決定が必要だとした。
同法違反罪に問われた民主派香港紙、蘋果日報(リンゴ日報=廃刊)創業者、黎智英氏の裁判で、香港最高裁が香港当局の主張を退け英国の弁護士の参加を認める判断を示していた。司法の独立性が後退したとの懸念がさらに高まりそうだ」
黎智英は中国共産党によって表現の自由を蹂躙されて、この上なく声価の?かった新聞(蘋果日報)の発行停止に追い込まれた。それに伴い、中国共産党によって財産権を侵害され、営業の自由を蹂躙された。さらには、不当に逮捕され、人身の自由を蹂躙された。そして今、彼は中国共産党によって刑事被告人としての弁護人選任権までが侵害されているのだ。恐るべし、野蛮な権力。
以前にも指摘したことがあるが、黎智英が英国の弁護士を弁護人として選任したのは香港の刑事訴訟法がそれを許容する制度になっているからだ。ところが、香港司法当局(日本での法務省に当たるのだろう)は、これにイチャモンを付けて、香港籍の弁護人への変更を申し立てた。その理由は、「(国安法上の)『外国勢力との結託による国家安全危害共謀罪』で起訴された被告人の弁護人を、海外で働く外国人が担当するのは国安法の立法趣旨に反し不適当」だというのだ。無罪の推定も、弁護権の保障も念頭にない、まったく無茶な権力側の発想。
さすがに、香港の高裁と最高裁はいずれも司法当局の訴えを退ける判断を下した。ところが、ここで奥の手が出てくる。香港の最高裁の判断は、全人代常務委員会の胸先三寸でひっくり返されることになった。これが、一党独裁のグロテスク。
「非理法権天」という、出所定かならぬ駄言がある。楠木正成が報じたとの伝承され、戦艦大和のマストに掲げられた幟にも書いてあったそうだが、《非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たぬ》という文意だという。この中で、《法は権に勝たず》だけが意味のある内容、もちろん権力をもつ者にとっての意味である。
元来、法は権力を抑制し掣肘するためにある。「王権といえども法の下になければならない」のだ。実力に支えられた権力が、正義や理性の体系である法に縛られ従うことで文明社会の秩序が保たれる。これが《法の支配》の理念であって、《法は常に権力に勝つ》べき立場にある。これを、《法は所詮紙片に書かれた文字の羅列に過ぎない、実力装置に支えられた権力に勝ち目はない》というのは、野蛮な世界の認識なのだ。
一党独裁とは、共産党に敵対する政党の存在を許さないというだけのものではなく、徹底した国家権力の集中を意味するのだ。一国二制度の下、ごく最近まで香港には常識的な三権分立の制度が確立していた。中国が香港の自由を蹂躙したとき、香港の教科書から「三権分立」の文字が消えた。同時に香港の人権と民主主義も失われた。
三権分立の核をなすものは、司法権の独立である。法の支配において、最終的に法の解釈を確定する権限は司法にある。が、この常識は中国では通じない。香港の司法の独立は、中国共産党の支配にまったく歯が立たないのだ。
それを見せつけたのが、今回の《黎智英弁護人選任権否認事件》である。「香港の司法は、中国共産党という権力に勝てず」が立証された。
かくて香港の《文明》は、南北朝時代あるいは近代天皇制権力時代と同じ《野蛮》に敗れたのだ。
(2023年1月1日)
元日には、父と母のことを語りたい。
私の父澤藤盛祐は、1914年1月1日に黒沢尻に生まれた。尋常小学校6年を飛び級で旧制黒沢尻中学の2期生に合格している。将来を期するところがあったろうが、家業の零落で中学卒業後の進学の夢がかなわなかった。株屋に就職して真面目に働いたが樺太の支店長の時代に株式不況で株屋が倒産。その後盛岡市の吏員として職を得たところで徴兵され、敗戦まで合計7年余の兵役と徴用を余儀なくされる。満州にも送られているが、幸いに実戦に参加することなく帰還して内地で終戦を迎えた。戦後はある宗教に帰依し、盛岡市職員の地位を捨てて教団の布教師となった。後半生は教団に奉仕し尽くした生涯だった。
