澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

あらためて、無責任きわまりない麻生太郎財務大臣の即刻辞任を求めます ― 署名とデモのお願い。

まずは、大きな反響を呼んでいる「財務局OBによる迫力の訴え」のテレビ画像をご覧いただきたい。
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20181025-00000078-ann-pol

テレ朝「報道ステーション」10月25日23時30分配信の画像。「財務局OB『改ざんは上からの指示』とタイトルが付されたもので、以下の解説が付されている。

 森友学園への国有地売却問題をめぐり、国会での真相解明を求める近畿財務局のOBらが25日、野党からの聞き取りに応じた。今年3月、文書の改ざんを指示された近畿財務局の職員が自ら命を絶った。OBらは番組の取材に対して「(文書改ざんは)公務員の発想としてはない。上からの指示がない限りできない」と述べた。さらに「普通、貸し付けにしろ売り払いにしろ、極めてシンプルな書類のはずだ。あれだけ丁寧に事の発端から人の名前や行為が書かれているのは、現場の職員たちが必死に考えて、ちゃんと残さなければいけないという意識があったからではないか」と指摘した。また、麻生財務大臣が、森友問題で国税庁長官を辞任した元財務省理財局長・佐川宣寿氏について「極めて有能だった」と述べたことについて、「国会・国民を欺き、犯罪行為に等しいことをした人を評価するのであれば、自殺してしまった職員は一体何だったのか」「麻生大臣があんな態度で大臣であり続けるのは、自殺した職員を知っている周りの人や職員は本当に耐えられない」と語った。

昨日(10月29日)の毎日新聞朝刊2面のコラム「風知草」に、「特別編集委員」の肩書をもつ山田孝男が、「志士たちの声」という標題で、この財務局OBの訴えを熱く肯定的に紹介している。山田孝男とは、安倍晋三と会食をともにする、カギ括弧付きの「ジャーナリスト」。「風知草」は、けっして「疾風に負けない勁草」ではなく、権力の風に靡く頼りない草と見るべきだろう。

しかし、その風知草が、素顔を晒してテレビ出演し毅然と麻生太郎を批判した元財務局職員6人の訴えを志士たちの声と言ったのだ。「志士」とは、古風で大仰なとも思うが、山田孝男流の最大限の絶賛である。

その書き出しは「常に民意の存するところを考察すべし?。」というもの。山田は、的確に民意の風を読んでいる。森友問題、けっして幕引きになってはいない。今国会で、また一波乱ありそうではないか。以下は、「志士たちの声」の抜粋。

 24日の、首相所信表明演説の結語の出典は、政党政治の先覚者、平民宰相・原敬の演説だった。
 その翌日、6人の元財務局職員がテレビ朝日「報道ステーション」などの取材に応じ、麻生太郎財務相の留任を批判した。

 私も見たが、一同の、気負わぬ言葉の力強さに思わず引き込まれた。
 その迫力は、政治家はなぜ責任をとらぬ??というちまたの不信を呼び覚ましたに違いない。首相はこれ以外の、どの民意を考察するつもりだろう。
 録画インタビューに登場したのは、近畿、関東、東海各財務局出身の、60代から70代の元「国有財産鑑定官」たちだった。
 「麻生大臣が、前の理財局長は有能な公務員だったってほめたたえたんですよね。エツ? そんなことがあっていいのかと。国会を欺き、国民を欺き、犯罪行為に等しいことをしでかした人を『有能な公務員』と評価するなら、亡くなった公務員は一体、なんだったんだーッて……」
 公文書改ざんは昨春、当時の佐川宣壽理財局長が主導。今年3月、改ざんにかかわった近畿財務局職員の自殺が発覚した。
 財務相は今月初めの内閣改造で留任した。改造後の記者会見で「元局長を国税庁長官にした人事は間違いではないと今も思うか」と聞かれ、例によって高飛車に答えた。「そう思っています。きわめて有能な行政官だったと……」
 近畿財務局OBの怒りに耳澄ますべし。
 「麻生大臣がね、あんな態度でね、ずっと大臣であり続ける。自殺した職員を知ってる周りの人とか、近財の職員、管財部の職員にとってみたら、本当に耐えられないと思う」
 「50年近く働めてきた本当に愛すべきね、人生の大半を過ごし、仲間と誇りを持ってやってきた、その職場が疑惑を持たれて全然説明できない……」
 調べてみると、テレビに出た6人を含め、同志が18人いた。『すべて財務省の労働組合「全財務」の役員経験者である。

 顔と名をさらす出演はリスクを伴う。リスクを引き受けた6人の《志士》がテレビに出た……。

 財務相留任は「大きな判断」による―と首相は言う(総裁選討論)。経済再生優先という意味だが、失政は失政として責任を問うてこそ発展の基礎が固まるのではないか。首相の《考察》を求めたい。

 このまま座視しているだけでは首相の《再考》はあり得ない。民意の何たるかを、安倍政権に突きつけようではないか。

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?「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」からの訴えです。
「会」は、麻生財務大臣の辞任を求める<署名運動>と<財務省前アピール行動+デモ>を呼びかけています。

署名の第一次集約日 11月7日(水)
 11月9日(金)に麻生大臣宛てに提出する予定です。

財務省前アピール行動+デモ
 11月11日(日)
 13時? 財務省前アピール行動
 14時  デモ出発

■<署名>と<財務省前アピール行動+デモ>の資料一式をまとめたサイト■
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1111-5336-1.html
ぜひ、これをメールやツイッタ?で拡散してください。

■できるだけメッセージを添えてネット署名を■
上記の「まとめサイト」の右サイド・バーの最上段に、
1.署名用紙のダウンロード http://bit.ly/2ygbmHe
2.ネット署名の入力フォーム http://bit.ly/2IFNx0A
3.ネット署名のメッセージ公開 http://bit.ly/2Rpf6Pm
が貼り付けられています。

ぜひとも、ご協力をよろしくお願いします。もちろん、メッセージを割愛して、ネット署名だけでも結構です。
なお、署名の文面は以下のとおりです。
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財務大臣 麻生太郎 様

無責任きわまりない麻生太郎氏の財務大臣留任に抗議し、即刻辞任を求めます

森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会

10月2日に発足した第4次安倍改造内閣で麻生太郎氏が財務大臣に留任しました。しかし、第3次安倍内閣当時、財務省では、佐川宣寿氏が理財局当時の国会での数々の虚偽答弁、公文書改ざんへの関与の責任をとって国税庁長官の辞任に追い込まれました。また、福田淳一氏は女性記者への破廉恥なセクハラ発言を告発され、事務次官の辞職に追い込まれました。いずれも麻生氏が任命権者の人事でした。
しかし、麻生氏は厳しい世論の批判にも居直りを続け、事態を放置しました。それどころか、森友学園への国有地の破格の安値売却について、録音データなど動かぬ証拠を突きつけられても、なお、「処分は適正になされた」「私は報道より部下を信じる」と強弁し続けました。
福田次官のセクハラ行為については、辞任が認められた後も「はめられたという意見もある」などと暴言を吐きました。
なによりも、第3次安倍内閣当時、財務省では公文書の隠蔽、決裁文書の改ざんという前代未聞の悪質きわまりない国民への背信行為が発覚しましたが、それでも麻生氏は、会見の場で記者を見下す不真面目で下品下劣としか言いようがない答弁を繰り返しました。
こうした経歴の麻生氏が私たちの税金を預かり、税金の使い道を采配する財務省のトップに居座ることに、私たちと大多数の国民は、もはや我慢の限界を超えています。
麻生氏を留任させた安倍首相の任命責任が問われるのはきわめて当然のことですが、任命権者の意向以前に私たちは、麻生氏自身が自らの意思で進退を判断されるべきだと考え、次のことを申し入れます。

申し入れ

麻生太郎氏は財務省をめぐる数々の背任、国.に対する背信の責任をとって直ちに財務大臣を辞任すること

私は上記の申し入れに賛同し、以下のとおり、署名します。

(2018年10月30日)

ウソとごまかしの「安倍政治」総検証 ― 院内集会ご案内

「ウソとごまかしの『安倍政治』に終止符を!」
アピール運動の署名集約集会として、呼びかけ人が主催する集会です。
2018年12月3日(月)18時?20時(17時30分開場)
衆議院第1議員会館 地下1階「大会議室」
丸ノ内線・国会議事堂、有楽町線・永田町駅
(どなたでもご参加いただけます。
議員会館ロビーで入館証をお受け取り下さい。)

民意を無視して9条改憲を強引に進めようとしている「安倍政治」。その「安倍政治」において、公文書・公的情報の隠蔽・改竄・廃棄・捏造が横行し、権力のウソとごまかしが国民主権や議会制民主主義を脅かそうとしています。
私たちは、森友・加計学園に典型的にみられる権力の私物化、「働き方改革」のウソ、外交交渉の内容の捏造等々、ウソとごまかしによる「ポスト真実」の政治を許せず、アピールを発表して賛同の署名を呼びかけました。
下記のとおり、賛同署名集約の集会を開催いたします。この日、署名簿を安倍晋三氏に届けるとともに、この集会にさまざまな分野からの発言を得て、「安倍政治のウソのごまかしを総検証」いたします。そして、どうすれば、安倍政治に終止符を打つことができるか考えてみたいと思います。どうぞご参加ください。

  司会 澤藤統一郎(弁護士)
  挨拶 浜田桂子(絵本作家) 

 「安倍政治」と「ポスト真実」
   小森陽一(東京大学大学院教授)

 「働き方改革」一括法と「ポスト真実」
?   上西充子(法政大学キャリアデザイン学部教授)

 「公文書管理」と「ポスト真実」
?   右崎正博(獨協大学名誉教授)

 日米FTA(自由貿易協定)と「ポスト真実」
?   古賀茂明(元経済産業省官僚)

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いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を!

