澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

競争原理ではなく、協同・連帯の精神をこそ ― 開業医共済協同組合祝賀会で

開業医共済協同組合の「加入者2000名達成祝賀会」に祝辞を申しあげます。
私は、縁あって貴協同組合の顧問を務めておりますが、意気に感じて積極的にその任をお引き受けしたつもりです。その気持ちの一端をお話しすることが、加入者2000名達成の祝意を表明することになろうかと存じます。

私は、開業医の皆様と同じく個人経営の弁護士です。医師の皆様は専門診療科を標榜しておられますが、弁護士の業務にはそれがありません。幅広くなんでもやることになるのですが、自ずと専門分野というものが定まってきます。私の場合の専門分野は、消費者問題です。

消費者問題を扱う弁護士というと、過払い請求のサラ金弁護士を思い浮かべる方がいらっしゃるかも知れませんが、私はこの四半世紀、クレジット・サラ金債務整理の仕事はしていません。また、消費者問題として悪徳商法被害救済をイメージされる方も多いこととでしょう。それが間違いというわけではないのですが、私は消費者問題の基本テーマは、消費者が企業社会をどうコントロールすることができるのか、という課題だと思っています。

その意味では、対峙する相手は「悪徳」事業者であるよりは、経済社会の中枢に位置している大企業なのです。そして、個別の消費者被害の救済から一歩進んで、企業をあるいは企業社会をどう制御できるか、あるいはすべきかを考えなければならない。そのような立場を貫いてきました。

私たちが現実に生きているこの資本主義社会というものは、企業社会ということでもあります。この社会の実力者である個々の企業が、それぞれ最大利潤を求めて競争にしのぎを削っている苛酷な社会。その競争の勝者には過大な利益がもたらされる反面、敗者は路頭に迷わねばなりません。企業という経済単位間の相互の関係は、生存を懸けた「競争」ということであって、けっして、連帯でも友愛でもありません。

また、企業はその内部で、あるいは商品生産や流通の過程で、労働者を雇用しなければなりません。あるいは弱小の企業に下請けをさせます。企業がその実力を恣にして、雇用する労働者や弱小企業に対して、最大利潤追求の衝動をむき出しにすれば、労働者や弱小企業の人間的な存在を否定することになることは見易いところですが、似た問題は消費市場でも生じていることを見落としてはなりません。

この社会では個別企業の需要見込みによって大量の商品生産が行われ、サービスの供給が行われます。その商品は、すべて最終的には消費市場で消費者に購入してもらわねばなりません。需要見込みによって作られた大量商品の最終消費なしには、再生産のサイクルが正常に稼働しません。何が何でも、消費者の消費意欲を喚起し、無駄なものでも、生産されたものを消費者に押しつけ買わせなければなりません。言わば、企業が消費者を操らなければならないのです。そこからさまざまな弊害が生じます。これが、消費者問題の基本構造です。

企業の要請に応じて、消費者操作のための技術が発達し専門化しています。まずは、消費者心理のマインドコントロールというべき宣伝・広告の巧妙化と大規模化。そして、商品購買に必要な金融・与信のシステムの構築。本当は必要のないもの、不要なものを買わせなければならないのです。そのための企業による対消費者コントロールが行われているのが、消費市場の力関係の現実と言わざるを得ません。

消費者運動・消費者問題とは、消費市場における企業による対消費者コントロールによる諸弊害をなくしていくこと。できれば根絶することですが、そのためには利潤追求至上主義の企業を、消費者の手でコントロールしなければなりません。それは、利潤追求第一を当然のこととして許容する社会ではなく、人間尊重をこそ大切にする社会のありかたを模索する運動の一分野だと考えられます。

ところで、この消費者運動における問題意識は、協同組合運動にも共通していると思うのです。協同組合という存在は、企業社会の中の飛び地のようなところに位置を占めています。企業と同様の経済行動の単位でありながら、利潤追求組織ではなく、その運営原則は、相互扶助であり、連帯であり友愛なのです。

企業の経営には民主主義原則はありません。徹底した効率追求です。しかし、協同組合は平等な成員の民主的手続によって運営されなければなりません。消費者運動とともに、協同組合運動が発展することは、相対的に企業の存在感狭小化につながります。企業を存立基盤とする保守政党の政策にも影響を及ぼさざるを得ません。社会の民主化度の進展につながります。

消費者問題の分野で企業の横暴をどう克服するかを考えてきた私にとって、協同組合運動への寄与は、これまでの活動の延長線上のものなのです。そう考えてお引き受けした、貴協同組合の顧問です。貴組合の発展こそは歓迎すべき、まさに慶事なのです。

念願であった、「加入者2000名達成」。貴組合の発展を心から喜びたいと存じます。おめでとうございます。
(2018年10月23日)

「10・23通達」発出のこの日に、「明治150年記念式典」

1868年10月23日、150年前の今日。「明治改元の詔」なるものが出たのだという。「それがどうした?」「だからなんだ?」「改元が目出度いか?」と言いたいところだが、政府は8月10日の閣議で、政府主催の記念式典を行うことを決定。本日(10月23日)永田町の憲政記念館で「明治150年式典」が開催された。安倍政権は、明治150年を祝賀しようという。ならば、われわれは「天皇専制と戦争の近代史」を思い起こす日にしようではないか。

2003年10月23日、15年前の今日。都内公立学校の全教職員に、学校儀式における「日の丸・君が代」への起立・斉唱をを強制する「10・23通達」が発出された。当時の都知事は石原慎太郎。以来、不起立・不斉唱での懲戒処分件数は、延べ483件に上っている。都内の公立校に、思想・良心の自由はない。教育現場は荒廃している。今日は、学校現場における思想・良心の自由獲得の重大さを思い起こすべき日でもある。

100年前の今日、制度が変わったわけではない。法が制定されたのでもない。先代天皇(孝明)の死亡の日ですらない。それまでの慶應が、幾つかの候補(一説に7案)の内から、明治と決められたというだけの日。しかも、当時は旧暦で(慶応4年)9月8日だった。そして、改元の効果は、その年の旧暦1月1日に遡るとされた。10月23日に、いったい何の意味があるのか分からない。

問題は、何ゆえ明治150年が記念に値するのか。国費を投じて式典まで行う必要があるのか、ということ。

この点、8月時点で菅義偉官房長官は、明治以降のわが国の歩みを振り返り、未来を切り開く契機としたい」と述べたにとどまる。「明治以降のわが国の歩みを振り返り」「未来を切り開く契機」との関係がさっぱり分からない。

