澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

稲葉延雄新会長に、公共放送NHKの対政府独立性を確立せんとする志ありや。

(2023年1月27日)
 一昨日(1月25日)午後、稲葉延雄・NHK新会長が就任の記者会見に臨んだ。その一問一答が報道されている。各紙の見出しは、概ね以下のとおり。

 NHK・稲葉新会長、政治と適切な「距離」を保つ姿勢強調(毎日)
 稲葉新会長 前会長の改革「私の目から検証、見直しを」(朝日)
 NHK、稲葉新体制発足「デジタル活用が改革の本丸」(日経)

 記者会見は全体にそつのない印象。かつて安倍政権ベッタリの姿勢を隠そうともしなかった籾井勝人などとの同類ではない。だが、前任者前田晃伸と自民党族議員との仲はすこぶる険悪だったという。その前田の再任を阻んでの不自然な「元日銀理事」からの人選。本当にこの人が適任なのか、どうしても疑問を拭えない。

 彼が言いたかったのは、冒頭の下記発言で尽きるだろう。

 「◆稲葉 前田晃伸前会長がこれまで取り組んできた改革では、業務の効率化を大胆に進めることで、受信料値下げに伴う収入の減少を収支均衡に持っていく道筋におおむねメドをつけていただいた。この先、想定通りに財務の数字が表れてくるかどうか、しっかり見極めながらこの秋の受信料の値下げを実現していきたい。
 その上で、私の役割は改革の検証と発展。かなり大胆な改革なので、若干のほころびやマイナス面が生じている部分があるかもしれない。もしそうであれば丁寧に手当てをしながら、ベストな姿に持っていく。特に、人事制度改革については検証・見直しを行っていきたい。ひとりひとりが能力を最大限発揮してもらうために、多様なキャリアパスを示して、安心して職務に専念できる温かみのある人事制度にしたいと考えている」

 さて、幾つかの注目すべき発言がある。

 ――これまでNHKという組織を外からどう見ていたか。

 「◆私は日銀時代に経緯があって放送法を勉強するチャンスがあった。放送法第1条には放送の目的として「健全な民主主義の発達に資する」などとうたわれていて、非常に感銘を受けた。そういう組織があるんだというふうにNHKについては受け止めていた」

 そつのない発言の典型のようでもあるが、この人、本当に放送法を勉強したのだろうか。やや心もとない。放送法第1条はNHKに関しての規定ではなく、放送一般についてのものだからだ。放送法第1条を引いて、NHKを「そういう組織があるんだ」というのはちょっとヘン。

 放送法の第1章「総則」と第2章「放送番組の編集等に関する通則」は、民間放送を含む放送事業一般についての規定で、第3章「日本放送協会」で初めてNHKが出て来る。彼が「感銘を受けた」という「健全な民主主義の発達に資する」ことを理念とする組織は、NHKに限らないのだ。

 ――政権との距離について。会長選出時に多くの社が岸田文雄首相側の意向が働いたと報じていた。選出前に、実際首相側から打診が何かあったか。

 「◆私にそういう動きがあったかということか? それはない」

 「それはない」は、あまりに素っ気ない。では、いつころ、誰から、どのように「日銀出身者」に打診があったというのか、知りたいところ。本当に、首相側から打診がなかったとは、にわかに信じがたい。

 ――NHKにはこれまでも政治的圧力があったと指摘されている事例がたくさんある。会長として政権と今後どう向き合うのか。

 「◆NHKは放送法に基づいて運営されている。放送法では自主自律・公平公正な立場を堅持して、何人からも干渉されない対応をしていくべきものだとうたわれているし、そのように行動すべきだと思っている。報道機関として自主的な編集判断に基づいて、不偏不党の立場から報道している。できるだけ真実を掘り下げて、見つけ出す努力をすることは不可欠。それでも真実が見つからない場合には、多様な見方を等しく取り上げてお伝えする。そういう姿勢を維持していけば、結果として不偏不党の報道姿勢になると思っている」

 これは、まことに微妙な言い回しである。端的に、「NHKが政治的圧力に屈することはない」とも、「会長として、政権からの干渉を拒否する姿勢で向き合う」とも言わない。「放送法がある以上、不偏不党の立場から報道しているはず。今のままで、結果として不偏不党の報道姿勢になると思っている」と、まことに頼りない。ほんとに大丈夫なのだろうか。この人。

 なお、記者からの発問にある「会長選出時に多くの社が岸田文雄首相側の意向が働いたと報じていた」。その内の一つを再録しておきたい。

 昨年12月7日配信の「東洋経済オンライン」の抜粋である。

 「NHKの経営委員会は12月5日、2023年1月24日で任期満了となる前田晃伸会長(77)の後任として、日本銀行元理事の稲葉延雄氏(72)の任命を決めた。同日、稲葉氏は「突然のご指名で大変驚いておりますが、できるだけ早く実情を把握し、公共放送の使命にふさわしい仕事をしていきたい」とのコメントを出した。

 事情に詳しいNHK関係者によれば、直前まで別の人物が最終候補として挙がっていた。前田晃伸会長の出身母体であるみずほフィナンシャルグループと親密で、個人的にも親交のある大手総合商社の元会長だった。「商社で社長や会長を歴任し、経済界のみならず幅広い人脈と知見を持っていた点が評価された」(NHK関係者)とされ、別のNHK関係者は「本人もやる気だったようだ」という。

 だが、次期会長人事が表面化すると、官邸や自民党から横やりが入る。総務省関係者によれば、総務大臣経験者をはじめとする自民党の総務族が、この人選に「ノー」を突きつけた。理由は「前田会長に近い人物だったから」(総務省関係者)というものだった。
 そして、声がかかったのが稲葉氏だった。打診があったのは12月最初の週末。12月6日の会見で稲葉氏が「迷っている暇なく(任命の)昨日が来た」と口にしたのもそのためだ。関係者の間では「“前田憎し”の官邸や自民党は、前田会長との距離が近いことを理由に(商社元会長の人選を)認めず、経営委員会に稲葉氏を推薦した」との見方がもっぱらだ。

