「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」が、『佐川国税庁長官(前理財局長)の罷免を求める1万人署名運動』に取り組んでいる。
ネット署名の締め切りは8月20日(日)24時まで。あと一週間。署名のフォームは、下記のURL。是非ご協力いただきたい。拡散もお願いしたい。現在の署名者数は、約5000くらいと思われる。
http://bit.ly/2uCtQkK
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佐川宣寿国税庁長官昇進問題の持つ意味について、私なりに考えてみたい。
森友学園問題・加計学園問題とも、安倍晋三というお粗末な政治家が過剰な権力を持ったことから生じた政治と行政の歪みである。政治と行政の歪みの手段は、恣意的な情報操作である。消極的には権力に不都合な情報の隠蔽であり、積極的には意図的に人心を誘導するための情報の捏造である。
8月15日が近い。「政府の行為によって再び戦争の惨禍を繰り返してはならない」という反省と決意は、「大本営発表」によって国民意識が操作され誘導された苦い体験にもとづく、情報民主主義の徹底でもあったはずではないか。
民主主義の政治過程を実効あるものとするためには、国民の知る権利の保障が不可欠である。情報を遮断された状態での国民は真の主権者ではあり得ない。情報操作の対象とされた主権者は裸の王様に過ぎない。主権の行使に必要な正確な情報を得ることのできない状態では、民主主義は成立し得ない。操作され誘導された国民の政治意識も政策的選択も無意味である。選挙での与党勝利も、世論調査での内閣支持率も、所詮は茶番であり民主主義の形骸に過ぎない。こうして維持された政権は、再びの大本営発表を繰り返すことになるだろう。
佐川宣寿理財局長とはいったい何をしたのか。安倍政権が政治と行政を歪めたのではないかという国民大多数が抱いた疑惑の解明を頑なに阻止したのだ。情報を徹底して隠蔽することによって政権を守り抜いたのだ。安倍政権は、露骨な論功行賞で、この功に報いた。理財局長から、国税庁長官への栄転である。
安倍晋三は、「政権に忠実な犬には昇進のご褒美がある」と、実例をもって示した。言い換えれば、「公務員は国民に忠実であってはならない。政権にこそ忠誠を尽くせ」と、誰の目にも分かるようにデモンストレーションしたのだ。
佐川理財局長のみっともなさは、官僚としての良心を捨てて、国民の疑惑解明要望の声に背を向けたところにある。自らの良心と格闘しながら、情報を開示する努力を放棄して、疑惑を糊塗するための記録の隠蔽、記憶の偽証をやってのけたのだ。その苦しい努力は無駄にはならず、昇進に実を結んだ。これこそ、政権が望むところであることが雄弁に語られた。謙虚に丁寧に説明するという安倍政権のホンネがよく分かろうというもの。
この事態を看過してはならない。民主主義を形骸にさせてはならない。主権者としての不断の努力を怠ってはならない。せめては、佐川宣寿国税庁長官の罷免を求める1万人緊急署名運動を成功させようではないか。
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*紙による署名も、8月20日(日)までの到着なら可。
郵便局局留め宛分は → 8月18日(金)到着分までとなる。
下記のURLを参照のこと。
http://bit.ly/2ub1F8W
なお、下記のURLで、リアルタイムのネット署名数と、添えられた意見を読むことができる。(署名者の氏名は秘匿されている)
http://bit.ly/2h5AR94
これがとても興味深いコメントになっている。中心になっている醍醐聡さんから、下記のメールがあったので転載する。
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ネット署名に添えられたメッセージを読んでいきますと、手前みそのようですが、佐川国税庁長官の罷免を求める署名運動に共感が広がっていることを実感します。私にとって、運動の糧にもなっています。
まだでしたら、皆さまも、ぜひ、訪ねていただいて読んでいただけたらと思います。
ネット署名に添えられたメッセージ → http://bit.ly/2h5AR94
私の拙い呼びかけよりも、いろいろな体験をされた方の貴重なメッセージを読んでいただくのが一番と思い、その後、届いた中から、いくつかを紹介させていただきます。
署名簿を添えた罷免の申しれは8月21日(月)となりました。
それに伴い、署名の締め切りを8月20まで延長しました。
詳しくは以下をご覧ください。拡散もお願いします。
・「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」HP
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/1-2e8c.html
・ツイッター
https://twitter.com/toketusa98/status/895867223776022529
————–以下、ネット署名に添えられたメッセージより —————–
「この要求が通らなければ、今後確定申告時に『領収書は廃棄した』『自動的に消去された』という申告者が殺到すると思うが当然受け入れてもらえますよね?」(8月10日、埼玉県)
「安倍政権、官僚の不誠実さに憤り、もどかしい思いをして居ました。この思いを共有できる人達がいるのが何とも嬉しく、諸兄らの活動に加えて頂けたら…署名しました。此の輪が日本全国に広がるのを期待します。」(8月10日、愛知県)
「私は、財務省外局のOBです。と言っても、佐川氏のようなエリートではなく、いわゆる木端役人でした。しかし、就職時には憲法・国公法遵守の宣誓をし、在職中も出来る限り公正な行政にすべく努力してきたつもりです。少なくとも知っていることを『知らない』とシラをきったり、会〔ママ〕ったことを『記憶にない』ととぼけたり、などと言うふざけた回答をしたことはありません。又、関係者(内外とわず)との会議や交渉事があれば、全て記録に残しておくのは当たり前でした。”すぐ廃棄”などしたら、それこそ『処分物』でした。しかし、残念ながら財務省では、いけしゃあしゃあと嘘をつける人間の方が出世すると言うのは、私の在職中から全く変わっていないと言うのも実感です。この際、こういう財務省の体質にメスを入れ、少しでも国民目線の役所に転換してほしいと切望します。このままでは、『財務省OBです』なんて、とても知人に名乗れません。」(8月11日)
「JALは2007年に最大労組と一体となって、約1万人の客室乗務員の個人情報をファイルしていたことが発覚しました。1回目の裁判で会社が認諾し裁判から逃げましたが、5名の管理職が関与していたことが明らかになりました。その関与していた管理職らが、何とその後昇格をしたのです。違法なことをしても昇格をできるというという世界はJALだけではありませんでした。この度の佐川氏の国税庁の長官への就任でふと思い出しました。佐川氏は1企業の役員ではありません。国民の税金を預かる大事な立場です。就任にあたり公正な税のあり方云々を述べて言いますが、森友問題で8億円もの税金を明快な説明もなくうやむやにしようとした方が、公正な税の扱いを述べる資格はありません。よりにもよってなぜそのような立場につけるのか理解できません。就任の記者会見もできないような後ろめたいことがある方に、国民の税金を任せるわけにはいきません。マスコミももっと追究すべきです。」(8月12日、神奈川県、JALで解雇された者)
「総理大臣はじめ、政府要人、官僚が臆面もなく虚偽発言を押し通す。証拠を隠滅する。公文書を可能な限り公開しようとしない。それが日本の現政権下では常態化してしまっています。国政・地方(必ず同時)選挙で、投票率85%前後、しかも、死票を4%前後に止める完全比例代表制の選挙制度を採用する政治的民度の高いスウェーデンからは、日本は民主主義の後進国と見做されます。こういう政治状況を変えるのは,市民の異議申し立て、抵抗運動以外にありません。憲法16条の請願権を最大限に活かすことが肝要です。これは市民の権利であり、これを活かすことによって民度を高め、ジャーナリズムにも本来の使命へと軌道修正させることにもなります。」(8月10日、スウェーデン)
「嘘つきは泥棒の始まり。泥棒が税金を集める国なんて聞いたことがありません。国税不払い運動が起こる前に罷免を。」(8月10日、岐阜県、ジャーナリスト)
