澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

潮目は変わってきたー「読売世論調査」と「谷垣帰れコール」と「大集会」と

微動だにしないようで、地球だって動いている。憲法をめぐる状勢が不動なわけがない。潮目は見る見るうちに変わる。今、目の前で、変わり始めたのではないだろうか。爽やかなよい風が吹いてきた。

マグマのたまりがなければ噴火は起こらない。これまで沈潜していた国民の憲法意識、憲法と平和を擁護しようという心意気のマグマが噴出を始めた。大爆発ではない。しかし、力強く着実に。今日は、そのことを実感させる三題噺。三題とは、「読売世論調査」「谷垣帰れコール」、そして「各地の大集会」である。

お題の第一は、読売の最新世論調査。これまでは、5月末時点の調査結果しかなかった。今朝、読売が6月5?7日の全国調査の結果を発表した。これによると、「安倍内閣が最優先で取り組んでいる安全保障関連法案の今国会での成立については、『反対』が59%(前月48%から11%増)に上昇し、『賛成』の30%(前月34%から4%の減)を上回っている」という。1か月で反対が11%増は、大きな事件ではないか。

前回調査では、戦争法反対48%、賛成34%。その差は14ポイント。反対が賛成の1.4倍であった。これが今回調査では、反対59%、賛成30%。その差は29ポイント。反対が賛成の2.0倍となった。明らかな状況の変化、世論が動いたのだ。

このことを読売自身は「政府・与党が法案の内容を十分に説明していないと思う人は80%に達し、与党が合意した安保法制について聞いた今年4月調査(3?5日)の81%と、ほぼ変化はない。『十分に説明している』は14%(4月は12%)にとどまっており、政府・与党には今後の国会審議などを通じて、より丁寧な説明が求められる」と解説している。

この解説には、「丁寧に十分に説明していないから、反対回答が多くなった。丁寧に十分に説明すれば結果は違ってくる」というニュアンスが感じられるが、それは違う。政府提案のまやかしに戸惑っていた国民が、政府説明の進展に従って態度を明確にしつつあるのだ。内閣が「丁寧に十分に正確に」説明すればするほど、民意は反対を明確にすることになるだろう。

もう少し、立ち入って読売世論調査を見ておきたい。問の発し方が、相当に誘導的なものとなっていることにご留意いただきたい。たとえば、次のような設問がある。
現在、国会で審議されている、集団的自衛権の限定的な行使を含む、安全保障関連法案についてお聞きします。
◇安全保障関連法案は、日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大するものです。こうした法律の整備に、賛成ですか、反対ですか。

この問の文章中に、「安全」「平和」「国際貢献」などの語がちりばめられており、「安全保障関連法案は、日本の平和と安全を確保し、国際社会への貢献を強化するために、自衛隊の活動を拡大するものです。」と断定した上で、賛否を問うているのだ。典型的な誤導質問の手法。さすがは読売、ここまでやるか、と感心するほかはない。

そのような設問に対して、「反対 48%」(賛成40%)は、自覚的意識的な反対論である。この数字の意味するところは重い。
 
読売のコメントはないが、次の問と答がきわめて興味深いところ。
安全保障関連法案が成立すれば、日本が外国から武力攻撃を受けることを防ぐ力、いわゆる抑止力が高まると思いますか、そうは思いませんか。
  抑止力が高まる  35%
  そうは思わない   54%

読売の調査において、抑止力論否定派が過半数。安倍政権の国民説得は完全に破綻している。

はからずも、読売の世論調査が潮目変化の第一報となった。次の世論調査報告が待たれるところ。

さて、2番目のお題は、谷垣禎一自民党幹事長への「カエレコール」の話題。
自民党の若手議員らでつくる青年局が7日、「安全保障関連法」の必要性や拉致問題の解決を訴える街頭行動を全国約80カ所で行ったという。これに、「戦争法案」に反対する市民らも集まり憲法改正反対などを訴え、谷垣帰れコールが巻きおこったことが報じられている。