 そもそも前田会長と官邸、そして自民党との間には、埋めがたい溝があった。NHKの経営委員会の委員は衆参両院の同意を経て任命され、業務執行の責任者であるNHK会長はその経営委員らが決めている。NHKに関する重要な施策は総務省や政治の意向を仰ぐのが不文律でもある。
 だが、前田会長のやり方は違った。2020年1月の就任後、「スリムで強靱な新しいNHK」をテーマに管理職の3割削減や、職員の昇進や昇格プロセスに関する人事制度改革に着手。その目的や経緯について官邸や自民党などに説明することなく進めたため“不評”を買った」

 すべては、公共放送NHKにおける権力からの独立性欠如の結果なのだ。新会長、果たして、この重い課題に取り組む意欲有りや無しや。

元首相による その軽口の罪の重さ。

(2023年1月26日)
 森喜朗とは、元ラグビー選手であり、元首相である。元ラグビー選手にふさわしくいかにも身体は重そうだが、元首相だけにいかにも口は軽い。口の軽さは、特に責められるべきことではない。なにせ、誰にも言論の自由は保障されている。それにしても、「元首相」とは、こんな程度のものなのだ。

 昨日、森は東京都内のホテルで開かれた「日印協会」の会合に出席して、こんなことを口走ったという。

 「こんなにウクライナに力を入れてしまって良いのか。ロシアが負けることは、まず考えられない」「せっかく積み立てて、ここまで来ている」

 ウクライナに肩入れが過ぎれば、これまで構築してきた日ロ関係が崩壊しかねないとの認識を示したものという。

 昨年の11月18日にも、よく似た発言があった。このときは、維新の鈴木宗男(参院議員)のパーティーでのあいさつだった。内容は、以下のとおりのゼレンスキー批判である。

 「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」「戦争には勝ちか、負けかのどちらかがある。このままやっていけば(ロシアが)核を使うことになるかもしれない。プーチン氏にもメンツがある」「(岸田政権は)米国一辺倒になってしまった」

 このときは、鈴木宗男も口を揃えて「ロシアが悪く、ウクライナが善だというのは公平ではない。先に手を出したのが悪いが、原因を作った者にも一抹の責任がある」と言っている。

 森の失言で有名なのは、例の「神の国」発言。首相を務めてい2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会においてのことである。

 「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」

 現職の首相がこう言ったのだ。この人の頭の中には「国民主権」も「政教分離」も「日本国憲法」もない。神なる天皇がしろしめす大日本帝国憲法があるのみ。

 21年2月には、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長だった森は、日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と述べ、会長辞任に追い込まれた。

 こういう「失言」前科を持つ森に対して、ネット上最も多く飛びかった呟きの内容は、「これが元首相の発言なのか。恥ずかしい」というもの。「怪しからん」「愚かな」という森非難ではなく、「失言」を聞かせられる側が「恥ずかしい」というのだ。どうしてなのだろうか。

 日本国民は、こんな人物を首相にしてしまった。仮にも民主主義を標榜する国の首相である。間接的にもせよ、国民が我が国の政治上のトップリーダーとして選んだのだ。自分は投票したのではないとは言え、こんな人物を首相にしてしまう政治風土に無責であるはずはない。このことが「恥ずかしい」。

 他国の民衆に対しても、過去の国民に対しても、そして自分自身に対しても、「身体は重そうだが、口は軽い」こんな程度の人物を首相にしてしまった、このあるまじきことことが、国民の一人として恥ずかしいのだ。

 思い起こせば、安倍晋三・菅義偉官・麻生太郎・野田佳彦・小泉純一郎等々が皆、こんな程度の人物を首相にしてしまったことで、日本国民は慚愧に堪えないのだ。

 首相経験者諸氏よ、口の軽さは特に責められるべきことではない。誰にも言論の自由は保障されている。ではあるがその軽口の罪はけっして軽くはない。なにせ、我々が選んだ「元首相」とは、こんな程度のものだったのかという強い自責の念を国民に強いることになるのだから。

細田博之の密室での弁明、そりゃ国民の耳には聞こえない。

(2023年1月25日)
 立法・行政・司法、各部門のトップを「三権の長」と呼ぶ。立法府である衆院と参院に上下関係はないから、「三権の長」とされる人物は4人いることになる。勘違いしてはならない。 「三権の長」 だからエラいわけではない。責任が重いということなのだ。行政と司法の長は天皇からの任命というバカげた手続を経ることになるが、衆参両院の議長は言わば主権者国民による任命。その地位はもっと重んじられてしかるべきである。

 ところがいま、衆院議長となっている細田博之の、その地位にふさわしからぬ疑惑が公然たる話題となっている。セクハラ疑惑、公選法違反(運動員買収)疑惑、そして統一教会との癒着疑惑である。もちろん、「火のないところに煙は立たない」は必ずしも真ではない。しかし、報じられているところの具体性や細田の対応を見る限りでは、いずれの疑惑も限りなくクロに近い。

 どの疑惑についても、「重んじられるべき地位にある人に対しては、その地位にふさわしい敬意があるべきで、単刀直入の追及は控えるべき」だというのは、どこかの国の倒錯した論理。民主主義を標榜する社会では、重要な立場にある人ほど徹底した疑惑の解明が必要である。

 安倍晋三に近い立場にあった細田博之の統一教会癒着疑惑である。2019年10月教団トップの韓鶴子総裁が出席した名古屋での関連団体イベントでは、満面の笑みでお世辞をたれて「きょうの盛会、会の内容を安倍首相に早速報告したい」と述べてもいた。

 この衆院議長と統一教会との癒着の実態解明は、既に国民の一大関心事となっている。にもかかわらず、細田はこれを明らかにすることを拒み続けてきた。逃げおおせると思ってきたようである。脛に傷持つ自民党も隠し通したい。逃走の幇助を続けてきた。