母・光子(旧姓赤羽)は盛岡の人。兵役にあった父の求婚に応じた。結婚式など望めぬ時代、挙式は40年後になっている。敗戦直前、小規模ながら盛岡にも空襲があった。母は、ハシカで泣き止まぬ私を背負って、防空壕で心細い思いに耐えたと繰り返し語った。戦後は父の転身を受け容れ、教団の中で4人の子を育てている。
二人が相次いで亡くなって25年になる。私たち兄弟の父と母への感謝の気持ちを「歌集 『草笛』 澤藤盛祐・光子 追悼」の巻頭に記した。
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お父さん
お母さん
まことに遅ればせではありますが、
お二人に感謝の言葉を捧げます。
何よりも命を授けていただいたことに。
健康な身体と心とを育んでいただいたことに。
そして、この上なく慈しんでいただいたことに。
お父さん
お母さん
きっと私たちは、
お二人を選んでこの世に生まれました。
私たちがものごころついたころには、
お二人と私たち兄弟が世界のすべてでした。
私たちは、その温かい世界でのびのびと
それぞれの自分をつくりました。
生きていくための芯となるものを得たのです。
お父さん
お母さん
私たちはよく覚えています。
お二人の手のひらの温もり
ゆっくりと語りかけるその声や
まなざしのやさしさ。
お二人が亡くなった後も、
私たちは決して忘れることはありません。
あらためて、心からの感謝を捧げます。
お父さん
お母さん
若くはつらつとしていたお二人も。
齢を重ね、やがて老いを見せて、
そして生を全うされました。
私たちはお二人の後を追い
その後姿を見ながら齢を重ねてきました。
常に、お二人の昔の姿に、
今の自分を重ねています。
お二人を忘れることのないよう、想い出の歌集をつくろう。
そう提案して作業を進めてきたのは、次男の明でした。
その作業が完成せぬまま、
明はお二人の後を追って帰らぬ人となりました。
残された私たちは無念でなりません。
明の作業を完成させて、今、この「草笛」をお二人に捧げます。
お二人が生きてこられた証しを残すために。
私たちの尽きせぬ感謝の気持を表すために。
そして、明の遺志を生かすためにも。
2022年 万緑の頃
(2022年12月31日)
よく晴れた大晦日だが、時代は視界の開けない昏い印象である。世界も、国内も、どんよりと重苦しい。だれもが望んできたはずの平和が蹂躙されている。大量の兵器が世に溢れ、核の脅威さえ払拭できない。軍需産業とその手先の政治勢力が、不気味にほくそ笑んでいる。18世紀のスローガンであった、『リベルテ、エガリテ、フラテルニテ(自由・平等・友愛)』が、いまだに虚しいスローガンのままだ。明日の元日が、一陽来復とか初春の目出度さを感じさせるものとなろうとは思えない。
それでも、今年の私生活は比較的順調だった。身内の不幸がなかったことだけでもありがたいと思う。この夏には、「DHCスラップ訴訟」(日本評論社)を上梓した。表現の自由についてだけでなく、民事訴訟のあり方や、政治とカネ、消費者問題についても、それなりの言及が出来ていると思う。
そして、この夏にもう一冊、兄弟で父と母を偲ぶ歌集(兼追悼文集)を自費出版した。数年前に兄弟4人で作ることを決め、次弟の明(元・毎日新聞記者)が選句し編集していたが、昨夏突然に没した。そのあとを三弟の盛光が完成させた。明の遺した歌も入れ、編集後記は生前に明が書いた通りのものとなった。
B6版で88ページ、装幀と印刷は株式会社きかんし(東京都江東区辰巳2-8-21 TEL03-5534-1131)にお願いしたところ、手際よく手頃な値段で立派なものを作ってくれた。できあがってみると感慨一入である。200部の非売品である。
表題は「歌集 『草笛』 澤藤盛祐・光子 追悼」。歌集の題は、「草笛」という。歌集冒頭の父の一首からとった。
