澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「王様は裸だ」ー 天皇も同じことなのだ

(2023年2月4日)
 「週刊新潮」。かつては大嫌いな保守メディアだった。その取材と報道姿勢を唾棄したこともある。が、この頃、齢のせいなのだろうか。あんまり目くじら立てるほどのこともない、と思えるようになっている。もちろん、絶対に身銭を切ってこの雑誌を購入しないという決意に変わりはないのだが。

 最新号の新聞広告に、『陛下、“玉座”の「高御座」で「皇宮警察」が悪ふざけしています』『「天皇皇后」初出席の「視閲式」 総指揮官は「愛子さま」を「クソガキ」と罵った張本人』という記事の見出しが、楽しそうに躍っている。この見出しの付け方、なかなかの出来ではないか。

 週刊新潮には、皇室ネタが多い。とりわけ、秋篠宮長女の結婚問題については、ことのほかの熱心さだった。おそらくは、売れ筋のネタを、もっとも売れるようにさばいて書いたのだ。読者の側から見れば、あの素材を、あのように調理してくれることを望んだということである。

 週刊新潮に限らず、皇室ネタ記事の多くは、皇室・皇族に対する敬意はさらさらにない。表面上は敬語を使っても、内容に遠慮はない。読み手は皇室尊崇の記事などまったく期待していないからだ。「やんごとないお家柄でも、嫁と姑の葛藤は庶民と変わらないのでございますね」「おいたわしや」「おかわいそうに」と言いつつ、実はイジり、貶めて溜飲を下げているのだ。

 『陛下、“玉座”の「高御座」で「皇宮警察」が悪ふざけしています』の記事については、ネットで多少読める。

 『「陛下専用のベッドに寝そべり…」「“玉座”に座って記念撮影」 皇宮警察OBが明かす衝撃の不祥事
 「互いに高御座に座って携帯で写真を撮り合いました」 天皇陛下や皇族方を最も身近でお守りすべき「皇宮警察」で、皇族方への陰口や、パワハラ、不審者侵入などの事態が頻発していることを、これまでも「週刊新潮」は報じてきた。そして今回紹介するのは、即位の礼で用いられた玉座・高御座に座って写真を撮るという悪ふざけが皇宮警察内で常態化していた、という驚きの証言である。

 「即位の礼」で用いられた「高御座」 皇宮警察はここに座って写真を撮るという悪質なイタズラを行った。自らの“悪事”を打ち明けるのは、さる皇宮警察OB。(略)昨今の「バイトテロ」も真っ青、常軌を逸した悪ふざけと言うほかない。…皇室への敬意も職務への忠誠心や緊張感もまったく感じられない数々の振る舞い。

 ―2月2日発売の「週刊新潮」では、大幹部である護衛部長らが口にしていた雅子皇后への侮辱的な陰口の中身や、皇族に関する根拠のないうわさが吹聴されていた事件などと併せて報じる』

 この記事は、皇室・皇族に対する社会一般の関心の持ち方を反映したものに違いない。もちろん、今の世に天皇家を神代から連綿と連なる神聖な存在と思う人がいるはずはない。天皇は敬愛の対象でもありえない。ナショナリズムのシンボルというのも既に無理がある。積極的に、天皇を税金泥棒と悪口を言うことははばかられるが、陰湿な陰口・イジメの対象としてこれ以上のものはない。

 『「天皇皇后」初出席の「視閲式」 総指揮官は「愛子さま」を「クソガキ」と罵った張本人』という見出しの付け方が、事情をよく物語っている。自分の言葉として、天皇の子を「クソガキ」とは言えないが、他人の言葉の引用としては「クソガキ」と言いたいのだ。天皇家に生まれる「親ガチャ」はけっして羨ましいようなものではない。

 あらためて思う。これほどまでに揶揄の対象とされる、皇室や皇族とはなんだろうか。私は、冗談ではなく本心から「気の毒に」「かわいそうに」と思わざるを得ない。

 またこうも思う。実は戦前も、多くの大人たちが天皇や皇室・皇族を揶揄の対象と見ていたに違いない。天皇を神の子孫であり現人神とする「教え」を本気で信じていたはずはない。しかし、天皇を神とする権力の押しつけや、社会的な同調圧力には抗することができなかった。多くの人々が、天皇や皇室・皇族を神につながる一族と信じる振りをせざるを得なかったのだ。権力にとって、臣民どもに天皇の神性や神聖性を心から信仰させる必要は必ずしもなかった。一億臣民に、そのように信仰している振りをさせることができれば、それで十分だったはず。

 アンデルセンの「裸の王様」は、恐い話である。本当の自分の姿がわからない愚かな権力者への揶揄の話としてでなく、「王様の裸」に気付きながら、「王様は裸だ」と言わずに、「いかめしくも神々しい衣装をまとっている王様」が見えるような振りをし続けなければならない民衆の比喩の話としてである。

 さて、週刊新潮。もしかしたら、「王様は裸だ」と触れ回っているのかも知れない。ならば、たいしたメディアではないか。

ミャンマーの国軍に抗議を、民主派に支援を。

(2023年2月3日)
 2021年2月1日、ミャンマーで軍事クーデターが起きた。その前年の総選挙の「不正」を口実に、国軍がアウンサンスーチー率いる国民民主連盟(NLD)政権幹部らを拘束、全権を奪った。
 国軍の政治的影響力の回復や、ミン・アウン・フライン総司令官の個人的野心が背景にあったとされる。全土に大規模な抗議が広がると国軍は武力で制圧し、事態改善の兆しは見えないまま2年が経過した。

 現地の人権団体「政治犯支援協会」は1日、クーデター後今年1月末までに市民2940人が国軍に殺害され、1万3763人が今も拘束されていると発表した。戦慄すべき事態である。多くの民主派の若者らは地下の武装闘争に入り、国境地帯での戦闘や都市部でのゲリラ攻撃などで抵抗していると報じられている。我が身のこととなったら、どうすればよいのだろうか。