1 公文書は私たち国民が共有する知的資源
  私たち国民が政府の諸活動などを十分かつ正確に知ることは、この国の主権者として様々な物事を決めたり判断するために必要不可欠なことであり、国民主権や民主主義を成り立たせるための最低限のルールです。
そのため、日本国憲法は国民の「知る権利」を保障し、公文書管理法は公文書を「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」と位置づけ、その適正な管理等を通じて国等の「諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにする」としています。また、情報公開法も、国民主権の理念に則って「政府の有する諸活動を国民に説明する責務が全うされるようにするとともに、国民の的確な理解と批判の下にある公正で民主的な行政の推進に資することを目的とする」としています。

2? 公文書の隠蔽・改竄、廃棄・捏造は国民主権・民主主義を破壊する
  しかし、安倍政権のもとで、公文書・公的情報の隠蔽・改竄、廃棄・捏造が横行し、権力のウソやごまかしによって国民主権や民主主義を支える土台が破壊されようとしています。
森友学園へ約8億円もの値引きをした上で国有地が払い下げられた件で、安倍首相は「私や妻が関係していれば、首相も国会議員もやめる」と答弁しましたが、その後、財務省によって、安倍昭恵氏の名前などが記載された決裁文書が廃棄や改竄されていたことが明らかとなりました。
加計学園に半世紀ぶりの獣医学部設置を認可した件でも、安倍首相は「私がもし働きかけて決めているのであれば、責任を取る」と答弁しましたが、その後、内閣府が「総理のご意向」「官邸の最高レベルがいっている」と述べたとする文科省文書や、2015年2月に安倍首相が加計孝太郎氏と面会し新しい獣医学部を「いいね」と述べたとする愛媛県文書などが相次いで発覚しました。
南スーダンの首都ジュバで発生した武力紛争を「戦闘」と記録した南スーダンPKO派遣自衛隊日報が廃棄、隠蔽されていた問題に続き、稲田朋美防衛相(当時)が「ない」と答弁していたイラク派遣自衛隊日報も、実は存在し、そのことが1年以上も隠蔽されていたことも明らかになりました。働く人の健康と命にかかわる「働き方改革」の件でも、「裁量労働制で働く方の労働時間は平均的な方で比べれば一般労働者よりも短いというデータもある」という安倍首相の答弁は、根拠とされた厚労省「平成25年度労働時間等総合実態調査」のデータを政府に都合のいいように加工し捏造したものであることが発覚しました。

3 「大本営発表」の歴史を繰り返すことを拒否する
  権力者が自らに都合の悪い情報を隠したり、虚偽の情報を流したりすれば、国民は本当のことを知らないまま、権力の意図する方向に流され、いつの間にか取り返しのつかない事態に陥ってしまう。これが歴史の教訓です。日本でも、戦果を捏造した「大本営発表」が国民を総動員する手段として利用され、悲惨な戦争へと突き進み、あの破局と悲劇をもたらしました。それだけに権力のウソやごまかしは絶対に許されることではありません。
しかも、この間の公文書や公的情報の隠蔽や改竄、廃棄や捏造などの一連の出来事の背景には、安倍首相をはじめとする安倍政権の中枢を担う政治家や官僚が、公権力を私物化し、国民の血税で自らの利益を実現しようとしている構図が透けて見えます。
この問題の本質は、権力の私物化と国民の「知る権利」の侵害、そして国民主権や民主主義の破壊であり、主権者である国民に対する重大な背信行為にほかなりません。
日本国憲法は前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言」していますが、権力のウソやごまかしによって国民主権や民主主義が失われるとき、戦前のような社会が再び到来することにもなりかねません。

4? ウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を
  安倍首相は「膿を出し切る」といったことを述べるだけで、これまで明らかにされてきた事実に真摯に向き合うことをせず、疑惑解明のための具体的な行動もなにひとつ取ろうとしません。さらには、自身の都合が悪くなると、前記の森友学園に関する答弁について「贈収賄は全くない、という文脈で一切関わっていないと申し上げた」と言を左右し、加計学園に関する首相発言を記録した愛媛県文書についても「伝聞の伝聞」としてごまかすなど、自身の発言に責任を持つという政治家としての最低限の責務すら放棄しています。これらは、真相の徹底解明をのぞむ多くの国民の声を無視し、まるで、時が経てば国民は忘れる、とでも考えているかのような態度といわざるをえません。
私たちは、国民主権や民主主義といった私たちの社会の土台が蝕まれ、破壊されようとしている危機を黙って見過ごすわけにはいきません。
この時代を生きる私たちは、主権者として民主主義を求める声をひろく集め、真実を明らかにし、ウソとごまかしの「安倍政治」に今こそ終止符を、と訴えます。

<呼びかけ人>
・青井未帆(学習院大学法科大学院教授)
・浅倉むつ子(早稲田大学大学院法務研究科教授)
・池田香代子(ドイツ文学者・翻訳家)
・右崎正博(獨協大学名誉教授)
・上西充子(法政大学教授)
・上脇博之(神戸学院大学法学部教授)
・阪口徳雄(弁護士)
・澤藤統一郎(弁護士)
・寺脇研(京都造形芸術大学教授 元文部官僚)
・中野晃一(上智大学教授)
・濱田邦夫(元最高裁判事 弁護士)
・浜田桂子(絵本作家、画家)
・前川喜平(前文部科学省事務次官)
・堀尾輝久(東京大学名誉教授)
・山口二郎(法政大学教授)
・横湯園子(元中央大学教授)

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なお、アピールへの賛同署名は、12月2日まで続けます。
ネット署名に統一していますので、下記のURLからお願いいたします。
https://bit.ly/2MpH0qW
あるいは、「いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を!」をキーワードに検索して下さい。
よろしくお願いします。
(2018年10月29日)

日本軍「慰安婦」問題の本質とは何なのか

ずいぶんと以前のこと。同世代の親しい弁護士との雑談のなかで、お互いの父親の出征体験が話題となった。私の父も彼の父も、招集されて大陸での従軍を経験している。

彼の父親が亡くなって遺品を整理したら詳細な従軍中の日記が出てきたという。生前は見せなかったその日記に、心ならずも慰安所に通っていたという記載があって衝撃を受けたという。そのことを話す彼は、辛そうだった。

私の父は絵を得意として、従軍中の日記は絵ばかりだった。ソ満国境の街角、四季の風景や人物画、野生動物の写生もあった。軍人が出て来るのは隊内での演芸大会の模様だけ。その日記からは戦争や軍隊の陰惨さは窺えなかった。今にして、日記に書けないことが多かったのだろうと思う。

「終戦後」に育ったわれわれの世代は、子どもの頃、大人たちが中国大陸や南方で、「悪いこと」「後ろめたいこと」をしてきたことをなんとなく知っていた。知っていたが、表だって話すことはなかった。しかも、なんとはなく、殺人やレイプや慰安所通いなどの、「悪いこと」「後ろめたいこと」をやったのは、「軍隊」「軍人」「皇軍」という抽象名詞の仕業だと思い込むところがあった。

ところが、突然「お前の父のやったことだ」と突きつけられると、うろたえざるを得ない。戦争の加害責任は、日本人の精神の奥底に暗く沈潜した澱のようなものだ。従軍慰安婦問題とはそのような質をもった、できれば話題から避けたい、触れたくない問題だった。

だが、現実は重い。歴史を変えることはできない。逃げることはできない。再び繰り返してはならない過去であればこそ、ありのままの事実を認識しなければならない。歴史を修正したり、美化することは再びの犯罪にほかならない。

「従軍慰安婦」と言うにせよ、日本軍「慰安婦」と言うにせよ。平時にはあり得ない無惨なことが戦地だからこそ起きる。そのような問題として、「加害も被害も、戦争さえなければ」という視点で語られてきたように思う。ところが、その視点はけっして確かなものではない。もっと、本質を掘り下げよとの指摘がある。

私の法律事務所の間近に、「文京区男女平等センター」がある。地元の市民運動が大いに利用している様子で結構なことだ。昨日(10月27日)、そこで「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナール」が学習会を開いた。

その学習会で配布された機関誌「『慰安婦』問題とジェンダー平等ゼミナールNEWS(第33号)」のヘッドラインが、「なぜ日本人「慰安婦」は名のり出られないか」だった。これに考えさせられている。

恥ずかしながら、そのような問題意識を持ったことがなく、虚を衝かれた思いが強い。なるほど、日本人「慰安婦」は多数いたはずだ。でも、「どうして名のり出られないか」と考えたことはなかった。改めて、「名のりたくても名のり出られないのだろうか」「名のり出るべきなのだろうか」「名のり出るべき環境を整えるべきなのだろうか」「私のような鈍感さが名のり出を妨げているのだろうか」。いろいろと、考え込まざるを得ない。

「後ろめたいこと」をやったのを「皇軍」の誰かであるというよりは、固有名詞をもった誰かであることを特定することによって、格段のリアリティが生じる。被害者も同じことだ。金学順さんの「名のり」は、まぎれもなく印象的で感動的な行為だった。歴史を動かした「名のり出」だった。日本人慰安婦も同様だろうか。

この「NEWS」は、第27回ゼミとして行われた大阪大学大学院の藤目ゆき教授講演の報告をトップに載せている。その演題が「なぜ日本人『慰安婦』は名のり出られないか」なのだ。