 「昨年9月に自民党が公表した党所属国会議員と教団との接点調査については、自民党員でありながら、議長就任に伴って国会の自民会派を抜けていることを理由に調査対象外となった」と報じられている。細田の説明責任をめぐり、自民党総裁としての対応を問われた岸田文雄は「三権の長に、総裁が何か指示や働きかけをするのは三権分立の考え方からしても問題を含む」とした経緯もあるという。細田自身も「衆院議長」の立場を「隠れみの」として、説明はしない姿勢。ご冗談は、ほどほどに。

 これまで細田は、統一教会との関係として、「集会参加8回と会合への祝電3件」だけは認めてきた。が、本当にそれだけか。その具体的な関わりの内容についての説明は頑なに拒んできた。疑惑を追及する側は、国会で質問に答えよ、少なくとも記者会見で記者の質問に答えよ、と要求してきた。

 その綱引きにおける暫定措置として、昨日、細田は議長公邸で衆院議院運営委員会の6会派代表による「懇談」形式の質疑に応じ、統一教会と自身の関係について語った。質疑は約1時間、冒頭の写真撮影を除き非公開で行われた。非公開だから、彼が何をどう語ったのか、よく分からない。これを知る手段としては、出席した衆院議運の委員がそれぞれに記憶を述べた内容をつなぎ合わせる以外に、方法はない。

 こうして、「細田博之、かく語りき」とされる幾つかの内容が報道されている。例えば、次のような内容。

「教団との関係は、何をどうしてくれだとかそういう要望はなかった。淡々としたもので、具体的な要望はなく、やましいような付き合いではなかった」
「議長就任前も後も支援の見返りに政策をゆがめることは決してありません」
「自民党清和会(現安倍派・当時細田派)会長だった2016年の参院選で、教団票を差配したとの指摘があるが、思い当たる事実はない」
「安倍と教団との関係の近さについて実感はしていたが、誰から聞いたということではない」
「教団と安倍氏は、大昔から関係が深い。こちら(自分)は最近だ」
「これまで公表している以上の接点はない」
「呼ばれた会合には行ったが、具体的な要望はなかった」
「19年の関連団体イベントで、『きょうの盛会、会の内容を安倍首相に早速報告したい』と述べたのは、安倍氏と近い団体と知っていたのでリップサービスで言った。実際は報告していない」

 共産党の塩川鉄也は「反社会的団体である旧統一教会にお墨付きを与えたことへの反省」をただしたが、細田からの直接の答えはなかったという。

 各会派の質問は、事前に細田に通告されていた。「質疑」というよりは、「弁明の機会を与えただけ」という印象。「懇談」終了後、細田は今後も記者会見はしない考えを示し、自民党もこれでおしまい、という態度。維新が自民を支持している。

 疑惑はさらに深まった。とうてい、これで幕引きとしてはならない。国権の最高機関とされる議会の、それも衆院の議長の疑惑である。密室の「懇談」で、不透明のままお茶を濁して終わりとすることができようはずはない。

 細田博之よ、公の場で堂々と語れ。説明責任を果たせ。記者の質問にも誠実に応えよ。逃げおおせると思うな。このままでは国民が納得しない。こんな情けない議長のもとでの国会の審議には信が措けない。民主主義の権威に傷が付くばかりではないか。

施政方針演説は、岸田文雄の国会軽視宣言となっている。

(2023年1月24日)
 昨日、第211通常国会の開幕となった。今朝の新聞で、岸田首相による施政方針演説に目を通して、その大上段ぶりに驚いた。この人、こんな人だったかしら? それだけではない。言ってることがどうもおかしい。大丈夫だろうか、この人。

 冒頭こう言っている。この人の日本語、なんだかおかしい。

 「政治とは、慎重な議論と検討を積み重ね、その上に決断し、その決断について、国会の場に集まった国民の代表が議論をし、最終的に実行に移す、そうした営みです」

 そうではない、こう言わねばならない。

 「政治とは、国会の場に集まった国民の代表が慎重な議論と検討を積み重ねて方針を決断し、その決断された方針を政府が実行に移す、そうした営みです」

 これが、三権分立の立場である。こうでなくては、憲法によって国権の最高機関とされている国会の立場を貶めることになる。

 「私は、多くの皆さまのご協力の下、さまざまな議論を通じて、慎重の上にも慎重を期して検討し、それに基づいて決断した政府の方針や、決断を形にした予算案・法律案について、この国会の場において、国民の前で正々堂々議論をし、実行に移してまいります」

 岸田君、頭が高い。これでは、勝手に閣議で決めた政府方針を正々堂々貫くぞという国会軽視宣言ではないか。行政府が立法府に持つべき謙抑性や謙虚さのカケラもない。民主主義というものへの理解に欠けるのではないか。

 岸田文雄、どうやら舞い上がってしまっているようだ。すべては、もう自分が決めた。あとは、国会での「議論」が残っているが、正々堂々と受けて立とうではないかと息巻いている。国会での議論によって、内閣の「決断」の変更はないという大上段。

 「外交には、裏付けとなる防衛力が必要です。戦後最も厳しく複雑な安全保障環境に対峙していく中で、極めて現実的なシミュレーションを行った上で、十分な守りを再構築していくための防衛力の抜本的強化を具体化しました」
 「5年間で43兆円の防衛予算を確保し、相手に攻撃を思いとどまらせるための反撃能力の保有、南西地域の防衛体制の抜本強化、サイバー・宇宙など新領域への対応、装備の維持や弾薬の充実、海上保安庁と自衛隊の連携強化、防衛産業の基盤強化や装備移転の支援、研究開発成果の安全保障分野での積極的活用などを進めてまいります」
 「こうした取り組みのためには、2027年度以降、裏付けとなる毎年度4兆円の新たな安定財源が追加的に必要となります。行財政改革の努力を最大限行った上で、それでも足りない約4分の1については、将来世代に先送りすることなく、27年度に向けて、今を生きるわれわれが、将来世代への責任として対応してまいります」