「食もままならない子どもたちが増え続ける中、為政者の意を受け、巨額の国家資産を一部の人たちに還流する。国家公務員の任に非ずです。今直ぐ職を辞し、真実を述べるべきです。」(8月10日、アムネスティ京都四条の会)
「このような運動をしてくれている人がいることを知って大変嬉しく思いますぜひ目的を達成したいです」(8月10日、東京都)
(2017年8月13日・連続第1596回)
定番のコースとして上野の杜を散策したあと、久しぶりに湯島の旧岩崎邸に足を運んでみた。ちょうど、ボランティアのガイドさんが1時間の予定で説明してくれるという。熱心なガイドさんから4人のグループで懇切な説明を受けた。多くの知らないことを教えてもらった。
ここは、敷地の一角に司法修習の場である司法研修所があったところ。
「司法修習は1947年にはじまる。同年採用者が修習1期になる。それ以前の敗戦後2年間は新旧制度の端境期にあたり、それぞれ、高輪1期、高輪2期とよぶ。これは当時の司法研修所の仮庁舎が高輪にあったことによる。1948年6月に紀尾井町の新庁舎に移転した。現在は埼玉県和光市にある。」(西川伸一)
司法研修所は、1948年6月から71年4月まで千代田区紀尾井町3番地にあった。私は23期で71年4月修習を終了しており、紀尾井町庁舎最後の修習生だったことになる。湯島の旧岩崎久弥邸内に研修所があったのは、71年4月から94年4月まで。その後は、埼玉県和光市の現庁舎に移転して20年余になる。今の修習生は70期。新憲法制定以来の年数とちょうど重なることになる。
だから、私にとって紀尾井町のオンボロ木造研修所の修習時代が懐かしいが、湯島の庁舎に足を踏み入れた経験はない。2?3度門前でビラを撒いたことがある程度。もっぱら、旧岩崎邸はキャノン機関のアジトとしての印象。作家、鹿地亘(かじ・わたる)拉致監禁事件の舞台としてのみ、なじみが深い。
今日、知ったこと。
旧岩崎邸のこの敷地は、元は越後高田藩榊原家の中屋敷であった。1878年に、当時の所有者牧野弼成(旧舞鶴藩主)から、三菱財閥初代の岩崎弥太郎が買い受けたもの。当時の敷地は約1万5000坪と、現在の3倍あったそうだ。岩崎は、戦後の財閥解体と高率の相続税で手放したという。
中心に位置する洋館は、ジョサイア・コンドルの設計で建てられたもの。コンドルは、お雇い教授としての任期が終わると、三菱の専属同様に稼ぎまくったようだ。金に糸目をつけない注文は、建築家にとってこの上なくおもしろかっただろう。
その岩崎邸の贅を尽くした数々である。120年前に、自家発電から上下水道まで、自前でインフラ整備をしていたという。各部屋の凝ったマントルピースは皆デザインがちがう。床のタイルも、壁紙(金唐革紙)も、ステンドグラスも、電球や水洗トイレに至るまで、これ以上はない贅沢品なのだそうだ。パーティーのたびに、食器はフランスからオールドバカラのワイングラスを客の数だけ取り寄せて揃えたという。
各部屋に大きな鏡があった。これも、フランスから取り寄せた高級品で、この鏡一枚の値段で家が1軒建ったとか。きっと当主の岩崎は、毎日この鏡に向かってこう呟いていたのだろう。
「鏡よ鏡、世界で1番の金持ちは誰だ?」
鏡は利口だからこう答える。
「もちろん、ご主人様でございます」
岩崎は上機嫌で鏡を大事にしたから、今日まで残ったのだ。
もし、正直なAIが組み込まれた鏡であったらこうはいかない。
「鏡よ鏡、世界で1番の金持ちは誰だ?」
愚かな鏡は真実を答える。
「世界で1番の金持ちとは、世界で1番の搾取と収奪を極めた人のことですが、それでも知りたいでしょうか」
「世界で1番搾取と収奪を極めた人でどうして悪いのだ?」
「そりゃあ、世界で1番人に憎まれている悪い奴ということですよ」
岩崎は躊躇なく鏡を割ったであろうから、今日まで残ったはずがない。
ガイドさんは、終始楽しそうに、やや自慢げに岩崎邸の「贅沢の限り」を説明した。特に、和館の方の作りは「すべての板材が、無節・長尺・柾目」、今はもはや再現不可能という。
王侯貴族の贅沢とは、民からの収奪によるものなのだから腹が立つ。王侯貴族ならざる成り上がりの政治家と政商の富の集積には、なおさら不愉快である。無隣庵や椿山荘・古希庵などの贅沢で知られる山県有朋や、「三井の番頭」と揶揄された井上馨が蓄財の藩閥政治家として名高いが、これだけではあるまい。いい加減な政治と結託して成り上がった、岩崎や古河、安田など政商たちの醜悪なあり方は、今日の加計と安倍との関係の比ではない。だから岩崎の贅沢ぶりは不愉快極まりない。
ガイドの説明が終わってお礼を言って、鹿地亘監禁やこの岩崎邸の地下にあったという水牢などについて聞いたが、まったくご存じないという。キャノン機関は知っていたが、鹿地亘の名前も知らない様子だった。ことあるごとに、話題とすることが必要だと思い、昔、ブログ(事務局長日記)に書いたことを再掲しておきたい。
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2003年06月07日(土)
鹿地事件の思い出
午後2時集合で、池之端の岩崎邸見学。
文化財への興味ではない。この建物は、反戦作家・鹿地亘さんの監禁場所だった。国民救援会の企画で、山田善二郎さんの案内による謀略の爪痕の現地学習会である。
実は、私は学生時代に鹿地亘さんの電波法違反被告事件支援の会の事務局長役を務めたことがある。これが、私が作った最初の名刺の肩書きだった。
鹿地さんは、1951年11月にキャノン機関によって、療養中の鵠沼海岸で拉致される。キャノン中佐率いるこの機関は、米占領軍の軍令部・G2直轄の諜報機関であるらしい。そのキャノンが住んでいたのが、三菱財閥の総帥岩崎家のこの豪壮な邸宅だった。鹿地さんも、不忍の池が見えるこの屋敷の2階の部屋に一時期監禁されていた。
ここの地下室には水牢もあり、当時多くの中国人、日本人がここに連れ込まれて、スパイになることを強要されていた。秘密裏に殺された人も多かったという。
自殺を図った鹿地さんを救出したのが、当時ハウスボーイ兼コックであった山田善二郎さん。現・国民救援会長である。
山田さんの命がけの通報と、猪俣浩三社会党議員の世論への訴えで、52年12月鹿地さんは闇に葬られる寸前で監禁を解かれる。拉致から1年余、日本が独立して半年余のことである。
問題はここで終わらない。横暴極まる米に対して沸騰した世論を沈静化するために、謀略が仕組まれる。「鹿地はソ連のスパイだった」とでっち上げられたのだ。手の込んだことに、「自分は鹿地の指示によってソ連のスパイとして働いていた」と「自白」する人物までが現れた。帝国電波(現クラリオン、保安隊・自衛隊との関係が深かった)の社員だったこの三橋という男は、さっさと有罪となり服役をすませた。その後は、社内で出世したというから妙な話。
三橋有罪を受けて、被害者だった鹿地さんが電波法違反で起訴されたというわけだ。鹿地さんは一審有罪判決を受け、私が関与したのはその後の高裁段階だった。その後東京高裁は明快な無罪判決を言い渡し確定する。しかし、遅れた無罪判決は謀略の効果を消すことはできない。
今はなき鹿地さんを思い出す。この事件を通じて、権力というものの酷薄さ醜悪さを知った。そして、権力に屈せずにたたかう人々の誇りも教えられた。
私が弁護士になったきっかけのひとつである。
(2017年8月12日・連続第1595回)
李京柱 (リキョンジュ)さんが、「アジアの中の日本国憲法: 日韓関係と改憲論」(勁草書房)を上梓された。発行日が、2017年7月20日となっている。320頁を超える浩瀚な書。「韓国と日本の平和な未来への祈りとして受けとっていただきたいと思う」とのメッセージが、目に飛び込んでくる。
李さんは、「1965年韓国光州生まれ。高麗大学法学部卒業、一橋大学大学院法学研究科で博士後期課程修了、博士(法学)。ドイツDAAD・アメリカUC Berkeley,Visiting Scholar、韓国慶北大学法学部助教授を経て、現在韓国・仁荷(INHA)大学法科大学院教授。専攻は憲法学」と紹介されている。
私は、2011年4月に、日本民主法律家協会の韓国憲法裁判所調査の際にソウルで初めてお目にかかり、韓国の憲法事情や司法制度について教えを受けた。その後、靖国神社を一緒に訪問したり、日の丸・君が代強制拒否訴訟の法廷を傍聴していただいたり、大統領弾劾デモに関して講演をお願いするなどしてきた。
常に温和な李さんなのだが、この本のあとがきには、李さんの心穏やかではいられない心情が綴られている。