校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ
この校庭は旧制黒沢尻中学(現黒沢尻北高)のもの。父にも、多感な「少年のころ」があったのだ。そのことを書き留めておく意味はあろうかと思う。
11月12日に、縁者が秩父の小鹿野町に集まって、このささやかな「追悼歌集」の出版記念会を開いた。盛祐・光子の子・孫・ひ孫と、その配偶者27名の賑やかな集いとなった。楽しいひとときではあったが、次弟・明の姿はなく、小鹿野に家を建てた妹の夫も鬼籍に入っている。時の遷りに、さびしさも感じざるを得ない。
なお、今年も365日このブログの連続更新は1日も途切れなかった。あと3か月、来年の3月末で、満10年の連続更新となる。その10年を一区切りにして、しばらく擱筆しようと思う。第2次安倍晋三政権の危険性に触発されて連載を始めた当ブログである。幸いに、明文改憲だけは許さずに、10年になろうとしている。そして、安倍晋三は、既に世に亡い。
目も歯も悪くなった。腰は痛い。筆が遅い。それでも、気力だけが健在である。あと3か月このブログを書き続けて、その後しばらくは今引き受けている仕事に専念しようと思う。
(2022年12月30日)
2022年が間もなく暮れてゆく。この年を振り返って、世界を揺るがした最大の出来事は、疑いもなく「プーチン・ロシア」によるウクライナ侵略である。事前には、まさかそんなことが現実にはなるまいと楽観していただけに、衝撃は大きかった。
2月24日の開戦以来、無数の人が無惨にも殺され傷付けられた。戦闘員も非戦闘員も、男も女も老人も子供も。多くの家が焼かれ、街が焼失し、家族が引き裂かれた。故郷を追われて逃げざるを得ない人が難民となって世界に散らばった。どこの国でも、殺人・傷害・放火・略奪の犯罪となる行為が、戦争の名で大規模に実行された。悲惨な歴史が繰り返されている。人類は、少しも賢くなっていないのだ。
この戦争の勃発が、我が国の安全保障に関する世論や政策に与えた影響も衝撃だった。右派勢力は大声で叫んでいる。「9条が前提とする国際環境は崩壊した」「9条の理念では国を守ることができない」「国民自身が、自らの国を守る覚悟をもたねばならない」「軍備の充実なくして国家の安泰はない」「防衛費を倍増せよ」
さらには、具体的にこうも言う。「今日のロシアは、明日の中国であり北朝鮮である」「中国・北朝鮮からの攻撃に備えよ」「防衛力の整備こそが、敵の攻撃の意図を思いとどまらせる」「古来言われているとおり、『平和を欲せば戦争の準備が必要』なのだ」。
だから、「専守防衛論は、今や誤りである」「敵基地攻撃能力の保有こそが不可避の安全保障政策である」「敵基地とは、ミサイル発射基地のみを意味するものではない。戦略的指揮系統の中枢を含むものでなくては意味がない」「自衛力を最小限度の実力に限定してはならない」「敵の攻撃が確認された後にのみ反撃できるとするのでは遅く実効性に欠ける」「敵が攻撃に着手することが明確になれば、躊躇のない反撃ができなくてはならない」
かくて、攻撃的な武器の取得を自制してきた防衛政策は大転換されようとしている。スタンドオフミサイルを備えようというのだ。1機2億とも3億とも言われるトマホークを500機も購入するという。
この道は、いつか来た道だ。暴支膺懲、鬼畜米英…。いつも我が国のみが正しい。我が国の軍備は自衛のためのやむを得ないもので、邪悪な諸国が我が国を狙っている。自衛のための装備の充実、自衛のための攻撃能力、そして、自衛のための先制攻撃。
こうして、相互が軍事優越を求めての悪循環に陥る。安全保障のジレンマこそが、悪魔のささやき、唆しである。こうなってはならないとするのが、9条の理念である。今、その実効性が試されてる時を迎えている。