 クーデター2年目の2月1日、民主派はこの日、外出をせずに経済活動を止める「沈黙のストライキ」を呼び掛け、最大都市ヤンゴンでは、多くの人がその「消極的抵抗戦術」に参加して抗議の意思を表明したという。

 ところが、ミャンマー国軍は、この日夜放送の国営テレビで、「2021年2月のクーデター時に発令した非常事態宣言を6カ月延長する」と発表した。ミン・アウン・フライン最高司令官が引き続き全権を掌握し、今年8月に実施すると約束されていた総選挙は先送りとなる。民主派の武装勢力の抵抗で治安が悪化したことが理由とされているという。

 ミャンマーの憲法は、非常事態宣言の期間について、「最長で2年」と定めているという。だから、1月31日をもって期間満了となったのだが、国軍は憲法裁判所が今回の宣言延長を「合憲」と判断したとしている。おそらくは、今後も同様の理由で宣言延長を繰り返し、国軍による強権支配が長期化するだろうと報じられている。政権に独立性を持たない裁判所とは、独裁の横暴にお墨付きを与えるにすぎない存在となるのだ。

 1日、国外に居住しているミャンマー人が、それぞれの居住地で、国軍の支配に抗議する集会を開いたことが報じられている。日本の各地でも集会があった。那覇でも、この日の夜、在沖縄ミャンマー人会が、那覇市ぶんかテンブス館前広場で訴えたという。

 参加者らは「ミャンマーが平和になるまで力を貸してほしい」「日本政府は国軍とのつながりを断って、民主化への働きかけを強めてほしい」と切実に呼び掛けた。留学生や技能実習生など約60人が参加したという。

 これに対して、通りがかった日本人から、「自分の国に帰って(デモを)やれ」などと、心ないやじを飛ばす場面があったという。集会参加者は、「現地でやりたいが、軍に抗議する市民は殴られ、撃たれる」と説明、「悲しくなったけれど、私たちもミャンマーのことを自分たちで解決しないといけないことは分かっている。日本の人々には日本政府に『国軍とのつながりをやめて』ということをお願いしたい」と訴えた。

 なお、この日林芳正外務大臣は談話を発表し「アウン・サン・スー・チー氏を含むすべての当事者の解放など、政治的進展に向けて前向きに取り組むことなく、非常事態宣言をさらに延長したことを深刻に懸念する」「わが国を含む国際社会のたび重なる呼びかけにもかかわらず、今なお暴力によって多くの死傷者が発生している状況を改めて強く非難する。ミャンマーの平和と安定を回復するため、すべての当事者に暴力の自制と平和的解決に向けた努力を求める」として、ミャンマーの人たちに対し積極的に人道支援を行っていく考えを示している。

 ミャンマーの事態から、何を学ぶべきだろうか。まずは、軍隊というものの危険性である。軍隊は、必ずしも外国の軍隊と闘うとは限らない。国内の人民に銃を向ける危険を常に持っているのだ。この危険な軍事組織を、どのように民主なコントロール下に置くことができるか、常に配慮しなければならない。

 そして、人権に関しての国際的な連帯や支援の必要である。ウクライナだけではなく、ミャンマーの人々にも、そして香港にもウィグルにも、イランにもアフガニスタンにも、支援の手が差し伸べられなければならない。

ヘイトスピーチ批判の記者への奇妙な判決。「私は少しも萎縮しない」

(2023年2月2日)
 一昨日(1月31日)、横浜地裁川崎支部で、やや奇妙な判決の言い渡しが報じられている。この奇妙な判決、統一地方選を目前にした今、軽視し得ない。

 「選挙ヘイト」という言葉は以前からあったのかも知れないが、4年前の統一地方選挙戦で大きな問題となった。差別を専らにする団体が候補者を立て、選挙運動の名を借りて、大っぴらに差別をあおるヘイトスピーチが行われた。選挙制度が想定してこなかった事態である。我が国の民主主義の成熟度が劣化していることを象徴する現象と言ってよい。

 差別的言動で知られる桜井誠を党首とする「日本第一党」なる政党が、2019年4月の統一地方選挙に、12の地方議会議員選に候補者を擁立した。当然のごとく全員落選ではあったが、彼らはけっして当選を目指して立候補したわけではない。彼らの目的は、選挙による言論の形式を借りて、差別的言論を有権者に発信しようということなのだ。ヘイトスピーチの場の獲得を目的とした立候補と言ってよい。

 このとき、「日本第一党」は、川崎市議選に公認候補は立てなかったが、佐久間吾一という人物を大っぴらに支援した。この人、2回目の立候補。選挙公報に「保守系政党の主催する政治塾の塾生として政治に関する勉強と人脈を広げてきました」とある。そして「不法占拠池上町の解決」「表現の自由弾圧条例絶対反対」などを公約に掲げている。彼が反対する「表現の自由弾圧条例」とは、民族差別のヘイトスピーチ規制条例のこと。要するに、「ヘイトスピーチを規制するな」というのだ。

 この選挙での佐久間の得票は959票で落選だった。最下位当選者の得票の約4分の1で、得票率は1・4%。ヘイトに反対する立場の市民団体からは、「(佐久間候補は)第一党と組んだことで差別する目的がはっきりし、当て込んだ保守層の支持も得られなかったのでは」とみられている。

 この選挙が終わった後に、名誉毀損損害賠償請求の提訴があった。日本第一党の支援を受けた佐久間のヘイトスピーチ被害者が裁判を起こしたのではない。佐久間が原告となって、佐久間のヘイトスピーチを批判した新聞記者(神奈川新聞の石橋学記者)を被告とした裁判である。しかも、提訴は2件起こされ、併合して審理され判決になった。新聞社は被告にされていない。

 併合前の各事件の請求金額はいずれも140万円で、併合されて合計280万円となった。1件は石橋記者が執筆した神奈川新聞の記事が、もう1件は街頭での選挙演説現場における石橋記者の発言が、原告の名誉を毀損したと主張されている。