「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、天皇を国民統合の中心と戴いて国威を発揚してまいりました輝かしい時代であったと申せましょう。この我が国固有の歴史に誇りをもって、国の未来を切り開く契機にいたしたい」なのだろうか。

あるいは、「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、その前半は天皇制官僚と軍国主義者との横暴が猖獗を極めた専制と戦争の時代でありました。また、その後半は、専制や戦争あるいは差別を克服しようとして道半ばの時代と言わねばなりません。総じて、150年を徹底して反省することをもって、これからのくにの未来を切り開く契機にしなければなりません」ということなのだろうか。

同様のことは、「明治100年」の際にも問われた。このとき(1868年10月23日)にも政府主催の記念式典が開催された。会場は北の丸公園の日本武道館、天皇・皇后(先代)も出席してのこと。今回の式典は盛り上がりに欠ける。天皇(明仁)の出席もなかった。

ところで、本日の赤旗第2面。下記の記事が掲載されている。明治150年記念式典・出席せず」「小池氏・趣旨に同意できない」という見出し。

 小池晃書記局長は22日の記者会見で、23日に開かれる政府主催の「明治150年記念式典」について問われ、「明治150年の前半は侵略と植民地支配の負の歴史です。それと戦後を一緒にして150年をまるごと肯定する立場に、わが党は立たない」として、式典に参加しないと表明しました。
 小池氏は、「閣僚の『教育勅語』容認発言のように戦前を美化したり、9条改憲によって『戦争をする国』に向かおうという安倍首相の意向が背景にある」と強調し、「式典の趣旨そのものに同意できない」と述べました。

 産経が、これを記事にしている。「共産、明治150年式典欠席へ」「前半は負の歴史」という見出し。

 共産党の小池晃書記局長は22日の記者会見で、東京・憲政記念館で23日開かれる明治改元150年記念式典に同党として欠席すると表明した。「150年の前半は、侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史がある。明治以降を丸ごと祝い、肯定するような行事に参加できない」と語った。
 関係者によると、会場には国会議員向けの席が用意される予定。小池氏は式典について「教育勅語の礼賛や、憲法9条改定により戦争する国造りを進めようという安倍晋三首相の強い意思が働いている」と指摘した。

 この「改元150年記念式典出席拒否」には全面的に賛同の意を表したい。「儀礼的なものに過ぎないから」「国会議員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なことだから」「他の野党との連携上、やむを得ない」などといわずに、きっぱりと出席を拒否したことを評価したい。

明日(10月24日)が臨時国会の開会式。望むべくは、玉座の天皇が議場の国民代表を見下して「開会の辞」を述べるという、国民主権に屈辱的な、あの儀式への参加もきっぱりと拒否してもらいたいところ。

東京新聞(こちら特報部・2018年10月17日)は、150年祝う政府式典 反対集会23日に同日開催 『明治礼賛』に異議あり」を特集している。下記のとおり、立派な姿勢だ。

 「明治150年」を記念する政府の式典が23日、東京都内で開かれる。近代国家の礎を築いた栄光の時代をたたえる趣旨だが、同じ日、アジア侵略につながった負の歴史を批判する団体も反対集会を開く。平等を説きながら差別をなくせなかった時代を礼賛するとして、沖縄の人々やアイヌ民族も複雑な思いを抱く。改憲に前のめりの安倍政権で迎える節目は、どんな意味を持つのか。

 10月21日、「10・23通達」抗議の集会が開催されている。明治150年、その前半は暗黒の時代だった。後半も人権や民主主義にとってけっして明るいばかりの時代ではないことを「10・23通達」による「日の丸・君が代」強制の実態が教えている。常に、権力に対する抗議が必要なのだ。

日の丸・君が代の強制を合理化してはならない。「儀礼的なものに過ぎないから」「教員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なこと」「世論状況でやむを得ない」などといわずに、きっぱりと「日の丸・君が代」強制に抗議の声を上げていただきたい。
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下記は、本日付赤旗の「主張」。明治150年・近代日本の歩み検証する視点」というタイトル。さすがに赤旗、この論説は、行き届いた正論である。赤旗とは無縁な人のために、全文を紹介しておきたい。

 「上からは明治だなどというけれど 治明〈おさまるめい〉と下からは読む」―徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、東京と改称された江戸の民衆はこんな狂歌をよんだと伝えられています。

 150年前の1868年、旧幕府側と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍との間で戊辰戦争が始まり、新政府は「五箇条の誓文」を公布し、江戸城が無血開城されました。そして、年号が慶応から明治に改元されました。

特異な一面的礼賛の姿勢

 きょう政府は都内で「明治150年記念式典」を開催します。1868年10月23日に明治改元があったことを記念し「明治以降の我が国の歩みを振り返り、これからの未来を切り開く契機とする」(菅義偉官房長官)との触れ込みです。安倍晋三政権は2年前から「明治150年」キャンペーンを展開してきました。

 首相自身、今年の年頭所感で「明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」「近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人」と強調しました。きわめて一面的な「明治」礼賛です。戦前と戦後の違いを無視した時代錯誤の危険な歴史観がにじんでいます。
明治維新によって身分制が改められるなど、政治変革の激動のもとで急速な近代化が進んだのは事実です。しかし、明治政府がおこなったのは「富国強兵」「殖産興業」の名のもとに、資本主義化を推進し、労働者や農民から搾取と収奪をすすめることでした。

 それと並行して、欧米列強に対抗するために徴兵令(1873年)を公布し、台湾出兵(74年)や江華島事件(75年)などアジアへの侵略の歩みを進めました。また、蝦夷地(えぞち)を「開拓」してアイヌ民族を差別し、琉球処分を強行して沖縄を一方的に支配下に組み込みました。国民の政治参加を求めた自由民権運動は抑え込まれました。

 明治政府がうちたてたのは、大日本帝国憲法(1889年)のもとで、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治でした。そのうえ教育勅語(90年)を制定し、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」―つまり“国家危急の時は天皇のために命をささげよ”と国民に強要しました。

 戦前の日本共産党幹部で1934年に獄死した野呂栄太郎は、著書『日本資本主義発達史』(30年刊行)で、明治維新を「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革」と指摘し、それによって生まれた政治権力を「絶対的専制政治」と明快に特徴づけています。