朝日の記事は以下のとおり。
「東京・JR新宿駅西口では、谷垣禎一・党幹事長が『隙間のない抑止の体制をつくることで日本の平和と安全を保とうとしている』と安保法制に理解を求めた。一部の聴衆から拍手が上がった。青年局は2004年から毎年6月、拉致問題をテーマに一斉街頭行動を繰り広げている。これに対し、プラカードやのぼりを掲げた市民らが『戦争反対』『9条を壊すな』と声をあげた。」(朝日)
「安全保障関連法案に反対する市民が多数詰めかけ、プラカードを掲げて抗議した。谷垣禎一幹事長の演説中には「帰れコール」が発生。JR新宿駅前での演説は、事実上打ち切られた。政府与党は今月24日の会期末までに、法案の衆院通過を目指すが、困難な状況だ。与党が推薦した憲法の専門家までもが法案を「違憲」と断じた経緯もあり、世論の反発はさらに強まる可能性がある。自民党が、JR新宿、吉祥寺両駅前で開いた演説は終始、騒然とした雰囲気に包まれた。「戦争法案反対」「戦争させない」などのプラカードを手にした人が詰めかけ、「法案は撤回だ」と声をあげた。弁士の訴えはかき消され、聴衆の最後方まで届かなかった。谷垣禎一幹事長がマイクを握ると、「(自民党ハト派の)宏池会(の出身)だろう」とやじが飛んだ」(「日刊スポーツ」)

この谷垣受難の一幕、状況の変化をよく示しているのではないか。

そして、3題目はマグマのたまり具合である。
「5・31オール埼玉総行動」が、1万人の集会を成功させた。6月1日付東京新聞が、次のように報道している。
「休日の公園に、参加者たちの『九条を壊すな』との平和を求める声が響き渡った」「公園には午前九時から参加者が続々と集まり、主催団体が用意した約一万一千部のチラシはほぼ配布しきった。集会を企画した農業神部勝秀さん(71)=さいたま市緑区=は「県内での一万人規模の集会は、メーデーでも例がない。県民の危機感の強さを感じさせられる」と驚いた様子で話した」

そして本日の赤旗の報道である。
NO!「戦争する国」 生かそう!平和憲法6・7長野県民大集会が長野市で開催され、2800人が参加しました。「戦争法案をストップさせる」一点で、立場や組織の違いを超えての開催です。県内の26人が呼びかけ人となり、「憲法9条を守る県民過半数署名をすすめる会」「戦争をさせない1000人委員会・信州」など6団体が事務局として準備してきました。

「立憲主義 壊さんといて 大阪弁護士会が集会・パレード」
「集団的自衛権に反対!」「立憲主義を壊さんといて!」。解釈改憲による集団的自衛権行使容認反対、戦争法案の成立を許さないと、大阪弁護士会が野外集会・パレード「日本はどこに向かうのかパート3 なし崩しの海外派兵許すな」を7日、大阪市内で開き、4000人が参加しました。
パレードでは、「集団的自衛権はアカン」「アカン」とコールしながら大阪市内を3コースに分かれて行進。「アカン」のプラカードを掲げるコールに沿道の人たちが注目していました。

このパレードは、朝日も報じている。その見出しがふるっている。「見渡す限り『アカン!』 安保法制『ノー』訴える集会」というのだ。

憲法9条の解釈を変え、集団的自衛権を使えるようにする安全保障法制の関連法案の成立を急ぐ安倍政権に対し、「憲法改正の手続きをとらない『なし崩しの法制化』はノー」と訴える大規模集会が7日、大阪市内で開かれた。主催した大阪弁護士会によると、約4千人が参加。集会後は繁華街に繰り出し、抗議の声を上げながら練り歩いた。
弁護士会の憲法問題特別委員長が「反対の声を上げよう」と呼びかけると、女性や若者らが「アカン!」と書かれた黄色い紙を一斉に掲げた。

マグマの変化をメディアも伝え始めた。手応えは十分。潮目は変わりつつある。
(2015年6月8日)

憲法学者「9条違反」ー「違憲ショック」「論戦 潮目変わる」「審議大きな転換点」

私は、昨日(6月6日)「那須南九条の会」で戦争法案の違憲性について講演。本日(6月7日)は、川口で少人数の「憲法カフェ」に出席して質疑に応じた。多くの人が、憲法の平和主義が壊れるのではないかと危機感を募らせていることを痛感するとともに、戦争法案の違憲性の確信や反撃への手応えも感じている。