 判決の結論は、「神奈川新聞記事」の正当性を認めて請求棄却としたが、「選挙演説現場における記者の発言」の一部は違法とされ15万円の支払を命じた。これは信じがたい、表現の自由に対する裁判官の感覚を疑わざるを得ない。

 この点について、東京新聞の記事を引用する。
 「判決などによると、佐久間氏は19年2月の集会で川崎区池上町について『旧日本鋼管の土地をコリア系が占拠』『共産革命の拠点』などと発言。記事は(この発言を)『悪意に満ちたデマによる敵視と誹謗(ひぼう)中傷』と断じた。判決は、記事は公益目的であり重要な部分について『真実』として請求を退けた」

 「一方、同年5月の街頭演説中に石橋記者が『デタラメを言っている』などと指摘した発言については、『虚偽やデタラメと一方的に断じることはできない』として請求を認めた」

 石橋記者の『デタラメを言っている』は、もとより同記者の意見ないし見解である。その発言が名誉毀損に当たるか否かは、背景事情や具体的な状況によって左右される。仮に、名誉毀損に当たるとしても、その意見の前提となる事実の真実性の立証は十分に可能ではないか。

 「石橋記者の弁護団は『判決は記者の批判の正当さを認めた。池上町の住民の名誉は守られた』と評価。その上で演説中の名誉毀損の認定は『取材や批判を萎縮させ、表現の自由を揺るがす』として東京高裁に控訴する方針を示した」という。控訴審に期待したい。

 2013年から川崎市内でヘイトデモが激化。これに対抗する反差別の運動が高まり、国のヘイトスピーチ解消法や市条例の制定につながったという。

 「石橋記者は『外国人には選挙権もない。法律や社会を変えられるのは(われわれ)多数派だけだ』と確信し、取材を続けている。判決を受けて『声を上げてくれたマイノリティーの勇気と犠牲によって、差別を批判し、命を守る記事を書いてきた。私は少しも萎縮させられないし、萎縮しない』と話した」(東京新聞記事より)

 「私は少しも萎縮しない」という石橋記者。その意気や良し、である。この記者の意気に応えて、高裁判決も「その理念や良し」「その憲法感覚や良し」となってほしいものである。

「法と民主主義」2・3月号紹介 ー 「軍事大国への大転換阻止を ― 安保3文書改定をめぐって」

(2023年2月1日)
 2月となった。本日は、光の春の趣き。本日の毎日朝刊に、「きさらぎ」の語源を「衣更着」とするのは間違いという。寒さが強調される時季ではなく、むしろ、春に向けて草木が更に生えてくるという意味での「生更木(きさらぎ)」が正しいと述べられている。

 「生更木」が正しく「衣更着」は間違いとは何とも不粋な断定。たしかに、季節感には「生更木」が合っているが、それでも長年にわたって馴染んできた「衣更着」は捨てがたい。「正しい」「間違っている」とは、いったいどういうことなのだろう。

 これまで長年にわたって馴染んできた「自衛隊違憲論」も、「専守防衛」政策も、今や様変わりした防衛環境下では「間違っている」というのが、新安保三文書の立場。正しいのは、「軍事大国への大転換」であり、「敵基地攻撃能力の保有」である。そのためには「大軍拡・大増税」が不可避だというのだ。とんでもない。戦争への道の押し付けは御免を被る。

 そこで、1月末に発刊の「法と民主主義」(2023年2・3月号【576号】)である。ぜひお読みいただきたい。その特集が、「軍事大国への大転換阻止を ― 安保3文書改定をめぐって」である。

 この特集は、岸田内閣が強行しようとする防衛戦略を、歴史的に紐解き、その内容を詳細に検討して、日本の平和のためではなくアメリカの軍事戦略上の要請であるという本質を明らかにし、その危険が沖縄・南西地域に集中する実態を暴き、経済・財政面からの極端な不適切を明らかにする。そのことを通じて、憲法原則から如何に逸脱するかを明らかにして、「軍事大国への大転換」への対案としての外交のあり方、平和の作り方を論じる。時宜に適った特集として、自信をもってお勧めしたい。

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特集●軍事大国への大転換阻止を
― 安保3文書改定をめぐって

◆特集にあたって … 編集委員会・飯島滋明
◆「安保3文書」にいたる道 … 前田哲男
◆改定された安保政策3文書の危険性 … 大内要三
◆岸田大軍拡路線の本質 … 布施祐仁
◆安保関連3文書改訂と沖縄 … ?良沙哉
◆抜本的軍事費の増加・生存権とわが国財政 … 熊澤通夫
◆安保関連3文書の憲法学的検討 … 小沢隆一
◆新外交イニシアティブ(ND)提言「戦争を回避せよ」
── 対米外交の鍵は在日米軍基地の「事前協議」 … 猿田佐世
◆どのようにして平和を実現するのか … 稲 正樹

◆連続企画・学術会議問題を考える(8)
  【緊急特集】市民と法律家の力で日本学術会議法改悪を阻止しよう
◆司法をめぐる動き〈81〉
 ・2022年参議院議員通常選挙 選挙無効確認請求事件
   ── 国会議員主権国家から国民主権国家へ … 伊藤 真
 ・12月の動き … 司法制度委員会


◆連続企画●憲法9条実現のために(43)
 経済安全保障法の経済面での懸念点 … 阿部太郎
◆メディアウオッチ2023●《静かな「独裁者」》
  「平和国家」から「軍事国家」へ メディアはまたも戦争に加担するのか … 丸山重威
◆とっておきの一枚 ─シリーズ?─〈№18〉
 そこにいる当事者のために … 金井清吉先生×佐藤むつみ
◆インフォメーション
 ・改憲問題対策法律家6団体連絡会パンフレットのご案内
 ・敵基地攻撃能力の保有などを新方針とする安保関連三文書改定の閣議決定に抗議する法律家団体の声明
◆時評●社会保障を受ける権利に関し後退禁止の原則を認めない司法判断の危険性 … 今野久子
◆ひろば●第6回「『原発と人権』全国研究・市民交流集会in ふくしま」の開催に向けて … 海部幸造