「2016年、3度目の在外研究生活の…下半期は留学生活をしていた懐かしい東京(一橋大学)で過ごした。ほぼ20年ぶりの長期滞在は多くのことを感じさせた。
一番印象的だったのは本屋であった。ある本屋はコーヒーさえ飲めば何時間でも新しい本を読んでよいということであった。発想の転換が面白かった。ところが、その本屋には私のような社会科学関係の研究者が読めそうな本はほとんどなかった。入口の方に、良く売れている広い意味での社会科学関係の本が並んでいたが、それは嫌韓、嫌中のような本だったり、そのようなことを煽っている著名人の本だったりであった。
二番目に印象に残ったのは日本会議であった。20年前の日本にもそのような動きがなかったわけではないが、ほとんど注目されず、取るに足りない存在に過ぎなかった覚えがある。靖国神社などの周辺で街頭演説をする人が韓国の新聞などで取り上げられるときも、一握りの存在に過ぎず、身の回りの普通の生活を送っている人は健全で安心して交流してもよいと勧めたりしていた。ところが、2016年の日本は国会議員の多くが日本会議の会員であり、特に安倍内閣の大多数はそこのメンバーであった。
在日韓国・朝鮮人ほどではないが、自分自身、韓国と日本にまたがる人間であって、韓国と日本の平和と友好が実現してほしいと心から願っている者になっていることに気が付く。日本に留学したことで、韓国にいるといつも日本のことについて訊かれる。日本にいると韓国のことについていろいろと訊かれる。しかし、20年ぶりの日本はこのような私に非常に大きな戸惑いを感じさせた。この国はいったいどこに行ってしまうんだろう。」
あとがきの最後は、次のように締めくくられている。
「この(日本の平和主義の)危機の根源には、『アジアの中のものとしての日本国憲法』という認識の著しい風化もあると思われる。風化は主に、日本国憲法は日本一国のものではなく、アジアへの不戦の誓いであることを忘れることからきていると思う。『日本の安全』のみならず、『日本に対する安全』に関する平和的感受性が必要な時期である。」
日本人は、『日本の安全』のみを論じているが、アジアの諸国は『日本に対する安全』を危惧していることを忘れてはならないという指摘。「平和的感受性」という言葉が痛い。平和を考える際に必要な感受性とは、「自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」、あるいは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」するという心情であろう。これが、いま日本で退化し、韓国で進化しているのだ。
また、李さんの問題意識は、次の一文によく表れている。
「「平和憲法の核心は他国を侵略しないことである」という議論もあるようだ。確かに日本国民の多くが「第九条も自衛隊も」という相矛盾する憲法意識を持っていることを考えると、専守防衛というカードが侵略戦争という絶対悪を防ぐ切り札になるかもしれない。ところが自衛隊を認めることは、果たして侵略戦争阻止の止め石になるのか、それとも侵略戦争への渡り橋になってしまうのか、油断できない。第九条があってやっとここまで防げたとは考えられないだろうか。そういう議論は古すぎるのであろうか。
いずれにせよ、自衛隊が軍隊として認められてしまうことは、アジアの諸国にとっては衝撃的な出来事になるであろう。日本はアメリカとは戦後処理をしたかもしれないが、アジアとはまともにしていない。日本がアジアに対するまともな戦後処理なしにアジア社会に復帰できたのは、第九条という約束があったからに違いない。この約束が破られることをアメリカは了解するかもしれないが、アジア諸国は大きなショックを受けるだろう。」
日本は、もっと「アジアの中の日本国憲法」を意識せよ。とりわけ、アジアに対する不戦の誓いとして第九条があることを忘れるな。という指摘なのだ。
なお、この本の帯のフレーズと、目次とを紹介しておきたい。
「日本国憲法は日本のものでもあるが、9条の先駆性からすれば世界のもの、不戦の誓いという歴史性を考えればアジアのものとも言える。アジア、とくに韓国では9条をめぐる時事的なことについてどう考えられているのか。韓国憲法との比較も交え、アジアの中での日本国憲法の意義について論じる。」
目次
はしがき
第?部 アジアと日本国憲法の制定
第一章 アジアにとっての日本国憲法
1 「日本の安全」と「日本に対する安全」
2 安保関連法と東アジア
3 東アジアと「日本に対する安全」
4 日本国憲法第九条とアジアの平和的未来
第二章 武力による憲法と武力によらない憲法の間
1 近くて遠い国、そして憲法調査会
2 武力による平和主義と韓国
3 武力によらない日本国憲法
4 「論憲」の今日的意味とアジアの平和
第三章 仲間入りの憲法――韓国からみた日本国憲法
1 招魂式と改憲
2 仲間入りの憲法と仲間外れの改憲
3 憲法改正の限界と自民党の憲法改正案
4 姿を消した平和的生存権
5 平和の仲間に
第?部 日本国憲法とアジア
第一章 韓国と日本の平和を語り合う――平和主義の現在と将来
1 平和を論じる
2 日本の平和主義が韓国の平和主義に語りかける平和的生存権
3 韓国の平和主義が日本の平和主義に語りかける「平和外交」
4 日本の外交に平和を望む
5 東アジアの平和を担うべき韓国と日本
第二章 第九条、アジアのものになりえるか
1 二〇〇五年、自民党「新憲法草案」の波長
2 後ろ向きの日本の平和主義
3 前向きの韓国の平和主義
4 改憲、アジアのためになるのか
5 信頼の岐路
第三章 東北アジアから見た憲法第九条の役割――韓国の平和運動を中心に
1 「平和からの脱走」と「平和の熱望」
2 平和主義の自立
3 市民社会と平和
4 韓国憲法の平和主義発見とその限界
5 日本国憲法第九条と東北アジアの平和
第?部 韓半島の平和とアジア
第一章 韓国憲法の平和主義、可能性と限界
1 はじめに
2 韓国憲法史と平和主義
3 平和主義の構造と内容
4 平和的生存権
5 限界
6 小括
第二章 韓半島緊張の原因と平和への道
1 停戦六〇周年の韓半島
2 北の外交国防政策
3 南の外交と国防政策
4 韓半島の平和体制のための実践策
5 韓半島の平和のための憲法論
6 むすびに代えて
第三章 韓半島の平和体制と日本
1 はじめに
2 平和協定の争点
3 「南北基本合意書」と平和体制
4 韓半島の平和体制の課題と日本
第四章 韓国における国家緊急権と有事法
1 災害を名乗る日本の国家緊急権
2 戒厳令
3 緊急命令
4 動員法としての諸有事法制
5 むすび
あとがき
資料
年表
索引
(2017年8月11日・連続第1594回)
「最後の特攻隊員ー2度目の遺書」(高文研)の著者として知られ、「戦争屋にだまされない厭戦庶民の会」を主宰しておられた信太正道さんが、亡くなられたのが2015年11月10日。この秋で2年となるが、まだ「厭戦庶民の会」からの郵便物は途絶えない。その活動は信太さん亡き後も続いているのだ。
国際的にも国内でも、「戦争屋」と思しき人物が戦争を煽っているこの世の中である。「こんな人物の虚言にだまされてはならない」という、信太さんの声が聞こえてくる。ひとりの人の熱意は、その人の死後にも他の人を動かすのだ。
「厭戦庶民の会」というネーミングに、最初は違和感もあった。しかし、正面からの「反戦」「不戦」や「平和」ではなく、「厭戦」というところに、信太さん独特の庶民感覚が見える。「国民の2割が面従腹背の厭戦主義なら戦争屋は戦争ができません」と言っておられたという。
「厭戦庶民の会」から送られた郵便物のなかに、「『厭戦庶民』超緊急増刊号」がはいっていた。太い文字で、「憲法Q&A(2016年版)」「憲法Q&A(2017年版)」「共謀罪Q&A」とタイトルがつけられたもの。全部で17の「Q&A」と、「緊急事態条項って何」が収められている22頁の手作りパンフレット。
冒頭に以下の一文がある。
このQ&A集は、2016年と2017年の「平和のための戦争展inよこはま」での厭戦庶民の会の展示を、冊子のかたちに編集したものです。展示をつくるにあたっては、事務局以外の方々にも参加していただき、議論をつみ重ね文章にまとめました。このささやかな冊子には、多くの方々の経験と知恵がぎっしりとつまっているのです。
共謀罪と憲法について悩んだとき、まわりの人との対話のなかで壁につきあたったとき、ぜひこのQ&A集を活用して下さい。共謀罪の制定と改憲を阻止する力をつくるために!
