澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「侵略者」と「被侵略者」、「加害行為」と「防御行為」との区別を曖昧にしてはならない。

(2023年1月17日)
 鈴木宗男という政治家がいる。中川一郎の秘書から自民党の議員となり、今は、維新に所属している。親露派として知られる人だが、むしろ、親プーチン派というべきだろう。彼の1月6日ブログが、その親露・親プーチンと、反ウクライナの姿勢を世に発信して話題となった。

 「プーチン大統領が日本時間6日、18時から36時間の停戦を国防軍に命令している。
 ロシア正教のクリスマスは1月7日である。祈りの時間を与えようと考えるプーチン大統領は、いかなる状況であっても失ってはならない人としての心が感じられる。一方、ウクライナ側はこの停戦を評価するどころか『偽善は自分の中に留めておけ』と極めて強い口調で批判しているが、闇雲に批判するゼレンスキー大統領の頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない
 ウクライナにも熱心なロシア正教の方が沢山いるので、プーチン大統領は配慮しての36時間停戦を発表したと私は受け止めている。
 そもそも論だが、ウクライナは自前では戦えない国で、アメリカ、イギリスから武器や資金援助を受けてかろうじて戦っているのではないか。
 自分の力で戦えない国がどうして大きなことを言えるのか。その感覚がウクライナ問題の根源である。冷静に大局観を持って対応すべきではないか。
プーチン大統領の新年のお年玉とも言うべき『停戦』を、G7、G20の首脳は重く受け止め、停戦を実現してほしいものである」

 分かり易い文章。鈴木の国防観、国際感覚、そして「冷静な大局観」がよく表れている。もっとも、この人の一方的な親プーチン姿勢には、「頭づくりはどうなっているのだろうかと首を傾げざるを得ない」。

 この人の最新のブログが、また、なかなかのもの。昨日付けの「ムネオ日記」にこうある。こちらは、けっして分かり易くはない。

 「ウクライナ紛争の報道で、ロシアが攻撃しウクライナ人が何人亡くなったというニュースは出るが、ウクライナの攻撃によりロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースは出ない。」
 (最初は誤読した。鈴木宗男もロシアの戦況に関する報道統制を批判したのかと思ったのだが、どうやらそうではない。報道機関の不公正を非難する主旨のようなのだ。しかし、ロシアの当局が正確な情報を出さないのだから、「ロシア兵、ロシア人が何人死んだというニュースが出る」わけはない。もっとも、1月1日のウクライナ東部占領地域でのロシア軍臨時兵舎攻撃での被害を89人のロシア動員兵が死亡したと認めた。これが、事情あっての異例なこととと伝えられている)

 「メディアは公平とか公正を旨としてと、よく使うがウクライナ問題に関しては圧倒的にウクライナの報道量が多いと感じる」
(この一文には怒りを抑えがたい。加害者と被害者の間の「公平・公正」とは、いったいどうあるべきと考えているのか。ロシアの軍隊が国境を越えてウクライナに攻め込んで、ウクライナの人々の生活の場を悲惨な戦場にしたのだ。死亡者も負傷者も、破壊された建物も公共施設もインフラも、被害のすべてがウクライナのもので、ロシアのものではない。ロシアには民間人の犠牲者はない。報道量に絶対差があって当然ではないか)

 「こうした流れに視聴者も段々引きずられ、ウクライナに同情が寄る面が出てくるのではないか。」
(断じてそうではない。人々を、反ロシア・反プーチンとしているのは、侵略者に対する憎しみである。親ウクライナの心情は、被侵略者への同情である。侵略者側と被侵略者側、この立場の違いの大きな落差がロシアとウクライナに対する感情を分けている)

 「それぞれ世界でたった一つの命である。命を守るためには『停戦』しかない。 メディアから『停戦すべきだ』という発言がないことは残念である。15日のワシントンにおける岸田総理の記者会見でも停戦に向けての言及はなかった」
(人の命が大切なことは言うまでもない。その命を奪っている犯罪国がロシアであり、その首魁がプーチンではないか。昨年2月24日のウクライナ侵攻の前史として両国間にどんな経緯があったにせよ、戦車で国境を越えたプーチンの罪業は消せない。鈴木宗男も、プーチンに対して、潔くその罪を認めた上で停戦に応じるよう、強く進言すべきではないか)

 「『核なき世界』という前に、先ずは『停戦』と思うのだが…」
(最後は、意味不明の一文。しかし、ここにも核による反撃をチラつかせるプーチンの罪を薄めようとの意図が感じられる。停戦はあってしかるべきだが、加害者と被害者の区別を曖昧にしてはならない)

岸田文雄の得意と失意。

(2023年1月16日)
 どうです、わたくし岸田文雄の働きぶり。我ながらホレボレというところ。ときどき自分の才能にニンマリですよ。あのアベさんもできなかった、大軍拡・大増税。事実上、易々とやっちゃった。

 憲法改正はね、自民党結党以来の党是ですよ。「党是」って、「悲願」とか「宿願」っていうこと。明文改憲には、だれも手を付けられなかった。岸信介、中曽根康弘、安倍晋三も、憲法の一字も変えていない。でも、私・岸田が、事実上憲法ぶっ壊しましたものね。大したもんでしょう。

 だから、アメリカ大統領も、私のことをベタ褒めですよ。日本時間での月月14日、バイデン大統領と会いました。皆さん、テレビ見たでしょう。ホワイトハウスの南正面玄関で、アメリカ大統領が私を出迎えたんですよ。「あなたは真のリーダーであり、真の友人だ」とまで言ってくれた。異例の厚遇って話題沸騰ですよ。本当に、私、歓迎されたんだ。多少は、舞い上がってもよいでしょう。もちろん、アメリカの旧式武器を買ってくれるマヌケなお客さんだからって、やっかむ人もいるけどね。

 「岸田は宏池会なんだから、ハト派のはずじゃなかったのか」って。そりゃ、何度も言われますよ。「ハトの卵からタカが生まれた」とか、「ウリの蔓にトリカブトが成った」なんて悪口も。ぜんぜん気にしちゃいませんよ。すべては結果次第でね。

 私は、ハトのフリをしていたわけじゃない。みんなが勝手にそう思い込んでいたというだけのこと。タカの本性丸出しの安倍さんじゃ、みんな警戒したでしょう。でも、「特技は人の言うことをよく聞くこと」なんていう私は警戒されない。なんだ、結局「アメリカと財界と右翼勢力の言うことにしか聞く耳もたなかったのか」なんて気が付いたときには、時既に遅しという次第。本当に、私は有能なんだ。

 何がコツかって? ひとつは、国会論議を避けること。そして、国民を煽ることだね。国民に恐怖を植え付けて、これに火を付けること。中国は恐い。ロシアも恐いぞ。北朝鮮はもっと恐い。恐い相手は、ある日突然何をしてくるか分からない。そのときに備えて、敵基地攻撃能力を備えておかなくてはならない。恐くて悪い敵国も、日本が敵基地攻撃能力を備えていると分かれば、報復を恐れておいそれと日本を攻撃しなくなる。平和が保たれる。これが抑止力。アメリカと一体になれば、もっともっと大きな抑止力ができる。