なぜ、日本人「慰安婦」は名のり出られないのか。講演によれば、「それは誰も名のり出ることを助けようとしないからだ」という。
内務省、外務省と軍が連携して設立した「慰安所」は、公娼制度の最たるもの。「当時は公娼制度があり合法、当たり前だった」という言説に、だからこそ日本人は「悪法が横行し人権が無視されていた過去」を国家の非と認め、被害者に賠償し、世界に現在の日本は過去とは違う」と表明すべきなのだという。「戦時」の「強制」であろうとなかろうと、性にまつわる搾取を厳しく断罪する立場のよう。「公娼制度に則ったものだから違法ではない」ではなくて、公娼制度とは国家ぐるみの悪だという。それはそのとおりだが、だから「被害者よ、名のり出でよ」となるのだろうか。考え込まざるを得ない。

同教授の講演要旨がA4・2枚の紙面に、細かい字でびっしり書き込まれている。その締めの一文が、「(最後に)希望」として、次のとおり、問題意識をまとめたものになっている。

? 日本人「慰安婦」問題を「戦時下の特殊な状況の中で発生した特殊な問題」として切り取るのではなく、その前後左右にある「人々に対する国家暴カシステム」の中に位置づけ、過去(天皇制警察国家時代)を制度的にも理念・思想的にも清算すること。

 これまで私は、「慰安婦」問題を、まさしく「戦時下の特殊な状況の中で発生した特殊な問題」として考えてきた。「戦時下においてこそ、かくも理不尽な人権侵害が起こる。諸悪の根源としての戦争を起こしてはならない」という文脈である。それが、問題の本質を衝くものではない。もっと根源的な「人々に対する国家暴カシステム」としてとらえよ、というのだ。「公娼・日本軍「慰安婦」・占領車「慰安婦」」と連続的に考察する視点は説得的で、軽いカルチャーショックである。

このことに関連して、大森典子弁護士が、この「NEWS」に、以下の囲み記事を掲載している。

「#MeToo」運動と「慰安婦」問題

8月12日、「全学順さんから始まった#MeToo」と言う集会が聞かれました。1991年8月14日に金字順さんが初めてテレビカメラの前で被害を告白してから、「慰安婦」被害者のカムアウトが続き、「慰安婦」問題は一挙に大きな社会問題になりました。そこでこの日(8月14日を「慰安婦」メモリアルデーにしようという運動が数年前から世界で広がっています。
 今年、日本では、この記念日のイベントとして[#MeToo]運動と[慰安婦]問題を結びつけて考えようという集会が開かれました。
 日本人の「慰安婦」被害者が極く数名の方以外、名乗り出ていないことは、最近、改めて関心を集めています。川田文子さんはそうした日本人被害者との交流とその中で感じた日本社会の問題を語り、被害者の名乗り出を阻んでいる実情を語りました。
 また、角田由紀子弁護士は日本の法制度が性暴力被害者のカムアウトを困難にしていること、その背景にある女性への差別が社会の様々なところに現れていること、この構造を維持するために、言い換えれば男性優位社会を維持するために被害女性の闘いがつぶされようとしているのではないか、という問題提起をしました。
 改めて日本社会の差別の根の深さを考えさせられ、また、そうであるならなおのこと、あらゆる場面に現れている差別をなくさせる運動の重要性を考えさせられた集会でした。」

 すこし時間をかけて、指摘を受けとめ考えてみたい。
なお、「NEWS」の講演要旨は長文である。私の恣意によるものではあるが、下記に抜粋を引用させていただく。

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大阪大学大学院教授・藤目ゆき氏講演要旨抜粋
日本人「慰安婦」問題と公娼制
「慰安婦」問題と現在の女性への暴力

 キムハクスンさんのカミングアウトに、千田夏光さんの本で「従軍慰安婦」を歴史的事実として知っていたが、性暴力をうけることが恥辱とされている中で、被害をうけた女性がメディアに登場し怒りを全身全霊でアピールされる姿に感謝と敬愛を感じた。様々な抑圧の中でレイプなど性暴力をうけた女性たち、性売買の場にいた公娼、「慰安婦」などの日本女性は公的に告発しようにも証拠がない。キムハクスンさんたちの性被害の実態を満天下に認めさせる闘いは、名乗れずにいる日本人女性たちの解放に繋がり、励ましになると受け止めた。「慰安婦」の運動が日本の女性の解放運動と捉えたものにならなかったのは、問題だったと思う。

☆ 日本軍「慰安婦」制度の根底に公娼制度がある

 かって朝鮮民主主義共和国のハルモニから、「日本人は、私達がお金をもらったと言うが、日本人はお金をもらえば、自分の姉、妹、娘たちにそういうことをさせていいんですか」と、反語の意味で問われたが、日本人は平気でそれをやってきたのだ。公娼制度を作り、娘が売り稼ぐのが親孝行だという社会だったから、朝鮮や台湾、東南アジアなど外国の女性たちを、レイプできたのだ。
 日本人「慰安婦」は売春婦、公娼だったが、アジアの少女たちは無垢な乙女がレイプされ気の毒だったというような話ではないだろう。日本人女性たちは自国の階級支配や人権蹂躙そのもの、反民主的な天皇制国家の抑圧の下で奴隷にされ、自分が奴隷であるという自覚もなしに外国への侵略戦争に駆り出されていったみじめさを問題にせずにどうするのか?
 日本の公娼制度は「慰安婦」制度の歴史的な根底である。それを根底から批判し、日本がそもそも公娼制度を持っていた罪を罪としてしっかり認識するということにもっていかなければならないと思う。まともな謝罪、国家賠償をしないままで「慰安婦」を逝かせてしまう日本政府のやり方を許してきた日本の実態は何なのか?そのことに私は嘆きと憤りを筧える。

☆ なぜ日本人「慰安婦」が名乗り出られないのか?
  ?日本人「慰安婦」が不可視化された構図

 「ヘイト言説たる『慰安婦=公娼論』」VS「対抗言説としての『慰安婦≠公娼』論
 日本人「慰安婦」が名乗り出られない理由ははっきりしている。日本の力ある市民が誰も名乗り出てと呼びか けもしないし、それを助けようともしない。「慰安婦」にされた女性だちと闘う準備のある人々の力は弱かった。
 それには、キムハクスンさんの名乗り出以来の一貫したバッシング、ヘイトスピーチがある。国会議員、文化人、自治体首長などが「慰安婦」は売春婦だと平気で主張し、マスコミがそれを報道する。これに対抗して「売春婦じゃありません」「公娼制度とは違って引っ張ってきた」「わが民族の少女たちは商売と関係なしに監禁され銃剣で脅された」という議論のなかで、どういうべきか悩んで慎重に議論しようとしてきた。
 日本軍「慰安所」は内務省、外務省と車が連携して設立した公娼制度の最たるものだ。「慰安婦」はある意味最も典型的な公娼だ。吉見義明先生は「慰安婦」は公娼でないという意見だが。運動側がたてている公娼の違法か合法かの論理が、日本人「慰安婦」たちの不可視化を一層深くしたと指摘しておきたい。「『慰安婦』は当時は合法で当たり前だった」というヘイト言説に対して批判側が日本には戦前から公娼制廃止運動があった、当時の法律でも違法だったと強調する人がいる。しかし本当なら「悪法が横行し、人権無視が当たり前の時代と今は完全に追う」と言うべきだ。公娼制度を非として認め被害者に謝罪、賠償することが過去を清算する道ではないか。

☆ なぜ日本人「慰安婦」はカミングアウトしなかったのかーなぜRAAが政治問題にならなかったのか一日本社会に受け皿がない(カミングアウトを求める主体が脆弱)
?今日に続く「公娼」に対する「醜業婦」観
 日本社会には「公娼」・「売春婦」といえば最大級の侮蔑用語となる社会通念がある。国際社会での売春禁止の意味を真逆の意味に変えて、「売春の禁止」と[他人の売春からの搾取の禁止」を混同し女性の行為を醜業とみなし、それを犯罪とした。
?ナショナリズムによる支えが存在しない
 日本人「慰安婦」は「愛国心があったから、被害者性が薄いから名乗りでない」という意見は理解できない。
 戦時下では植民地の女性達にも皇国臣民たれということが押し付けられた。被女たちは戦後日本の支配からの解放で、愛国心の呪縛から解放され、民族的に悲劇を代表する人物としてナショナリズムによって同胞に支えられている。日本社会では、こんなことを言えばぽこぼこにされる。日本人女性たちは被害が軽いから名乗り出ないのではなく、被害の重さ、同胞によって蹂躙された加重的な抑圧がある。

☆ 戦前・戦中の支配層・戦犯が君臨してきた戦後日本社会と政治
 公娼・日本軍「慰安婦」・占領車「慰安婦」に対する搾取と暴力を主導してきた内務官僚(警察官僚)特に特高畑が一時的な公職追放のみで日本社会にすぐ復活している。このような戦後の支配構造に日本軍「慰安婦」問題が解決できなかった一番の理由があり、日本人「慰安婦」が名乗り出られない一番の理由があるのではないか。

(2018年10月28日)

牛飼も大工も農民も漁民も、それぞれの目線で憲法を読み語れ。

 牛飼が歌よむ時に 世の中の 新しき歌 大いに起る

アララギに拠った伊藤左千夫のご存じの歌。「伊藤左千夫歌集」巻頭の一首だそうだ。この著名な一首を本歌として、ひねってみた。

 大工らが日本国憲法よむ時に 自由と人権 大いに起る

私の手許に、「大工の明良、憲法を読む:土台と大黒柱が肝心!」という新刊本がある。著者明良佐藤は1943年の生まれ、私と同い年のホンモノの大工だという。大工が書いた、大工目線の憲法の解説書である。憲法の成り立ちと構造を語り、前文から全条を解説している。これは快挙だ。