とりわけ、6月4日(木)衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者3人が、口を揃えて「戦争法案は違憲」と言った「事件」の波紋は大きい。この話題が巷に満ちている。朝日川柳に次の句が掲載されている。
  呼んどいて「異見」はいらぬというシンゾウ(林武治)

世の衝撃は大きく、政権の評判はがた落ちだ。法案審議について議論の潮目が変わる予感がする。法案審議についての潮目の変化は、当然に安倍内閣支持の世論の潮目の変化ともなる。

本日の東京新聞朝刊には「論戦 潮目変わる」の大きな見出し。そして、「違憲ショック」「各論から『違憲立法』へ」である。朝日も、昨日の「憲法解釈変更 再び焦点」「安保法制『違憲』、攻める野党」に引き続いて、第2面に「参考人の指摘 重みは」とする大きな解説記事を掲載し「審議大きな転換点」と締めくくっている。毎日も、「学者批判続々」「安保法制 政権に不信感」だ。

とりわけ、東京新聞のボルテージが高い。
「衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者三人全員が安全保障関連法案を『違憲』と言明したのを受け、衆院特別委員会の審議の最大の焦点が、法案の中身から法案の違憲性に移った。『違憲ショック』で法案の正当性が根幹から揺らいだことで、政府・与党は防戦を強いられた」というリード。

「長谷部恭男早大教授は、他国を武力で守る集団的自衛権の行使を解禁した憲法解釈変更に基づく安保法案について『従来の政府見解の論理の枠内では説明できず、法的安定性を揺るがす』と指摘。小林節慶応大名誉教授(民主党推薦)と笹田栄司早大教授(維新の党推薦)も『違憲』と言い切った」と経過を要約のうえ、
「五日の特別委は、専門家三人の『違憲』発言を受けて審議の潮目が変わった。それまでは、どういう状況なら集団的自衛権の行使が許されるのかの基準に議論が集中していたが、法案の違憲性が中心になった」と解説している。

「政府側は『憲法解釈は行政府の裁量の範囲内』(中谷元・防衛相)と反論。だが、この説明は『政府が合憲と判断したから合憲だ』と主張するのに等しい」「安倍政権は憲法解釈変更の閣議決定に際し、一内閣の判断で憲法解釈を変え、憲法が国家権力を縛る「立憲主義」をないがしろにしたと批判された経緯もあるのに、今回の学者や野党側の「違憲」との指摘も、正面から受け止めようとはしなかった」と手厳しい。

衆院憲法審査会の与党推薦参考人は、当初佐藤幸治(京大名誉教授)が予定されていたとされている。佐藤の日程の都合がつかなくて、与党は内閣法制局に適任者の人選を依頼し、内閣法制局から長谷部の推薦を受けたと経過が報じられている。もし、当初予定の佐藤幸治の日程に差し支えなく佐藤が審査会に出席していればどうなっただろうか。おそらくは、長谷部以上に辛辣に断固として法案の違憲を論じたにちがいないのだ。

その、話題の佐藤幸治が昨日(6月6日)1400人の聴衆に語っている。毎日の報道が大きい。「憲法改正:『いつまでぐだぐだ言い続けるのか』 佐藤幸治・京大名誉教授が強く批判」というタイトル。

「日本国憲法に関するシンポジウム『立憲主義の危機』が6日、東京都文京区の東京大学で開かれ、佐藤幸治・京大名誉教授の基調講演や憲法学者らによるパネルディスカッションが行われた。出席した3人の憲法学者全員が審議中の安全保障関連法案を「憲法違反」と断じた4日の衆院憲法審査会への出席を、自民党などは当初、佐藤氏に要請したが、断られており、その発言が注目されていた。

基調講演で佐藤氏は、憲法の個別的な修正は否定しないとしつつ、『(憲法の)本体、根幹を安易に揺るがすことはしないという賢慮が大切。土台がどうなるかわからないところでは、政治も司法も立派な建物を建てられるはずはない』と強調。さらにイギリスやドイツ、米国でも憲法の根幹が変わったことはないとした上で『いつまで日本はそんなことをぐだぐだ言い続けるんですか』と強い調子で、日本国憲法の根幹にある立憲主義を脅かすような改憲の動きを批判した」