 抑止力って、戦争を防ぐためのチカラ。これあればこそ、恐くて悪い敵国も、軽々に日本への侵略をすることはない。もちろん、抑止力って軍備のこと。軍備を強くすればするほど、大きくすればするほど、抑止力も高まる。つまり、軍隊を増員し兵器を買い込んで、軍備を拡大し増大すればするほど、平和が来る。なんだか変だって? そんなことはない。平和とは、勝ち取るもの。勝ち取るためには闘わねばならない。闘いには武器が要る。軍備を拡大すればするほど、平和になるわけさ。

 その点、日米首脳に意見の齟齬はない。大統領は私の訪米を歓迎し、両首脳間のパートナーシップ、そして日米同盟はかつてなく強固であると言った。私も返答した。日米両国が近年で最も厳しく複雑な安全保障環境に直面している中、我が国として、昨年12月に発表した新たな国家安全保障戦略等に基づき、反撃能力の保有を含む防衛力の抜本的強化及び防衛予算の相当な増額を行っていくってね。大統領は喜んでくれた。もう、これで、実際戦争になっても大丈夫さ。

 とは言え、いつまでも国会論議を避けているわけには行かない。もうすぐ、通常国会が始まる。気分は良くないね。予算はすんなり通らないのじゃないかな。なにより、ぶち上げた大軍拡には、大増税が必要だ。国民がすんなり受け容れるはずはない。これ以上の支持率低下はやっぱり恐い。

 それにしても、大軍拡はアメリカからは大歓迎だ。「あなたは真の友人」「あなたこそ真の指導者」と手放しだった。公費を使っての外遊はいい心持ち。お土産だって全部税金だものね。いつまでも外遊していたかった。どうして、同じ大軍拡が、国内では評判悪いのだろう。軍拡すればするほど平和が保障されるっていうのに…。

政治家井上義行曰く ― 「私は全く同情しません」「大根1本で1週間暮らせる」「甘ったれるな」

(2023年1月15日)
 参議院議員・井上義行と言えば、安倍晋三側近として知られた政治家。昨年7月10日の参院選で、安倍晋三がとりまとめた統一教会信者票によって当選した国会議員である。

 井上義行当選後に、世論は統一教会批判一色となった。当然に、統一教会との癒着の深かった自民党・清和会への風当たりも強い。その渦中の井上が、朝日新聞の単独インタビューに応じた。思惑あってのことではあろうが、安倍後継勢力の心情を吐露して興味深い。

インタビュー報道の標題は、「旧統一教会の支援受けた自民・井上氏 山上容疑者へ『甘ったれるな』」というもの。朝日新聞デジタル1月11日19時の記事である。

 「事件の一報をどう知りましたか」という問で始まる前半部分は、紹介にも批判にも値しない。後半をご紹介して、私の感想を添えておきたい。

 ――容疑者は犯行動機として、旧統一教会への恨みから「深い関わりがあった安倍氏を狙った」と供述したとされます

 最初は、政治信条が合わないアンチ安倍さんの人物の犯行なのかと思いました。宗教団体とか、ましてや旧統一教会の存在が犯行動機になっているとは、みじんも考えませんでした。ただ、どんな理由でも人を殺すことは許されません。私の認識ではテロ行為だと思っています。
 容疑者は絶対的加害者で、安倍さんは被害者なのになぜ安倍さんが統一教会と近かったと報道され、容疑者が気の毒だったみたいな風潮になるのか。そこに腹立たしさを感じています。
(「容疑者は絶対的加害者で、安倍さんは被害者」との認識が、社会とズレている。「山上は安倍晋三殺害に関しては加害者だが、その生育歴においては統一教会による虐待被害者であり、安倍晋三と自民党もこのこの虐待に加担している。また、「なぜ安倍さんが統一教会と近かったと報道され、容疑者が気の毒だったみたいな風潮になるのか」と言えば、「安倍さんが統一教会と近かった」ことも、「山上が気の毒だった」ことも、安倍陣営には如何に「腹立たしさを感じた」としても、真実だからである)

 ――母親による教団への高額献金で苦しんだと供述したとされることについてはどう思われますか

 容疑者が言ったことをうのみにするって、テロリストの思うつぼじゃないでしょうか。まだ容疑者の供述は報道ベースで一部分に過ぎません。そもそも、教団を憎んでいたのに安倍さんを狙う動機にも矛盾を感じています。捜査当局が意図的に都合の良い情報を流している可能性さえあると思っています。
 その上で、報道ベースの供述を信用していません。別の勢力によるテロの可能性だって十分にあり得るはずです。まずは裁判で本人の口から語られる動機を聞きたいと思います。
(なるほど、人は自分に不都合なことを信じない。あるいは、自分の信じたいようにしかものごとを理解しない。山上の報道ベースの供述は、陰謀論の類いだというのだ。さすがに、安倍晋三側近である)

 ――事件が起きてから、教団から選挙支援を受けていたことはまずいと思いませんでしたか

 特に何も思いませんでした。選挙中に関わった教団側の人たちは皆優しかったです。必ず集合時間の30分前に集まり、まじめでもありました。容疑者が語る教団像と私が目の当たりにした教団像は違って見えました。
(この人には、まったく何の反省も悔恨もない。そして、今なお、統一教会と立場が同じなのだ。今に至ってなお、統一教会と手を切ろうという意思は毫もない。岸田自民党執行部はこれを放置しておいてよいのか)

 ――安倍氏が教団票を差配し、参院選ではあなたへの支援を指示したという指摘もあります
 
 教団票について、私から安倍さんにお願いしたことも、安倍さんから聞いたこともありません。安倍さんが教団票を巡って、どのような動きをしていたのか、教団との関係がどうだったのかはわかりません。
(これを発言の通りに信用する人はまずあるまい。保守の政治家が、自分のボスの票のまとめ方に無関心であるはずはない。井上君、ウソをついてはいけない。キミの7代先に祟ることになる)

 ――安倍氏が亡くなった背景に、あなたが参院選で支援を受けた教団があった可能性を考えたことはありませんか

 その質問自体が容疑者の供述を元にしていると思います。
(その回答自体が問題に向き合わない逃げの姿勢を意味している。警察が、安倍晋三を擁護する方向でのリークをすることはあり得ても、敢えて安倍批判につながる捏造リークをすることはあり得ない。このことは、井上の知悉するところであるはず) 

 たとえ、容疑者がそう言っていたとしても、私は全く同情しません。私は大根1本で1週間暮らしてきた経験があります。40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるなと思います。
(「私は全く同情しません」は、政治家として失格ではないか。せめて、「だからと言って、人を殺してはなりません」と言うべきだろう。その上で、山上の不幸を繰り返さない手立てについて語らねばならない。なお、「40歳にもなって、親の財産のことで苦しむなんて、甘ったれるな」は、加害者側を擁護したい一心でのトンチンカン。この人、貧しい人、弱い人、苦しんでいる人、差別されている人に、常にこう言っているのだろう。「私は全く同情しません」「大根1本で1週間暮らしていける」「甘ったれるな」と)