 この人、自民党内のハト派と言われていなかったっけ? ハトのぬいぐるみを脱ぎ捨てたら、タカの正体が現れたという変身ぶり。これまでは、「聞く力」を特技としていたはずだが、「意見を聞いて決めた後は『聞かない力』を発揮する」と開き直っているという。そこのけそこのけキシダが通るという、エライ鼻息。

 「今回の決断は、日本の安全保障政策の大転換ですが、憲法、国際法の範囲内で行うものであり、非核三原則や専守防衛の堅持、平和国家としてのわが国としての歩みを、いささかも変えるものではないということを改めて明確に申し上げたいと思います」

 確かに、日本の安全保障政策の大転換だ。憲法、国際法遵守の姿勢を危うくし、非核三原則や専守防衛は投げ捨てて、平和国家としてのわが国の歩みを根本的に変更してしまうものではないか。さらに、演説では「廃炉となる原発の次世代革新炉への建て替えや、原発の運転期間の一定期間の延長を進める」と宣言もした。ほかにも「決断を実行に移す」と肩に力が入り過ぎ。

 かれは、演説で「『検討』も『決断』も『議論』も、全て重要であり必要だ。それらに等しく全力で取り組むことで、信頼と共感の政治を本年も進めていく」と語った。しかし、「等しく全力で取り組む」印象からはほど遠い。「『検討』と『決断』はもう終わった。事後報告としての『議論』が残ってはいるが、『決断』は変えない」としか、聞こえない。

 この姿勢では、「国民の信頼と共感」は得られない。岸田内閣の支持率低迷はむべなるかな、と言うほかはない。

「世界日報」にも「神社新報」にも。山谷えり子さん、あなたには説明責任がありますよ。

(2023年1月23日)
 目出度くもない今年の正月だった。目出度いと言った人も、もう正月気分ではない。が、今年の正月のビックリ体験を書き留めておかねばならない。

 宗教紙というべきか政治紙というべきかは微妙だが「神社新報」という出版物がある。その本年1月1日号の「杜に想ふ」というコラムを、山谷えり子が書いている。「参議院議員、神道政治連盟国会議員懇談会副幹事長」という肩書が付いている。その書き出しを引用させていただく。なんともアナクロ極まる、右翼文章の典型。無意味、無内容、無味乾燥というほかはない。

 「皇紀二千六百八十三年、令和五年、謹んで新春のお慶びを申し上げます。新年を迎へるにあたり、皇室の弥栄と天下泰平、国土安穏、聖寿無窮、万民豊楽を祈念いたします。
 癸卯の本年は、これまでの努力が花開き、実り始める年と言はれてゐる。とくに、筋を通していけば繁栄していく年回りとされる。国際情勢は厳しく、物価上昇による家計への影響など不安も長引いてゐる中だからこそ一日も早く日々の暮らしが穏やかな希望の光に満ちた年となるやう願ひ、行動していきたい。
 それにしても、初詣の皆さまのお顔に接すると、長く紡がれてきた歴史、文化、地域のつながりの確かさを感じ、新たな決意を固くするのは私だけではないと思ふ。国民こぞって神社で心を清め、力をいただく、日本に生まれたありがたさである。(以下略)」

 えっ? 「皇紀二千六百八十三年、皇室の弥栄」ですか? 「聖寿無窮を祈念」ですって? 目も眩むようなことをのたまう国会議員、いったいあなたはいつの時代の御仁なのか。

 山谷えり子といえば、国家公安委員長の経歴を持ちながら、統一教会との特別の親密さで知られた人物である。そのような立場で、神社新報の元日号に伝統右翼としてコラムを書くのだ。「世界日報」のインタビューで話題となった人の、神社新報元日号のコラム。

 一方では、韓国の民族意識を基調とする統一教会信仰と緊密な関係を持ちつつ、神社神道にも秋波を送り、「日本に生まれたありがたさ」を語る。また、国民の福利ではなく真っ先に「皇室の弥栄」を述べる感性の持ち主でもある。この人の精神や頭脳は、いったいどんな構造となっているのだろう。

 もちろん、人には信教の自由がある、二股掛けた信仰だって咎めることはできない。「国民生活よりも皇室の弥栄が重要」という政治信条も結構だ。しかし、政治家には選挙人に対して、自分が何者であるかを説明する責任がある。隠してはならない。ウソをついてはならない。

 ところがこの人、統一教会から、重点候補として選挙運動の支援を受けてきたことを、一貫して否定し隠してきたことで有名になっている。

 おそらくは、この人の主たる票田は「皇紀二千六百八十三年・皇室の弥栄・聖寿無窮」などと言ってみせれば喜ぶ種類の人たちなのだろう。しかし、それでは票数が足りない。当選ラインに達するには、統一教会票が喉から手の出るほどに欲しい。 統一教会 運動員の支援も欲しい。さりとて、あからさまに韓国ナショナリズムに身を擦り寄せれば、皇国ナショナリズムに抵触することになる。だから、統一教会票を取り込んでいること、統一教会から選挙運動支援を受けていることは、大っぴらには語れないのだろう。

 安倍晋三銃撃事件の後はなおさらである。これまでも隠してきたのだ。今後も隠し続けることができる、とお考えのようだ。

 ところで、統一教会信仰者にも、真面目な人は多かろう。こんな二股の山谷えり子を支持し、応援することができるだろうか。

トランプのスラップを違法として、フロリダ地裁が1億円超の支払いを命令。

(2023年1月22日)
 スラップとは、自分に対する批判の言動を嫌って、これを牽制し萎縮させる目的で提起する民事訴訟を言う。侵害された自分の権利を回復しようという提訴ではなく、提訴自体で被告やその周辺に対する言動の萎縮効果を狙うものとして、ダーティーなイメージ甚だしい。