 明治政府は、日清・日露戦争を経て台湾や朝鮮半島を植民地化しました。昭和に入り1931年から中国への侵略戦争を開始、45年の敗戦までにアジア2000万人以上、日本国民310万人以上の犠牲をもたらしたのです。

根本に侵略戦争の肯定が

「明治150年」キャンペーンは、安倍政権が「日本会議」など過去の侵略戦争を肯定・美化し、歴史を偽造する勢力によって構成され、支えられていることと深く結びついています。過去の戦争の反省に根ざした日本国憲法の精神にたち、近代日本の歩みを検証することが強く求められています。

(2018年10月23日)

沖縄県知事選に続く那覇市長選の結果は、安倍政権の凋落と保守友党との疎遠を物語っている

昨日(10月21日)の那覇市長選で、「オール沖縄」の城間幹子候補が再選を果たした。圧勝である。政権与党(+反共野党)候補のみごとなまでの惨敗。
  ▽城間幹子(無所属・現)当選 7万9677票
  ▽翁長政俊(無所属・新)落選 4万2446票
投票率が低かった(48.19%)のは、開票結果が分かりきっていたからだろう。

当選を報じる沖縄タイムスにこんな見出しが。

 「『えっ』早すぎる当確に絶句」「集大成の選挙、訴え届かず」「翁長政俊さん『申し訳ない』」

「『こうも簡単に見捨てるのか』 政府与党、劣勢で配慮一転 那覇市長選敗北」

一方、琉球新報の見出しは、

オール沖縄、衆院補選や夏の参院選に向け弾み」「自民、立て直し急務」というもの。

「オール沖縄」と「自民」との対立構造を描いて、前者に「弾み」がつき、後者は「立て直し急務」と明暗が分かれたことを強調している。下記のリードを、「誰もがもつ無難な感想」と読み飛ばしてはならない。今、明暗ところを分けている沖縄県政における与野党勢力の力関係が、来夏(19年)の参院選への展望となっていることを見るべきだし、これが全国の反安倍野党共闘を大きく励ますものとなつている。

 今年「選挙イヤー」の県内で、締めくくりとなる那覇市長選は、玉城デニー知事が支援する現職の城間幹子氏が再選を果たした。県政与党などで構成する「オール沖縄」勢にとって宜野湾市長選は敗北したものの、知事選、豊見城市長選に続く勝利で、来年4月に実施が見込まれる衆院沖縄3区の補欠選挙や夏の参院選に向け弾みが付いた。
 一方、自民は態勢の立て直しが急務で、4月に発足したばかりの現執行部の責任問題に波及しそうだ。

 琉球新報記事の中で、次の一文が目にとまった。

「那覇市長選は、9月の知事選と同様に『オール沖縄』勢と、安倍政権与党の自民・公明に維新が加わった『自公維』が対決する構図となった。現職の城間氏は、玉城デニー知事や翁長雄志前知事の次男で那覇市議の雄治氏が前面に出る戦術を展開したことで、無党派層を含め幅広い層で支持を広げた。」

おや? 那覇市長選で「オール沖縄」と対決したのは、「自公維」ではなく「自・公・維・希」だったはず。念のため、「希望の党」のホームページを閲覧してみたところ、「2018.09.25 お知らせ・沖縄県那覇市長選挙での推薦證授与について」という記事があり、「希望の党では、来る10月14日告示の沖縄県那覇市長選挙におきまして、翁長政俊氏の推薦證を9月23日に井上一徳政調会長が授与してまいりました。希望の党では、翁長政俊氏を全力で支援して参ります。」とある。

同党ホームページに推薦撤回の記事はないから、投票日当日まで希望の党としては、翁長政俊推薦勢力の一員と自認していたはず。だが、地元有力紙の記者には、無視されたということだ。

沖縄タイムスの記事も同様だった。

 「(翁長政俊候補陣営は)自民、公明、維新の3党態勢で臨んだが、『人海戦術が持ち味の創価学会員の姿が見えなかった』(県連関係者)という。翁長氏選対関係者は『勝てないと思ったら、みんな手を引く。これが現実だ』とため息をついた。」

 さて、臨時国会の開会(10月24日)直前の、沖縄県知事選に続く那覇市長選の結果は今後への影響が大きい。
産経も次のように述べている。

 那覇市長選の結果は単なる首長選の敗北にとどまらない。別の自民党選対幹部は「連敗で雰囲気は悪い。来年は4月に統一地方選、衆院沖縄3区補選もある。このままじゃ戦えない」と漏らす。

 影響は来年を待つまでもない。安倍改憲提案と、辺野古基地建設工事再開の阻止。大きな課題が眼前にある。安倍自民単独の暴走では事は成らない。どうしても補完勢力が必要なのだ。いま、公明・創価学会に自民の補完勢力であり続けることへのためらいが見える。内部批判による不協和音が大きいと報道されている。そして、「希望の党」という反共右翼政党の力量は無視しうるところまで落ちた。森友事件以来、維新の勢いも失せている。

 国民の目に見えてきた安倍政権凋落の傾向が、自民党のみならず「安倍友党」の活動力の低下として顕在化しつつある。それこそが、沖縄県知事選と那覇市長選の結果が教えてくれたものではないか。
(2018年10月22日)

私に法曹としての生き方を教えてくれた、反面教師・石田和外

岡口基一裁判官を被申立人とする分限裁判に関して、東京新聞(「こちら特報部」)からコメントを求められた。
私にコメントを求めてくるのだから「その姿勢や良し」なのだが、若い記者に話しをしていて、こちらは共通の事実認識という思い込みが、実はそうでもないことに気がついた。1970年代初めに、司法の独立を守ろうという幅の広い市民運動ないしは民主主義運動があったことが共通の認識になっていない。だから、話しが長くならざるを得ない。

私は、1971年に司法修習を終えて弁護士になった。当時の最高裁長官が石田和外。「ミスター最高裁長官」(在任1969年1月11日?1973年5月19日)といわれた男。その名前を聞くだけで、いまだにアドレナリンの噴出を意識せざるを得ない。血圧も上がってくる。

この男、青年法律家協会に属する裁判官に脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知を強要した。この青法協攻撃を、当時のメデイアは「ブルーパージ」と呼んだ。その象徴的人事が宮本康昭裁判官(13期)の再任拒否てあり、私と同期(23期)修習生の裁判官志望者7名の任官拒否であつた。さらに、最高裁は、これに抗議した阪口徳雄・司法修習生を罷免した。