そして、今年の国内ニュース最大の衝撃は、7月8日の安部晋三銃撃事件である。第一報での背筋の寒い思いは、テロの時代の到来かという恐怖感だった。幸い、この銃撃は、政治的な主張貫徹のための殺人ではなかった。その後に続く報復的なテロは起きていない。宮台真司襲撃事件の未解決が気がかりではあるが。
この事件の影響はまったく思いがけないものとなった。銃撃事件の被害者が悲劇の殉教者に仕立て上げられるのではと一瞬は考えた。保守政権は、当然にそのような思惑で動いた。改憲を悲願とした国家主義政治家安倍晋三をテロの殉教者とすれば、改憲に国民意識を動員できるだろう。おそらくはこのような思惑からの政治利用が安倍国葬強行の動機であったろう。
しかし、この政治利用は成功しなかった。世論は銃撃犯の動機に同情し、安倍晋三は銃撃犯に象徴される多くの統一教会信者の悲劇への加害者と捉えられた。しかも、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三の3代にわたるカルトとの深い結びつきが国民の目に晒されることとなった。
安倍晋三だけではなく、自民党そのものの加害責任を問う声が高まる中で歳を越すことになる。年明け、銃撃犯山上徹也が起訴されてその刑事訴訟が始まる。統一教会と安倍晋三との関係が、さらに深く暴かれることになるだろう。統一教会への解散命令請求も避けて通ることのできない事態に立ち至っている。そして、統一教会が起こしたスラップ訴訟には、私も関与している。
気候変動問題に展望は開けない。コロナもおさまらない。日本の経済力は長期低落の中で危機的な状況だという。国民生活の低迷と格差の開きは厳しい。原発再稼働のみならず造設問題には腹が立つばかり。政治とカネの醜悪な関わりは、いっこうに改善されない。日本学術会議問題や大学の自治も心配でならない。国家主義の傾向進展も危うい。ヘイトや差別の問題も解消にはほど遠い…。
問題山積の年の瀬である。嘆いてばかりはいられない。力を合わせて何とかしなければならない。微力な者どうしで。
(2022年12月29日)
新型コロナの猛威は、中国における武漢の発症報告から、世界に知られるところとなった。その武漢での蔓延を中国当局が総力をあげて制圧したとき、世界は舌を巻いた。あの巨大都市をロックダウンし、全住民に繰り返しPCR検査をし、新規に病院を建造し、必要な医療スタッフを全国から集めて、住民に有無を言わせることなく強権的に有効な手立てを断行して…、成功した。
中国当局の強権的な手法に眉をひそめた者も、武漢での成功には脱帽するしかなかった。少なくともあの局面では、民主主義的な手続による対処よりは、中国共産党流の強引なトップダウン方式が有効に見えた。党、即ち当局、はその成果に胸を張り、自信を深めたに違いない。正しい党の指導こそが、人民を幸福に導くと。
それから3年、自信を深めた「正しい党」の指導のもと、中国は強権を発動してのゼロコロナ政策を継続した。これも、最初はうまく行きそうではあった。しかし、結局は破局を迎えることになった。民衆の不満が山積して噴出してのことである。
中国各地で同時多発的に生起した「白紙革命」の動きに押される形で、ゼロコロナ政策は終焉を迎えた。しかし、それと同時に中国全土でコロナの感染大爆発という報道である。これまでの事態をどう総括するのか、「正しい」はずだった党は説明らしい説明をしていない。そして、これからどうするのかもよく分からない。
いくつかの気になる報道がある。
12月26日付の毎日新聞朝刊1面トップの記事が、「中国 民間ゲノム解析制限」「コロナ 変異株情報 統制か」という大見出しの記事。これに続けて「感染者と死者数 公式発表を中止」との記事がくっ付いている。何とも、気の滅入る報道である。
中国政府は、11月下旬、国内に拠点を置く民間の企業や研究機関に対して新型コロナウイルスのゲノム(遺伝情報)配列の解析を当分の間、行わないよう通知したという。「感染爆発に直面する中国政府は、情報を厳格に管理することで、新たな変異株が見つかった場合などに、国内外の世論に与える影響を最小限に抑える狙いがあるとみられる」というのが、毎日の見方。