 そのスラップを多発する常習者と言われる者がいる。かつては武富士、つい先日まではDHC・吉田嘉明、そして今は統一教会など。それぞれにスラップ専門弁護士が付いている。その責任は、弁護士という職責に照らして重大である。

 スラップの本場はアメリカだったが、スラップの猛威を食い止めるために、アメリカの各州に反スラップ法が制定された。そのため、アメリカではスラップは過去のものかという印象があった。が、必ずしもそうではないようだ。やはり、うさんくさい人物がスラップの常習者となっている。その典型人物が、懲りずに再度の大統領の座を狙っているドナルド・トランプ。彼にとって、スラップは麻薬のごとき、妖しい魅力があるもののごとくである。

 そのトランプが、フロリダの地方裁判所から、スラップ提起を理由に、1億円超の支払いを命じられたという。一昨日(1月19日)のこと。トランプとスラップ、なるほどイメージがよく似合う。それにしても、1億円である。日本とはケタが違う。

 「トランプ氏は訴訟乱用 フロリダ地裁が1億円超支払い命令」(共同)、「訴訟は『政治目的の乱用』 1億円超の支払い命じられ」(朝日デジタル)、などと報じられている。

 問題のスラップは、トランプが2022年3月にフロリダ州の連邦地裁に提起したもの。「16年の大統領選で、自分の陣営がロシアと共謀したという虚偽情報を広げた」などと主張し、その大統領選を争ったヒラリー・クリントンや、ロシアの動きについての捜査を指揮したコミー元連邦捜査局(FBI)長官らを被告としたもの。裁判所は、わずか半年後の同年9月トランプの請求を退けた。

 おそらくは、その後に反スラップ法に基づく審理が進行したものと思われる。4か月で裁判所は、トランプと代理人となった弁護士らに、賠償を命じた。その迅速さに驚かざるを得ない。

 朝日デジタルはこう伝えている。
 「19日の決定で、裁判所は『訴訟は、最初から提起されるべきではなかった。常識的な弁護士なら提訴しなかった。(提訴は)政治目的であり、訴状には理解できる法的主張が一つもない』と指摘。また、『トランプ氏とその弁護士たちによる裁判の乱用は、法の支配を損なう』と厳しく批判した」

 共同は、判決の説示を「理性的な弁護士であれば提訴することはなかった」と伝えている。その上で支払いを命じられた賠償額は、「約93万8000ドル(約1億2000万円)だという。この金額の根拠はよく分からないが、この金額なら、十分に応訴費用をまかない、さらに抑止効果も期待できよう。「トランプ氏はこれまでも、他の政治家やメディアを相手に訴訟を乱発してきたが、こうした行動に影響を与える可能性もある」と報道されている。

 なお、私(澤藤)の、DHC・吉田嘉明に対する、(スラップ被害の)損害賠償請求での認容額は、165万円に過ぎなかった。これでは、訴訟費用実額にも足りない。予防効果も十分ではない。

 報道は、いずれも短い記事で十分には分からない点が多い。フロリダ州の反スラップ法の内容もよく知らないし、それが、本事件でどう機能したか、よく知りたいところである。

 それでも、注目に値するいくつもの点を指摘できる。

 まず、裁判所の判断の迅速性に驚かされる。
 トランプ側の提訴が2022年3月、これを裁判所が「退けた」のが同年9月。そして、トランプ側に100万ドルに近い支払いを命じたのが、今年の1月19日。おそらくは、通常の訴訟手続ではない。反スラップ法あればこその迅速な審理なのだろう。この迅速性は、スラップがもたらす社会の言論の萎縮効果を減殺するために、不可欠というべきであろう。

 次いで、トランプだけでなく担当弁護士にも賠償が命じられていることに注目せざるを得ない。
 これが、反スラップ法による効果なのか、一般法での共同不法行為なのか、興味を惹くところ。いずれにせよ、弁護士の専門家としての倫理に反した行為の責任は重い。

 そして、1億円を超える賠償金額である。
 おそらくは、懲罰的損害賠償が働いているのだ。日本ではこの高額賠償は、考えられないが、このような高額判決あってこそ、表現の自由が守られることになる。
 
 さらに、「トランプ氏とその弁護士たちによる裁判の乱用は、法の支配を損なう」という地裁の決定が興味深い。
 日本の最高裁判決では、「裁判を受ける権利」(憲法32条)の濫用論での違法性認定にとどまる。これに比較して、「法の支配を損なう」は、最大級の違法非難ではないか。

 日本にも反スラップ法が欲しい。喉から手が出るほどに欲しい。
 

政府金融政策の一翼を担う日本銀行と、政権批判を本来の使命とするNHK。その基本理念を混同してはならない。

(2023年1月21日)
 毎日新聞一昨日朝刊の「記者の目」欄。「NHK会長人事 視聴者から見えぬ選考過程」というメインタイトル。「ささやかれてきた『首相官邸の関与』」「『透明性』のために多くの事実開示を」という二つの小見出しが付いている。執筆者は屋代尚則記者(東京学芸部)。NHK問題を論じつつ、ジャーナリズムのあり方や、民主主義的な組織論についての問題提起となっている。

 間もなくNHK会長が交替する。前田晃伸現会長が退任して、1月25日付で稲葉延雄新会長の就任となる。新会長は元日本銀行理事で、その後はリコーの取締役会議長だった人物とか。果たして、問題山積のNHKの会長としてふさわしい人なのかどうか。多くの国民の関心の集まるところだが、昨年からNHKや関係者への取材を続けてきた専門記者の目からも「視聴者から見えぬ選考過程」として違和感を抱かざるを得ないという。むしろ「ささやかれてきた『首相官邸の関与』」を嘆いている。これでよかろうはずはない。

 記者の疑義は、端的にこう表現されている。

 「NHKは視聴者の受信料で成り立つ公共放送だ。そのトップを担う人物が、私たちの目が届かない“密室”で決められ、そこに政権の意向が関わっているのではないかという疑念が、私には拭えない。」