注目されるのは、毎日が紹介するパネルディスカッションでの議論の内容。
「違憲とは言えないかもしれないが、憲法の精神には反していることを示す『非立憲』という言葉が話題になった。これまで、特に政治家の行動を戒めるために使われてきた言葉という。樋口陽一・東大名誉教授は、憲法改正の要件を定める憲法96条を改正し、国会発議のハードルを下げる『96条改正論』や、政府・与党による安保法制の提案の仕方そのものが『非立憲の典型』と批判した。」

これは面白い。2013年の憲法記念日を中心に、メディアに「立憲主義」の用語があふれた。安倍内閣の96条先行改憲論が立憲主義に反すると批判の文脈でだ。立憲主義の普及が、96条改憲論に本質的なとどめを刺した。今度は、「非立憲」。7・1閣議決定が「非立憲」。戦争法の提案自体が「非立憲」。必ずしも、明確に立憲主義違反とは言えない場合にも「非立憲」。気軽に、手軽に「非立憲」。安倍政権の非立憲を大いにあげつらおう。

東京新聞2面に、「安保国会 論点進行表」が掲載されている。10項目の各論点について、先週の「第1週の議論」に続いて、「第2集(1?5日)の議論」がまとめられている。ここには安保特別委員会だけでなく、憲法審査会の参考人発言も要領よく書き込まれている。これは優れものだ。来週の進行が楽しみになってきた。
(2015年6月7日)

官房長官のぼやき

FIFAの評判ががた落ちだ。それにかこつけて、オウンゴールだの、レッドカードだのという当てこすりがかまびすしい。例の「集団的自衛権行使は憲法違反」という憲法学者3人の発言だ。安全保障特別委員会ではなく衆議院憲法審査会での発言だが、与党推薦の専門家までが明確に「違憲」と断じたのだから始末に悪い。自ら招いた学者の発言による大きな失点だから、オウンゴールというのは言い得て妙だ。これで法案だけでなく政権にもレッドカードと言いたいのだろう。野党は鬼の首を取ったような騒ぎだ。安倍政権をFIFAになぞらえたいという悪意が芬々、これは品位に欠けたやり方ではないかね。

野党はまだ許せる。マスコミまでが騒ぐのは許せん。今日の朝日も、東京新聞も、このことが一面トップだ。朝日の「憲法解釈変更 再び焦点」「安保法制『違憲』、攻める野党」は怪しからん。東京は「立憲主義に反する解釈変更」「国民納得せぬ『違憲立法』」だ。朝日の第2面には、追い打ちをかけるように「安保法制問われる根幹」「『撤回を』勢いづく野党」「政権、世論へ影響警戒」の見出し。ますます、怪しからん。面白くない。

朝日・毎日・東京がこの件を取り上げて社説を書いている。
  「違憲」法制―崩れゆく論議の土台(朝日)
  安保転換を問う 「違憲法案」見解(毎日)
  安保法制審議 違憲でも押し通すのか(東京)
そして読売もだ。
  集団的自衛権 限定容認は憲法違反ではない(読売)
朝・毎・東はかわいげがない。読売だけがものごとの理をよく弁えている。政権と折れ合うことでの利がいかほどのものか、衝突をして失うものの大きさがどれほどか。大人の智恵があるのは読売だけではないか。

こんなときに動揺してはいかん。ムキになって反論するのは愚策で、「たいしたことはないさ」と装って、さらりと受け流すのが上策。一昨日(6月4日)の記者会見では、そんなつもりで、「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べてみた。ところがこの評判がよくない。「憲法解釈として法的安定性が保たれているか」「論理的整合性が確保されているか」をあらためての争点として浮上させてしまった。元々自覚しての弱点を糊塗する意図の発言なのだから、本気で突っ込まれれば都合が悪い。新聞記者たる者、武士の情けを知らねばならんだろう。

昨日(6月5日)は、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」に関連して、性格の悪いいやな記者から「違憲でないという著名な憲法学者の名前を挙げていただきたい」という意地の悪い質問があった。このことを東京新聞がイヤミたっぷりに記事にしている。

「菅義偉官房長官は5日の記者会見で、集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案を合憲とする憲法学者が『たくさんいる』と発言したことに関し、具体的な学者名を記者団に問われ、挙げなかった」「菅氏は、行使容認を提言した安倍晋三首相の私的諮問機関『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』(安保法制懇)に言及して『有識者の中で憲法学者がいる。その報告を受け(集団的自衛権の行使容認を)決定した』と説明。安保法制懇に憲法学者が1人しかいないことを指摘されると『憲法学者全員が今回のことに見解を発表することはない。憲法の番人である最高裁が判断することだ』と述べた」