 ――事件後に明るみに出た教団が抱える献金問題や2世問題についてはどう感じていますか

 2世問題や献金問題というのは教団だけの話ではなくて宗教全般に関わる話なので、私としてはコメントを差し控えたい。
(逃げてはいけない。「教団が抱える献金問題や2世問題について」、あなたは逃げられない立場にある。あなたに投票したすべての人に対する責任という見地からも、安倍政権を支えてきた保守陣営に対する責任としても、あなたは明確に述べなくてはならない。たとえ、その回答が「私は、統一教会と同意見です」「信教の自由を尊重すべきであって、信仰による高額献金規制はあってはならない」「2世だって、自分自身の意思で信仰を選び取っているはず」でもよい。その回答を是とするか否とするかは、有権者に任せればよい。何も言わずに、黙り込むのは卑怯千万、民主主義社会における政治家の態度ではない)

少なくとも、私は教団の教義についてどのように教えられ、どのように運用されてきたかは知らずに、家族の問題や反共産主義など共通のところで共闘していたので、教団そのものに着目している報道とは大きく認識が違っていると思います。
(こう言う弁解をするようでは政治家失格だ。「私は教団の教義についてどのように教えられ、どのように運用されてきたかは知ら(なかった)」ことが本当なら、無責任極まる。訳の分からぬ怪しげな団体から票をとりまとめてもらって当選したその不明を恥じなければならない。即刻、議員を辞職すべきではないか)

山上徹也起訴 ー 「暴力は許されぬ」か、「背景を徹底解明せよ」か。

(2023年1月14日)
 昨日、奈良地検は安倍晋三殺人の被疑者・山上徹也を起訴した。起訴罪名は、殺人とその手段としての銃刀法違反。報道の限りでは、銃撃の事実と責任能力の存在に問題はないと思われるので、審理の争点は自ずから犯行の動機に収斂することになる。動機とは、「背景事情」と置き換えてもよい。
 
 当然のことながら、被告人・山上徹也は、その殺人と銃刀法違反の犯罪行為に責めを負わねばならない。相応の刑罰を受けねばならないということだ。同時に、法廷は被告人の犯行に至る動機を十分に解明し、情状として酌むべき諸点を見落としてはならない。それなくして適正な量刑はあり得ないのだから。その審理を通じて、自ずから、統一教会の反社会性と、その統一教会と安倍晋三や自民党との癒着の実態が明らかにされることになろう。この点については弁護人の活動のみならず、公益の代表者としての検察官の姿勢にも期待したい。

 産経を除く本日の各紙朝刊が、この件について社説を掲載している。いずれも、《刑事責任の明確化》と《背景事情の解明》の両者に触れつつも、その軽重のバランスの取り方に温度差が見受けられる。より正確に言えば、前者に重点を置いている讀賣社説の立場が際立っている。同紙の治安重視の姿勢の表れと言ってよいのだろう。

 産経を除く5紙の各社説の標題を並べてみるだけでよく分かる。

 朝日 銃撃事件と社会 暗部の検証 ここからだ
 毎日 安倍氏銃撃 裁判へ 背景の徹底解明が必要だ
 東京 安倍氏銃撃起訴 法廷外でも背景に迫れ
 日経 安倍氏銃撃が日本社会に及ぼした衝撃
 読売 安倍氏銃撃起訴 どんな理由でも暴力許されぬ

 朝日・毎日・東京の3紙が「背景の徹底解明が必要」と強調している。「背景」とは、端的に言えば反社会的『宗教団体』と政権与党との癒着の実態ということである。東京新聞に至っては、「法廷外でも背景に迫れ」と気迫十分である。読売だけが、過度に「どんな理由でも暴力許されぬ」ことを強調している。そして、日経は「衝撃の深さ」を語る以外には内容はない。

 まずは、朝日である。「どんな理由があろうとも、許されない犯行だ。問答無用の暴力は、言論を積み重ねて形作るべき民主社会にとって最大の敵である。」とは言う。しかし、「(山上が語っている)動機から凶行へ至ったとすれば、その前に、孤立を深めさせぬ手立てや機会が社会の側になかったか。裁判を通じて、「心の闇」を生んだ環境と背景を解き明かし、検証を続ける必要がある」という。

 そしてまた、「いわゆる『宗教2世』問題の本質は、社会通念と相いれない活動を続ける教団に誘い込まれた親のもとで育った場合、自らの意思で信仰を選んだわけではないのに、人生を大きくゆがめられてしまう点にある」とも言う。

 さらに、最後をこう締めくくっている。「事件の背景には、自民党と旧統一教会の半世紀に及ぶ蜜月関係が横たわる。教団の問題を放置してきたばかりか、選挙協力を求め関係を深めた政治家もいる。民主政治の根幹にかかわる問題だ。春の統一地方選では、首長や議員の候補と教団との関係が厳しく問われる。この暗部を徹底的に解明・清算しなければ、国民の不信は拭えない。」

 次いで、「毎日社説」も、「いかなる事情があっても、人命を奪うことは許されない」とは言う。その上で、「ただ、銃撃に至った経緯は、詳細に明らかにされなければならない。安倍氏と教団の関わりも焦点となる」と述べている。また、「裁判とは別に、政治の取り組みも欠かせない。安倍氏と教団の関わりについて、岸田文雄首相は調査を拒んでいる。しかし、安倍氏が国政選挙で、教団の組織票を差配していたとの証言がある。自民党が教団と関係を持つようになったのは、安倍氏の祖父・岸信介元首相にさかのぼる。清和会(現安倍派)を中心に半世紀にわたって続いてきた。自民党も背景の解明に努めるべきだ」と、自民党に辛口である。

 東京新聞<社説>は、さらに厳しい。「事件後、世論は揺れた。理由はどうあれ殺人は許されず、厳罰に処すべきだという正論の一方、被告の生い立ちなどから少なからぬ同情論も生まれた。…同情論が漂った一因には、反社会的な行為を重ねてきた教団と親密な関係を築き、事件発生まで自省のなかった政治、特に自民党への強い憤りがあったからだろう」
 「2015年の教団の名称変更に当時の安倍政権が関与したのか否か、国政選挙で教団票を差配したと指摘される安倍氏の役割など、教団と自民党との親密な関係の核心部分には踏み込んでいない。その検証には今もなお、背を向けたままだ。銃撃事件の本質と、教団と政治との親密な関係が無縁とは言えない。裁判では解明に限界がある。法廷に加え、国会でも事件の背景に迫らねばならない」

 これに比較して、讀賣「社説」のトーンは明らかに異なる。
 「白昼堂々、選挙で演説中の政治家が銃撃された事件は、民主主義社会に深い傷を残した」「裁判では、山上容疑者の犯行時の精神状態に加え、教団への恨みを安倍氏への銃撃で晴らそうとした経緯なども焦点になるだろう。裁判所には、犯行がもたらした重大な結果や事件の背景を踏まえ、厳正に判断してもらいたい」「山上容疑者の境遇に同情する声があり、本や衣類のほか、100万円を超える現金が届いているという。ネット上には、教団の問題点を明らかにしたとして、英雄視するような投稿も見られる。だが、どのような事情があろうが、自分の目的を達成するために人の命を奪うことなど、あってはならない。犯行を正当化するような一部の風潮は極めて危険だ」