私も、多くの方々の経験と知恵を学ぼうと思う。
先日、「本郷・湯島9条の会」が本郷三丁目交差点で街頭宣伝行動をしていた折、平和を訴えていた私たちの側まで来て、「北朝鮮に攻め込まれたとき、非武装でどうする」と言った男性がいた。毎回の行動で、一人か二人、こういう人に遭遇する。さて、どのようにお話ししたらよいだろうか。このパンフレットの次のQ&Aを参考に組み立ててみたい。
Q:中国や北朝鮮の脅威に、いまの憲法で対応できるのか不安です。(2016年版)
A:ミサイル発射や核実験、軍事施設建設などに不安をもつのはわかります。けれども、アメリカや日本も、原子力空母やイージス艦、偵察機などをわざわざ近くまで送り込んで、実戦的な軍事演習をやっています。相手側からすれば、これこそ挑発であり脅威ではないでしょうか? 両者が軍事的に対抗しあって、脅威をつくっているのです。脅威をとりのぞく道は、憲法を変えて軍事行動をやりやすくすることではなく、中国や北朝鮮、アメリカ・日本の軍事的対抗そのものをやめさせることではないでしょうか? そのためには、戦力と交戦権を否定した日本の憲法は、無力どころか大きな支えになるはずです。
ところで、脅威をあおっているのは誰でしょうか? 北朝鮮にミサイル発射の兆候があると、防衛省はすぐにPAC3配備の様子などをテレビで大々的に宣伝します。まるでミサイル発射を、自衛隊の軍事訓練に利用しているような印象さえうけます。政府・防衛省は、いますぐにでも日本にミサイルがうちこまれると本気で思っているのでしょうか? もしそうなら、日本海側に何十基もの原発をそのままにしておくことは、恐ろしくてできないはずです。だまされてはいけませんね。
Q:北朝鮮のミサイル発射や核実験‥。今の憲法で対応できるか不安です。(2017年版)
A:「北朝鮮が日本を狙っているのだから、やはり軍事的に対抗することは必要。今の平和憲法では無力では」ということでしょうか?たしかに今、北朝鮮の政府は、日本や韓国の人々の方にミサイルを向けて、じっさいに発射実験もおこなっています。とても許せないことです。しかし、これに対して、軍事力で対抗することは解決になるのでしょうか?危機を高めることにしかならないのではないでしょうか?
最近では「ミサイル発射される前に先制的に北朝鮮の基地をたたいてしまえ、核をおとして壊滅してしまえ」という声もきかれます。けれども、北朝鮮には私たちと同じような庶民がいます。彼らは政府がミサイル、核実験を幾度となくおこなうことによって、食べる物に困るほどの犠牲を強いられているといいます。先制的に攻撃することは北朝鮮政府に苦しめられてきた人たちのさらに命を奪うことにしかなりません。
「だったら金正恩だけを一気にやっつければいい」と言う人もいます。しかしそれまでアメリカが「○○の首をとる」とか「ピンポイントでやる」と言って、それですんだことがあるでしょうか。その過程で多くの人々の頭上に爆弾をふらせ、その後も泥沼化する戦闘の中で多くの犠牲者をだしてきたのではなかったでしょうか?
そもそも、最近戦争になりそうなほど危機が進んだのは、アメリカがシリアやアフガニスタンを攻撃し「次は北朝鮮だ」といわんぱかりに日本海に空母や原子力潜水艦を送りこみ、いつでも戦争できる態勢をとったからではないでしょうか。それに付き従ったのが日本です。歴史をふり返ってみても北朝鮮をここまでおいつめたのはアメリカです。
ミサイルに対して、より大きな軍事力でたたいていく、このようなことは悲劇しかうみません。私たちは権力者同士の軍事的な対抗や軍事力をバックにしたかけひきによる解決ではなく、むしろ憲法9条をつらぬいて、北朝鮮、日本、アメリカなどの庶民が国際的に力をあわせ戦争と軍事的な挑発をやめさせるべきではないでしょうか?