 ジャーナリズムの本領は権力からの独立にある。権力におもねらず、権力批判を恐れぬ健全な言論のためには、政権の意向が関わっての会長人事などあってはならない。ところが、記者の目はこう見ている。

 「NHKは、報道機関として政治との適切な『距離』をどう保つかが常に問われる。しかし、会長の人選を巡っては近年、首相官邸の強い関与が指摘されてきた。今回の会長人事を巡っても、ある自民党の国会議員は『官邸が会長人事に関わる動きがあった』と明かし、永田町では、稲葉氏を推す声が岸田文雄首相の周辺から上がったのではとささやかれている」

 だから、会長人事の選考過程の透明性が重要になるのだが、会長選任権を持ち、この人事に責任をもつ立場にある経営委員会委員長の森下俊三は、記者の質問にこう答えるのみだという。

 「『人事に関することは基本的に非公表だ。ただ透明性は求められるので、おおむね過去(の会長人事の際)と同じフォーマットで公表している』というものだった。事前に政治家と話をしたのかという質問にも『人事の話なのでコメントは控える』」

 記者の問題意識は、民主主義の根幹に関わる。「国会議員も、首相も閣僚も、自治体の首長も、私たちの目が届かない“密室”で決められてはならない」。公共放送の会長人事も、同様である。「人事に関することは基本的に非公表」という論理こそが厳しく非難されなければならない。実は、政権肝いりの会長人事をカムフラージュしているだけのことではないか。これでよかろうはずはない。

 このような不透明な選考過程でNHK会長となる稲葉延雄なる人物、昨年12月の記者会見でこう言っているそうだ。

 「中央銀行(日銀)は自主性、独立性が求められる。NHKも不偏不党、公平公正な報道を追求する組織で、NHKが持つ使命には親近感を覚える」

 こりゃダメだ。この人は、報道機関のあり方を日銀と同等のものとしか理解していない。ジャーナリズムの基本理念など頭にないのだ。
 本来彼は、こう言うべきだった。

 「私は長く日銀に勤めて、政府の金融政策の一翼を担ってまいりました。その経歴から、私の基本姿勢が政府寄りで、NHK会長としては不適格ではないかという視聴者や国民の皆様のご疑念はよく理解しております。
 しかし、私は心機一転、民主主義におけるジャーナリズムとは何であるかについて虚心に学び直し、あの会長だからNHKは、政府寄り・政権寄り・権力寄りだと言われることのなきよう、放送を担当する現場の自主性を最大限尊重して、NHKを健全な報道機関とすることに鋭意努力をいたします」
 
 さらに、こう続けたら満点なのだが。
 「私のNHK会長人事打診が、経営委員会からのものではなく、官邸から直接のものであったことは、世に噂されているとおりです。火のないところに煙は立たないのです。しかし、私はけっして官邸に忖度はいたしません。おそらくは、官邸の期待を裏切ることになることでしょう。それが視聴者や国民からのNHKに対する信頼を維持するためにやむを得ないからです」

 なお、日銀法と放送法との差異を指摘しておきたい。

 日銀法第4条(政府との関係) 「日本銀行は、その行う通貨及び金融の調節が経済政策の一環をなすものであることを踏まえ、それが政府の経済政策の基本方針と整合的なものとなるよう、常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない

 当然といえば当然なのだが、日銀とは、「政府の経済政策の一環をなす」存在である。それゆえ、その活動は「政府の基本方針と整合的なもの」であることが求められ、「常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図らなければならない」と縛られているのである。政府からの独立はおこがましい。

 NHKは、他の民放と同様、第1条2号・3号で、こう目的を定められている。
「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること」「放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること」
 
 仮に、日銀のごとくに、「政府の基本方針と整合的なもの」「常に政府と連絡を密にし、十分な意思疎通を図る」とすれば、報道機関の使命の死以外のなにものでもない。

東電刑事事件での高裁無罪判決に拭えない違和感の正体

(2023年1月20日)
 一昨日、東京高裁(細田啓介裁判長)は、東京電力の元幹部、勝俣恒久・武黒一郎・武藤栄の3被告人に、一審に続いての無罪判決を言い渡した。が、なんとも釈然としない。どうしても、ざらついた違和感を拭えない。

 この事件、東電福島第一原発事故に伴う住民の被害に関して、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたもの。当初、検察官の処分としては不起訴だった。が、告発した市民が納得できないとして検察審査会への審査を申立てて起訴相当の議決となり、さらに起訴議決があって、強制起訴となった。

 11人の検察審査委員のうち、少なくとも8名以上(全員だった可能性もある)が、2度にわたって、「起訴すべし」と判断したのだ。予想される巨大津波に対して、なすべき対策を怠って、避難を強いられた入院患者らを死亡に至らせた。その責任は問われるべし、というのが市民の結論である。

 一審以来の争点は二つ。「予見可能性」と「結果回避可能性」である。予見可能性とは、「本件事故の原因となった巨大津波の発生は予見できた」ということであり、結果回避可能性とは、「取るべき対策をとっていれば原発事故は防げた」ということである。いずれの「可能性」の認定も微妙な判断とならざるを得ない。そして、通常の刑事訴訟の原則のとおりに、立証責任は検察官役を務める指定弁護士の側が負うことになる。

 具体的に問題とされたのは、2002年に国が公表した地震予測「長期評価」と、長期評価に基づいて東電子会社が2008年に算出した「最大15・7メートル」の津波予測の信頼性だった。このような事前予測ができていたのだから、当然に「予見は可能」であり、これに基づく対策を取れば「結果回避も可能」だったと考えて少しもおかしくはない。

 ところが、判決は、「10メートルを超える津波が襲来する現実的な情報だったとは言えず、その具体的な根拠についての証明は不十分」と、「予見可能性」と「結果回避可能性」を否定し、一審の無罪判決を不服とした指定弁護士の控訴を棄却した。果たして、これでよいのだろうか。