 最後に日経 [社説]である。
 「参院選のさなか、白昼の街頭で有力政治家が殺害されるという凶行は世界中に衝撃を与えた。民主主義が脅かされ、治安に対する信頼は低下した。招いた結果は極めて深刻である。事件は政治と宗教の関係など様々な問題を浮き彫りにした。山上被告は動機として母親が入信した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みを挙げ、教団による巨額献金の実態が注目された。…教団と政治家の不透明な関係が問題視され、自民党は関係の断絶を宣言した。いずれも対応は緒に就いたばかりである。成果や実効性を注意深く見守りたい」「背景や本人の心理を公開の法廷で明らかにすることが重要だ。それを通じて事件の教訓を社会全体で共有しなければならない」

 おそらくは、世論の心情は朝日・毎日・東京3紙の論調に近いものと思われる。だから、安倍国葬反対の世論が6割を越え、岸田内閣の支持率が下がり続けているのだと思う。この刑事裁判では、何よりも背景事情の徹底解明を期待したい。そして、政治もメディアも、訴訟を傍観するのではなく、独自に統一教会と自民党との癒着の解明に努力を継続していただきたい。

「統一教会スラップ・有田事件」の報告と、ご支援のお願い。

(2023年1月13日)
 「旧統一教会スラップ・有田事件」は、東京地裁民事第7部合議B係(野村武範裁判長)に係属しています。被告とされた有田芳生さんの弁護団は現在5名。光前幸一弁護団長、澤藤大河事務局長。これに、郷路征記・澤藤統一郎・阿部克臣の3弁護士。もっと多数の弁護士に弁護団へのご参加をいただき、「共に闘って」いただくよう要請中ですが、弁護団の人数が増えてもこの5人はその核となり続けます。

 弁護団はこの訴訟を、受け身の姿勢ではなく攻勢的に進行することを課題としています。原告統一教会によるこの民事訴訟提起は、統一教会が自らに対する批判を嫌って、批判の言論の萎縮を意図した不当なスラップであることは明白です。まずは迅速に訴訟を進行させ、一刻も早く勝訴判決を獲得しなければなりません。それが、有田さんのためだけではなく、民主主義の基礎である表現の自由が要求するところだと思います。

 にもかかわらず、今のところ本件訴訟の進行は遅々たるもので、第一回口頭弁論期日さえいまだに決まっていません。決まっているのは1月23日11時のオンラインでの進行協議(進行についての打合せ)のみ。弁護団としては、「迅速な審理の進行を望むこと」「形骸化しない充実した口頭弁論を望むこと」を裁判所に申し入れています。

 この進行協議では、第1回口頭弁論をいつ開き、どのように進行するかが決まることになるでしょう。そのときは、すぐにご報告いたします。

 現在、弁護団は答弁書の作成と証拠資料の収集に没頭しています。元来が無理な提訴ですから、有田側の勝訴は間違いありません。問題は、どのように勝つか、そしてどうしたら迅速に勝てるかです。答弁書は間もなく完成の予定で、当ブログでも、できるだけのご報告をいたします。

 ところで、いずれも旧統一教会が原告となって起こした「旧統一教会スラップ」は、下記の5件です。

 被告 紀藤正樹・讀賣テレビ (請求額2200万円)9月29日提訴
 被告 本村健太郎・讀賣テレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
 被告 八代英輝・TBSテレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
 被告 紀藤正樹・TBSラジオ(請求額1100万円)10月27日提訴
 被告 有田芳生・日本テレビ (請求額2200万円)10月27日提訴

 有田弁護団としては、他事件と連携し情報を交換しながら、「共に闘う」姿勢を堅持したいと思っています。力を合わせて不当な勢力と闘い、全事件を完全勝利したいと願っており、有田事件はその先陣を切ろうと考えています。

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 なお、皆様のご支援をお願いいたします。12月21日の当ブログでもお願いしましたが、再度のカンパの要請を申し上げます。
  https://article9.jp/wordpress/?p=20497

 「有田芳生さんと共に旧統一教会のスラップ訴訟を闘う会」という、やや長い名前の会が立ち上がってます。この長い名称からも、統一教会スラップを我が事として闘おうという心意気が溢れています。

 心意気は十分なのですが、先立つべきものが、先には立たない現状でカンパを要請しています。ぜひ、ご協力ください。

会のURLは下記のとおり。
https://aritashien.wixsite.com/home

そして、送金先口座情報は下記。
https://aritashien.wixsite.com/home/donation

送金先の口座は下記のとおりです。

三菱UFJ銀行 月島支店
普通口座 4500218
口座名 チームAAA

「チームAAA」とは、もともとは「アンチ・アベ・アクション」の略なのだそうです。「有田・圧勝・あっさりと」くらいに読み替えてください。

この「共に闘う会」の賛同者は、下記のとおりなかなかの顔ぶれ。

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賛同人リスト(五十音順)
青木理 ジャーナリスト
阿部岳 新聞記者
池田香代子 翻訳家
石井謙一郎 フリーライター
石坂啓 漫画家
石橋学 新聞記者
井筒和幸 映画監督
内田樹 作家
江川紹子 ジャーナリスト
木村三浩 一水会代表
坂手洋二 脚本家
佐高信 作家
辛淑玉 コンサルタント
せやろがいおじさん(榎森耕助) 芸人
高世仁 ジャーナリスト
谷口真由美 法学者
寺脇研 映画プロデューサー
中沢けい 作家
仲村清司 作家
浜田敬子 ジャーナリスト
藤井誠二(事務局) ノンフィクションライター
二木啓孝(事務局) ジャーナリスト
前川喜平 教育評論家
松尾貴史 俳優・コラムニスト
三上智恵 ドキュメンタリスト
宮台真司 社会学者
室井佑月 作家
望月衣塑子 新聞記者
森健 ジャーナリスト
森達也 映画監督
安田浩一 ノンフィクションライター
山岡俊介 ジャーナリスト
吉永みち子 ノンフィクション作家

国際人権規約委員会の総括所見を尊重して、裁判所は国旗国歌の強制を違憲と判断しなければならない。

(2023年1月12日)
 本日は、東京「君が代裁判」第5次訴訟の弁護団会議。ここしばらくは、ズームでのオンライン会議が続く。その便利さに慣れてはきたが、リアルに顔を合わせないのは、なんとなく物足りないような、淋しいような。

 次回2月9日の第8回法廷には、原告準備書面(11)を提出する。テーマは、国際人権規約委員会の総括所見に表れた「教員に対する、国旗起立国歌斉唱強制の違憲違法」。本日の会議は、その準備書面の案文検討が主たる内容。若い弁護士が新鮮なテーマを立派にこなしている。こちらは、なかなか付いて行くのもたいへん。