(2017年8月10日・連続1593回)
本日(8月9日)、長崎原爆忌。
長崎原爆平和祈念俳句大会という催しが続いていて今年が第64回だという。
以下が、その第64回大会の、大賞以下、知事賞、県議会議長賞などの受賞作品。
雑巾のねぢれて乾く原爆忌(小田恵子)
空蝉をちちよははよと拾ひけり(山本奈良夫)
八月の色紙は鶴になりたがる(牛飼瑞栄)
焦げ臭い地球儀を拭く八月(山田紅蓮)
浦上のまほらへ母の日傘行く(中川城子)
八月の影の重さを曳いて老い(谷川彰啓)
家中に昭和が歩いている八月(坂田正晴)
できるコトは祈りだけです原爆忌(相川文子)
長崎の傷痕のごと曼珠沙華(山本奈良夫)
オバマ氏の鶴の飛び翔つ朱夏の天(草野悠紀子)
戦争の卵ぷかぷか春の海(福島露子)
72年前の今日午前11時2分。市民の頭上で2発目の原子爆弾が炸裂した。その惨劇から72年。怒りのヒロシマ、祈りのナガサキと言われるが、もちろん長崎にも怒りは渦巻いている。
本日長崎市の平和公園で開かれた平和祈念式典での、田上富久市長の平和宣言は、今年7月国連総会本会議が採択した核兵器禁止条約への言及に多くの時間を割いた。被爆地の市長として、「被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間だった」と歓迎するとともに、日本政府に対し、「条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」と痛烈に批判した。
その部分は、以下のとおりである。
「ノーモア ヒバクシャ」 この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
日本政府に訴えます。
核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにもかかわらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
なんとよく練られた、条理にあふれた宣言文ではないか。この訴えに対して、日本政府の首相は、何も答えない。6日広島で、そして今日長崎で批判されたにもかかわらず、である。言い訳はこうだ。
長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典あいさつ(官邸ホームページから)
真に「核兵器のない世界」を実現するためには、核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。我が国は、非核三原則を堅持し、双方に働きかけを行うことを通じて、国際社会を主導していく決意です。
共同通信が伝えるところでは、「安倍晋三首相は長崎市で開かれた『原爆犠牲者慰霊平和祈念式典』後に記者会見をし、国連で7月に採択された核兵器禁止条約に加わらない理由として『核兵器国の参加が不可欠だ。我が国のアプローチと異なることから署名、批准することはない』などと話した。」という。
被爆者ならずとも、怒らずにはおられない。被爆者の怒りの激しさ深さは、はかり知れない。
朝日(電子版)は、「長崎の被爆者、首相に『どこの国の総理か』 核禁条約で」と伝えている。以下の記事。
?「あなたはどこの国の総理ですか。私たちをあなたは見捨てるのですか」
9日午後、長崎市で被爆者代表の要望を首相らが聞く会合があった。冒頭、長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長(77)は首相に要望書を渡す前に強い口調で言った。
米国の「核の傘」に依存し、条約に冷淡な首相には面と向かってただしたかった。要望書は長崎の被爆者5団体がまとめたが、『(条約採択の場に)唯一の戦争被爆国である我が国の代表の姿が見えなかったことは極めて残念です。私たち長崎の被爆者は満腔の怒りを込め、政府に対し強く抗議します』と記した。
被爆者だけではない。国民こぞって、満腔の怒りを込め、政府に対し、安倍晋三首相に対して強く抗議しよう。「いったい、あなたはどこの国の総理なのか」「被爆者とともに満腔の怒りを込め、政府に強く抗議します」と。
(2017年8月9日)
天皇(明仁)が、高齢を理由に生前退位の希望を公にしたのが昨年(2016年)8月8日。ビデオメッセージで国民に語りかけるという異例の手段でのこと。あれから今日でちょうど1年となる。この間に、政府と国会は、まことに素早い対応で、天皇の希望を実現する法改正を行った。一方、弱い立場にある国民の権利救済立法にははなはだ冷淡である。たとえば、深刻な空襲被害者などへの援護法を作れという立法運動が、戦後70年余を経てまだ実現していない。この国と社会は、明らかにバランスを失している。
天皇の生前退位にともなって、いくつか国民生活に影響を及ぼすことがある。その最たるものが元号の使用に関することだろう。昨日(8月7日)の朝日新聞社説が、この問題を取り上げている。「元号と公文書 西暦併記の義務づけを」というタイトル。内容は、なんとも中途半端な論説だが、公文書への西暦併記の義務づけ」は半歩ほどの前進というべきだろうか。以下に、全文を紹介しつつ、評釈したい。
政府は来月にも皇室会議を開き、天皇陛下の退位と改元の日取りを決めるという。新しい元号の発表はこの手続きとは切り離され、来年になる見通しだ。
代替わりは多くの関心事であり、日常のくらしにも少なからぬ影響が及ぶ。「来年夏ごろまで」とされていた改元時期の決定が早まるのは歓迎したい。
天皇という公務員職の交代が、元号の交代と結びつけられている。一天皇に一元号。この一世一元の制度は近代天皇制の発明品であって、伝統や文化とは無縁の政治的産物である。もっとも、今次の皇室典範改正までは、天皇の死亡だけが天皇の交代原因で、同時に元号の交代原因でもあった。つまり、新天皇の即位からその天皇の死までの期間が、一個の元号によって時の流れを表記することになる。国民意識において、時代を、あるいは時の流れを、ときの天皇の在位と結びつけようという偉大な国民統治の技術である。今回天皇の生前退位を認めたことから、若干の制度変更となって、天皇の死と切りはなされた元号の交代がありうることとなったが、「一天皇の在位と一個の元号」の対応関係は変わらない。
この社説には、天皇制と一体となった元号使用の当否についての問題意識の表明はない。むしろ、「改元時期の決定が早まるのは歓迎したい。」と、問題なしとの認識が述べられている。これがわが国を代表する「リベラルなクォリティ紙」の水準ということなのだろうか。
ところで、「代替わりは多くの関心事」とは意味不明の文節。「代替わり自体が多くの人にとっての関心事」という意味だろうか、あるいは「代替わりには、多くの関心事が伴うことになる」という意味なのだろうか。いずれにしても、「代替わりへの関心」についての朝日の論説には、現代の天皇制や、それを支える国民意識の問題点に切り込む視点はない。
1年前の陛下のビデオメッセージは、象徴天皇のありようや国民との関係について議論を深める良い機会となった。今後の作業においても、常に主権者である国民の視点に立って考えることが欠かせない。
朝日は天皇(明仁)がビデオメッセージ放映という手段で生前退位希望の法改正を実現した、この違憲の疑い限りなく濃い行為の問題性をほとんど認識していない。また、天皇の象徴としての行為拡大の危険性に思い至ってはいないようだ。それでいて、どうして「常に主権者である国民の視点に立って考えることが欠かせない。」などと言えるのだろうか。
中国で始まった元号は皇帝による時の支配という考えに源があり、民主主義の原理と本来相いれないと言われる。一方で長い定着の歴史があり、1979年に元号法が制定された。
ここは、明らかに舌足らず。もう少し正確に述べるべきだろう。たとえば次のように。
「中国で始まった元号は皇帝による時の支配という宗教的観念に源があり、政治的には元号の使用が服属の証しであった。この制度を模倣した古代日本は、元号の制定を天皇の権威の源泉の一つとして利用した。19世紀後半に、絶対君主制国家を築いた明治政府は20世紀中葉まで人民主権を否定して主権者天皇の神権的権威による統治を強行した。新制度としての一世一元は、70年余にわたって、国民意識と国民生活を規律し支配する制度として刷り込まれた。明らかに民主主義の原理と相いれない制度の強制の結果を「定着」と評価すべきではない。1979年に、強い反対運動を抑えて元号法が制定されたのは、法的整備がなければ、いずれは元号使用は消滅してしまうであろうという保守勢力の危機感の表れであった。」