 なお、「法民」のホームページは、下記のURL。
 https://www.jdla.jp/houmin/index.html

 そして、ご購読のお申し込みは下記URLから。よろしくお願いします。
 https://www.jdla.jp/houmin/form.html 

たった一人で、25万人の軍事組織に闘いを挑んだ人。

(2023年1月31日)
 私の手許に、三宅勝久著「絶望の自衛隊:人間破壊の現場から」(花伝社・2022/12/5)という新刊書がある。三宅さんと私は、共にスラップの被告とされた被害者という仲。同病相憐れむではなく、どちらかと言えば「戦友」に近い。とは言え、被告体験者としては三宅さんの方が10年も先輩。スラップ常習の武富士とスラップ常習弁護士を相手に、苦労は大きかったろう。

 三宅さんの仕事は、武富士追及のルポばかりではない。『悩める自衛官』『自衛隊員が死んでいく』『自衛隊員が泣いている』(いずれも花伝社)『自衛隊という密室』(高文研)などに続いての「絶望の自衛隊」である。「自衛隊の腐敗を追って20年、第一人者がとらえ続けた現場の闇に迫る」という惹句。

 この本の帯に、「隠蔽と捏造の陰で横行する暴力、性犯罪、いじめ。そして自殺…」「理不尽に満ちた巨大組織・自衛隊から、苦しむ者たちの声が聞こえるか?」「悪しき“伝統”と不条理がはびこる旧態依然の25万人組織、自衛隊─」とある。そう、この書は、「横行する、暴力、性犯罪、いじめ。そして自殺…」という理不尽に苦しむ隊員の声を集めたルポ。まさしく、「絶望の自衛隊」の姿が描かれている。

 しかし、帯の最後には、希望につなげてこう結ばれている。「ついに立ち上がった隊員たち、その渾身の告発を私たちはどう受け止めるべきか?」

 「ついに立ち上がって渾身の告発に及んだ隊員」の典型例として、五ノ井里奈さんが取りあげられている。「まえがき」と「あとがき」においてのこと。何とも、ひどい事件である。なるほど確かに「絶望の自衛隊」というほかはない、その隊員虐待体質と隠蔽体質。これは、輝かしい皇軍の伝統継承者という自衛隊の特殊な事情によるものだろうか、それとも日本社会の後進性を反映したものなのだろうか。

 五ノ井さんは、陸上自衛隊員として勤務中の21年8月、男性隊員から集団的な性暴力を受けた。その他にも、日常的なセクハラ行為も絶えなかったともいう。被害届を出して強制わいせつの罪名での書類送検までは漕ぎつけたが、被疑者らは否認。証拠不十分として不起訴となる。傷心の五ノ井さんは離隊やむなきに至るのだが、事件10か月後の22年6月、意を決して被害を世に訴える。

 インターネットで、実名を公表し顔を出しての告発。たった一人での、果敢な闘いを始めたのだ。その勇気、その志に、敬意を表せざるを得ない。

 局面は転換した。署名が始まって世論が動き、国会議員も支援に働いた。陸自と加害者は事実を認めての謝罪に追い込まれ、実行犯5人が懲戒免職となったほか、訴えを受けたのに十分な調査をしなかったなどとして上司にあたる中隊長ら4人が停職などの懲戒処分ともなった。なお、昨年9月、検察審査会が不起訴不当を議決してもいる。闘いは、既に五ノ井さんが勝利したと言ってよい。

 その五ノ井さんが、昨日(1月30日)、横浜地裁に性暴力加害者の元隊員と国を被告として提訴した。概ね下記のように報道されている。

 「陸上自衛隊内で性被害を受けた元自衛官の五ノ井里奈さん(23)が30日、国と加害者の元隊員5人を相手取り、計750万円の損害賠償を求める訴訟を横浜地裁に起こした。国に対しては、性被害を訴えた際に適切な調査をしなかった責任などを問う。提訴後に記者会見した五ノ井さんは『再発防止につなげ、自衛隊が正義感を持った組織になってほしい』と求めた。

 代理人弁護士によると、国が性被害の訴えを放置したことは安全配慮義務違反にあたるとして200万円の損害賠償を請求し、元隊員の男性5人からは性的暴行などにより精神的苦痛を受けたとして計550万円を支払うよう求めた」

 五ノ井さんとしては、加害者5人にも、国(陸自)にも、損害賠償を認めさせたい。が、加害者5人とその代理人は、「賠償は国がする。それで十分ではないか」という態度だったようだ。そこで、加害者個人には民事不法行為責任を、国には雇用契約関係を根拠とする民事責任を求めたのだろう。金さえ支払ってもらえば良いのではなく、責任を明確にして再発防止につなげたいという意思がよく見える。

 なお、本件を機に防衛省が全自衛隊を対象に実施した特別防衛監察では、パワハラやセクハラなど約1400件の被害申告があったという。記者会見で、五ノ井さんは「加害者たちは、本当には反省していないと感じた。このままではハラスメントの根絶は不可能だと思った」と強調している。

 下記は、NHKに投稿された、視聴者からの感想の一部である。

 「こういったことは表沙汰にされない。今までは国を支えてくれている隊という漠然としたイメージを持っていましたが、今回の訴えでイメージは一気に暗転しました。こういったことは組織的に軽く受け止められてきたのではないでしょうか。最終的に実名まで出さなくてはならなかった…調べてみればざくざく同じような問題が掘り起こされた…どこか裏切られたような気持ちです。日本の社会の性暴力などの問題に対する甘さが見られます」