 さて、国連の国際人権規約委員会は、2022年11月3日、市民的及び政治的権利に関する規約(通称「自由権規約」)実施状況に関する第7回日本政府報告書に対して、総括所見を発表した。もちろん、関係者の意見を十分に聴取してのことである。

 この総括所見は、不起立等を理由とする教員に対する懲戒処分に懸念を示し、日本の法律とその運用の慣行を、思想及び良心の自由についての『自由権規約18条』に適合させるべきことを勧告した。その勧告の結論は以下のとおりである。

38.委員会は、締約国(日本)における思想及び良心の自由の制限についての報告に懸念をもって留意する。学校の式典において、国旗に向かって起立し、国歌を斉唱することに従わない教員の消極的で非破壊的な行為の結果として、最長で6ヵ月の職務停止処分を受けた者がいることを懸念する。委員会は、さらに、式典の間、児童・生徒らに起立を強いる力が加えられているとの申立てを懸念する。(第18条)

39.締約国(日本)は、思想及び良心の自由の効果的な行使を保障し、また、規約第18条により許容される、限定的に解釈される制限事由を超えて当該自由を制限することのあるいかなる行動も控えるべきである。締約国は、自国の法令及び実務を規約第18条に適合させるべきである。

 最高裁判例では、国際協調主義(憲法前文、同98条2項)の立場から、「条約法条約」31・32条に基づき、自由権規約の一般的意見や総括所見を踏まえて法令の解釈適用がされてきている。自由権規約を批准する日本においては、自由権規約に定められる権利の実現のために必要な措置をとるため、憲法上の手続に従って必要な行動をとらなければならない(自由権規約第2条2項)。

 裁判所には、自由権規約の完全な実施が求められている。裁判所も総括所見を踏まえて自由権規約18条を解釈すべきであり、10・23通達もこれに基づく職務命令も条約不適合により無効である。

 自由権規約委員会は、不起立等を、宗教及び信念の自由と同等に保護される思想、良心の自由についての表明と評価し、不起立等を理由に最長で6か月の停職処分にもなる自由の制限は、同条3項の制限を超えて自由を制限しているもので規約不適合の疑いがあるとし、日本政府に対し、法令や実務を自由権規約18条に適合させることを勧告するものである。

 同条3項は、「宗教又は信念の自由については、法律に定める制限であって、公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課すことができる。」としており、自由権規約を体系的に解釈すれば、同項は厳密に解釈されるべきとされる。原告らの思想、良心を表明する自由の制約が10・23通達によるもので「法律に定める制限」ではなく、また教育実施と起立斉唱行為では求める内容が違い、日本政府の回答からは安全、秩序、道徳等の具体的な制限事由を見いだせないことから、自由権規約18条に適合しない疑いがあるとする。

 なお、念のため、自由権規約委員会は、不起立等を「消極的で非破壊的な行為」(単に、起立しないだけで、式の進行を妨害したり混乱させることのない行為)と評価し、自由権規約19条の「意見を持つ自由」「表現の自由」とはせず、自由権規約18条の思想、良心を「表明する自由」としている。

 自由権規約に定められる権利の実現のために必要な措置をとるため、憲法上の手続に従って必要な行動をとらなければならない(自由権規約2条2項)。裁判所は、司法権の範囲内で条約上の義務を実現する義務があり、理念を同じくする憲法については条約適合的な解釈を試み、条約違反の法律については国内で適用してはならない。

 裁判所が、締約国の司法機関として、自由権規約を実施する義務を負い、管轄の下にあるすべての個人に対し、 人権享受を確保することをも約束していることに締約国の注意を喚起するものである。日本のように、条約を一般的に受容する体制を取っている国においては、自由権規約2条2項は「立法措置」よりも「その他の措置」を求めており、関連国内法規等が規約と十分に一致していないとき、関連国内法規等を条約適合的に解釈適用することが裁判所の役割として強く求められている。

 以上に確認の通り、裁判所は「総括所見」での勧告を遵守して、10・23通達等は自由権規約18条に不適合であり、無効であることを宣言しなければならない。

気候変動問題は、民主主義で対応すべき課題か、それとも人権問題なのか。

(2023年1月11日)
 昨日の赤旗「学問・文化」欄に、京都の浅岡美恵弁護士の『世界で広がる気候訴訟』と題した寄稿が掲載されている。「地球温暖化を止めたい」「国の怠慢ただす市民と司法」という副題が付いている。
 
 これまで日本の弁護士たちは、日本国憲法を拠りどころとして、さまざまな分野の訴訟に取り組んできた。一例を挙げれば、「平和訴訟」「基地訴訟」「戦後補償訴訟」「生存権訴訟」「労働訴訟」「政教分離訴訟」「教育権訴訟」「原発訴訟」「ジェンダー訴訟」「メディア訴訟」「消費者主権訴訟」「株主オンブズマン訴訟」等々。そして、分野を横断する「政策形成訴訟」の遂行を意識してもきた。

 しかし、浅岡さん指摘のとおり、我が国ではこれまでのところ「気候訴訟」は話題にもなっていない。「公害訴訟」「環境訴訟」の経験と伝統は脈々とあるにもかかわらずである。

 浅岡論文は世界の事情をこう解説している。

 「地球温暖化を止めたい。政府の対策では間に合わない。市民のそんな思いを託した気候訴訟が世界の注目を集めています。市民や NGO が政府や企業に対して《温室効果ガスの削減目標の引き上げや適応策の強化を求めるもの》《石炭火力やガス田採掘を止めさせようとするもの》《自然の中での先住民の暮らしを守ろうとするも》《グリーンウォッシュと言われる企業の欺瞞的な広告に対する訴訟》などです。
 2015年以降に特に増加し、昨年までに1200件を超え、欧州や米国だけでなく、ラテンアメリカ、オーストラリアやアジア諸国などにも広がっています。気候の危機が広く認識され、この10年の取り組みが危険な気候危機の回避に決定的に重要とされていることが、若者の訴訟提起を後押ししています。」

 ところが日本では、まったく事情が異なる。

 「日本では神戸製鋼の石炭火力発電所についての訴訟で、原告側には訴える権利も認められなかった(21年大阪地裁判決、22年同高裁判決)」

 浅岡論文は、オランダやアイルランド、そしてフランス、ベルギー、チェコ、パキスタン、コロンビア、ブラジル、ドイツなど海外の画期的な重要判決を紹介している。その多くは、多量の温室効果ガス排出を続ける企業と国策に削減を命じるものである。紹介される判例を素晴らしいと思う。羨ましいとも思う。しかし、我が国では非常に難しい。

 難しい理由は、大きくは二通りある。実体法上の問題と、訴訟法上の問題である。

 実体法上の問題とは、国家や公的機関、あるいは企業に、気候変動を予防すべき具体的な法的義務が必要だということである。具体的な法的義務がなければ、その履行を求める訴訟も、義務の不履行を違法とする損害賠償請求も困難と言わざるを得ない。憲法だけからこのような義務を紡ぎ出すのは、至難の業なのだ。