司法行政がその人事権を行使して第一線の裁判官を統制し、その統制を通じて判決内容を後退させようという意図が目に見えていた。「憲法を守ろう、平和と人権を守ろう」という青年法律家協会に対する攻撃は、自民党(田中角栄幹事長)から始まり、続いた右翼メデイアに、司法行政当局が呼応したものだった。石田和外は、青年法律家協会攻撃記事を掲載した「全貌」(今なら「正論」だろう)を公費で購入して全国の裁判所に配布することまでしている。

石田和外が青年法律家協会攻撃に使った「理論的な武器」が、「裁判官には、客観的中立公正の姿勢だけでなく、『中立公正らしさ』が求められる」「国民からの中立公正に対する信頼が大切だ」というもの。いったい、裁判官に求められる、「中立公正」「中立公正らしさ」とはなにかという論争が巻きおこったが、はしなくも彼自らが決着をつけた。

何と彼は定年退官後に新設された「英霊にこたえる会」の会長になった。言わば、靖国派の総帥となったのだ。これが、「ミスター最高裁長官」のいう「中立公正」の実質なのだ。

もうひとり、定年退官後に公然と右翼活動に邁進した最高裁長官がいる。三好達(在任1995年11月7日 ー 1997年10月30日)。彼は、2001年から2015年まで、あの「日本会議」会長の任に就いている。言わば、右翼の総元締めである。退任後、現在はその名誉会長。そして、靖国神社崇敬者総代でもある。最高裁とはこんな所だ。最高裁のいう「公正中立」の内実はこんなものなのだ。

当時20代の私は、最高裁当局という権力と対峙していることを肌に感じ、怒りに震えた。当時の多くの同期の法曹が同じ思いだったと思う。私は、学生運動の経験者ではない。修習生運動の中で、反権力の立場で法曹としての生きることを決意した。石田和外が、私の生き方を教えてくれたとも言える。石田和外は、若い私を鍛えた反面教師だった。最高裁は、青年法律家協会を弾圧したが、同時に多くの法曹活動家を育てたのだ。

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下記は、先月ある学習会で語る機会あって、作ったレジメである。目を通していただけたら、だいたいのところをお分かりいただけるのではないか。

 友愛政治塾講義レジメ 弁護士 澤藤統一郎

 「裁判を通した司法制度の問題点」・体験的司法制度論

第1 権力構造における司法の位置
 1 建前としての司法の役割
   (1) 権力の分立
      立法・行政とのチェック&バランス
      権力抑制のための分立というだけでなく、
      法の支配(法治主義)を前提とした政治・行政のサイクル
   (2) 人権救済を本来の使命とする司法
      「天賦人権」という根本価値の擁護
      司法・行政から独立して、これをチェックする役割
 2 所詮は国家権力機構の一部という本質(実態)
    国家権力からの支配・介入
    常にある社会的圧力
第2 司法の独立とその限界
 1 司法は独立していなければならない⇒が、それは至難の業である。
 2 司法の独立とは、公権力・政権与党・社会的多数派からの独立である。
 3 司法の独立の実体は、個々の裁判官の独立である。
第3 司法行政が司法の独立を侵害している。
 1 裁判官人事が、司法行政による司法の独立侵害の手段
 2 採用・10年ごとの再任・任地・昇進・昇給による差別と支配
 3? 司法行政の主体が司法官僚。司法官僚制が諸悪の根源である。
第4 1971年 体験的司法反動論
 1 前史 1960年代の民主主義運動の高揚 労働運動・市民運動・学生運動
    ⇒裁判所の変化? 憲法理解の深化と判例の良質化
    ⇒これに対する反動化 自民党・右翼メディア・旧時代裁判官の台頭
 2 石田和外体制の確立
    青年法律家協会攻撃(自民党・右翼メディア・最高裁)
    70年22期任官拒否2名・局付き判事補の青法協会員脱退届
 3 71年4月 23期任官拒否7名。宮本康昭13期裁判官再任拒否。
    修習修了式での抗議を理由に、阪口徳雄司法修習生即日罷免。
 4 全国的な抗議運動⇒「司法の独立を守る国民会議」結成。
    「司法の嵐」といわれた事態に。ヒラメ裁判官の跋扈。忖度裁判。
    ⇒「権力掣肘」「人権の砦」としての裁判所の後退
 5 市民の側からの反撃の課題
    司法官僚制をどう打破するか。
    重いテーマとしての法曹一元。全裁判官を弁護士経験者から。
    裁判官の市民的自由の保障。裁判官生活の閉鎖性打破の重要性。
     (寺西和史・分限裁判での戒告。そして今、岡口基一が)
    最高裁裁判官任用手続の改善。下級裁判所裁判官についても。
第5 幾つかの訴訟経験から
 1 岩手靖国訴訟
    最低最悪の一審判決を書いたのは、元訟務検事(仙台訟務局長)。
    公式参拝違憲の控訴審判決を書いた裁判長は、3日後に退官。
 2 市民平和訴訟
    高額印紙問題が示すもの
    司法の役割とはいったいなんだ。
 3 「日の丸・君が代」強制拒否訴訟
    どうして最高裁は違憲と言わないのか。
第6 韓国憲法裁判所訪問の衝撃
 1 遠慮のない違憲判決 市民のための裁判所を標榜する姿勢
 2 それでもなお、多々限界は見える。
 3 司法だけが民主化することはあり得ない。
第7 司法消極主義批判と(逆)司法積極主義批判
 1 これまでは、最高裁の憲法判断回避の司法消極主義を批判してきた。
 2 今や、司法消極主義がマシ。(逆)司法積極主義を警戒すべきの論調が台頭。

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この続きは、ぜひ、11月17日(土)の日民協・司研集会にご参加を。

国策に加担する司法を問うーー第49回司法制度研究集会へのお誘い
https://article9.jp/wordpress/?p=11283
(2018年10月21日)

人は「日の丸・君が代」を押しつけられて生くべきものにあらず

「人はパンのみにて生くるものにあらず」は、古今を通じての出色の名言。
マタイ伝の文語訳では、「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」となっているそうだが、これは凡人の一文。後半を切り捨てることによって、名言となった。

「人」の対語は、禽獣である。禽獣にとっては、生きるための糧を得ることが、生きることのすべてである。しかし、人はパンを糧にした肉体の維持でこと足れりとはならない。人が人たるには、そして自分が自分たるには、固有の精神生活が不可欠なのだ。