伊藤左千夫は、歌人としての高みから牛飼に歌作を薦めたのではない。伊藤左千夫自身が、乳牛を飼育して牛乳の製造販売に従事していた人。冒頭の一首は牛飼い自身の歌であればこその、生活者の歌としての清新さと骨太の逞しさを感じさせる。

大工の明良も、左千夫と同じことを憲法の分野でやった。研究者としての高みから、大工に憲法を解説したのではない。大工の仕事を比喩として、憲法の成り立ちを説明したものでもない。ホンモノの大工が、大工目線で憲法の全条文を読み、大工目線で憲法を解説したのだ。

この本の惹句がなかなかに秀逸である。
帯に「『君たちはどう生きるか?』の憲法版」とある。そう言って大袈裟でもなかろう。併せて、「『君たちはこの憲法をどう守るか?』と大工の明良さんは問いかける」ともある。徹底した護憲の立場。それを「若い君たち」に問いかけている。憲法に接した著者の感動と理解を若い世代に語り伝えようという情熱で書かれている。

上野千鶴子が帯で推薦の評を書いている。
「今さらながら、『えーっ、びっくり!』の連続。こんなわかりやすい憲法解説書はなかった」というもの。

出版元の現代書館はこう宣伝している。
「学者・弁護士・政治家の本では絶対に見られなかった“大工の憲法論”。大工の目で日本国憲法を読み解くと、それは驚きのベストホームだった! 従来の憲法論とはまったく異なる論点から明らかになる憲法の可能性を楽しく解説。」

この書の特徴は「大工目線」に尽きる。たとえば、憲法99条の「公務員の憲法尊重擁護義務」の解説で、立憲主義に触れる部分は、次のような書き方になっている。

 大工の目から言うと、家づくりの図面は、すべての職人等が守らなければならない最高法規といっていいものです。各職人が図面を勝手に解釈してつくったら、家づくりが順調に進みません。
 内閣総理大臣に相当する棟梁が率先して守らなければ、他の職人に示しがつかないどころか、他の職人から、棟梁が勝手に解釈するなら、こっちもやりいいようにするよ、となり、図面通りの家ができなくなってしまいます。
 それでは依頼主、つまり主権者である住む主人公の思いが実現できなくなります。
 憲法擁護義務は天皇、首相、大臣、議員、裁判官だけ。そこに国民が入っていない、というのは、家づくりでいえば当然です。家づくりをするのは大工等の職人で、家の設計図を守らなければならないのは職人です。依頼主である家の主人公が、家をつくる職人であるわけがないからです。
 建て主は、自分たちの思い通りの家ができていくのかを監視し、チエックしないとあとで欠陥住宅をつかまされたと、泣きが入るかもしれませんよ。

国民が施主、総理大臣以下の公務員が職人。施主から職人に渡された設計図が憲法に相当するもので、職人が勝手に設計を変えてはならない。施主は職人をしっかり監視しチエックしないと、思い通りの家が建たないというのだ。分かり易いではないか。

私はこの本のゲラの段階で目を通している。出版社からの依頼で校正に関わっている。忙しい折だったが楽しい作業だった。

改めて思う。牛飼いも大工も左官もサラリーマンも公務員も商人も教員も、女性も在日も障がい者も、学生も子どもも、犯罪被害者も冤罪に苦しむ人も、それぞれの目線で憲法を読み語れ。農民には農民の、漁民には漁民の目線があう。それぞれの立場で他の人たちが気付かない憲法を読む目線があるだろう。

「大工の明良」のように、憲法全文の解説をし、さらに「第2部 憲法を深く考えてみたら未来に光が見えてくる」と論文まで付するのは至難の業。条文のひとつでも、テーマのひとつでも、それぞれの目線で、憲法を読んで大いに語ろうではないか。

主権者国民がそれぞれの目線で主体的に憲法を読み語るまさにそのときにこそ、「新しき 憲法の時代」が到来するのではないだろうか。そして、民主主義も、自由も人権も、平和の風も、大いに起ることになるだろう。

この本の体裁は以下のとおりである。
単行本: 294ページ
出版社: 現代書館
発売日: 2018/10/8
1600円+税
http://www.gendaishokan.co.jp/new03.htm

(2018年10月27日)

吉田嘉明尋問採用決定は次回(19年1月11日)法廷に持ちこし ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第139弾

次回法廷は2019年1月11日(金)午前11時00分
東京地裁415号法廷(東京地裁・4階、どなたでも傍聴できます)
吉田嘉明人証採用決定の法廷です。傍聴にお越しください。

DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)を被告として6000万円を支払えと訴訟提起したのが「DHCスラップ訴訟」。私の至極真っ当なブログでの言論にいちゃもん付けての2000万円の請求だった。私が、このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判した途端に、2000万円の請求は、6000万円に跳ね上がった。提訴の目的が、言論の抑制にあったことは明らかではないか。

このスラップ訴訟は、当然のことながら私(澤藤)の勝訴で確定した。しかし、こんな提訴が許されてよいはずはない。不法が放置されてよかろうはずはない。スラップ常習のDHC・吉田嘉明に対して、「スラップ提訴が違法だから損害を賠償せよ」という、「反撃訴訟」が今継続中である。

本日(10月26日)の法廷で、当事者本人両名(私と吉田嘉明)の尋問採用が決定となるはずだったが、持ちこされた。本日の法廷での人証採用決定はなく、改めて次回期日に採否の決定となる。

吉田嘉明の採用に関する裁判所の考え方はこうだ。
「裁判所は、反訴原告(澤藤)側から採用申請のあった反訴被告本人(吉田嘉明)尋問の必要がないとは思っていない。しかし、反訴原告が採用を求める立証趣旨(ないし尋問事項)には他の証人の尋問での代替性があるかも知れない。今のところ、反訴被告(DHC・吉田嘉明)側は人証申請をしていないが、反訴被告側から人証の申請の予定があれば、それを出していただき、反訴原告側の意見も伺って採用の可否を決定したい。」

この裁判所見解に対して、反訴原告(澤藤)側弁護団から、納得しがたい旨の意見が、こもごも述べられた。裁判所は「各意見は十分に理解している」「留意したい」ということで、最終的には、反訴被告に人証申請の機会を与えることとなった。

本年12月7日(金)までに、反訴被告(DHC・吉田嘉明)側が人証の申請書と各申請対象者の陳述書を提出。それに、反訴原告(澤藤)側が賛否の意見を提出した上、次回期日(1月11日・金)に人証採用を決定する。お分かりのとおり、吉田嘉明の採否が焦点となっている。

正直のところ、裁判官が本日の法廷でなぜ吉田嘉明の本人尋問を決定しなかったのか、その躊躇の理由がよく分からない。以下に反訴原告側の証拠申出書を貼り付けておくので、お読み願いたい。この申請を却下する理由などあり得ない。

平成29年(ワ)第38149号 損害賠償請求反訴事件
 反訴原告 澤藤統一郎
 反訴被告 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー

証拠申出書

2018年(平成30年)10月5日

東京地方裁判所民事第1部合議係 御中

                     反訴原告訴訟代理人          
                     弁護士 光 前 幸 一 外54名

第1 人証の表示
 1 反訴原告本人 澤藤統一郎(主尋問30分程度)
 2 反訴被告本人 吉田 嘉明(主尋問60分程度)

第2 立証の趣旨
1 反訴原告本人 澤藤統一郎
(1) 本件文書の内容や、これが掲載された反訴原告のブログ(「澤藤統一郎の憲法日記」)のこれまでの内容から、本件文書の公益目的性は明らかであったこと。
(2) 本件文書における反訴原告の見解は、反訴被告吉田が週刊誌に自ら公表した言動と反訴被告らの提訴行為に関する反訴原告の論評(批判)であり、批判の前提となった事実(政治家への資金提供、提訴)に争いはないから、反訴原告の見解を支持するかしないかは別にして、これが反訴被告らの名誉毀損となる余地はないことが明らかあったこと。
(3)? 反訴原告の論評は、反訴被告吉田が自ら公表した言動を、政治の廉潔性という観点から授受当事者双方を厳しく批判するものであるが、その表現が、反訴被告吉田の公表した言動を離れて反訴被告らを批判したり、批判言論としての節度を逸脱するようなものでないことが明らかであったこと。
(4) 反訴被告らの訴訟提起による言論委縮効果と反訴原告の物質的・精神的損害の程度。

2 反訴被告本人 吉田 嘉明
 反訴被告らにおいて、反訴原告に対し名誉棄損訴訟を提起し、訴えを追加し、控訴、上告までした主たる目的が、裁判勝訴による反訴被告らの名誉の回復にあるのではなく、比較的社会的影響力のある発言者の批判を名誉毀損として訴え、裁判被告としての苦痛を味合わせることにより、メディアを含めた公衆からの批判言論を将来にわたって抑圧することにあったこと。

第3 尋問事項
   別紙のとおり

第4 反訴被告吉田の尋問の必要性
1 本件は、?自ら週刊誌に暴露した有力政治家に対する金8億円という金員の提供行為が、?予期に反して、一般公衆、弁護士、評論家、メディア等から批判されたことに対処するため、各批判が反訴被告ら対する名誉毀損であるとして、?選別基準も不明なまま、?一部の言論について、?何らの事前交渉をもたないまま、?高額の損害賠償請求を、?判明しているものだけでも10件提起したことに、一般の名誉毀損訴訟とは異なる側面を見出すことができるが、その結果として、提訴された10件は、?無意味な和解、取下げ(3件)、?敗訴事件に対する見通しを欠いた控訴・上告(5件)、?一部勝訴(実質敗訴)事件の不自然な控訴放棄(2件)といった異様な帰趨を辿っている。
 また、反訴原告に対しては、?このような反訴被告らによる名誉棄損訴訟の提起は「違法なスラップ訴訟」という反訴原告の論評(批判)に対しても追加提訴し、損害賠償請求額を2000万円から6000万円に増額していることに特徴がある。