 訴訟法上の問題とは、《裁判を起こせるのは、自分の権利が侵害された、あるいは侵害されそうになっている人に限られる》ということ。国や企業に違法があったとしても、その違法が自分の権利に関わるという人でなければ、裁判は起こせない。

 仮に明らかな違憲・違法な事実があったとしても、その違法によって自分の権利を侵害された、あるいは侵害されそうな人でなければ訴訟は提起できない。民事訴訟であれ、行政訴訟であれ、原告個人の権利に関わるものでなければ、適法な訴訟とはならず、訴えは却下即ち門前払いとなる。

 三権分立についての普通の考え方は次のようなものである。国会が国権の最高機関であり、議院内閣制のもと国会の多数派が作る内閣が行政権を行使する。つまり、国会と内閣は、民主主義の理念で構成され運営される。司法は、その構成も運営も民主主義的な理念によるものではない。司法を貫くものは人権尊重の理念であって、当然のことながら多数決原理によって左右されない。司法は、人権侵害を救済する場面では立法や行政に優越するが、人権に関わらない問題には口出しをしない。それが司法をめぐる三権のバランスの取り方である。

 浅岡論文には、こうある。

「2019年12月、オランダ最高裁は、気候変動による被害は現実の重大な切迫した人権の侵害であり、原告ら国民を気候変動の被害から守るために、政府に温室効果ガスの削減目標を引き上げるよう命じました」

しかもその理由中で、「世界でコンセンサスとなつている水準の削減は、法的義務」としたという。

 「世界では、この判決に触発された訴訟がで提起され、アイルランド最高裁判所は20年7月に対策計画に具体性実行性が欠けているとし、同月、フランスの国務院も22年3月までに対策の強化を命じましたベルギーやチェコ共和国、パキスタンやコロンビア、ブラジルなどでも、国に対し適応対策や森林保護の対策強化を命じる判決が出ています」

 浅岡さんが言うとおり、「日本の裁判所はこれまでのところ政策によって対応されるべき問題として判断を避けてい」る。人権の問題として把握していない。飽くまで選挙を通じて国会で処すべき、民主主義の課題という位置づけなのだ。 この壁をオランダ最高裁は易々と飛び越えて、「国民全体の人権の問題」とした。そのとたんに、気候変動問題については国会ではなく、裁判所がヘゲモニーを握って政策決定することになった。これも、一つのあり方ではあろう。浅岡論文の最後はこう結ばれている。

 「司法も世界に目を向け、私たちや子供たち、将来世代を破壊的な気候災害から守るために、科学の指摘を受け止め、生命や自由を守る司法の使命を思い起こす必要があります」

侵略戦争も「祖国の防衛」ですか? 「神聖な国民の義務」ですか?

(2023年1月10日)
 本郷・湯島の皆様、こちらは「九条の会」です。年は新たまりましたが、目出度くはありません。お年玉の代わりに、大軍拡大増税というのですから。その皺寄せは、福祉や教育の予算を削減となるでしょう。物価は上がる、賃金も年金も追いつかない。コロナの勢いは止まらない。安心して暮らせません。

 そして、何よりも平和が危うい。今、ウクライナでは現実に、砲弾が飛び、ミサイルの攻撃が行われています。おびただしい人が死に、血が流されています。人類は、何と愚かなことを繰り返していることでしょうか。日本にとっても、他人事ではありません。

 この事態に最も重い責任を負うべきは、言うまでもなくロシアのプーチンです。皆さん、そのプーチンの年頭所感をお聞きになりましたか。彼は、ウクライナへの侵略者でありながら、国民には「祖国防衛のための軍事行動だ」というのです。「祖国の防衛はすべての国民の神聖な義務である」、「祖国の防衛は、次の世代の国民への神聖な義務である」などと。

 今ロシアがウクライナで行っている軍事行動は、明らかに侵略戦争と言わねばなりません。それを彼は、「祖国防衛行動」と言っています。これが権力者の常です。「侵略戦争」を「自衛のためのやむを得ない軍事行動」と言うのです。自国は常に正しい被害者で、国境を越えて出兵しても「やむを得ない自衛の行動」だという。そうしなければ攻め込まれるのだから、と。まるで、「自衛のための敵基地攻撃能力論」ではありませんか。

 皆さん、欺されてはなりません。悪徳商法の甘い言葉にも、統一教会やその同類のカルトが語る因縁話や献金勧誘にも。そして、最もタチの悪い政権のウソにもです。

 かつて、日本の国民の全てが欺されました。天皇が神であるとか、日本が神国であるとか、戦争すればカミカゼが吹いて日本は必ず勝つとか。荒唐無稽な嘘っぱちにダマされての戦争で、310万もの命が奪われました。それだけではなく、2000万ものアジアの人を天皇の軍隊が殺しました。もう、再び欺されてはなりません。
 
 軍事予算を倍増し軍備を拡大し敵基地攻撃能力を誇示することで、中国やロシアや北朝鮮との平和が作れるでしょうか。戦争になってもよいということなのでしょうか。岸田内閣には、安全保障政策の大転換を勝手に決めるなと、声を上げようではありませんか。

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岸田政権にだまされるな

「本郷湯島九条の会」石井 彰

 新年初の「本郷湯島九条の会」の昼街宣は、北西の風5mのなかで、8人の方々によっておこないました。温度は10度近くありましたが、風が冷たいひとときになりました。
 マイクは、岸田文雄政権による戦後安全保障政策の大転換を訴え、「欲しがりません、勝つまでは」、「神風が吹く」といわれた戦前と同じように国にだまされてはいけない、と訴えました。
 いまアメリカの軍事戦略にそって岸田政権は、安全保障法制という戦争法で「集団的自衛権の行使」に基づいて、「敵基地攻撃能力保有論」を国民に迫っています。敵基地攻撃能力を持つことをアメリカに誓約した政府は、軍事費を国内総生産GDPの2%にすると言いだし、2023年から27までの5年間で43兆円の軍事費にします。これはアメリカ、中国に次ぐ世界第3位の軍事大国になることになります。これが政府の言う「専守防衛」の真実です。「自分の国は自分で守る」と岸田文雄首相は言いますが、政府がアメリカに誓約したのは、アメリカのおこなう戦争に付き従い、その先兵として「敵を先制攻撃」するというものです。それは暮らしと経済の破壊をもたらすことは必至です。
 さらに日米安全保障条約第5条で、「共同防衛」という名の日本の自衛隊がアメリカ軍の指揮下で先兵の役割を果たすことになります。
 今こそ、日本国憲法第9条を守り、アジアへ世界へ発信するために日本の役割はあります。

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[プラスター]★先制攻撃の敵基地攻撃能力保有はやめろ、★国にだまされるな、★岸田文雄首相にだまされるな、★国民が苦難を強いられているのに軍拡を進める岸田は止めろ、★軍事費を増額するというなら国民に信を問え、★岸田文雄政権は退陣しろ、★新型コロナに対してちゃんと対策を立てろ。