この法律に基づき、新元号は内閣が政令で定める。意見公募をしないことが退位特例法で決まっており、一般の国民がかかわる余地がないのは残念だ。
「一般の国民がかかわる」ことができれば、国民がより緊密に天皇制と結びつくことができるのに、その「余地がないのは残念だ」ということなら、リベラル朝日のためにまことに残念だと言わざるを得ない。
改元の時期は「2019年元日」と「同4月1日」が検討されている。朝日新聞の世論調査では前者を支持する人が70%で、後者の16%を圧倒する。
政府はこうした意見を踏まえて、適切に判断すべきだ。
4月案は、年始は祝賀行事や宮中祭祀(さいし)が重なり、皇室が多忙なことから浮上した。しかし言うまでもなく、優先すべきは市民の日々の生活である。
年の途中で元号が変わるのは不便で、無用の混乱をもたらす。あえて世論に反する措置をとる必要はあるまい。
「改元の時期は『2019年元日』」という表記を元号ではできない。はしなくも、元号使用の不便さが露わになっている。
新元号使用開始の時期を「元日」とするか、「4月1日」とするか。「年の途中で元号が変わるのは不便」で、「優先すべきは市民の日々の生活」というのは、自明の結論であろう。しかし、「何年かに一度、突然元号が変わるのは不便」極まりない。「優先すべきは市民の日々の生活」であるならば、元号使用をやめて西暦表記に統一すべきであろう。
あわせて人々の便宜を考え、公的機関の文書について、元号と西暦双方の記載の義務づけを検討するよう求めたい。
これが、社説のタイトルとなっている「元号と西暦双方の記載の義務づけ」の提言である。もっとも、自ずから社会は西暦一本に絞られつつある。権力で強制しなければ元号とは亡ぶべき宿命をもっている。「せめて、元号と西暦双方の記載を」ということは分からないでもない。しかし、「この機会に元号廃止を」と主張すべきが社会の木鐸の使命ではないか。
既に併記している自治体は多いが、公の文書は事務処理の統一などを理由に元号使用が原則とされる。国民への強制はないものの、西暦に換算する手間を強いられることが少なくない。
併記の必要性は平成への代替わりの際も指摘された。国際化の進展に伴い、公的サービスの対象となる外国人もますます増えている。改元の日をあらかじめ決めることのできる今回は、運用を見直す良い機会だ。
利便性の問題だけではない。政策の目標時期や長期計画に元号が使われる例は多い。国民が国の進路や権力行使のあり方を理解し監視する観点からも、わかりやすい表記は不可欠だ。
事務作業が繁雑になるとの反論が予想される。だが、公的機関は誰のために、何のためにあるのかという原点に立てば、答えはおのずと導き出されよう。
最も望ましいのは西暦表記のみ。次善が、西暦と元号の併記。そして、元号表記のみの公文書が最悪である。朝日は、せめて次善策を、と主張しているわけだ。これは最善策への移行期として位置づけるべきだろう。国民生活の利便の視点からは、西暦表記への統一が望ましいことが自明なのだから。
(2017年8月8日)
古川柳は、どら息子の心境をこう喝破する。
母親はもつたいないがだましよい(誹風柳多留)
この前句は、「気をつけにけり気をつけにけり」である。
「前句を息子に用心している母親として、その母をまんまと欺して、勿体ないという体をつける」(宮田正信)と解説される。
どら晋三も、こう思っている。
国民はもったいないがだましよい
政治家に用心している国民をまんまと欺して、勿体ないというふりをするのだ。
普段は頭の高い俺が、神妙な態で8秒も頭を下げれば、国民なんて甘いものさ。支持率低下は下げ止まったじゃないか。調査によっては、少々だがアップしさえしている。
本当は、核廃絶には反対なんだ。平和は核の抑止力によって保たれている現実をみなきゃならない。でも、そんな本音を口にしたら、またまた支持率ダウンだ。憲法改正もできなくなる。だから、「核保有国と非核国の橋渡しの努力」などと言って国民を欺す以外にない。ましてやここは広島だ。さすがに被爆者までは欺せなかったが、国民は欺せたように思うよ。
どら百合子も、こう思っている。
都民とはもったいないがだましよい
これまで石原慎太郎以来の都知事と自民党議会に用心している都民をまんまと欺して、勿体ないというふりをするのだ。
「セーフシティ」「スマートシティ」「ダイバーシティ」「東京大改革」「忖度だらけの古い都議会を新しく」などという、わけの分からぬ呪文で甘い都民をたぶらかした。どうです、見事なものでしょう。
いったい、都民ファーストの会とは何なのだろう。小池百合子とは何者だろうか。その代表の野田数とは? そして、55人の大勢力となってひしめく都民ファーストの会所属都議とは、いかなる志と政策を持っているのだろうか。それが、さっぱり分からないのだ。
毎日新聞が、7月の東京都議選で当選した127人の都議全員に、安倍政権の評価や憲法改正の賛否について尋ねた。その回答は、自民・公明・共産・民進の議員については、さもありなんというもの。
ところが、小池百合子知事率いる第1会派「都民ファーストの会」の議員らの回答は驚くべきものだった。というか、あきれかえったものと評すべきだろう。
「『都民ファーストの会』の議員のほとんどが無回答とし、その理由について記した議員の大部分が『都政に専念するため』と説明した。都民ファースト本部から示された模範回答を、そのまま書き込んだといい、所属議員からも『自由な発言が許されない雰囲気がある』との声が上がっている。」というのだ。
以下、毎日の報道の紹介である。
アンケートでは(8月)8日に予定されている都議会臨時会を前に、都議の政治的スタンスを確認するため「安倍政権を評価するか」「憲法改正に賛成か」を尋ね、都民ファースト所属の2人を除く125人から回答を得た。
都民ファーストの議員は、民進党出身の石川良一都議が安倍政権を「評価しない」、民進党出身の中山寛進都議と自民党出身の山内晃都議が「わからない」としたが、他の50人は無回答だった。無回答の理由は、ほとんどが都民ファースト本部が示したという模範回答の「都議として都政に専念する立場であり、国政についてのコメントは控える」と書いた。憲法改正についても石川、中山、山内の3都議が「わからない」とした以外は無回答だった。
都民ファーストは新人が39人を占める。今回のアンケートに限らず会派の締め付けは厳しく、都議が報道機関の取材に応じる場合も原則、本部の許可を得る必要がある。また報道機関も、本部に都議への質問内容を事前に提出することを求められている。
こうした状況について、都民ファースト関係者は「自由な発言が許されない雰囲気がある。都議が話したことを悪く報道されるのを恐れて守りに入っている」と説明。ある都議も「今のメディア対応のやり方が正しいとは思わない」と漏らす。
これに対し、野田数(かずさ)代表は「どんな取材を受けるのか本部が把握することは、民間企業なら当然の対応。うちは既存政党よりも確実に情報公開が進んでいる」と強調した。
毎日のアンケートは、「安倍政権への評価」と「憲法改正の賛否」の2点である。都議たるものが、この2点について、意見をもたないということは考えられない。その意見の表明に躊躇があってはならない。都議が、自分が何者であるかを明確にすることは都民に対する責任ではないか。
しかも、野田数は、都民から信任を得た都議を民間企業の社員と同等に考えている様子なのだ。「都民ファーストの会」は業務命令で、都議にいかようにも指示ができる。口封じも当然、と言っているわけだ。これは、重大事である。
毎日のアンケートは、思いがけなくも、都議会の中の巨大なブラックボックスの存在を炙り出した。結局、小池知事党の都議は、都民への責務をラストとし、所属政党への忠誠をファーストとしたわけだ。「都民ファーストの会」は、実態に合わせて名称を変更した方がよい。「我が党ファーストの会」あるいは、「小池知事ファーストの会」と。