 「彼女を復職させ、自衛隊のパワハラ、モラハラ根絶のための養成、管理をさせたらいいと思います。彼女はそれらをよく知っており、被害者の側を蔑ろにすることのない優しさとそれに闘う強さを兼ねていると思います。本当に自衛隊の幹部が反省し、変わりたいと思うのなら彼女のような人を起用して頂きたいです」

 なるほど、もっとも至極なご意見。あらためて思う。自衛隊には絶望だが、この事件を通じて見えてきた日本の社会の反応には、明るい希望も見えるのではないだろうか。

「沖縄に民族自決権を」ー 東アジアの平和のために

(2023年1月30日)
 旧友小村滋君から、『アジぶら通信?』第10号(2023年1月25日号)が届いた。
 彼とは1963年と64年の2年間を、大学の教養課程中国語クラス(Eクラス)の同級生だった仲。学生時代に勇ましいことを言う人ではなかったが、卒業後は朝日に就職し、新宮支局時代に大逆事件の調査と紹介にのめり込んだ。それだけでなく何度も沖縄に足を運び、今やすっかりウチナーンチュの心情である。

 友人はありがたい。分けても、昔と変わらぬ姿勢を持ち続けている友は。自分を映す鏡として、これ以上のものはない。

 彼は、朝日退職後に、ネット配信の極ミニ紙『アジぶら通信』の発刊を始めた。「編集発信・小村小凡」として、「アジアは広くニホンは深く」という標語を掲げ続けている。飽くまで沖縄を中心とする視点で、アジアを見つめ、日本を見つめ直そうという姿勢が窺える。

 『アジぶら通信?』のシリーズとなって、発刊がちょっと途絶えていたが、目出たく復刊したようだ。下記のメッセージが添えられている。

「小村滋です、こんにちは!
 BCCでお送りしています。2021年の秋以来ですから、2年ぶりですかね。
 2、3か月おきになると思いますが、復活したいと思っています」

 その【アジぶら通信? 第10号】は、A4・3頁。記事は一本だけ。大きな見出しで、「東アジアを戦場とする勿れ」「沖縄に自決権を」という長文のもの。あらためて思う。今沖縄は、たいへんな事態なのだ。沖縄を、先島を、「台湾有事」の際の軍事拠点としてはならない。

 小村君の問題意識は、次のように語られている。

 「『プーチン・ロシアのウクライナ侵攻』の無法で乱暴な戦争の衝撃は大きい。しかし、それに便乗、平和憲法を無視して戦争できる軍事大国になろうという岸田政権は、いつか来た間違った道へ進んでいないか」

 そのための方策として何が考えられるだろうか。彼が挙げるのは、「先住民族の権利に関する国連宣言」の活用である。

 「国連は日本政府に対して『アイヌと琉球の人々を先住民族として認め、その権利を保障するように』との勧告を5回も出した。日本政府は、08 年アイヌ民族については勧告を受け入れ、同年6月6日、国会でアイヌ民族を先住民族とする決議をした。福田康夫内閣の時だった」

 さらに、国連はめげずに、「昨年11月3日、国連の自由権規約委員会(B規約人権委員会)は、『沖縄の人々を先住民族と認めて人権保障を』と日本政府に勧告した」という。

 この勧告の実現にどのような意味があるのか。沖縄国際大学講師の渡名喜守太さんの解説が次のように、紹介されている。

 「『先住民族の権利に関する国連宣言』30条では、『先住民族の土地で軍事活動の勝手な使用が禁止されている』として『東アジア共同体構想など多国間による地域の安全保障も考慮されるべき』としている」

 沖縄が国際人権規約に掲げられている意味での「先住民族」になり、自決権を回復することは、日本全体の平和に関わることなのだ。「先住民族」とは、植民地にされたために自決権を奪われた民族、つまり人権を奪われた人たちであり、ファースト・ピープルとして尊敬されるべき民族だ。

以下は、「アジぶら」の記事の一節。「沖縄は、どのようにして日米の植民地になったか」という部分。今、沖縄は「日米の植民地」としてある、という認識での要領の良い歴史的解説である。

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 中山王の世子(世継ぎ)だった尚巴志が1429年、初めて三山を統一して「琉球国王」となった。江戸時代初め 1609 年 3 月、幕府の了解を得た薩摩藩島津氏が兵3千人と軍船 100 隻で琉球王国に侵攻、1 か月余りで降伏させた。尚寧王と重臣約 100人は薩摩に 2 年間抑留された。以降、琉球王国は明・清の中国とヤマトに両属だった。明治になった 1872 年、琉球処分と称して琉球藩を置き、尚泰王を華族として東京に迎えた。こうして沖縄は日本の一県にされた。

 日本は太平洋戦争で連合国に敗れ、米国に占領された。沖縄は 1945 年 6月 23 日までに米軍に占領され、米軍の本土への出撃基地となった。52 年 4月 28 日、サンフランシスコ講和条約3条で「南西諸島(琉球諸島および大東諸島を含む)と南方諸島(小笠原群島、西之島および火山列島を含む)並びに沖の鳥島および南鳥島を、合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は……以下略」と書かれている。第二次大戦後アジア・アフリカの植民地は次々に独立した。米国は信託統治制度の下におく提案を国連にしなかった。奄美大島と南方諸島は日本に返したが、沖縄本島以南は返さなかった。米軍にとって沖縄はアジア支配の要だった。信託統治領はいづれ独立するから、米軍は放さなかったのだ。だが沖縄の反基地運動に手を焼いた米軍は、日本に返して、安保条約で自由に使うことを選んだ。沖縄は基地のない平和憲法の日本に帰りたかったのに、自己決定権(以下、自決権)がないまま 72 年に本土復帰した。沖縄は、こうして日米の植民地にされた。

湯島天神、宗教であるようなビジネスであるような。

(2023年1月29日)
 大寒であるが立春は近い。寒い中で、梅が咲き始めている。この時季は梅祭り準備中の湯島天神がよい。梅は風流でもあるが、なによりも観梅無料が魅力。