『プーチンのロシアと宗教』ーそして「戦後日本の国家と宗教」

(2023年1月9日)
 宗教専門紙「中外日報」1月5日号に、野田正彰さん(精神病理学者)が寄稿している。『プーチンのロシアと宗教』という標題。短い論文だが、時宜にかなった手応えのある問題提起。

 そのまとめの1文が、「私たちは戦後の日本国憲法で、その内実をあまり討論もせず、政教分離の原則と言ってきたが、政治と宗教は深いところで結びついている。今回の統一教会と自民党の癒着問題は、宗教とは何か、考える重要な契機である。ロシアがたどった道、ウクライナ戦争も、政治と宗教が深くからみあっている」と問題を投げかけるもの。ロシアの事情を批判的に学んで、日本の現状をよく考えよという示唆なのだ。

 精神科医である野田さんは、1980年代中ごろ、統一教会の洗脳システムによって常時サタンの幻覚に脅えるようになった信者を、患者として治療する機会があった(論考「霊感商法と現代人の心」・『泡だつ妄想共同体―宗教精神病理学からみた日本人の信仰心』93年春秋社に所収)という。

 その経験から、統一教会の動向に関心をもつようになった。とりわけ、ゴルバチョフ財団に多額の寄付をして、権力の中枢との密接な関係を築いてから、市民への布教を進めた統一教会の戦略に関心をもち、何度か現地に赴いての調査もしたそうだ。従って、ソ連崩壊後のロシアの宗教事情に詳しい。ロシアでは、「日本や韓国から侵入してきた統一教会やオウム真理教の被害者家族なども面接」をしているという。その野田さんの論考の骨格は以下のとおり。

「1917年11月の『十月革命』でソヴィエト政府樹立を宣言した…ソ連共産党がロシア帝国の最大の悪と考えたのは、帝制(ロマノフ王朝)であり、その文化イデオロギーである東方キリスト教(ロシア正教)であった。ソ連共産党は宗教をレーニン主義の敵とみなした。

 ソ連共産党は宗教なるものを全否定したのだが、ここで宗教と考えていたのはロシア正教だった。ロシア帝国、農奴制と皇帝、ロシアの文化に深く浸透し精神的支えになっているロシア正教。彼ら(共産党)はロシア正教を禁止し、神父を追放処刑し、教会を没収解体していった。だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊できても、その無形の思想を破壊するのは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。廃仏毀釈の後の国家神道の形成も似ている。」

 「結局、ロシア正教を全否定したロシア共産党だったが、否定の先にあったのはロシア正教の影絵をたどる道であった。90年代のロシア、ウクライナ、バルト三国など、ソ連解体から諸宗教への勃興へ、私は調査を続けながら、ロシア共産主義がいかに宗教(ロシア正教)に似ているか、考えていた。」

 野田さんによれば、ソ連共産党は「党という大教団を作り、各地に委員会という教会を作り、荘厳な祭典(メーデー、戦勝記念日など)を繰り返したこと」「異端の粛清と正統イデオロギーの確定がセットになって反復されたこと」において、結局は、ロシア正教の影絵をたどる道を歩んだ。だから、ソ連崩壊後はロシア正教の復活となったというのだ。

 「これほども精神を支配してきた共産主義というキリスト教擬似宗教が消えた跡に、真空に吸いこまれる粉塵のごとく諸宗教が吸引されていた。ロシア共産党の二本の柱、KGBと軍。その強固な柱であるKGB育ちのプーチンは、チェチェン人への謀略によって権力を握った後、迷うことなくロシア正教のさらなる復興を進め、新しく選ばれたキリル総主教との関係を強めてきた。真空になったロシア社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、ロシア正教を支援していったのである。」

 この野田論考は、読み方によっては恐ろしい暗示である。我が国の敗戦と戦後民主主義社会における宗教事情ないしは政教分離の内実を再検討すれば、国家神道の再興もあり得ると警鐘を鳴らすものではないか。

《敗戦によって誕生した新生日本は、政教分離を宣言し国家と宗教との癒着を全否定したのだが、ここで宗教と考えられていたのは、天皇とその祖先神を国家の神とする国家神道(=天皇教)だった。国家神道は臣民に刷り込まれ、中央集権的な軍国主義体制下の国民意識を支配し、政治・軍事・教育・文化・メディアに浸透して、国民一人ひとりの精神的支柱にもなっていた。
 新生日本は、天皇主権を国民主権に転換し、天皇の軍の総帥としての地位を剥奪し、天皇の宗教的権威も神聖性も法的に否定した。併せて、国家主義を脱して、個人主義・自由主義を憲法の根幹に据えた。さらに、戦後民主主義は、政教分離を宣言して国教を禁止し、神官の公務員たる地位を剥奪し、あらゆる神社への公的資金の投入を禁じた。ひとえに、旧天皇制への回帰の歯止めとして、である。
 だが永く続いた文化の表に現象するものは破壊も改変もできようが、その根底にある無形の思想までも消滅させることは難しい。新しい制度や造形を創れば創るほど、どこかで前の文化が原型となって模倣されてしまう。絶対主義的天皇制の制度を廃止しながら、象徴天皇制を残した中途半端な戦後民主主義においては、その危険は一層大きい》

《かつて、これほどにも国民の精神を支配してきた国家神道=天皇教である。戦後民主主義というイデオロギーが攻撃され、危うくなったときには、形を変えた『天皇教』が復活するれを払拭できない。その素地は実は十分に醸成されており、真空になった日本社会から、塵を払いのけて伝統の巨大な柱、天皇教即ち国家神道が立ち上がる危険に警戒しなけれぱならない》

人を不幸にする宗教が、信教の自由の美名のもとに被害を拡大し続けて行くことを許容してよいのか。

(2023年1月8日)
 もっぱら統一教会の主張を代弁している「世界日報」。その本日付の【社説】が、「安倍氏暗殺半年 揺らぐ民主主義の根幹」というタイトル。「軽視される信教の自由」「テロは決して許されぬ」という二つの小見出しが付いている。統一教会の言う「民主主義の根幹」とはいったい何のことだろうか、それが今どう「揺らい」でいるというのか。若干の興味をもって目を通したのだが、何とも説得力のある論考にはなっていない。

 あるべきタイトルは、「安倍氏暗殺半年 揺らぐ自民党政治への信頼」あるいは、「暴かれつつある安倍政治と反社会的宗教との癒着」というべきであろう。小見出しは、「軽視される信教の自由の限界」「明らかとなったマインドコントロールの恐怖」「信者家庭の子にもたらされた苛酷な人生」あたりが適当か。「テロは決して許されぬ」だけは当然の事理。同種事件の連鎖を許してはならない。しかし、これをテロと言ってよいものか、必ずしも明らかではない。

 統一教会・勝共連合・世界日報側が、銃撃された安倍晋三を悼めば悼むほど、惜しめば惜しむほど、自民党、とりわけその最右派である安倍派には迷惑なことになる。「統一教会とは大して親密な関係ではありません」と、何とか世論の批判をかわしたいのが安倍後継勢力。その心情に構うことなく擦り寄って来られるのだから。