要するに、当局だけが重要な情報を独占しておればよい。民間が知る必要はない、必要な限りで党が情報をコントロールする、というのだ。人民を支配の対象としか見ない独裁権力の典型姿勢である。「由らしむべし、知らしむべからず」そのものなのだ。「正しい党」さえあればよい、みんなはこれに従おう。その方が気楽だし間違いはない、と教え込む。カルト並みの姿勢と言わざるを得ない。
また、ゼロコロナ政策終焉に伴って、コロナの危険性に関する当局の説明の様変わりが話題となっている。ゼロコロナ時代には、危険を強調されていたオミクロン株での感染を「新型コロナ風邪と言える」程度と喧伝しているのだという。
中国政府の新型コロナ専門家チームのトップとして著名な鍾南山という呼吸器研究の専門医がいる。この人が、「ゼロコロナ」政策の緩和以降感染が急拡大するなか、今月になってから急に国民の不安を払しょくしようとする発言を繰り返している。オミクロン株について、「致死率が低く、通常の季節性インフルエンザにほぼ等しい」「怖いものではなく、これは新型コロナ肺炎ではない。“新型コロナ風邪”と言える」「99%の患者は1週間ほどで回復する」などと危険性が低いことを強調する発言を続けている。
ネット上では、「なぜ先月はそう言わなかったのか、この2、3日で急に悟ったのか」「これは風邪なのか。国民を誤解させるな!」「誰かにプレッシャーをかけられてそう言っているのか」など、批判的なコメントが相次いでいるという(TBS)。
3年前には、権力的にゼロコロナ政策を強行した中国当局が、今度は権力的にウィズコロナに舵を切った。情報も、医学的知見も、それを実行する人材も、全て当局が独占し管理しているからこそ可能なのだ。しかし、権力による情報操作は、結局は破綻して、民衆の不信を招く結果とならざるを得ない。
東京新聞などによれば、中国国家衛生健康委員会は今月25日、2020年1月から毎日行ってきた感染状況の公表を取りやめた。理由の説明はなく、下部機関の疾病予防コントロールセンターが発表を引き継いだ。24日の全国の感染者数は前日より3割少ない2940人。20日以降の死者はゼロとなっている。死者数の定義が変更されたからだという。
公式発表の感染者数は小さくなったが、各地で感染者が激増し、火葬場の混乱が話題となり、著名人の死去のニュースが連日報道されている。だれの目にも、公式発表が実態を示していないのは明らかだ。そのような事態で、中国の地方政府当局で、新型コロナウイルス感染者数の推計値を相次いで公表し始めているところがある。
山東省青島市は23日、直近の感染者数が1日当たり49万〜53万人に上るとみられると発表。これに続いて浙江省政府当局の幹部は25日の会見で、「元日にピークを迎え、1日の新規陽性者は最大で200万人に上る」との見通しを示し、重症者の移送や治療態勢の確立を急いでいると説明した。交流サイト(SNS)では「真実のデータを公表した浙江省の勇気をたたえたい。民衆は虚偽のデータを見たくない」とのコメントが投稿されている。
香港星島日報は29日、「人口5200万人の四川省防疫当局が25日に標本15万人を調査した結果、人口の63.52%が感染したことが明らかになった」とし「全国的に少なくとも6割の人口が感染したとすると、8億人以上がすでに感染したとみられる」と報じた。
コロナは権力におもねらない。オミクロンは中国共産党のご威光を忖度しない。常に正しい党の指導に基づく中国当局の強権的人民支配は、一見効率よく政治目標を達成するように見えて、結局は人民の信頼を失うことになった。
民主主義とは、本来効率で評価されるべきものではない。しかし、コロナ対策においても、強権的対策よりも愚直な民主的手続による支配に軍配が上がったのではないか。