 通例、人権の重みを論じる立場からは、刑事事件における無罪判決を刑事司法の健全性の証しとして歓迎する。だが、この判決は同列に論じられない。

 現代の刑事司法手続の大原則は、《疑わしきは被告人の利益に》というものである。犯罪の立証のために、訴追側には圧倒的な力量が与えられている。合理的な疑いを容れる余地のない程度にまで犯罪の立証ができなければ、無罪の推定が働く。

 しかし、その刑事司法の大原則は、飽くまで訴追者である警察・検察の力量と意欲を前提としてのものというべきであろう。さらには、被告人として想定されているのは、権力と対峙する個人である。権力を担う人々や、権力と一体となった人物を想定するものではない。

 本件では、指定弁護士の献身的な活動があったが、その活動の力量には自ずから限界がある。検察官が警察を指揮して、また検察庁を挙げての証拠収集能力があることに比較すればその劣位は明白と言わねばならない。

 また、強制起訴された被告人3名は、国策を担っての原発運転者でもある。限りなく権力に近い立場と言ってよい。《疑わしきは被告人の利益に》という現代刑事司法手続の大原則を適用することにためらいがあり、無罪の結論に疑義が晴れないのだ。

 問題の「長期評価」は、国の機関である地震調査研究推進本部がまとめたものである。これに基づいての08年津波予測は「最大15・7メートル」というものであった。これを採用して、予見可能性を肯定しても、少しもおかしくはない。

 ところが、判決は、「長期評価」の信頼性を否定し、「影響が大きな運転停止を義務づけるほどの予見可能性はなかった」「(原発の敷地の高さの)10メートルを超える津波襲来を現実的な可能性として認識させるような情報ではなかった」と結論づけた。その前書きに「誤差を含む」「利用には留意が必要」などとある。東日本大震災が起きた領域の地震発生確率などは信頼度が「やや低い」とされていた。国の中央防災会議の報告などにも採り入れられなかった。などと指摘して信頼性を否定した。併せて、念を入れて結果回避可能性も否定している。

 刑事被告人の人権は、権力作用と直接に対峙するものとして疎かにはできない。刑事司法の諸原則は厳格に守られねばならない。しかし、刑事司法の諸原則が当然の前提としている諸条件が調っているとは必ずしも言いがたい本件においてまで、その大原則を、通常の事件にも増して厳格に貫こうとする裁判所の姿勢に違和感を持たざるを得ない。被害者から上がった「不当判決」「悔しい」という声にこそ、十分に耳を傾けたい。

「今年訪れるべき世界の52カ所」― その第2位に盛岡

(2023年1月19日)
 本日は憲法も人権も民主主義も無関係。私の故郷の話題である。「それがどうした?」と言われれば、「いえ、どうもしません。つまらぬ話題で済みません」と謝るしかない。

 あのニューヨークタイムズが、毎年の年頭に独自の情報を集め独自の基準で旅行先を紹介しているのだそうだ。今年も、1月12日に「2023年に行くべき(世界の)52カ所」を発表した。そのトップは、イギリスの首都ロンドン。世界に知られた大都会、歴史に溢れた街でもある。これには驚かない。さもありなんと思わせる。

 これに続く第2位が、なんと盛岡だという。私の故郷だ。これは驚くべきことではないだろうか。東京・大阪ではない。奈良・京都・鎌倉でもない。札幌・小樽・函館でも、倉敷・津和野・日田でもなく、那覇・金澤・静岡でもない。いったい、どうして盛岡なのだろうか。
 
 盛岡、けっして印象深く目立った街ではない。NHKラジオで全国の天気予報を聞いていると、仙台の次は秋田に飛び、その次は札幌となる。土地の人のプライドは高いが、全国では認めてもらえない。東北では、仙台以外は、なべて「その他」の街でしかない。

 盛岡市が選ばれた理由の第一は、「大正時代に建てられた和洋折衷建築や、現代的なホテルのほか伝統的な旅館もある。城跡も公園になっていて、歩いて楽しめる街」との評価だという。なんという薄弱な世界第2位の根拠。これなら、仙台も、会津若松も、山形も、二本松も、みんな2位ではないか。

 もっとも、推薦理由はそれにとどまらず、東京から新幹線で数時間で行ける便利さや、山に囲まれ川が流れる風景を紹介し「混雑を避けて歩いて楽しめる美しい場所」「完全に見落とされてきた街」と、盛岡を再評価する内容になっているともいう。そうか、「完全に見落とされてきた街の魅力」なのか。やや複雑な評価。褒められているのやら貶されているのやら。

 さらに、名物の「わんこそば」やコーヒー豆にこだわった喫茶店など、食についても紹介されているという。結局はその程度なのだ。その程度なのだが、訪れた人に、文章にはしにくい他にない魅力を感じさせるものなのだと理解しておきたい。

 52都市の中には、19番目に福岡市が選ばれているという。「焼き鳥やラーメンだけでなくワインやコーヒーなども屋台で楽しめる」と博多の中洲を紹介しているとか。これも、大した推薦理由とは思えないが、博多も魅力的な街である。どうして、2位と19位かは分からない。定量的評価は難しいのだ。

 ニューヨークタイムズのホームページには、秋の紅葉の時期に盛岡城跡公園で撮影したと見られる動画が掲載されている。これを「人混みを避けて歩いて楽しめる美しい場所」と言われれば、まったくその通りである。世界で何番目かは問題ではない。

 この山に囲まれ川が流れる美しい穏やかな街の風景は、乱開発から守られなければ維持できない。また、ここに住む人々の生業の持続なくしては維持できない。人々の文化的営みなくしては訪れる旅人を楽しませる街の空気の醸成もあり得ない。

 人々の経済活動と、環境の保護と、住民自治と…。やっぱり、こんな話題にも、人権や民主主義が関わらざるを得ないようだ。

 それにしても、盛岡の5月は、生命の息吹にあふれた地上の天国である。いや、盛岡に限らない。東北のすべてがそうだろう。いや、そう言えば秋も捨てがたい。

 汽車の窓 はるかに北にふるさとの山見え来れば 襟を正すも(啄木)