「だましよい」と甘く見られた都民諸君。わけても小池知事党に貴重な一票を投じた諸君。どうやら、親心に付け込んで母親をだますオレオレ詐欺の被害に遭った模様ですぞ。
(2017年8月7日)
1945年8月6日午前8時15分。広島に投下された原子爆弾が炸裂したその時刻こそが人類史を二つに分ける瞬間となった。人類史上最大の衝撃の事件。悲惨きわまりない大量殺戮というだけではない。人類は、核エネルギーという、自らを滅ぼすに足りる手段を獲得したことを自らに証明したのだ。
以来72年。人類は、自らを滅ぼしてなお余りある手段を獲得したことを十分に自覚しているだろうか。人類は、自らを滅ぼすに足りる手段を「絶対悪」としてその廃絶に展望を見出しているだろうか。残念ながら、その答は「否」である。
世界の主要国は、自国の核は自衛のための核、自国の核保有は平和を維持するために必要という立場を捨てず、核の保有だけでなく戦術化に余念がない。
それでも、人類の良心は核兵器の廃絶に真摯な努力を傾け続けており、希望は見える。その希望の灯の一つが、本年(2017年)7月7日国連総会において122か国・地域の賛成多数により採択された核兵器禁止条約(「核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移譲、使用及び威嚇としての使用の禁止ならびにその廃絶に関する条約」)である。
周知のとおり、主要な核保有国は不参加。アメリカの核の傘の下にある被爆国日本も、不参加となっている。一方に、「核保有に固執する少数派の大国とその従属国連合」があり、これに「核廃絶を求める良心多数派諸国」が対峙する構図ができあがっている。
核廃絶実現の課題は、この条約をどう実効あらしめるかにかかっている。核廃絶を求める国際世論をさらに大きくして、「核保有に固執する少数派大国とその従属国」を押し込まなければならない。日本国民の役割は、極めて重要である。
本日、その対峙の構造が国民の目に見えるものとなった。
原爆投下から72年目の「原爆の日」。広島市の平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長の平和宣言は、明確に核兵器禁止条約を評価し、これに与しない日本政府を批判するものとなった。対して、安倍首相挨拶はこの課題への直接の言及を避け、見苦しい努力放棄の言い訳逃げることで、「核保有に固執する少数派大国とその従属国」の立場を堅持するものとなった。
松井市長は、平和宣言で改めて核兵器を「絶対悪」と強調。「核兵器の使用は、一発の威力が72年前の数千倍にもなった今、敵対国のみならず自国をも含む全世界の人々を地獄へと突き落とす行為であり、人類として決して許されない行為です」「絶対悪である核兵器の使用は人類として決して許されない行為であり、核保有は人類全体に危険を及ぼすための巨額な費用投入にすぎない」と批判した。それだけでなく、集会参加の安倍首相の目の前で、日本国憲法の条文を引用して憲法が掲げる平和主義を体現して各国に条約締結を促すよう要求し、米国の「核の傘」に依存し条約採択に参加しなかった日本政府に対し、条約の締結促進を目指して「核保有国と非保有国との橋渡しに本気で取り組むよう」具体的な課題を突きつけた。
松井一実市長自身が、本年6月、国連本部で始まった核兵器禁止条約の第2回交渉会議に出席し、「条約草案は被爆者の苦しみや願いをきちんと受け止め、言及していることを心から歓迎する」と述べているのだ。これに対して、「唯一の被爆国」を自称する日本政府は、この条約の締結には最初から冷淡で議論への参加もしていない。
松井市長に続いてあいさつした安倍晋三首相は、条約に言及しないことで「核保有に固執する少数派の大国とその従属国連合」の立場に立つことをあらめて明確にした。「核廃絶を求める国際的多数派諸国」の良心に背を向けたといってもよい。
ひるがえって思う。どうしてこんな人物が、平和憲法をもつ日本の首相でいられるのだろうか。本当に日本の民主主義は機能しているのだろうか。
(2017年8月6日)
信教出版社の『福音と世界』2017年8月号が、「象徴天皇制・国家・キリスト教」の特集号となっている。この号に、島薗進教授の「存続した国家神道と教育勅語の廃止問題」という論文が掲載されている。過日、上智大学に教授をお訪ねした際に、この雑誌をいただき、ようやく本日目を通した。
「存続した国家神道と教育勅語の廃止問題」という論文のタイトルが、著者の問題意識をよく表している。「存続した国家神道」とは、神道指令(1945年12月)が必ずしもわが国の国家神道を解体したわけではない、ということなのだ。その後も、今に至るまで、国家神道はこの国に根をはり生き延びている。教育勅語は国家神道を支えた重要な柱だったが、神道指令での廃絶を免れ、衆参両院の「教育勅語排除決議」(48年6月)以後もけっして国民意識から払拭されてはいない。だからことあるごとに、表舞台に現れてくる。指摘されてみれば、なるほどそのとおりだ。
論文冒頭の問題設定部分が以下のとおり。
1945年8月以前の日本では、国家神道が深く国民に浸透していた。これに対して、戦後の日本の社会は国家神道が解体され、宗教的にニュートラルな社会になった。そう理解されてきた。1945年12月にGHQ(連合国司令部)が発した「神道指令」(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件)は、国家神道の解体を目指したものであり、そのとおりになったというのだ。だが、神道指令は国家と神社の分離を指示してはいるか、皇室の神道祭祀や天皇崇敬について制限する内容は含まれていない(島薗2010)。それはまた、教育勅語にふれることもなかった。
著者は、国家神道における教育勅語の位置づけをこう述べている。
国家神道の柱のひとつが明治天皇の教えの言葉とされる教育勅語である。教育勅語は国民が天皇崇敬を内面化する上できわめて大きな役割を果たした。
「天壌無窮」神話に基づく教育勅語が宗教文書であることは疑う余地がない。この宗教文書は義務教育の教場において、全国民に徹底して叩き込まれた。こうして、天皇を神とし日本を神の国とする信仰が多くの国民に内面化されたのだ。
著者は、神道指令の理解について、こう指摘する。
「国家神道」とよばれているものが、神道指令では神社神道に限定されていることに注意する必要がある。皇室祭祀や神権的国体論は含まれていないのだ。
しかも、前述のとおり神道指令は教育勅語に触れていない。CIE(民間情報教育局)の宗教班のW・K・バンスがまとめた神道指令の第3次草案の前には、教育班のR・K・ホールによる第1次、第2次草案があった。その「ホール第1次案」(2次案もほぼ同様)では、以下のとおり明確に教育勅語の禁止・撤去が記載されていたのだという。
1890年10月30日に明治天皇によって発せられた教育勅語、ならびにその内容・表現法・文脈・公的儀式や慣習によって築きあげられている象徴性によって国家神道のイデオロギーを反射しているその他のすべての公文書は禁止され、全面的あるいは部分的に税金によって維持されているすべての役所・学校・施設・団体・建物から物理的に撤去されるのであろう。例外として、公文書館・図書館及び大学の水準を有する教育施設(大学・専門学校)では、かかる文書を保存し、展示し、歴史的文書として研究することが許される。
この「教育勅語のほぼ全面的禁止」文言はホール2次案までは残っていたが、バンスが起草した第3次草案では全文削除されてしまった。
その理由として、バンスの言が引用されている。その核心が、次の一文である。
「日本人の多数は、勅語の追放を天皇の地位に対する直接の攻撃とみなすだろう。」
神道指令における国家神道廃絶は、実は不徹底なものだった。とりわけ、国民意識に国家神道を内面化するための最重要のツールであった教育勅語に対する取り扱いにおいて峻厳さを欠いていた。
このような事情から、戦後、教育勅語を復活、再生させようという論が起こってくる。著者はこれに、懐疑の目を向ける。