 とは言え、境内の混雑ぶりに驚かされる。けっして善男善女の梅見の参詣というわけではない。合格祈願・学業成就祈願なのだ。昇殿参拝の順番を待つ人々が長蛇の列を作っている。そして奉納の絵馬の数に圧倒される。「○○大学合格祈願」「孫の△△が、××中学に合格できますように」の類いの庶民の願いが、この社に渦巻いているのだ。

 何やら真剣にお祈りしている人がいる。祈願をし絵馬を奉納すれば、願はかなうと本気になって信じているような雰囲気。そんな姿はいじらしくもあるが、一面不気味でもある。

 境内で放送が繰り返されている。こう聞こえたのだが、空耳でしかなかったかもしれない。

 「合格祈願・学業成就祈願は、けっして神さまが結果を約束するものではございません。万が一不合格となっても、神さまは責任をもちません。祈願の際の奉納金の返還はいたしません。不合格は自己責任とおあきらめいただき、自助努力の上、次の祈願をされ、次の奉納金をお納めください」
 「各学校の入学試験合格者には定員の枠があり、合格を祈願する方は定員の何倍もいらっしゃるのですから、天神様と言えども、合格祈願の皆様全員を合格させるのはもとより無理なことでございます。皆様、そんなことは百も承知で、願を掛け奉納金をお納めいただいていることと存じます。もちろん、天神様も、お祈りの効果などを過大に吹聴したりはいたしません」
 「もっとも、祈祷料などにランクを付けさせていただいてはおりますが、祈祷料の多寡と合格率との相関関係については、あるともないとも申し上げようはございません。ですから、『高額祈祷料を奉納したのに何の効果もなかった。せめて半額を返せ』などいうクレームは受け付けておりませんので、予めご承知おきください」

 「むしろ、当社ではなく、この世の不幸禍は、すべて先祖の因縁によるもので、この因縁を解いて家族の幸福を獲得するためには、何千万円もの高額寄附が必要という、マインドコントロールの宗教もございますので、お気をつけください」

 だれもが、気休めとは思いつつ、それでも合格祈願・学業成就祈願に人が押し寄せる。これは宗教だろうか、ビジネスだろうか。はたまた悪徳商法では。庶民の願いや悩みを上手に掬い取った、このビジネスモデルの成功に驚嘆するしかない。

 なお、湯島天神の梅の見頃予想は2月中旬以降とのこと。2月8日?3月8日までの「文京梅まつり」の舞台となる。

 なお、この神社で祀られている「天神」は、怨霊となって醍醐天皇を殺した王権への反逆神である。民衆は、天皇を呪い殺した天神を崇拝した。これは、興味深い。

 右大臣菅原道真は藤原時平らの陰謀によって、謀反の疑いありとされてその地位を追われ大宰府へ流される。左遷された道真は、失意と憤怒のうちにこの地で没する。彼の死後、その怨霊が、陰謀の加担者を次々に襲い殺していくが、興味深いのは最高責任者である天皇(醍醐)を免責しないことである。
 道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、993(正暦4)年には贈正一位左大臣、さらには太政大臣を追贈している。

 もっとも、宗教は時の権力に擦り寄って生き抜いてきた。今、ネットで読める社伝には、反逆の影もない。

あらためて訴える。岡口基一判事を罷免させてはならない。

(2023年1月28日)
 仙台高裁の岡口基一判事は、ものを言う裁判官として知られる。ものを言う裁判官は、最高裁当局のお好みではない。そのことを十分に知りつつ、岡口判事はSNSでものを言い続けてきた。最高裁当局の統制に服さない裁判官として、貴重な存在である。

 しかし、ものを言い続けることはリスクを背負うことでもある。今、彼は、これ以上はない大きなリスクに直面している。しかも、彼が向き合っているリスクは、司法の独立のリスクでもあり、民主主義のリスクでもあって、とうてい傍観してはおられない。

 昨日、岡口判事を被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の判決があった。東京地裁(清野正彦裁判長)は、請求の一部を認容して彼に計44万円の支払いを命じた。

 裁判官たる者の民事訴訟での敗訴判決である。不名誉なことではあろう。しかし、裁判官とて訴えられることがあり、その結果として敗訴判決を受けることがあったとしても、けっして騒ぐほどのことではない。問題は、民事訴訟の帰趨にはなく、彼がいま受けている国会議員で構成される弾劾裁判の判決への影響を懸念せざるを得ないということなのだ。その 弾劾裁判 3回目の期日が2月8日に予定されている。

 弾劾裁判における訴追事由13件のうち10件は殺人事件被害者遺族に関するもので、昨日の判決もこの殺人事件被害者遺族に関するものであった。このSNS発信が名誉毀損と認定されて民事訴訟に敗訴しても「44万円を支払え」というレベルの負担に過ぎない。ところが、同じSNSが罷免事由にあたると認定されれば、彼の裁判官としての職業生活が断たれる。のみならず、退職金は不支給となり、法曹資格も剥奪される。つまり、弁護士に転職することもできなくなる。表現行為への制裁として、量定の均衡を逸脱した明らかに苛酷に過ぎる措置。弾劾裁判の結論は、「罷免の可否」だけで中間段階の判断はない。これが、この上ないリスクである。

 岡口個人について苛酷というだけでなく、裁判官の表現行為や市民的自由を束縛し、私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。司法行政による、全国の裁判官に対する統制も強まることを懸念せざるを得ない。

 ところで、昨日の判決、私は判決書きをまだ見ていない。報道されている限りでのことだが、大いに疑問のある判決だと考えざるをえない。この判決は、判例が積み上げた法理に照らして間違っていると思う。民主主義社会に不可欠な表現の自由をないがしろにしているとも思う。担当裁判官が、司法行政当局の意向を忖度してのものと考える余地もある。

 この民事訴訟の原告は、東京都江戸川区の女子高校生殺害事件被害者の両親。岡口裁判官の3件の投稿で侮辱されたとして、計165万円の損害賠償を求めた。そのうち2件は請求棄却となったが、残る1件について名誉毀損と認定された。