 しかし、統一教会側からすれば黙ってはおられまい。手のひらを返したような自民党や清和会の連れない態度には憮然たる思いがあって当然であろう。その面白くないという心情の吐露を汲み取る以外に、この社説の読むべきところはない。

 それでもせっかくの論考。以下に赤字で引用して、黒字で私の感想を記しておきたい。

「安倍晋三元首相が奈良市で凶弾に倒れてから半年が経過した。史上最長政権を担った元首相が、選挙の遊説中に銃撃され死亡するという民主主義の根幹を揺るがす前代未聞の事件であったにもかかわらず、その本質が忘れられつつある。
そればかりか、テロリストが意図した通りの展開となっているのは憂慮すべき事態だ。」

 この書き出しの文章は、安倍国葬提案理由の二番煎じでインパクトに欠ける。そもそも安倍晋三と民主主義が不釣り合いだった。そして何よりも、犯人自身が捜査機関に語った銃撃の動機は、統一教会への恨みであって、安倍晋三は韓鶴子の言わば身代わりなのだ。その意味では、本件は政治的テロ行為ではない。この事件の本質は、反社会的な宗教に洗脳された信者家族の悲惨さにある。そして、《多くの人を不幸にする宗教が、信教の自由の美名のもとに、被害を拡大し続けて行くことを許容してよいのか》が問われている。それが、今進行している事態の「本質」ではないか。これを「民主主義の根幹を揺るがす」とは、無内容も甚だしい。

「奈良市は銃撃現場を車道にし、慰霊碑などの構造物は造らない方針という。かつて同様にテロによって暗殺された原敬、浜口雄幸両元首相の東京駅の遭難現場には、それを示す印が床に嵌め込まれ、近くに説明板が置かれている。世界の平和と秩序維持に貢献し、国葬儀の際には多くの国民が献花の長い列を作って死を悼んだ安倍氏の遭難現場に、その痕跡すら残さないというのは理解に苦しむ。安倍氏のレガシーを認めたくない人々への迎合としか思われない。事件は民主主義への重大な挑戦であった。それを何事もなかったかのようにするのは、民主主義を守ろうという意思の欠如を示すものに他ならない。」

 奈良市の措置に賛否の意見あるのは結構だが、大上段に「民主主義を守ろうという意思の欠如を示すものに他ならない」という断定はトンチンカンも甚だしい。この一文は、統一教会が安倍政治をかくも全面的に肯定し、安倍の死をかくも惜しむことによって、その政治的立場の一体性を示す貴重な資料として意味がある。
 安倍晋三を、政治テロによって暗殺された原敬、浜口雄幸、あるいは犬養毅、高橋是清らと同列に置くことはできない。安倍は政敵に暗殺されたのでも、彼の政治信条を理由に暗殺されたのでもない。反社会的カルトとの癒着を嫌われて銃撃の義性となった。そのことをも考慮に入れての奈良市の対応である。にもかかわらず、「安倍氏のレガシーを認めたくない人々への迎合としか思われない」は、噴飯物と言うしかない。

「殺人容疑で送検された山上徹也容疑者が、母親が入信している世界平和統一家庭連合(旧統一教会)への恨みから、同教団と関わりのあった安倍氏を襲撃したとの供述内容が報じられたことで、人々の関心は旧統一教会問題に向かった。
その後のメディアの魔女狩り的報道で、岸田文雄首相は事件の全容や旧統一教会の実態が明らかにされる前に、早々と自民党と教団との絶縁を宣言した。これによって、政治が宗教の影響を受けることは悪であるかのような、戦後の日本に潜在してきた政教分離の誤った解釈を蔓延(まんえん)させてしまった。メディアに引きずられ、問題の本質を見誤った判断と言わざるを得ない。」

 この前段はそのとおりだが、後段には看過できないいくつもの言い回しがある。統一教会への批判を「魔女狩り的報道」とレッテルを貼ることの意図は明らかで、こんなことで批判の言論に萎縮があってはならない。「政治が宗教の影響を受けることは悪であるかのような」は、あたかも「政治が宗教の影響を受けることは悪ではないような」主張である。議論を拡散せずに絞れば、「少なくとも、政治が統一教会のごとき反社会的なカルトから影響を受けることはけっして放置してはならない」と言うべきである。これに続く、「戦後の日本に潜在してきた政教分離の誤った解釈を蔓延させてしまった」は、だれにも意味不明、理解できない。おそらくは、社説を起案した本人にも何を言っているのか分からないだろう。

「事件が旧統一教会の献金に絡むものであったことから、法人などによる悪質な寄付などの勧誘行為を禁じる被害者救済新法が拙速に成立し、施行された。被害者の救済に一定の効果は期待できるが、憲法で保障された信教や内心の自由を軽視する傾向が強まったことは今後に問題を残した。この動きは地方議会にも波及し、憲法違反の疑いの濃い決議が採択されている。」

 以上から汲みとることができるのは、「宗教批判はけしからん、だから、統一教会批判をしてはならない」という、単純で無邪気だが、乱暴な非「論理」。宗教を批判することはタブーではない。ましてや、具体的な事実に基づく統一教会批判や、それと癒着した安倍政治の批判に躊躇があってはならない。

「さらに社会的に問題があるとの理由で、政府は同教団の解散命令請求を視野に入れ、宗教法人法に基づいた質問権を初めて行使した。正当な理由なしに解散命令を請求するのは、宗教弾圧につながる深刻な問題だ。」

 「正当な理由なしに解散命令請求することが深刻な問題」であることは当然のこと。しかし、統一教会による甚大な被害は、民事・刑事の多数の判決に明らかとなっている。霊感商法も、多額の寄付勧誘も、合同結婚式も、養子斡旋も、すべてはこれ以上の被害拡大防止のために「解散を命ずべき正当な理由の存在」を明らかにしていると言うべきではないか。「宗教弾圧」という言葉の陰に隠れ通すことはもはやできない。

「何よりこれらの流れは、安倍氏を殺害し教団への恨みを晴らそうとした容疑者の狙い通りの展開である。メディアは容疑者の行為を『もちろん非難されるべきだが』
と断りながら、旧統一教会叩きを繰り返した。そこからは『いかなる理由があってもテロは許さない』という強いメッセージが伝わってこない。」

 これは、論点外しである。詭弁と言ってもよい。被疑者の刑事罰を免責してよいはずはない。弁護権を確保しつつも、刑事訴訟手続は厳正に行われなければならない。その刑事手続の進行とは別に、事件をきっかけにあらためて世に問われているのが、カルトと政治の癒着の実態である。【社説】には、この問題の議論を封殺し、論点をずらして世論の批判を避けようとの姑息な詭弁が透けて見える。

「山上容疑者の鑑定留置が10日で終わることを機に、奈良地検は殺人罪で起訴するとみられるが、テロ殺人であることを忘れるべきではない。信教、内心の自由、そして暴力の否定は民主主義の根幹である。それをこれ以上揺るがせてはならない。」

 この結論もよく分からない。「暴力の否定」に異論あろうはずはないが、そのことを「統一教会批判阻止」と結びつけようという論旨が、この社説の全体を訳の分からぬものとしているのだ。

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