学校があまりに精神的に空白である、精神的な価値や道徳として何が大事かということが子どもたちに教えられていない、だから、教育勅語を復活させ・て道徳教育をしっかり立て直そう、というような議論が活発になる。しかしそれでいいのだろうか。国家神道の復興が意図され、天皇崇敬を強めて国家の威信を高めることが目指されている。そうした宗教的政治的な意図をもつ文言として教育勅語を見なくてはならない。
道徳教育に関連しての著者の次の指摘は重要だと思う。
道徳の授業は、1945年以前は「修身」だった。そしてその「修身」はこの教育勅語を敷桁するもの、教育勅語の考え方を授業で教えるものとされていた。
したがって、学校教育において道徳という教科はあるが宗教という教科がないということは、そもそも教育勅語の復活が目指されやすい構造を作っている。このように「道徳」を重視するのが、近代日本の精神文化教育の形であったことをよく自覚する必要がある。
著者は、前田多門、安倍能成、田中耕太郎、南原繁、そして天野貞祐ら、教育勅語に対して肯定的な発言をしてきた戦後の文部大臣や知識人の名を挙げる。天野貞祐は、48年勅語排除決議のあと、50年から52年にかけての文部大臣である。
払拭しきれなかった教育勅語礼賛の底流が、塚本幼稚園や、稲田朋美などによって掘り起こされる。そして、歴史修正主義者安倍晋三の手によって、容認の閣議決定(2017年3月)まで行われることになる。
ことは国民意識に関わる問題である。常に、天皇の神聖性や、国家による価値観の押しつけについて、敏感に批判し続けなくてはならない。それが、とりあえずの読後感。
なお、本日、「東京・教育の自由裁判を進める会」のニュース「リベルテ」48号が届いた。そのなかに、原告のお一人の朝日新聞への投書が転載されていた。「教育勅語切り売りは無意味」というタイトル。
「殺すな」「盗むな」「嘘をつくな」「淫行するな」は、仏教の五戒と、旧約聖書の十戒に共通する万古不易の徳目だという。この4徳目が、教育勅語にはすっぽり抜け落ちているという指摘。なるほど。教育勅語の徳目は普遍性をもつものではないのだ。侵略軍となった皇軍に、この4徳目遵守がなかったのは偶然なのだろうか。「教育勅語切り売りは無意味」は説得力をもっている。この投書者は、倫理の教員だという。
(2017年8月5日)
恥ずかしながら私が、政権与党の総裁であり、この国の総理大臣だ。
この欄を借りて政治の要諦を語りたい。常々私が思っていることで新味はない。しかし、今の政局において私の考えを確認しておくことは無意味ではない。とりわけ、今次の内閣改造の意図をご理解いただくために有益ではなかろうか。
誤解を恐れずに結論からはっきり申しあげておこう。政治とは大衆を欺くことである。そう割り切れることが政治家としての資質であり、欺しのテクニックこそが政治家に求められている技術なのだ。
大衆の望むところを把握して、大衆の望むとおりに国政を運用する。それは唾棄すべき大衆迎合政治以外のなにものでもない。それでは、国家かくあるべし、民族かくあらねばならないという、理想や理念が欠けることになる。政治家たるものは、大理想、大理念を抱いて、その実現のために邁進しなければならない。大衆の意思実現のために政治家がいるのではない。政治家たるものは、自分の理想・理念をもって大衆を動かすのだ。必ずしも、理性的な共感を得る必要はない。感性のレベルでも、利益誘導でもなんでもよい。発揮されるべきは欺しのテクニックなのだ。
政治はリアリズムである。理想・理念を語って大衆の支持を得られるとは限らない。むしろ理想・理念に反発するのが大衆の常と言ってよい。政治の究極の目的は、最大多数の大衆の幸福だ。しかし、大衆は多様であり盲目でもある。大衆自らに幸福への道筋を切り開く能力はない。だから、大衆を善導する政治家が必要であり、その善導こそが欺しなのだ。
今、パターナリズムは評判が悪い。しかし、子が自らの人生を決定する能力を欠く以上、親が子のためを思って、その人生に介入することに何の不都合があろうか。政治家と大衆とは、まさしくこの関係にある。
厄介なのは、民主主義という枷だ。天皇の権威、国体の権威、国防保安法や治安維持法の時代であれば、親が子に対する体罰同然の実力の行使が可能だった。今、それができない。とすれば、政治家は大衆を欺すしか方法がない。
最も望ましいのは、大衆の洗脳だ。大衆が、政治家の思想や理念をあたかも自らが望んだごとくに仕向けることだ。それができなくても、消極的な支持が獲得できればよい。アベにまかせていれば、経済も外交も国防もそんなにひどいことにはならないだろうと、是認していただけたら、それで十分。そこまで大衆を欺して、私の理念にしたがってこの国を経営すること。それが、政治というものであり、政治家の役割なのだ。
羊頭を掲げて狗肉を売るのは、商道徳としては許されないことかも知れない。しかし、政治家は大衆に狗肉が必要だと考えれば、信念をもって狗肉を売らねばならない。狗肉を狗肉として売ることが難しければ、積極的に羊頭を掲げるべきなのだ。
話を具体化しよう。私が目指す政治の理想は二つある。一つは、戦後レジームを否定してあるべき日本を取り戻すことだ。かつては、個の尊重だの、個人の尊厳だのという浮ついた観念はなかった。一億の日本民族が大日本帝国に結集して、富国強兵を誇っていたではないか。あの教育勅語が醸しだす美しくも強い輝ける時代にまで時間軸を巻き戻さねばならない。そして、国防に心配のない国家を建設するのだ。
もう一つは、岩盤規制を打ち砕いて、徹底した企業活動の自由を保障することによる豊かな社会の創出だ。世の中を徹底した競争社会とし、厳しい優勝劣敗の結果としての格差を是認して、一億総活躍国家を実現するのだ。
どちらの理想にも反対者が多い。個人の尊重こそが公理だとか。平等こそが美徳だとか。成長よりも分配だ。自助原理よりは福祉国家だ、という類。要するに、国家主義や民族主義を嫌っての利己主義なのだ。
これを克服しねじ伏せるには、個人主義・自由主義を立脚点としている現行の日本国憲法を変えるしかない。個人よりも家庭が大切で、家庭よりは地域、そして地域よりは国家が最も大切だと根本的な価値観の大転換をしなければならない。そのための憲法改正が私の悲願なのだ。
ようやくにして、両議院の議席の3分の2を改憲派で占めるところまできた。内閣の高支持率も維持してきた。欺しのテクニックが功を奏したのだ。もう一息で、憲法改正が実現できる。そんなところで、焦りと緩みが出た。
これまで、長く続いていた内閣の高支持率が急落した。たった8億円程度の国有地払い下げの価格値引きの不透明。そして、私の友人が経営する学校法人の希望に添った新学部設立認可の件だ。これを機に、私への不満が噴出した。実は、共謀罪や集団的自衛権行使容認に対する国民的批判がもっと深い底にある。そして内閣の不人気は、直近の選挙結果にも表れている。
しかし、もう一歩の憲法改正を失敗に終わらせるわけにはいかない。こういうときにこそ、政治家のホンモノ度が試される。「頭が高い」といわれれば、いくらでも頭を下げよう。一回で足りなければ3回でも5回でも。8秒では短ければ1分頭を下げてもよい。説明が足りないと言われれば、何度でも繰り返し説明をしよう。大切なのは、政治家が理念を捨ててはならないことだ。私は、リアリズムに徹して、それが有効であることを計算して、頭を下げる。説明を繰り返す。
もっとも、低姿勢で反省するとは繰り返すが、反省は「丁寧な説明の不足」の限り。けっしてそれ以上には言及しない。だから、大阪航空局や近畿財務局の行為を解明して責任を明らかにすることはけっしてしないし、加計学園の国家戦略特区指定取り消しもけっしてしない。もちろん、絶対に憲法改正を撤回するとは言わない。この課題は継続するのだ。これを撤回したら、いったい何のための隠忍自重か、わけの分からぬことになる。
「アベ一強」が評判悪いようだから、私に批判的な人物も閣内に取り込む。こうして、低姿勢で経済優先の仕事人内閣の組閣は、すべて憲法改正のためなのだ。すべては、私流のやり方で究極的に大衆を幸福にするために、豊かで強い経済と国家を作るための方便なのだ。私の政治的理想と憲法改正の悲願実現のために、いま私は、「大衆を欺く技術」を最大限発揮しているのだ。
臥薪嘗胆という言葉は今の私のためにある。かつて臥薪嘗胆の末、呉王夫差はやがて越王勾践を破った。私は日本国憲法を改正するのだ。そういうことなのだから、私にお力添えをお願いしたい。
(2017年8月4日)