 2019年11月に岡口判事がフェイスブックに投稿した「遺族は俺を非難するようにと、東京高裁事務局及び毎日新聞に洗脳されてしまい」との文言について、判決は「遺族の名誉を毀損し、人格を否定する侮辱的表現」と認定した。さらに、裁判官として「一般のSNS利用者と一線を画する影響力があった」とし、原告である両親に各20万円の慰謝料を認めた。

 私は間違った判決として、上級審で覆るとは思うが、仮にこの判決が確定するようなことがあったとしても、それゆえに岡口判事を罷免するようなことがあってはならない。司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。裁判官は、政治権力からも、社会的同調圧力からも、行政府からも、立法府からも独立していなければならない。そのために、裁判官には憲法上の身分保障がある。

 にもかかわらず、現実の裁判官は、独立の気概に乏しい。その中にあって、司法行政の統制に服することなく意識的に市民的自由を行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。

 そのような貴重な存在としての裁判官として、岡口基一裁判官が目立った存在となっている。明らかに、司法当局の目にも、政権・与党の目にも、目障りな存在となっている。いま、この貴重な裁判官が訴追され、国会の弾劾裁判所にかけられている。その成り行きは、我が国の「司法の独立」の現状を象徴することになる。

 けっして、岡口基一判事を罷免させてはならない。

稲葉延雄新会長に、公共放送NHKの対政府独立性を確立せんとする志ありや。

(2023年1月27日)
 一昨日(1月25日)午後、稲葉延雄・NHK新会長が就任の記者会見に臨んだ。その一問一答が報道されている。各紙の見出しは、概ね以下のとおり。

 NHK・稲葉新会長、政治と適切な「距離」を保つ姿勢強調(毎日)
 稲葉新会長 前会長の改革「私の目から検証、見直しを」(朝日)
 NHK、稲葉新体制発足「デジタル活用が改革の本丸」(日経)

 記者会見は全体にそつのない印象。かつて安倍政権ベッタリの姿勢を隠そうともしなかった籾井勝人などとの同類ではない。だが、前任者前田晃伸と自民党族議員との仲はすこぶる険悪だったという。その前田の再任を阻んでの不自然な「元日銀理事」からの人選。本当にこの人が適任なのか、どうしても疑問を拭えない。

 彼が言いたかったのは、冒頭の下記発言で尽きるだろう。

 「◆稲葉 前田晃伸前会長がこれまで取り組んできた改革では、業務の効率化を大胆に進めることで、受信料値下げに伴う収入の減少を収支均衡に持っていく道筋におおむねメドをつけていただいた。この先、想定通りに財務の数字が表れてくるかどうか、しっかり見極めながらこの秋の受信料の値下げを実現していきたい。
 その上で、私の役割は改革の検証と発展。かなり大胆な改革なので、若干のほころびやマイナス面が生じている部分があるかもしれない。もしそうであれば丁寧に手当てをしながら、ベストな姿に持っていく。特に、人事制度改革については検証・見直しを行っていきたい。ひとりひとりが能力を最大限発揮してもらうために、多様なキャリアパスを示して、安心して職務に専念できる温かみのある人事制度にしたいと考えている」

 さて、幾つかの注目すべき発言がある。

 ――これまでNHKという組織を外からどう見ていたか。

 「◆私は日銀時代に経緯があって放送法を勉強するチャンスがあった。放送法第1条には放送の目的として「健全な民主主義の発達に資する」などとうたわれていて、非常に感銘を受けた。そういう組織があるんだというふうにNHKについては受け止めていた」

 そつのない発言の典型のようでもあるが、この人、本当に放送法を勉強したのだろうか。やや心もとない。放送法第1条はNHKに関しての規定ではなく、放送一般についてのものだからだ。放送法第1条を引いて、NHKを「そういう組織があるんだ」というのはちょっとヘン。

 放送法の第1章「総則」と第2章「放送番組の編集等に関する通則」は、民間放送を含む放送事業一般についての規定で、第3章「日本放送協会」で初めてNHKが出て来る。彼が「感銘を受けた」という「健全な民主主義の発達に資する」ことを理念とする組織は、NHKに限らないのだ。

 ――政権との距離について。会長選出時に多くの社が岸田文雄首相側の意向が働いたと報じていた。選出前に、実際首相側から打診が何かあったか。

 「◆私にそういう動きがあったかということか? それはない」

 「それはない」は、あまりに素っ気ない。では、いつころ、誰から、どのように「日銀出身者」に打診があったというのか、知りたいところ。本当に、首相側から打診がなかったとは、にわかに信じがたい。

 ――NHKにはこれまでも政治的圧力があったと指摘されている事例がたくさんある。会長として政権と今後どう向き合うのか。

 「◆NHKは放送法に基づいて運営されている。放送法では自主自律・公平公正な立場を堅持して、何人からも干渉されない対応をしていくべきものだとうたわれているし、そのように行動すべきだと思っている。報道機関として自主的な編集判断に基づいて、不偏不党の立場から報道している。できるだけ真実を掘り下げて、見つけ出す努力をすることは不可欠。それでも真実が見つからない場合には、多様な見方を等しく取り上げてお伝えする。そういう姿勢を維持していけば、結果として不偏不党の報道姿勢になると思っている」

 これは、まことに微妙な言い回しである。端的に、「NHKが政治的圧力に屈することはない」とも、「会長として、政権からの干渉を拒否する姿勢で向き合う」とも言わない。「放送法がある以上、不偏不党の立場から報道しているはず。今のままで、結果として不偏不党の報道姿勢になると思っている」と、まことに頼りない。ほんとに大丈夫なのだろうか。この人。