人の精神生活は本来的に極めて多様である。極めて多様な精神生活のあり方が、人の多様な個性を形作る。人それぞれに関心の対象も趣味も嗜好も異なる。思想も信仰も感性もさまざまである。歴史の知恵は、社会も国家も、可能な限り人の精神生活の多様性に寛容でなくてはならないことを教えている。

おそらく、「奴隷とはパンのみにて生くることを余儀なくされた者」である。奴隷には、パンを糧にした肉体の維持のみが保障され、精神生活の自由の保障がない。この点において、禽獣ないしは獣畜と同様の扱いである。したがって、奴隷は人でありながら人でない。人として扱われない人ということになる。

人の精神生活の基礎には自尊の心情がある。また、極めて多様な他人の精神生活に寛容であるためには、他の人の人格の尊厳を認めなくてはならない。寛容とは、人を差別せず、すべての人の人格の尊厳を認めるということである。

すべての人は、等しく人格の尊厳を有しているのだ。これが、この社会の公理である。人格の尊厳を否定する最も極端な行為が殺人である。他人を傷害し欺し盗むことも他人の人格の尊厳を損なう罪悪である。同様に人を差別することは、差別された人の人格の尊厳を損なう点において罪悪にほかならない。

人種・民族・性・心身の障害によって、また出自によって人を差別することは、人の先天的な属性によって、人格の尊厳を傷つける罪悪である。信仰や思想による差別も、深刻に人格の尊厳を損なう罪悪である。

差別の痛みは、常に差別される少数派にある。多数派の同調圧力が少数派の人権をないがしろにする。多数派には、少数派の思想や信仰を侵害することのないよう配慮が求められる。

さて、ここから具体的な問題について触れておきたい。
少数派に対する思想差別とは、多くの場合多数派の社会的同調圧力が少数派の人格を侵害するものであるが、社会的同調圧力が政治権力と結びつくときには、深刻な事態となる。ナショナリズムに関する思想問題がその典型といえよう。

最も警戒すべきは、愛国心の押しつけである。国民国家の多数派は、社会的同調圧力によって全国民に愛国心を強要するだけでなく、政治権力をもって愛国の行動を強制する衝動をもっている。愛国派は、無邪気ににも「愛国こそ正義」と信じて疑わないからである。

「日の丸・君が代」の強制は、そのようなナショナリズムの負の側面が強く表れたものである。これは、愚かというだけではなく、文明に反する野蛮な権力の行為というほかはない。

「人はパンのみにて生くるものにあらず」とは、すべての人に侵しがたい精神生活の尊厳が必要であることを喝破している。それゆえに名言なのだ。「日の丸・君が代」を受容しがたいという思想信条や信仰を有する人に、「起立せよ・斉唱せよ」と強制する為政者は、この名言を肝に銘じて反省しなければならない。
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明日(2018年10月21日(日))は、日本軍国主義による「学徒出陣」の日。また、「国際反戦デー」の日。「子どもたちを再び戦場に送らない」決意を新たにする日。この日に、学校に自由と人権を!10・21集会」が開催される。

時 13時15分開場 13時30分開会
所 千代田区立日比谷図書文化館(日比谷公園内 日比谷野外音楽堂隣)

 講演「経済を壊死させる下心政治?さらば闇軍団?」
    浜矩子(同志社大学教授・経済学・アベノミクス批判)
 講談「三面記事の由来」(明治の反戦ジャーナリストの物語)
    甲斐淳二さん(社会人講談師・香織倶楽部所属)
 特別報告「『君が代』訴訟と憲法」
      加藤文也弁護士(東京「君が代」裁判弁護団)
(2018年10月20日)

憲法の砦としての司法に対する信頼を損ねているのは、いったい誰なのだ ? 岡口基一分限裁判批判

一昨日(10月17日)、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人最高裁長官)は東京高裁岡口基一裁判官に対する分限裁判で、同裁判官を戒告した。そのツイッター投稿が裁判所法49条にいう「(裁判官の)品位を辱める行状」に当たるとしたのだ。この決定全文は、下記のURLで読むことができる。

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/055/088055_hanrei.pdf

これは看過し難い。何が問題なのか。司法行政が個々の裁判官を過剰に統制していることである。あるべき司法の独立とは、司法府が、立法府や行政府の圧力から独立しているだけでは足りない。司法の独立の神髄は裁判官の独立にある。個々の裁判官は司法府の上層部から、とりわけ司法行政から独立していなければならない。

司法行政は、裁判官の人事権を掌握している。個々の裁判官が、昇進・昇格・昇給・任地・再任等々への影響を懸念することなく、裁判官としての職業的良心にしたがった判断をなし得るよう保障されていなければならない。岡口懲戒は、この要請に反して、個々の裁判官の独立に水を差すものとなった。むしろ、最高裁は裁判官の萎縮という効果を意図してこの決定をしたものと考えざるをえない。

憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。司法行政からの独立が保障されているのだ。独立とは、統制からの自由ということだ。

しかし、司法行政当局は個々の裁判官を統制したいのだ。個々の裁判官の自由よりは司法府全体の秩序を望ましいとする。裁判官の統制を通じて、判決内容も、自ずから統制されることにならざるを得ない。その統制の方向は、国民の自由よりは国家や社会の秩序重視に傾いた判決である。

問題とされた岡口裁判官の判決批判は、市民的自由の範囲の言論に過ぎない。けっして、非礼でも、奇矯でもない。もちろん、没論理でも非理性的なものでもない。司法行政からの独立を保障されている裁判官として、矩を越えたものとは考えられない。また、そのように考えてはならないものというべきであろう。

司法行政当局は、敢えて岡口裁判官の市民的自由の行使を懲戒することで、裁判官統制の手段に利用した。岡口裁判官ではなく、裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだ。

個々の裁判官の独立のメルクマールは、裁判官の市民的自由保障の有無・程度にある。司法行政当局は裁判の市民的自由行使を嫌うが、裁判所とは、秩序維持の名のもとに自由や人権を侵害された国民がその救済を求める場である。その裁判所で、裁判官の自由や人権の保障が十分でなければ、それこそ裁判所は、国民の信頼を失うことになる。

さすがに最高裁と言えども、裁判官の市民的自由を否定することはできない。戒告の決定の論理構造も、「憲法上の表現の自由の保障は裁判官にも及び,裁判官も一市民としてその自由を有することは当然である」ことを原則とはしいる。しかしながら、「被申立人(岡口)の行為は,表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ない」としている。