まるで私がデタラメを言って、追求されると逃げ口上と言わんばかりの書きぶり。本当のことだから文句を言えないのが悔しい。しばらくは「最高裁が判断することだ」で逃げておくしかなかろう。どうせ最高裁の判断は滅多に出るものではないのだから。

それだけでない。「民主党の岡田克也代表は記者会見で『今の政府の説明で合憲だという憲法学者を、ぜひ衆院憲法審査会に参考人として出してほしい』と述べた」ことが記事にされている。さらに朝日は、「学識者186人『廃案』に賛同」と目立つ記事を載せている。そんなにも、安倍政権にダメージを与えたいのか。

とは言うものの、こちらの旗色が悪い。やっぱり無理なことを始めてしまったのではないだろうか。今さら、法案を引っ込めるわけにもいかないが、このままでは安倍政権の致命傷にもなりかねない。

私が言うのもなんだが、安倍政権というのは不思議な存在だ。常々思っているんだが、この政権がなぜここまでもっているんだか、なぜ世論調査の支持率が高いのか、実は私にもよくわからない。

誰でも知ってのとおり、安倍が有能なわけはない。せめて人格が人並みであってくれればと思うのだが、あの答弁中の「総理のヤジ」はチンピラなみといわれても反論のしょうがない。私もたしなめてはいるのだが、そのときは神妙にしていても、すぐにメッキがはがれて地金が出てしまう。こればっかりはしょうがない。だから党内に人望があるわけがない。第1次政権を放り出したときのみっもなさといったらなかった。あれはみんな覚えていることだ。

それだけではない。この政権の重要政策は、ことごとく評判が悪い。特定秘密保護法、NSC法、辺野古基地建設強行、新ガイドライン、労働法制、福祉や消費者立法まで、個別的な政策課題では、あらゆる世論調査で不支持が支持を上回っている。普通ならこれでアウトだ。ところが、なんとなく支持率は高いのだ。

アベノミクスが唯一安倍政権を支えている、というのが通り相場だが、これとて「アベノミクスの恩恵を感じていない」という国民が圧倒的多数だ。株価が実体経済の反映ではなく、これを押し上げている要因がGPIF資金の証券市場への大量注ぎ込みと、円安進行による外国投資家の資金流入にあることも常識だから、いつまでももつわけがない。これがいつ崩れるか、私だって冷や汗ものだ。「株価の落ち目が政権の落ち目」になることは確実。それまでの勝負だとは思っている。

それにしても、株価下落の将来ではなく、なぜ、いままでもってきているのだろうか。安倍政権の醸しだす雰囲気が時代にフィットしているのではないのかね。個々の政策テーマを詰められると、とても国民の支持は得られないのだが、感性のレベルで安倍的なものを受け入れる素地があるのではないだろうか。

安倍晋三といえば、歴史修正主義派政治家の旗手だ。保守というよりは右翼のイメージ、日の丸よりは「我が軍の」旭日旗がよく似合う。だからこそ、今の時代の風にフイットしているんじゃなかろうか。戦後民主主義期にも、高度成長期にも、安倍的な政治家の出る幕はなかった。バブルが崩壊して、失われた20年の後に、自信を失いつつある国民が空虚な威勢に寄りかかりたいと思っているのではないか。そんな役回りに、安倍はピッタリなのだろう。

とは言え、理詰めで攻められたら、集団的自衛権行使や海外派兵が違憲だということは大方の認識になりつつある。丁寧に説明すればするほど、法案のボロが出る。安倍政権はボロの出る法案とあまりに深く結びついてしまった。

ここは思案のしどころだ。審議の長期化に展望のないことは火を見るよりも明らかなのだからジリ貧を避けるために早期決戦の強行突破で乗り切るべきか。はたまた、安倍政権を見限って、別の保守本流の穏健路線で新規まき直しをはかるかだ。そのときは、総理・総裁の首のすげ替えが必要だが、そろそろ潮時ではないだろうかね。法案の審議状況を見ているとそんな気がしてくる。
(2015年6月6日)