2 公共性が顕著な事項(取り分け政治的部門)に対する公益目的での批判的言論を抑圧する意図でなされる裁判の提起は、裁判を受ける権利(憲法32条)の重要性に周到な配慮する一方で、民主主義の根幹をなす言論の自由を侵害する行為として、財産権の争いに関する不当訴訟(最判昭和63年1月26日等)とは異なる観点から適正な抑制を図る必要がある。経済格差が司法アクセスへの格差という現象を生んでいる今日、市民の政治参加の場面における言論と資本の調整という旧来テーマは、公共的な言論に対するスラップ訴訟の抑制という新たな課題を突き付けている。
  その調整原理は、表現の自由(とくに論評の自由)が強く尊重、保護されている米国とは異なり、論評(批判)言論に対しても、論評対象事実の真実性(真実相当性)を重視するわが国の判例法においては、名誉棄損訴訟のスラップ性(違法性)の要件として、裁判提起の目的や意図といった提訴者の主観面の評価に多く依存せざるをえないが、濫用的意図が一定程度に推測される外観的事実(名誉棄損訴訟としての異質性)が認められる場合には、提訴者は、少なくとも、濫用的意図がないことの説明責任があると考えるのが、表現の自由と裁判を受ける権利の調整原理として妥当である。

3 しかるところ、反訴原告は、反訴被告らによる訴訟の提起が上記のような異質性を持ち、訴訟遂行の不合理性を縷々指摘しているにもかかわらず、反訴被告吉田がこのような異質の名誉毀損訴訟の提訴(選別も含む)を決断し、訴えを追加し、多数の敗訴判決を前にして控訴・上告した理由の説明を求めても、これに正面から答えていない。一例を上げれば、反訴被告らは、全部敗訴事件はすべて控訴・上告しながら、一億円もの高額の賠償を求めた実質敗訴(一部勝訴)事件を控訴しない理由について「紛争の早期解決」の一言で済ませているが、堅固な思想のもとに巨大企業を統率する反訴被告吉田の説明としては、極めて不十分、不合理である。
したがって、反訴原告は、反訴被告吉田を尋問することで、上記の不合理、不自然な事実を合理的に説明できないことを明らかにし、反訴被告らが提起した名誉棄損訴訟の違法性を立証する。

4 なお、反訴被告らは、災害被害者に対し多額の義捐金を拠出しているとして、これを理由に、反訴原告の論評は誤りであり反訴被告らの名誉を侵害しているとの主張を繰り返しているが、前提事実に誤りのない論評の当否や正誤の指摘は、そのような対向する言論で行うのが言論の自由とこれを基礎とする民主主義の大原則である。仮に、篤志家であったとしても、篤志家であることと、前提事実に誤りのない事実についての論評(批判)を不当な論評として裁判手続きを利用し抑圧することが許されるかは、全く別論であることは言うまでもないことであるが、敢えて付言する。

 公平の観点から、これに対する、反訴被告代理人弁護士今村憲が起案した「意見書」(10月19日付)当該部分の全文も、掲記しておきたい。こちらも、比較の対象としてよくお読みいただきたい。どちらに説得力があるか、一見明白ではないか。

 反訴原告は,本件における前訴そのものというよりも,他の訴訟との関係等について尋問する必要がある旨主張しているように受け取れるが,反訴原告が本件において訴訟対象としている訴訟は,あくまでも本件における前訴のはずであり,当該前訴そのものが違法と言えるかが審理及び判断の対象のはずである。当該前訴を提起した理由,控訴及び上告受理申立てをした理由は,それぞれ,訴状,各準備審面,控訴理由書及び上告受理申立理由書に記載のとおりであり,他の訴訟との比較を検討するまでもなく,当該前訴自体,相当の法的根拠があるものであり,不当提訴などと判断される余地など全くない。反訴被告らの主張が相当の法的根拠があることは,前訴の第1審及び控訴審の判決文の当事者の主張にも整理されているが,本件訴訟においては,訴状,控訴理由書及び上告受理申立て理由書は提出済みであるが,準備書面は提出していなかったので,反訴被告らの主張が相当の法的根拠があることをより一層明らかにするための裏づけ証拠として,また反訴被告吉田をいまさら尋問する必要など全くないことの証拠として,念のため提出しておく。

裁判所は主張との関連性で、吉田嘉明尋問の必要性を判断することになる。が、それとは別の観点から、私は吉田嘉明の法廷での弁明を聞きたい。

昨日のブログでも述べたが、吉田嘉明には、逃げず隠れずに、法廷で思うところを述べてもらいたいものと思う。この訴訟、もともとは、吉田自身が提起したものだ。その元はと言えば、やはり吉田が週刊新潮に書いた手記が発端。言わば身から出た錆なのに、自分の手記を他人が批判したら、それはけしからん、許せんと高額訴訟を仕掛けたのも、スラップ批判に過剰反応して請求額を3倍増したのも、ほかならぬ吉田自身ではないか。この「反撃裁判」も、吉田が原告となって、債務不存在確認請求訴訟として始まったものだ。ならば、法廷の締めくくりくらいは、人任せにせず、堂々と法廷で吉田自身の言葉で、その言い分を述べるがよいではないか。

吉田嘉明よ。あなたは「本物、偽物、似非もの」と並べることがお好きなようだ。たとえばあなたはこう発言している。

「似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。」
本物、偽物、似非ものを語るとき在日の問題は避けて通れません。この場合の在日は広義の意味の在日です。
いわゆる三、四代前までに先祖が日本にやってきた帰化人のことです。
そういう意味では、いま日本に驚くほどの数の在日が住んでいます。同じ在日でも日本人になりきって日本のために頑張っている人は何の問題もありません。
立派な人たちです。
問題なのは日本人として帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩です。
いわゆる、似非日本人、なんちゃって日本人です。政界(特に民主党)、マスコミ(特に朝日新聞、NHK、TBS)、法曹界(裁判官、弁護士、特に東大出身)、官僚(ほとんど東大出身)、芸能界、スポーツ界には特に多いようです。
芸能界やスポーツ界は在日だらけになっていてもさして問題ではありません。影響力はほとんどないからです。問題は政界、官僚、マスコミ、法曹界です。国民の生活に深刻な影響を与えます。私どもの会社も大企業の一員として多岐にわたる活動から法廷闘争になるときが多々ありますが、裁判官が在日、被告側も在日の時は、提訴したこちら側が100%の敗訴になります。裁判を始める前から結果がわかっているのです。
似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。

おそらく、あなたは「自分は本物」だとお考えなのだろう。しかし、今、あなたのホンモノ度が問われている。イザというときに逃げ隠れするのは、「本物」ではなく、卑怯未練の「偽物」あるいは「似非もの」と言われても仕方なかろう。

自らが「本物」であることを証明するには、法廷で自らの信念を堂々と述べることだ。そのためには、次回までに裁判所に自らの本人尋問を申請すればよい。裁判所は文句なく採用することになる。そのときには、私もあなたを見直すことにしよう。
(2018年10月26日)

明日・10月26日(金)の法廷で、吉田嘉明尋問採用の予定 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第138弾

10月26日(金)午後1時30分?415号法廷。
(東京地裁・4階、誰でも傍聴できます)
人証採用決定の法廷を傍聴にお越しください。

DHCと吉田嘉明が、私(澤藤)を被告として6000万円を支払えと訴訟提起したのが「DHCスラップ訴訟」。まずは、私の至極真っ当なブログでの言論にいちゃもん付けての2000万円の請求。私が、このDHC・吉田嘉明の提訴は違法なスラップ訴訟だとブログで批判した途端に、6000万円への請求金額の増額だった。

いったい何を考えてこんな非常識でムチャクチャな負けることが分かりきった裁判をやったのか。吉田嘉明は、自分に対する批判者を威嚇し恫喝したのだ。「オレを批判すると、裁判という面倒なことになるぞ。オレに対する批判はやめておいた方が身のためだ」という威嚇である。訴訟の煩わしさと嫌がらせの直接の対象は被告とされた私だが、威嚇と恫喝の対象は私に限られたものではない。社会全体を威嚇し恫喝しているのだ。

民事訴訟とは、自分の権利が侵害されたときにその救済を求めてするもの。権利の救済のための提訴はすべての人に保障された権利である。だが、その権利の行使に藉口して、実は政治権力や社会的強者が、他者の表現の自由を侵害することは許されない。DHCと吉田嘉明はそれをやった。

だから、DHC・吉田嘉明から私(澤藤)に対するスラップ訴訟では、当然のことながら私が勝訴した。DHC・吉田嘉明は東京地裁から東京高裁・最高裁まで粘って、最大限の嫌がらせをし敗訴し続けて確定した。私は勝訴したが、しかし、それだけではどうにも釈然としない。

私は、自分が被告とされた違法な提訴に勝訴して火の粉は払ったが、不当提訴への応訴のために私と私を支援してくれた方が費やした、金銭的・労力的・時間的損害はそのままとなっている。損害は回復されていないのだ。言わば、やられ損のまま。DHC・吉田嘉明の側は、やり得のままではないか。DHC・吉田嘉明が意図した社会に対する威嚇の効果も払拭されていない。これは、表現の自由が萎縮したままであるということでもある。だから、私(澤藤)はDHC・吉田嘉明に対する「リベンジ訴訟」に踏み切った。違法な訴訟を提起して言論の自由を侵害したDHC・吉田嘉明にきちんとした責任をとらせようということなのだ。