では、「一般市民とは異なる裁判官に許容される限度」たる一線はどこにあるのか、それを意識的に示して裁判官の発言の自由を保障しようというものになっていないところが歯がゆい。そして、誰もが関心を示していた、司法行政が個々の裁判官の独立の気概を損ねることになってしまいはせぬかという危惧に対する配慮は見えてこない。

大法廷決定はこう言う。
裁判所法49条…にいう「品位を辱める行状」とは,職務上の行為であると,純然たる私的行為であるとを問わず,およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね,又は裁判の公正を疑わせるような言動をいうものと解するのが相当である。

キーワードは、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」であるごとくである。しかし、「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、裁判批判を封じた権威主義から生まれるものではあり得ない。「他の裁判官の結論にはものを言うな」とは、さすがに大法廷も言えない。だからこう言っている。「その内容を十分に検討した形跡を示さず,表面的な情報のみを掲げて,…一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えた」から非難に値するというのだ。

大法廷決定が、裁判所法49条を解釈するに際して、憲法76条3項を斟酌した形跡はない。最高裁大法廷は、裁判官が統制に服し秩序を保って社会的発言を控え、確定判決の批判もしないことが、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」に資するものと考えた。しかし、常にものには二面がある。「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、実は裁判官の独立あってのものではないか。果たして市民は、最高裁の顔色を窺うヒラメ裁判官ばかりの裁判所を、憲法の砦、人権擁護の府として信頼するであろうか。

残念だったのは、大法廷決定が、裁判官14人全員一致の意見だったこと。本来、これはあり得ない。寺西分限裁判では5人の反対意見が救いだったが、今回はその救いがない。最高裁大法廷は、全員一致で、国民の司法府に対する信頼を損なう決定をしたとも言えるのだ。
(2018年10月19日)

むき出しとなった権力の正体

1933年2月20日、天皇制警察は小林多喜二を虐殺した。文字通りの残虐ななぶり殺しだった。

陰惨極まりない拷問死の死体の解剖はどの病院からも拒否され、遺族に返された遺体を医師・安田徳太郎が検死している。権力批判のペンを握っていた多喜二の右人差し指は、手の甲の方向にへし折られていた。明らかにこの虐殺は、天皇制国家による作家多喜二の言論活動に対する報復であり、見せしめであった。

母親(セキ)は多喜二の身体に抱きすがった。「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

この母の慟哭を忘れてはならない。これが権力の本性だ。遠いどこかの世界のできごとではない。わが国に現実に起きた無数の類似の事件を象徴する最も知られた権力の犯罪。

ジャマル・アフマド・カショギは、メディアで「反体制派のサウジ人著名ジャーナリスト」と紹介される人。本年(2018年)10月2日、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館の総領事室で殺害された模様である。これも、多喜二同様の陰惨な虐殺であったことが、次第に明らかになりつつある。

忘れてはならない。これが権力の本性だ。昔話ではない。まさしくたった今、現実に起きた、権力批判の言論活動への報復としての国家犯罪。

「有効な国民の制御がないところでは、権力は暴走する」というのは不正確な言い回しではないか。「権力は暴走する」のではない。「権力は本性をむき出しにする」のだ。多喜二もカショギも、その権力批判の言論活動のゆえに、権力の憎悪の対象となり虐殺された。

忘れてはならない。権力の正体の恐ろしさを。常に権力を監視し批判し続ける必要性を。そして、多喜二やカショギを虐殺した権力を支持する勢力は、今なお、わが国にも厳然として存在し続けていることも。
(2018年10月18日)

面従腹背は、悲哀か救いか

文部科学省の新事務次官に同省の藤原誠官房長が就任した。昨日(10月16日)藤原新次官は、職員向けのあいさつで「文科省の組織文化の形成過程をきちんと検証していかなければならない」と述べ、「面従腹背はやめましょう」と呼びかけたという。

これだけの報道なら分からんでもない。しかし、新次官が述べた「面従腹背やめましょう」の具体的内容が問題だ。
(1)仕事で議論すべきときは議論する
(2)大臣をはじめ上司が決めたことには従う
(3)いったん決めた後は議論のプロセスをむやみに外に漏らさない
の3つだという。いったい何だ、それは。

そもそも、ツラ(面)とハラ(腹)とは、違うぞなもし。ツラ(面)は世の中と向き合ってるとに、ハラ(腹)は自分自身と向き合っちょる。そやけん、ツラ(面)は世の中に合わせんばならんとに、ハラ(腹)までツラ(面)とおんなじにしたらば、自分ちゅうもんがないようになるぞなもし。次官はそこまで求めとるごつやね。

べらぼうめ、ツラ(面)とハラ(腹)とが違ってたまるか。ツラ(面)とハラ(腹)とを別々になんぞという芸当ができるのはろくろくッ首くらいのもんだろう。面従腹背やめましょうは、あったりまえのことだろう。

いんや、面従せにゃならんが宮仕えのつらいところ。世のしがらみはどもこもならん。せめて自分の腹のうちだけは自分のものにとっておこうということぞなもし。

なもしも菜飯もあるか。面従なんぞするから、腹背しなきゃならなくなる。最初から、面従よせばよい。まず、ハラ(腹)をきめる。決めたとおりのツラ(面)をしてればよいだけのことじゃないか。

それでも、「上司が決めたことには従え」ぞなもし。次官だって、「大臣の決めたことには従え」やし、その大臣も「総理の決めたことには従え」「上の上の考えを忖度しろ」ということぞな。

ウーン。「顔で笑って腹で泣く」。ほんに男はつらいよってことか。

いんや、「顔で笑って腹で泣く」のは面従腹背。そんなこつは許さんちゅうのが、「面従腹背やめましょう」ということぞなもし。
(2018年10月17日)