DHCスラップ訴訟は7月1日結審しますー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第44弾

カネをもつ者が、そのカネにものを言わせて、自分への批判の言論を封じようという濫訴がスラップ訴訟である。はからずも、私が典型的なスラップ訴訟の被告とされた。私の口を封じようとしたのはDHC会長の吉田嘉明。彼が不愉快として封じようとした私の言論は、私がこのブログに書いた3本の記事。政治とカネにまつわる政治的批判の言論。そして吉田の政治資金提供の動機を規制緩和を通じての営利追求にあるとして、消費者問題の視点からの問題指摘である。社会的に有用な言論であることに疑問の余地はない。
 
吉田は私をだまらせようと、2000万円の損害賠償請求訴訟を提起した。私は、吉田から「黙れ」と恫喝されたのだ。だから私は、さらに大きな声で繰りかえし吉田の不当を叫び続けなければならないと決意した。その結果が、本ブログの「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズ。本日で、44回書き連ねたことになる。読み直してみるとなかなかに、貴重な問題提起になり得ていると思う。吉田は、このうちの2本の記事が名誉毀損になるとして、請求原因を追加し、2000万円の請求を6000万円に拡張した。自らスラップの目的を証明したに等しい。

その「DHCスラップ訴訟」が提訴以来約1年を経て、7月1日に結審になる。この日、私が意見陳述をして弁論が終結する。そして、判決言い渡しの日が決まる。ぜひ、ご注目いただきたい。法廷にも報告集会にもご参集をお願いしたい。

7月1日(水)の予定は以下のとおり。
 15時00分? 東京地裁631号法廷 第7回口頭弁論期日。
         被告本人(澤藤)意見陳述。その後に弁論終結。
 15時30分?17時 東京弁護士会508号会議室 報告集会
         弁護団長 経過説明
         田島泰彦上智大教授 ミニ講演
          本件訴訟の各論点の解説とこの訴訟を闘うことの意義
         弁護団・傍聴者 意見交換
          判決報告集会の持ち方
          他のDHCスラップ訴訟被告との連携
          原告や幇助者らへの制裁など
         被告本人 お礼と挨拶

DHCと吉田嘉明は、私と同じテーマの言論を封じるために、計10件のスラップ訴訟を提起した。その内1件は取り下げ、残る9件のうちの2件で一審判決が出ている。もちろん、DHC吉田側の全面敗訴である。そのほかに、関連する2件の仮処分申立事件があって、それぞれに申立の却下決定(東京地裁保全担当部)と抗告却下決定(東京高裁)がある。判決2件とこの4件を合計して計6件。DHC吉田は連戦連敗なのだ。私の件が本訴での3件目判決となる。経過から見て、DHC吉田の連敗記録が途切れることはありえない。

本年3月24日に東京地裁民事第23部の合議体(宮坂昌利裁判長)の、請求棄却判決が、私のブログなどに比較して手厳しいツイッターでの発言について、なんの躊躇もなく、名誉毀損も侮辱も否定して、原告の請求を棄却している。注目すべきはこの判決の中に次のような判示があること。

「そもそも問題の週刊誌掲載手記は、原告吉田が自ら『世に問うてみたい』として掲載したもので、さまざまな立場からの意見が投げかけられるであろうことは、吉田が当然に予想していたはずである」「問題とされているツイッターの各記述は、この手記の公表をきっかけに行われたもので、その手記の内容を踏まえつつ、批判的な言論活動を展開するにとどまるもので、不法行為の成立を認めることはできない」

私の事件での被告準備書面は、吉田が週刊新潮に手記を発表して、「自ら政治家(みんなの党渡辺喜美)にカネを提供したことを曝露した」という事実を捉えて、「私人性の放棄」と構成している。これに対して宮坂判決は、吉田が「自ら積極的に公人性を獲得した」と判断したのだ。

この一連の判決・決定の流れの中で、私の事件が万が一にも敗訴になることはありえない。しかし、烏賀陽弘道さんの指摘では、スラップ訴訟提起の重要な狙いとして、「論点すりかえ効果」と「潜在的言論封殺効果」があるという。