 方十里 稗貫のみかも稲熟れて み祭三日 そらはれわたる(賢治)

日本学術会議の独立性を堅持しなければならない。

(2023年1月18日)
 来週の月曜日、1月23日に開会が迫った通常国会。その論議の最大のテーマは、安保改定3文書に表れた安全保障戦略の大転換である。これを許すのか否かが、日本の命運に関わる。そして、これに関連する学術会議法改正案にも注目せざるをえない。

 安倍・菅や、それを支える右翼陣営が、日本学術会議を攻撃する真の理由は、同会議が《日本の「軍事・防衛研究」に反対してきた》という点にある。政府は、学術会議の独立性を剥奪して政府の方針を注入し、科学技術の軍事転用を図りたいのだ。さらに本音を言えば、大学の自治も、メディアの自由も、日弁連の在野性も認めたくはない。すべてを政府・与党の方針が貫く日本にしたい。そうすれば、大軍拡も防衛産業の育成も思うがまま。日本の大国化が実現できる。北朝鮮や中国が、羨ましくてしょうがない。だから、安全保障戦略の大転換と関わりが出てくるのだ。

 日本学術会議の会員は250人。3年ごとに半数が改選されるが、菅政権発足以前その人選に政府が介入することはなかった。「学問の自由」(憲法23条)は、「学術団体の自治・独立の保障」をも意味するものと理解され、政府の任命が形式なものであることは当然と理解されていた。「政府は、金は出すがけっして口は出さない」というお約束なのだ。

 これを乱暴に蹂躙したのが、安倍晋三亜流・菅義偉前首相の初仕事だった。長年の慣行を破って、政府が快しとしない研究者6名の任命を拒否したのだ。後世の歴史書には、学問の自由に対する悪辣な弾圧者としてだけ、菅義偉の名が遺ることになるだろう。

 政府は、この任命拒否に続いて、学術会議の独立性を剥奪しようと追い打ちの算段を重ねて、大きな世論の反撃を受けることとなった。3年間のせめぎ合いを続けた末の改正法案は、新規会員の選考過程をチェックする第三者委員会新設を盛り込む内容となっている。

 日本学術会議はこれを深刻に受けとめ、昨年暮れ12月21日の総会で、法改正を目指す政府方針に「学術会議の独立性に照らして疑義があり、存在意義の根幹に関わる」として再考を求める声明を出している。

 今、この問題での担当大臣は、後藤茂之(経済再生担当相)。この人が、1月13日閣議後の記者会見で、下記のように発言して、科学技術の軍事転用を視野に入れた改正案ではないことを強調した。

 「(改正法案は)学術会議の独立性はこれまで同様に保つ。会員選考には基本的に現行方式が続く」「会員以外の有識者からなる第三者委員会を学術会議に設置するが、第三者委員会の委員は一定の手続きを経て会長が任命するものと考えている」「会員などの候補者を最終的に決定するというのも学術会議であることを今検討している法案で想定している」「基本的に現行方式が続き、その手続きを第三者委が透明化して国民に示すということだ」「学術会議の活動に政府が口を出すことは全く想定していない」「軍事研究にシフトするために、第三者委員会で学術会議の独立性に手を入れるという趣旨は全くない」

 これに、今度は右翼が噛みついた。産経新聞社が発行する「夕刊フジ」の公式サイトが「zakzak」。その昨日の記事が、「第三者委メンバーを会議が任命!? 日本学術会議?大甘?改革案 岸田政権が提出検討 虫のいい話『お手盛り調査になるのは明白』島田洋一氏」というタイトル。記事を読まなくても、内容はあらかた分かる。島田洋一(福井県立大学教授)とは、こういうときに引っ張り出される、常連の右翼。櫻井よしこらとのお友達。

 zakzakの記事中の「学術会議に対しては、年間約10億円もの血税が投入されながら…」という一節にあらためて驚く。何ということだ。日本の学問の殿堂に、「年間わずか10億円」という情けなさ、恥ずかしさ。あの、天下の愚策・アベノマスクの予算措置が466億円だった。違憲の疑い濃い政党助成金が年間315億円。日本がアメリカから売り付けられた戦闘機F35Aの価格は、1機100億円をはるかに超えている。

 同記事は、おしまいに島田洋一のコメントを引用する。
 「『税金はよこせ、人事は自分たちにやらせろ』という虫のいい話は社会では通用しない。自分たち独自で政府から離れて独立性を確保すればいい」

 この俗論、俗耳に入り易いのだろう、繰り返されている。名古屋市長・河村たかしが、あいちトリエンナーレに粗暴な介入をしたときにも同様のことを言っていた。「税金を使って、天皇陛下の肖像画をバーナーで燃やして足で踏みつけるという展示をやっていいのか」。

 同種の理屈はいくつも展開されている。「国立大学は国家の税金で運用されているのだから、国旗を掲揚し国歌を斉唱するのが当然」「教育公務員は税金を支給されているいるのだから、教育の理想を求めるなどと言ってはならない。教育行政の命じるとおりの教育方針に従え」。

 これを放置しておくと、こんなことまで言いかねない。
 「裁判官は国から支給される税金で喰っているのだから、国が当事者となる訴訟では、国を敗訴させてはいけない」

 公費の支給は、近視眼的な国家の利益のためにのみなされるものではない。国益を越えた、学問・科学・文化・芸術のために支出されてよいのだ。そのことによって、国民の精神生活や社会性が多様で豊かになるからだ。むしろ、学問や学術会議を時の政権の都合で縛ってはならない。

 民主主義社会では、政府が自らの政策を批判する団体にも、公費を支出する寛容さが求められる。『金は出す、口は出さない』は、「虫のいい話」ではなく、そのことを通じて政府は自らの姿勢の検証を可能としているのだ。

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