安倍晋三から自衛隊員諸君に朗報をお伝えする。自衛隊は「災害救助隊」に、防衛省は「災害救助省」に衣替えします。

観閲式に臨み、自衛隊最高指揮官内閣総理大臣安倍晋三から敬愛する自衛隊員諸君に対する訓示の機会を借りて、重大かつ慶賀な発表を申しあげる。

冒頭、この夏に相次いだ自然災害によりお亡くなりになられた方々の御冥福をお祈りするとともに、被災された全ての皆様に、心よりお見舞いを申し上げます。
その被災現場には、必ず、士気旺盛な自衛隊員諸君の姿がありました。民家が土砂に押し潰されている。土砂崩れの一報に、君たち隊員は、倒木を乗り越え、ぬかるみに足をとられながらも、休むことなく歩き続けました。体力の限界が近づく中、立ち尽くす御家族を前に、最後の気力を振り絞り、全員を救出した。
「さすが自衛隊」。被災者の方々にそう言っていただける能力、そして、何よりも、その志の高さを改めて証明してくれました。自衛隊の災害派遣実績は、これまで実に4万回を超えています。
自然災害だけではありません。悪天候で交通手段が断たれてしまう離島において、患者の命を救うには、一刻の猶予もない。こうした中での緊急輸送は、正に、君たち自衛隊員が国民の命綱です。
11年前。一人の女性の容態が急変し、危険な状態に陥っているとの一報が、那覇駐屯地に入電しました。建村善知一等陸佐率いる4人のクルーは、躊躇なくヘリに飛び乗り、鹿児島県徳之島に向けて、漆黒の闇が広がる空へと飛び立っていきました。
現地は、一面の濃霧が広がり、着地目標のグラウンドは、視界不良。垂れ込めた雲が進入を阻みました。
容態は一刻を争う状況の下で、建村一等陸佐は、これまでの4,800時間を超える飛行経験と自衛官人生の全てを傾け、着陸に挑み続けました。地上の管制官に、近くの徳之島空港への着陸調整を依頼するなど、最後まで決して諦めませんでした。これに応え、地上にいる隊員たちも、最善を尽くしました。
「ありがとう」
管制官への感謝の言葉が最後となりました。4人が再び基地に戻ることはなかった。建村一等陸佐は、かつて、部下の隊員たちに、こう語っていたそうであります。
「自分たちがやらなければ、誰がやる。」
全国25万人の隊員一人一人の、高い使命感、強い責任感によって、日本は、日本国民は、守られている。
事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託に応える。諸君の崇高なる覚悟に、改めて、心から敬意を表します。
私は、自衛隊の最高指揮官として、諸君と共に、あらゆる災害から国民の命と安全を守り抜き、次の世代に引き継いでいく。そのために全力を尽くす覚悟です。

今や、国民の9割は敬意をもって自衛隊員に接するようになっています。自衛隊発足以来の60有余年、自衛隊は、憲法違反の存在であるとか、あるいは軍国主義復活の危険を宿しているなどと、国民からは厳しい目で見つめられてまいりました。
自衛隊員諸君はさぞかし肩身の狭い思いをしてこられたものと思います。しかし、そんな国民の疑心を次第に払拭してきたのが、災害派遣の実績です。

かつては、自衛隊法における隊の本務は、外国の侵略に対しわが国を防衛する防衛出動と、公共の秩序維持にあたる治安出動のみとされていました。それだけでは旧軍隊と大した変わりはありません。国民から胡散臭い存在とみられるのも故なきこととは言えなかったのです。いま、数次にわたる自衛隊法の改正を経て、災害・地震防災派遣、原子力災害派遣などが本務として追加されています。

防衛出動とは自衛のためとはいえ、戦争において戦闘を命じることです。戦争とは所詮大量殺人と大量破壊行為以外の何ものでもありません。治安出動とは、市民運動や労働運動を武力をもって制圧することにほかなりません。心苦しくも、これまで自衛隊員諸君には、日ごろ、この大量殺人・大量破壊、国民制圧の訓練に精進していただいてまいりました。君たち隊員諸氏も、たいへん不本意であったことと推察いたします。
しかし、君たちは歯を食いしばり、ひたすらに殺人と破壊・市民弾圧の訓練に明け暮れ、その技倆を磨いてきました。本当に御苦労さまでした。そう、ねぎらわずにはおれません。

そこで、新たな提案を申しあげたい。今般、自衛隊法を改正して、自衛隊の任務から防衛出動と治安出動を除外することとしたい。自衛隊の本務は、災害・地震防災派遣、原子力災害派遣のみとなる。
この際、その本務にふさわしく、自衛隊は災害救助隊に、防衛省は災害救助省に名称を変更して、隊員には存分にその誇りを胸に、果たすべき役割を全うできるようにしたい。

御家族の皆様。
大切な伴侶やお子様、お父さん、お母さんを、隊員として送り出してくださっていることに、最高指揮官として、心から感謝申し上げます。送り出していただいた隊員について、これまでは、戦地で人を殺したり殺されたりするのではないかというご心配をおかけしておりましたが、これからは、一切そのようなご心配は無用に願います。

そして、隊員諸君。
諸君には、もう、殺戮や破壊のための訓練は不要です。ひたすらに、災害救助の訓練に邁進していただきたい。それこそが、全ての自衛隊員が強い誇りを持って任務を全うできる環境を整えるということであって、今を生きる政治家の責任であります。私はその責任をしっかり果たしていく決意です。
これまで君たちは、災害があれば被災地で被災した人々の救助のために働き、救助が終わると駐屯地に戻って、大量殺戮と大量破壊そして、デモ隊鎮圧などの訓練に邁進したきたが、こんな二重性格を強いられることはもうありません。

もちろん、隊の所有機材も災害救助隊にふさわしいものにしていく。まずは、迷彩服は止めて、災害救助に最も適切な目立つものにする。被災者や共同して働く誰からも鮮やかによく目立つ斬新な制服のデザインを募集することとしたい。

こうすることによって、もうけっして、君たちを「違憲の存在」と陰口をたたいたり、軍国主義復活のおそれあると疑ったりする者はなくなるだろう。
自らの職責の重要性に思いを致し、気骨を持って、国民生活の安全のために、ますます精励されることを切に望み、私の訓示といたします。

(近い将来のいつか、このような内閣総理大臣訓示を聞きたいものと思う)
(2018年10月16日)

イエス・ワコール、ノー・DHC

「『実習生の人権侵害ないか』ワコール、委託先に異例調査」「人権軽視は経営リスク…実習生制度に批判、企業も危機感」という本日(10月15日)の朝日デジタル記事。これは立派なものだ。まずは、ワコールに敬意と賞讃の意を示したい。そして、いち早くこのことに着目して記事にした朝日にも敬意を表さねばならない。

私はワコールという企業についてほとんど何も知らない。ブランドイメージの認識もない。しかし、外国人技能実習生の人権に配慮することで、ブランドイメージを維持し向上しようという、この企業の姿勢を好もしいと思う。ヘイト丸出しのDHCとは、月とスッポン、提灯と釣り鐘、それこそ雲と泥との差。民主主義国日本の消費者は、コンプライアンス重視のワコールの経営を順調に育てなければならない。また一方、在日差別を広言してスラップを濫発するDHCの経営に懲罰を与えなければならない。そのような消費者の企業選択の行動を通じて、よりよい社会の構築がはかられるのだ。