そのリベンジ訴訟もいよいよ大詰めとなっている。明日(10月26日)、私(反訴原告)と吉田嘉明(反訴被告)の各本人尋問申請に採用決定がある。そして、次々回に本人尋問の証拠調べ期日があって、あとはそれぞれが最終準備書面を提出して結審となる。

ところで、2018年8月31日の下記ブログでは、人証の申請を4名とする予定であることをお知らせした。
https://article9.jp/wordpress/?p=11001
「DHC私は買いません」「デマとヘイトとスラップのDHC製品は買ってはいけない」 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第137弾

以下の4名である。
1 反訴原告本人 澤藤統一郎
2 反訴被告本人 吉田 嘉明
3 証人(反訴被告会社顧問弁護士) 今村 憲
4 証人(反訴被告会社総務部法務課)杉谷義一

この4人証で、本件スラップ訴訟提起の動機や提訴規準について明らかにするつもりだった。が、その後の検討の結果、我が弁護団は正式な尋問申請を、下記の二人に絞ることにした。
1 反訴原告本人 澤藤統一郎
2 反訴被告本人 吉田 嘉明

今村憲(弁護士)の証人採用には、今村自身が相当の抵抗をするだろうことが予想されていた。裁判所もそう思ったろう。弁護士として、真実に反するいい加減な証言は許されない。場合によっては、懲戒請求も偽証罪の告発もありうる。弁護団での議論の結果、本筋からはずれた余計な紛争は避けて、立証の必要に徹した人証申請に絞るべきではないかという見解にまとまった。そこで敵性の人証の申請は、反訴被告本人の吉田嘉明だけとすることになり、常識的には、これで人証採用に揉める要素はなくなった。訴訟の常道としては、結審前に原被告尋問をすることになる。

反訴原告には吉田嘉明は敵性の人証である。しかし、本件での最大の論点となる要証事実が、前訴(スラップ訴訟)の提訴意図にある以上、提訴者本人に問い質さざるを得ないことが山ほどある。私に対する提訴や請求の拡張が、吉田批判の言論の封殺と萎縮をねらったものであることを立証するには、彼の尋問が不可欠である。少なくとも、自己の権利救済という意図を凌駕する、言論封殺の提訴意図ないし提訴動機の存在を尋問で明らかにしなければならない。

どうして10件もの同種提訴が必要だったのか。どのような規準で、提訴案件を絞り込んだのか。なぜ、高額訴訟を提起したのか。なぜ、見込みもない控訴・上告を繰り返したのか。自白を強要するのではなく、具体的に周辺事実を問い質し、事実を明らかにすることによって提訴の主たる動機を立証したいということなのだ。

ところが、今回今村憲が訴訟代理人として作成した反訴被告(DHC・吉田嘉明)の意見は、原被告尋問とも必要なしという。これはおかしい。不思議でもある。この意見書、1頁と少しのごく短いもの。短いだけでなく、説得力もまったくない。私には、とりあえず形だけ出しておいたという書面としか見えない。

私は言いたい。吉田嘉明よ、逃げずに法廷で思うところを述べたらどうだ。この訴訟、もともとは、あなた自身が提起したものだ。その元はと言えば、あなたが週刊新潮に書いた手記が発端。言わば、身から出た錆。にもかかわらず、自分の手記を他人が批判したら、それはけしからん、許せんと高額訴訟を仕掛けたのはほかならぬあなた自身だ。

しかし、吉田嘉明よ。あなたにも言い分がないはずはない。それを思いの丈、法廷で述べるがよいではないか。裁判官も、われわれも、傍聴者も、あなたの法廷の発言を遮ったり、妨害したりはしない。堂々と、信じるところを述べてしかるべきではないか。

森友学園を経営している籠池泰典という人物が知られている。彼の思想は教育勅語礼賛で、到底今の時代に受け入れられるものではない。しかし、彼の態度は常に臆するところなく、堂々としている。卑怯未練の振る舞いがない。逃げ隠れすることなく自己の所信を、明瞭に述べる彼の姿勢はすがすがしい。いま彼の思想に反対する者は多数だが、彼を軽蔑する者はいないのではないか。

吉田嘉明よ。「逃げた」「隠れた」「卑怯」などと言われることは、本意ではあるまい。文章を見れば、雄弁と思わせるあなたのことだ。陰に身を潜めていないで、自らの本人尋問を申請せよ。公開の法廷で堂々と語れ。私に6000万円を請求した真の動機を。
(2018年10月25日)

競争原理ではなく、協同・連帯の精神をこそ ― 開業医共済協同組合祝賀会で

開業医共済協同組合の「加入者2000名達成祝賀会」に祝辞を申しあげます。
私は、縁あって貴協同組合の顧問を務めておりますが、意気に感じて積極的にその任をお引き受けしたつもりです。その気持ちの一端をお話しすることが、加入者2000名達成の祝意を表明することになろうかと存じます。

私は、開業医の皆様と同じく個人経営の弁護士です。医師の皆様は専門診療科を標榜しておられますが、弁護士の業務にはそれがありません。幅広くなんでもやることになるのですが、自ずと専門分野というものが定まってきます。私の場合の専門分野は、消費者問題です。

消費者問題を扱う弁護士というと、過払い請求のサラ金弁護士を思い浮かべる方がいらっしゃるかも知れませんが、私はこの四半世紀、クレジット・サラ金債務整理の仕事はしていません。また、消費者問題として悪徳商法被害救済をイメージされる方も多いこととでしょう。それが間違いというわけではないのですが、私は消費者問題の基本テーマは、消費者が企業社会をどうコントロールすることができるのか、という課題だと思っています。

その意味では、対峙する相手は「悪徳」事業者であるよりは、経済社会の中枢に位置している大企業なのです。そして、個別の消費者被害の救済から一歩進んで、企業をあるいは企業社会をどう制御できるか、あるいはすべきかを考えなければならない。そのような立場を貫いてきました。

私たちが現実に生きているこの資本主義社会というものは、企業社会ということでもあります。この社会の実力者である個々の企業が、それぞれ最大利潤を求めて競争にしのぎを削っている苛酷な社会。その競争の勝者には過大な利益がもたらされる反面、敗者は路頭に迷わねばなりません。企業という経済単位間の相互の関係は、生存を懸けた「競争」ということであって、けっして、連帯でも友愛でもありません。

また、企業はその内部で、あるいは商品生産や流通の過程で、労働者を雇用しなければなりません。あるいは弱小の企業に下請けをさせます。企業がその実力を恣にして、雇用する労働者や弱小企業に対して、最大利潤追求の衝動をむき出しにすれば、労働者や弱小企業の人間的な存在を否定することになることは見易いところですが、似た問題は消費市場でも生じていることを見落としてはなりません。

この社会では個別企業の需要見込みによって大量の商品生産が行われ、サービスの供給が行われます。その商品は、すべて最終的には消費市場で消費者に購入してもらわねばなりません。需要見込みによって作られた大量商品の最終消費なしには、再生産のサイクルが正常に稼働しません。何が何でも、消費者の消費意欲を喚起し、無駄なものでも、生産されたものを消費者に押しつけ買わせなければなりません。言わば、企業が消費者を操らなければならないのです。そこからさまざまな弊害が生じます。これが、消費者問題の基本構造です。

企業の要請に応じて、消費者操作のための技術が発達し専門化しています。まずは、消費者心理のマインドコントロールというべき宣伝・広告の巧妙化と大規模化。そして、商品購買に必要な金融・与信のシステムの構築。本当は必要のないもの、不要なものを買わせなければならないのです。そのための企業による対消費者コントロールが行われているのが、消費市場の力関係の現実と言わざるを得ません。

消費者運動・消費者問題とは、消費市場における企業による対消費者コントロールによる諸弊害をなくしていくこと。できれば根絶することですが、そのためには利潤追求至上主義の企業を、消費者の手でコントロールしなければなりません。それは、利潤追求第一を当然のこととして許容する社会ではなく、人間尊重をこそ大切にする社会のありかたを模索する運動の一分野だと考えられます。

ところで、この消費者運動における問題意識は、協同組合運動にも共通していると思うのです。協同組合という存在は、企業社会の中の飛び地のようなところに位置を占めています。企業と同様の経済行動の単位でありながら、利潤追求組織ではなく、その運営原則は、相互扶助であり、連帯であり友愛なのです。

企業の経営には民主主義原則はありません。徹底した効率追求です。しかし、協同組合は平等な成員の民主的手続によって運営されなければなりません。消費者運動とともに、協同組合運動が発展することは、相対的に企業の存在感狭小化につながります。企業を存立基盤とする保守政党の政策にも影響を及ぼさざるを得ません。社会の民主化度の進展につながります。

消費者問題の分野で企業の横暴をどう克服するかを考えてきた私にとって、協同組合運動への寄与は、これまでの活動の延長線上のものなのです。そう考えてお引き受けした、貴協同組合の顧問です。貴組合の発展こそは歓迎すべき、まさに慶事なのです。

念願であった、「加入者2000名達成」。貴組合の発展を心から喜びたいと存じます。おめでとうございます。
(2018年10月23日)