 なお、記者からの発問にある「会長選出時に多くの社が岸田文雄首相側の意向が働いたと報じていた」。その内の一つを再録しておきたい。

 昨年12月7日配信の「東洋経済オンライン」の抜粋である。

 「NHKの経営委員会は12月5日、2023年1月24日で任期満了となる前田晃伸会長(77)の後任として、日本銀行元理事の稲葉延雄氏(72)の任命を決めた。同日、稲葉氏は「突然のご指名で大変驚いておりますが、できるだけ早く実情を把握し、公共放送の使命にふさわしい仕事をしていきたい」とのコメントを出した。

 事情に詳しいNHK関係者によれば、直前まで別の人物が最終候補として挙がっていた。前田晃伸会長の出身母体であるみずほフィナンシャルグループと親密で、個人的にも親交のある大手総合商社の元会長だった。「商社で社長や会長を歴任し、経済界のみならず幅広い人脈と知見を持っていた点が評価された」(NHK関係者)とされ、別のNHK関係者は「本人もやる気だったようだ」という。

 だが、次期会長人事が表面化すると、官邸や自民党から横やりが入る。総務省関係者によれば、総務大臣経験者をはじめとする自民党の総務族が、この人選に「ノー」を突きつけた。理由は「前田会長に近い人物だったから」(総務省関係者)というものだった。
 そして、声がかかったのが稲葉氏だった。打診があったのは12月最初の週末。12月6日の会見で稲葉氏が「迷っている暇なく(任命の)昨日が来た」と口にしたのもそのためだ。関係者の間では「“前田憎し”の官邸や自民党は、前田会長との距離が近いことを理由に(商社元会長の人選を)認めず、経営委員会に稲葉氏を推薦した」との見方がもっぱらだ。

 そもそも前田会長と官邸、そして自民党との間には、埋めがたい溝があった。NHKの経営委員会の委員は衆参両院の同意を経て任命され、業務執行の責任者であるNHK会長はその経営委員らが決めている。NHKに関する重要な施策は総務省や政治の意向を仰ぐのが不文律でもある。
 だが、前田会長のやり方は違った。2020年1月の就任後、「スリムで強靱な新しいNHK」をテーマに管理職の3割削減や、職員の昇進や昇格プロセスに関する人事制度改革に着手。その目的や経緯について官邸や自民党などに説明することなく進めたため“不評”を買った」

 すべては、公共放送NHKにおける権力からの独立性欠如の結果なのだ。新会長、果たして、この重い課題に取り組む意欲有りや無しや。

元首相による その軽口の罪の重さ。

(2023年1月26日)
 森喜朗とは、元ラグビー選手であり、元首相である。元ラグビー選手にふさわしくいかにも身体は重そうだが、元首相だけにいかにも口は軽い。口の軽さは、特に責められるべきことではない。なにせ、誰にも言論の自由は保障されている。それにしても、「元首相」とは、こんな程度のものなのだ。

 昨日、森は東京都内のホテルで開かれた「日印協会」の会合に出席して、こんなことを口走ったという。

 「こんなにウクライナに力を入れてしまって良いのか。ロシアが負けることは、まず考えられない」「せっかく積み立てて、ここまで来ている」

 ウクライナに肩入れが過ぎれば、これまで構築してきた日ロ関係が崩壊しかねないとの認識を示したものという。

 昨年の11月18日にも、よく似た発言があった。このときは、維新の鈴木宗男(参院議員)のパーティーでのあいさつだった。内容は、以下のとおりのゼレンスキー批判である。

 「ロシアのプーチン大統領だけが批判され、ゼレンスキー氏は全く何も叱られないのは、どういうことか。ゼレンスキー氏は、多くのウクライナの人たちを苦しめている」「日本のマスコミは一方に偏る。西側の報道に動かされてしまっている。欧州や米国の報道のみを使っている感じがしてならない」「戦争には勝ちか、負けかのどちらかがある。このままやっていけば(ロシアが)核を使うことになるかもしれない。プーチン氏にもメンツがある」「(岸田政権は)米国一辺倒になってしまった」

 このときは、鈴木宗男も口を揃えて「ロシアが悪く、ウクライナが善だというのは公平ではない。先に手を出したのが悪いが、原因を作った者にも一抹の責任がある」と言っている。

 森の失言で有名なのは、例の「神の国」発言。首相を務めてい2000年5月15日、神道政治連盟国会議員懇談会においてのことである。

 「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た」

 現職の首相がこう言ったのだ。この人の頭の中には「国民主権」も「政教分離」も「日本国憲法」もない。神なる天皇がしろしめす大日本帝国憲法があるのみ。

 21年2月には、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の会長だった森は、日本オリンピック委員会(JOC)の評議員会で「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と述べ、会長辞任に追い込まれた。

 こういう「失言」前科を持つ森に対して、ネット上最も多く飛びかった呟きの内容は、「これが元首相の発言なのか。恥ずかしい」というもの。「怪しからん」「愚かな」という森非難ではなく、「失言」を聞かせられる側が「恥ずかしい」というのだ。どうしてなのだろうか。

 日本国民は、こんな人物を首相にしてしまった。仮にも民主主義を標榜する国の首相である。間接的にもせよ、国民が我が国の政治上のトップリーダーとして選んだのだ。自分は投票したのではないとは言え、こんな人物を首相にしてしまう政治風土に無責であるはずはない。このことが「恥ずかしい」。

 他国の民衆に対しても、過去の国民に対しても、そして自分自身に対しても、「身体は重そうだが、口は軽い」こんな程度の人物を首相にしてしまった、このあるまじきことことが、国民の一人として恥ずかしいのだ。

 思い起こせば、安倍晋三・菅義偉官・麻生太郎・野田佳彦・小泉純一郎等々が皆、こんな程度の人物を首相にしてしまったことで、日本国民は慚愧に堪えないのだ。

 首相経験者諸氏よ、口の軽さは特に責められるべきことではない。誰にも言論の自由は保障されている。ではあるがその軽口の罪はけっして軽くはない。なにせ、我々が選んだ「元首相」とは、こんな程度のものだったのかという強い自責の念を国民に強いることになるのだから。

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