朝日はこう報じている。

 女性下着大手のワコールホールディングス(HD、本社・京都市)が、自社製品の製造工程にかかわるサプライチェーン(製品供給網)に、外国人技能実習生の人権を侵害している会社がないかどうかの調査を始めた。賃金不払いなどの不正行為があれば改善を求める。応じない場合は取引そのものを見直す。

 グループ会社にとどまらず、製品の調達元までさかのぼって外国人を人権侵害から守ろうという取り組みは日本の企業では異例だ。技能実習制度への批判が国内外で高まるなか、人権を軽視すれば企業ブランドに傷が付きかねないリスクが企業を動かしたかたちで、同様の動きが他企業に広がる可能性もある。

 調査は、ワコールHD傘下のワコールとルシアンが今夏から始めた。主力の下着ブランド「ワコール」「ウイング」の国内の生産委託先60工場のうち、外国人労働者が働く約40工場が対象で、計538人の技能実習生が働く。40のうち32工場はグループと資本関係がない取引先だ。

 ワコールHDの社員らが全国の工場を訪ね、「この3年間に労働基準監督署などから是正勧告を受けていないか」「実習生の労働時間はタイムカードなど客観的な記録があるか」「賃金は最低賃金額以上を払っているか」など約25項目をチェックする。

 工場側には、実習生との雇用契約書、労働条件通知書など約30の書類を用意してもらう。実習生の受け入れ窓口となっている監理団体が、企業を監査した結果を記した報告書もチェックする。同社は「現場の責任者に実習生の人権に関して意識を高めてもらうのが狙い」と説明する。

 調査は年度内に終える予定。不正行為があれば見直しを求め、隠したり改善指導に従わなかったりすればサプライチェーンから外し、取引を打ち切る場合もある。

さて、ワコールはどうしてこのような「異例の」決断をして調査に乗り出したのか。
今春、ワコールHDのグループ会社の生産委託先で実習生に対する賃金未払いの疑いが浮上。『人権重視』を掲げていた同社は、経産省の要請に応じて、先陣を切って大規模調査に踏み切った」のだという。

ワコールHDのコメントが引用されている。「ブランドに対する信頼は想定以上にもろい。サプライチェーンに、技能実習生受け入れ企業を迎えるリスクを認識する必要がある」(IR・広報室)というもの。

「ブランドに対する顧客の信頼」が「人権重視」にかかっているという認識なのだ。ワコールホールディングスのホームページを開いてみた。CSRのコーナーがたいへん充実している。
(CSRとは、corporate social responsibilityの略語。企業の社会的責任と訳される)
https://www.wacoalholdings.jp/csr/index.html

経済・環境・社会、
すべてにおいて、持続可能な未来のために。
社会から存在を期待される企業で
あり続けるために。

企業においては、商品やサービスをお客さまに提供するだけでなく、
環境への配慮、社会への積極的な貢献、そして法令遵守や人権尊重といった、
「企業も社会を構成する一員」であることを自覚した活動が求められています。

人権の尊重 人を大切に
「ワコールの行動指針」では、人権に関して次の方針を明示しています。
人権を保護し、個人を尊重します
安全、清潔、快適な職場環境を維持します
安全な商品を企画、研究・開発し、生産、販売します

個人の尊重
ワコールはお互いの人権を守り、人としての品格を備え、切磋琢磨し、深い人間愛に満ちた集団であることを目指します。個人を尊重し、従業員の持つ多彩な能力と多様性を、最も価値のある資産のひとつとして、自律型人間集団を作ることを目指しています。

職場での差別の禁止
職場においては、すべての人が公正に処遇されなければなりません。国籍、人権、皮膚の色、宗教、性、性的傾向、年齢、家系、出身地、知的および身体的障がい、健康上の問題、社内での地位、その他、人権に係わるすべての不当な差別や嫌がらせを絶対に許さず、厳重に処分することを定めています。
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地域の活動に参加
京都人権啓発企業連絡会に加盟し、積極的に人権啓発運動に参加しています。また、京都人権啓発企業連絡会による「人権に関するビデオ」を用いて、新入社員教育を行っています。

セクシャルハラスメント、パワーハラスメントへの取り組み
ワコールグループにおいては、「相互信頼」の精神のもと、従業員全員が、社内はもちろん、社会の人々に信頼される人間たることを、強く願い求めてきました。「個人の人格権に関わる基本方針と取り組みについて」通知をおこない、未然に防止し、排除する体制を整備しています。
個人としての尊厳を不当に傷つける社会的に許されない行為であるとともに、従業員の能力の有効な発揮を妨げ、会社にとっても職場秩序や業務の遂行を阻害し、社会的評価に影響を与える問題と認識しています。
禁止行為及び取り組み事項を定めるとともに、通報者である従業員のプライバシーを保護し、相談・苦情による不利益な取り扱いを受けることがないように十分配慮をしています。
各事業所には、相談・苦情窓口を設置しており、社内ホットラインの利用も含め、誰でも遠慮なく相談することができます。また、苦情や相談内容についての秘密やプライバシーは固く守られ、迅速で的確な対応がとられています。
人事部の相談・苦情窓口担当者が外部研修に参加し、対策立案に役立てています。
意識啓発と未然防止等を目的に、管理職層対象研修を実施しています。
年2回、「セクハラ・パワハラ防止体制について」の通知をイントラネット上で行い、周知を図っています。
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安全な商品(消費者の権利)
お客さまの視点に立った安全性の高い商品は、ワコールにとって当然の責務であり、消費者の人権を尊重し、安全・安心を大切にし、また信頼される対応を心がけます。

これまで知らなかったが、ワコール立派なものではないか。これに比較する目で、DHCのホームページを眺めてみよう。
https://top.dhc.co.jp/company/jp/
みごとなまでに何にもない。IRも、企業倫理も、CSRもまったくないのだ。あるのは商品宣伝だけ。儲け以外には、なんの関心も示されていないのだ。

朝日よ。ワコール賞讃の記事を書くだけでは、不十分ではないか。きちんと、ヘイト企業DHCを取材して、その実態を報道してはどうだ。朝日が書けなければ、志あるジャーナリストよ、出でよ。
(2018年10月15日)

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