「10・23通達」発出のこの日に、「明治150年記念式典」

1868年10月23日、150年前の今日。「明治改元の詔」なるものが出たのだという。「それがどうした?」「だからなんだ?」「改元が目出度いか?」と言いたいところだが、政府は8月10日の閣議で、政府主催の記念式典を行うことを決定。本日(10月23日)永田町の憲政記念館で「明治150年式典」が開催された。安倍政権は、明治150年を祝賀しようという。ならば、われわれは「天皇専制と戦争の近代史」を思い起こす日にしようではないか。

2003年10月23日、15年前の今日。都内公立学校の全教職員に、学校儀式における「日の丸・君が代」への起立・斉唱をを強制する「10・23通達」が発出された。当時の都知事は石原慎太郎。以来、不起立・不斉唱での懲戒処分件数は、延べ483件に上っている。都内の公立校に、思想・良心の自由はない。教育現場は荒廃している。今日は、学校現場における思想・良心の自由獲得の重大さを思い起こすべき日でもある。

100年前の今日、制度が変わったわけではない。法が制定されたのでもない。先代天皇(孝明)の死亡の日ですらない。それまでの慶應が、幾つかの候補(一説に7案)の内から、明治と決められたというだけの日。しかも、当時は旧暦で(慶応4年)9月8日だった。そして、改元の効果は、その年の旧暦1月1日に遡るとされた。10月23日に、いったい何の意味があるのか分からない。

問題は、何ゆえ明治150年が記念に値するのか。国費を投じて式典まで行う必要があるのか、ということ。

この点、8月時点で菅義偉官房長官は、明治以降のわが国の歩みを振り返り、未来を切り開く契機としたい」と述べたにとどまる。「明治以降のわが国の歩みを振り返り」「未来を切り開く契機」との関係がさっぱり分からない。

「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、天皇を国民統合の中心と戴いて国威を発揚してまいりました輝かしい時代であったと申せましょう。この我が国固有の歴史に誇りをもって、国の未来を切り開く契機にいたしたい」なのだろうか。

あるいは、「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、その前半は天皇制官僚と軍国主義者との横暴が猖獗を極めた専制と戦争の時代でありました。また、その後半は、専制や戦争あるいは差別を克服しようとして道半ばの時代と言わねばなりません。総じて、150年を徹底して反省することをもって、これからのくにの未来を切り開く契機にしなければなりません」ということなのだろうか。

同様のことは、「明治100年」の際にも問われた。このとき(1868年10月23日)にも政府主催の記念式典が開催された。会場は北の丸公園の日本武道館、天皇・皇后(先代)も出席してのこと。今回の式典は盛り上がりに欠ける。天皇(明仁)の出席もなかった。

ところで、本日の赤旗第2面。下記の記事が掲載されている。明治150年記念式典・出席せず」「小池氏・趣旨に同意できない」という見出し。

 小池晃書記局長は22日の記者会見で、23日に開かれる政府主催の「明治150年記念式典」について問われ、「明治150年の前半は侵略と植民地支配の負の歴史です。それと戦後を一緒にして150年をまるごと肯定する立場に、わが党は立たない」として、式典に参加しないと表明しました。
 小池氏は、「閣僚の『教育勅語』容認発言のように戦前を美化したり、9条改憲によって『戦争をする国』に向かおうという安倍首相の意向が背景にある」と強調し、「式典の趣旨そのものに同意できない」と述べました。

 産経が、これを記事にしている。「共産、明治150年式典欠席へ」「前半は負の歴史」という見出し。

 共産党の小池晃書記局長は22日の記者会見で、東京・憲政記念館で23日開かれる明治改元150年記念式典に同党として欠席すると表明した。「150年の前半は、侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史がある。明治以降を丸ごと祝い、肯定するような行事に参加できない」と語った。
 関係者によると、会場には国会議員向けの席が用意される予定。小池氏は式典について「教育勅語の礼賛や、憲法9条改定により戦争する国造りを進めようという安倍晋三首相の強い意思が働いている」と指摘した。

 この「改元150年記念式典出席拒否」には全面的に賛同の意を表したい。「儀礼的なものに過ぎないから」「国会議員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なことだから」「他の野党との連携上、やむを得ない」などといわずに、きっぱりと出席を拒否したことを評価したい。

明日(10月24日)が臨時国会の開会式。望むべくは、玉座の天皇が議場の国民代表を見下して「開会の辞」を述べるという、国民主権に屈辱的な、あの儀式への参加もきっぱりと拒否してもらいたいところ。

東京新聞(こちら特報部・2018年10月17日)は、150年祝う政府式典 反対集会23日に同日開催 『明治礼賛』に異議あり」を特集している。下記のとおり、立派な姿勢だ。

 「明治150年」を記念する政府の式典が23日、東京都内で開かれる。近代国家の礎を築いた栄光の時代をたたえる趣旨だが、同じ日、アジア侵略につながった負の歴史を批判する団体も反対集会を開く。平等を説きながら差別をなくせなかった時代を礼賛するとして、沖縄の人々やアイヌ民族も複雑な思いを抱く。改憲に前のめりの安倍政権で迎える節目は、どんな意味を持つのか。

 10月21日、「10・23通達」抗議の集会が開催されている。明治150年、その前半は暗黒の時代だった。後半も人権や民主主義にとってけっして明るいばかりの時代ではないことを「10・23通達」による「日の丸・君が代」強制の実態が教えている。常に、権力に対する抗議が必要なのだ。

日の丸・君が代の強制を合理化してはならない。「儀礼的なものに過ぎないから」「教員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なこと」「世論状況でやむを得ない」などといわずに、きっぱりと「日の丸・君が代」強制に抗議の声を上げていただきたい。
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下記は、本日付赤旗の「主張」。明治150年・近代日本の歩み検証する視点」というタイトル。さすがに赤旗、この論説は、行き届いた正論である。赤旗とは無縁な人のために、全文を紹介しておきたい。

 「上からは明治だなどというけれど 治明〈おさまるめい〉と下からは読む」―徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、東京と改称された江戸の民衆はこんな狂歌をよんだと伝えられています。

 150年前の1868年、旧幕府側と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍との間で戊辰戦争が始まり、新政府は「五箇条の誓文」を公布し、江戸城が無血開城されました。そして、年号が慶応から明治に改元されました。

特異な一面的礼賛の姿勢

 きょう政府は都内で「明治150年記念式典」を開催します。1868年10月23日に明治改元があったことを記念し「明治以降の我が国の歩みを振り返り、これからの未来を切り開く契機とする」(菅義偉官房長官)との触れ込みです。安倍晋三政権は2年前から「明治150年」キャンペーンを展開してきました。

 首相自身、今年の年頭所感で「明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」「近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人」と強調しました。きわめて一面的な「明治」礼賛です。戦前と戦後の違いを無視した時代錯誤の危険な歴史観がにじんでいます。
明治維新によって身分制が改められるなど、政治変革の激動のもとで急速な近代化が進んだのは事実です。しかし、明治政府がおこなったのは「富国強兵」「殖産興業」の名のもとに、資本主義化を推進し、労働者や農民から搾取と収奪をすすめることでした。

 それと並行して、欧米列強に対抗するために徴兵令(1873年)を公布し、台湾出兵(74年)や江華島事件(75年)などアジアへの侵略の歩みを進めました。また、蝦夷地(えぞち)を「開拓」してアイヌ民族を差別し、琉球処分を強行して沖縄を一方的に支配下に組み込みました。国民の政治参加を求めた自由民権運動は抑え込まれました。

 明治政府がうちたてたのは、大日本帝国憲法(1889年)のもとで、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治でした。そのうえ教育勅語(90年)を制定し、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」―つまり“国家危急の時は天皇のために命をささげよ”と国民に強要しました。

 戦前の日本共産党幹部で1934年に獄死した野呂栄太郎は、著書『日本資本主義発達史』(30年刊行)で、明治維新を「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革」と指摘し、それによって生まれた政治権力を「絶対的専制政治」と明快に特徴づけています。

 明治政府は、日清・日露戦争を経て台湾や朝鮮半島を植民地化しました。昭和に入り1931年から中国への侵略戦争を開始、45年の敗戦までにアジア2000万人以上、日本国民310万人以上の犠牲をもたらしたのです。

根本に侵略戦争の肯定が

「明治150年」キャンペーンは、安倍政権が「日本会議」など過去の侵略戦争を肯定・美化し、歴史を偽造する勢力によって構成され、支えられていることと深く結びついています。過去の戦争の反省に根ざした日本国憲法の精神にたち、近代日本の歩みを検証することが強く求められています。

(2018年10月23日)

沖縄県知事選に続く那覇市長選の結果は、安倍政権の凋落と保守友党との疎遠を物語っている

昨日(10月21日)の那覇市長選で、「オール沖縄」の城間幹子候補が再選を果たした。圧勝である。政権与党(+反共野党)候補のみごとなまでの惨敗。
  ▽城間幹子(無所属・現)当選 7万9677票
  ▽翁長政俊(無所属・新)落選 4万2446票
投票率が低かった(48.19%)のは、開票結果が分かりきっていたからだろう。

当選を報じる沖縄タイムスにこんな見出しが。

 「『えっ』早すぎる当確に絶句」「集大成の選挙、訴え届かず」「翁長政俊さん『申し訳ない』」

「『こうも簡単に見捨てるのか』 政府与党、劣勢で配慮一転 那覇市長選敗北」

一方、琉球新報の見出しは、

オール沖縄、衆院補選や夏の参院選に向け弾み」「自民、立て直し急務」というもの。

「オール沖縄」と「自民」との対立構造を描いて、前者に「弾み」がつき、後者は「立て直し急務」と明暗が分かれたことを強調している。下記のリードを、「誰もがもつ無難な感想」と読み飛ばしてはならない。今、明暗ところを分けている沖縄県政における与野党勢力の力関係が、来夏(19年)の参院選への展望となっていることを見るべきだし、これが全国の反安倍野党共闘を大きく励ますものとなつている。

 今年「選挙イヤー」の県内で、締めくくりとなる那覇市長選は、玉城デニー知事が支援する現職の城間幹子氏が再選を果たした。県政与党などで構成する「オール沖縄」勢にとって宜野湾市長選は敗北したものの、知事選、豊見城市長選に続く勝利で、来年4月に実施が見込まれる衆院沖縄3区の補欠選挙や夏の参院選に向け弾みが付いた。
 一方、自民は態勢の立て直しが急務で、4月に発足したばかりの現執行部の責任問題に波及しそうだ。

 琉球新報記事の中で、次の一文が目にとまった。

「那覇市長選は、9月の知事選と同様に『オール沖縄』勢と、安倍政権与党の自民・公明に維新が加わった『自公維』が対決する構図となった。現職の城間氏は、玉城デニー知事や翁長雄志前知事の次男で那覇市議の雄治氏が前面に出る戦術を展開したことで、無党派層を含め幅広い層で支持を広げた。」

おや? 那覇市長選で「オール沖縄」と対決したのは、「自公維」ではなく「自・公・維・希」だったはず。念のため、「希望の党」のホームページを閲覧してみたところ、「2018.09.25 お知らせ・沖縄県那覇市長選挙での推薦證授与について」という記事があり、「希望の党では、来る10月14日告示の沖縄県那覇市長選挙におきまして、翁長政俊氏の推薦證を9月23日に井上一徳政調会長が授与してまいりました。希望の党では、翁長政俊氏を全力で支援して参ります。」とある。

同党ホームページに推薦撤回の記事はないから、投票日当日まで希望の党としては、翁長政俊推薦勢力の一員と自認していたはず。だが、地元有力紙の記者には、無視されたということだ。

沖縄タイムスの記事も同様だった。

 「(翁長政俊候補陣営は)自民、公明、維新の3党態勢で臨んだが、『人海戦術が持ち味の創価学会員の姿が見えなかった』(県連関係者)という。翁長氏選対関係者は『勝てないと思ったら、みんな手を引く。これが現実だ』とため息をついた。」

 さて、臨時国会の開会(10月24日)直前の、沖縄県知事選に続く那覇市長選の結果は今後への影響が大きい。
産経も次のように述べている。

 那覇市長選の結果は単なる首長選の敗北にとどまらない。別の自民党選対幹部は「連敗で雰囲気は悪い。来年は4月に統一地方選、衆院沖縄3区補選もある。このままじゃ戦えない」と漏らす。

 影響は来年を待つまでもない。安倍改憲提案と、辺野古基地建設工事再開の阻止。大きな課題が眼前にある。安倍自民単独の暴走では事は成らない。どうしても補完勢力が必要なのだ。いま、公明・創価学会に自民の補完勢力であり続けることへのためらいが見える。内部批判による不協和音が大きいと報道されている。そして、「希望の党」という反共右翼政党の力量は無視しうるところまで落ちた。森友事件以来、維新の勢いも失せている。

 国民の目に見えてきた安倍政権凋落の傾向が、自民党のみならず「安倍友党」の活動力の低下として顕在化しつつある。それこそが、沖縄県知事選と那覇市長選の結果が教えてくれたものではないか。
(2018年10月22日)

私に法曹としての生き方を教えてくれた、反面教師・石田和外

岡口基一裁判官を被申立人とする分限裁判に関して、東京新聞(「こちら特報部」)からコメントを求められた。
私にコメントを求めてくるのだから「その姿勢や良し」なのだが、若い記者に話しをしていて、こちらは共通の事実認識という思い込みが、実はそうでもないことに気がついた。1970年代初めに、司法の独立を守ろうという幅の広い市民運動ないしは民主主義運動があったことが共通の認識になっていない。だから、話しが長くならざるを得ない。

私は、1971年に司法修習を終えて弁護士になった。当時の最高裁長官が石田和外。「ミスター最高裁長官」(在任1969年1月11日?1973年5月19日)といわれた男。その名前を聞くだけで、いまだにアドレナリンの噴出を意識せざるを得ない。血圧も上がってくる。

この男、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。その象徴的人事が宮本康昭裁判官(13期)の再任拒否てあり、私と同期(23期)修習生の裁判官志望者7名の任官拒否であつた。さらに、最高裁は、これに抗議した阪口徳雄・司法修習生を罷免した。

司法行政がその人事権を行使して第一線の裁判官を統制し、その統制を通じて判決内容を後退させようという意図が目に見えていた。「憲法を守ろう、平和と人権を守ろう」という青年法律家協会に対する攻撃は、自民党(田中角栄幹事長)から始まり、続いた右翼メデイアに、司法行政当局が呼応したものだった。石田和外は、青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。

石田和外が青年法律家協会攻撃に使った「理論的な武器」が、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」というもの。いったい、裁判官に求められる、「中立公正」「中立公正らしさ」とはなにかという論争が巻きおこったが、はしなくも彼自らが決着をつけた。

何と彼は定年退官後に新設された「英霊にこたえる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。

もうひとり、定年退官後に公然と右翼活動に邁進した最高裁長官がいる。三好達(在任1995年11月7日 ー 1997年10月30日)。彼は、2001年から2015年まで、あの「日本会議」会長の任に就いている。言わば、右翼の総元締めである。退任後、現在はその名誉会長。そして、靖国神社崇敬者総代でもある。最高裁とはこんな所だ。最高裁のいう「公正中立」の内実はこんなものなのだ。

当時20代の私は、最高裁当局という権力と対峙していることを肌に感じ、怒りに震えた。当時の多くの同期の法曹が同じ思いだったと思う。私は、学生運動の経験者ではない。修習生運動の中で、反権力の立場で法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を教えてくれたとも言える。石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。

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下記は、先月ある学習会で語る機会あって、作ったレジメである。目を通していただけたら、だいたいのところをお分かりいただけるのではないか。

 友愛政治塾講義レジメ 弁護士 澤藤統一郎

 「裁判を通した司法制度の問題点」・体験的司法制度論

第1 権力構造における司法の位置
 1 建前としての司法の役割
   (1) 権力の分立
      立法・行政とのチェック&バランス
      権力抑制のための分立というだけでなく、
      法の支配(法治主義)を前提とした政治・行政のサイクル
   (2) 人権救済を本来の使命とする司法
      「天賦人権」という根本価値の擁護
      司法・行政から独立して、これをチェックする役割
 2 所詮は国家権力機構の一部という本質(実態)
    国家権力からの支配・介入
    常にある社会的圧力
第2 司法の独立とその限界
 1 司法は独立していなければならない⇒が、それは至難の業である。
 2 司法の独立とは、公権力・政権与党・社会的多数派からの独立である。
 3 司法の独立の実体は、個々の裁判官の独立である。
第3 司法行政が司法の独立を侵害している。
 1 裁判官人事が、司法行政による司法の独立侵害の手段
 2 採用・10年ごとの再任・任地・昇進・昇給による差別と支配
 3? 司法行政の主体が司法官僚。司法官僚制が諸悪の根源である。
第4 1971年 体験的司法反動論
 1 前史 1960年代の民主主義運動の高揚 労働運動・市民運動・学生運動
    ⇒裁判所の変化? 憲法理解の深化と判例の良質化
    ⇒これに対する反動化 自民党・右翼メディア・旧時代裁判官の台頭
 2 石田和外体制の確立
    青年法律家協会攻撃(自民党・右翼メディア・最高裁)
    70年22期任官拒否2名・局付き判事補の青法協会員脱退届
 3 71年4月 23期任官拒否7名。宮本康昭13期裁判官再任拒否。
    修習修了式での抗議を理由に、阪口徳雄司法修習生即日罷免。
 4 全国的な抗議運動⇒「司法の独立を守る国民会議」結成。
    「司法の嵐」といわれた事態に。ヒラメ裁判官の跋扈。忖度裁判。
    ⇒「権力掣肘」「人権の砦」としての裁判所の後退
 5 市民の側からの反撃の課題
    司法官僚制をどう打破するか。
    重いテーマとしての法曹一元。全裁判官を弁護士経験者から。
    裁判官の市民的自由の保障。裁判官生活の閉鎖性打破の重要性。
     (寺西和史・分限裁判での戒告。そして今、岡口基一が)
    最高裁裁判官任用手続の改善。下級裁判所裁判官についても。
第5 幾つかの訴訟経験から
 1 岩手靖国訴訟
    最低最悪の一審判決を書いたのは、元訟務検事(仙台訟務局長)。
    公式参拝違憲の控訴審判決を書いた裁判長は、3日後に退官。
 2 市民平和訴訟
    高額印紙問題が示すもの
    司法の役割とはいったいなんだ。
 3 「日の丸・君が代」強制拒否訴訟
    どうして最高裁は違憲と言わないのか。
第6 韓国憲法裁判所訪問の衝撃
 1 遠慮のない違憲判決 市民のための裁判所を標榜する姿勢
 2 それでもなお、多々限界は見える。
 3 司法だけが民主化することはあり得ない。
第7 司法消極主義批判と(逆)司法積極主義批判
 1 これまでは、最高裁の憲法判断回避の司法消極主義を批判してきた。
 2 今や、司法消極主義がマシ。(逆)司法積極主義を警戒すべきの論調が台頭。

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この続きは、ぜひ、11月17日(土)の日民協・司研集会にご参加を。

国策に加担する司法を問うーー第49回司法制度研究集会へのお誘い
https://article9.jp/wordpress/?p=11283
(2018年10月21日)

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