本来は、吉田嘉明が小なりとはいえ公党の党首(渡辺喜美)に8億円もの政治資金を拠出していたこと、しかもそれが表に出て来ないで闇にうごめいていたことこそが、政治資金規正法の理念に照らして問題であったはず。私の指摘もそこにあった。ところが、その重要な問題が、いまは澤藤のブログの記載が吉田に対する名誉毀損にあたるか否かという矮小化された論点にすり替えられてしまっている。この論点すりかえの不当を声を大にして、問題にし続けなければならない。

さらに、本件スラップ訴訟は、けっして澤藤の言論だけを封殺の標的にしているのではない。澤藤に訴訟を仕掛けることによって、同じような発言をしようとした無数の潜在的表現者を威嚇し萎縮させて、潜在的言論封殺効果を狙っているのだ。だから私は、自分ひとりが勝訴の見通しをもつに至ったというだけで喜ぶことはできない。

このような不当訴訟を仕掛けたことに対して、DHC・吉田やその取り巻きに対する相応のペナルティがなければ、スラップ訴訟は「やり得」に終わってしまう。やり得を払拭し、再発の防止の効果を挙げるために何をなすべきか。反撃について、知恵を絞りたいし、大いに汗もかきたい。心ある多くの方と、この点についてよく相談し、実効性のある対応策をとりたいと考えている。

皆さま、7月1日(水)15時の法廷(東京地裁631号)とその後の報告集会(東弁508号)に足を運んでください。よろしくお願いいたします。
(2015年6月5日)

これは最近にない痛快事ー「安保法制は憲法違反」自公推薦を含む参考人全員が批判

国会の委員会審議では「参考人質疑」が行われる。各党の委員が、自党の見解を支持する識者を参考人として推薦する。だから、各党の見解の分布がそのまま、参考人の意見の分布に重なる。私も過去に2度、参考人として招かれた経験があるが、事前に予定されたとおりの意見の陳述があって波乱なく終わった。これが通例なのだろう。波風の立つことのない安全パイのパフォーマンス。ところが、今日は違った。与党側にしてみれば、トンデモナイ事態の出来であったろう。

報道によれば、衆院憲法審査会は4日、与野党が推薦した憲法学者3人を招いて参考人質疑を行った。その質疑において、集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案に関する質問では、全員が「憲法9条違反」と明言したという。これは、近時まれなる痛快事ではないか。

参考人は、自民・公明・次世代の3党が推薦した長谷部恭男、民主党が推薦した小林節、維新の党推薦の笹田栄司の3氏。樋口陽一・杉原泰雄・浦部法穂・山内敏弘などの違憲論を述べると予想される大御所連ではない。安全パイと思われての出番であったろう。とりわけ、長谷部恭男がその役割であったと思われる。

周知のとおり、長谷部恭男とは、特定秘密保護法の原型を形つくった、「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議」5人のひとりである。2011年1月から6月にかけて、6回の会合を開き、同年8月8日に「秘密保全のための法制の在り方について」と題する報告書をまとめた。秘密保全法制検討の会議にふさわしく、会議の経過はヒ・ミ・ツ。議事録の作成はなかったという。その会議の中枢にあって、特定秘密保護法案が国会提出となってからも、積極的な推進論者であった。当然のごとく、衆議院の特別委員会で自民党推薦の参考人として特定秘密保護法に賛成の意見を述べている。

また、小林節とは、長く改憲論を唱える憲法学者として孤塁を守った人物。この人の著書のタイトルが、「憲法守って国滅ぶ」(1992年)、「そろそろ憲法を変えてみようか」(小林節・渡部昇一共著、2001年)、「憲法、危篤!」(小林節・平沢勝栄共著、200年)と言うのだから、推して知るべし。もっとも、最近の安倍政権の解釈改憲路線に対する批判は鋭い。護憲的改憲論者なのか、改憲的護憲論者なのかよくわからないが。

そして、笹田栄司。司法制度の研究者として知られる人だというが、この人が、憲法9条や安保法制についてどのような発言をしているかはほとんど知られていないだろう。推薦者が維新というのも、どんな見解を述べるのかまったく推測不可能。その意味では、最も適格な参考人であったかも知れない。

長谷部は、集団的自衛権の行使容認について「憲法違反だ。従来の政府見解の基本的枠組みでは説明がつかず、法的安定性を大きく揺るがす」と指摘。「外国軍隊の武力行使と一体化する恐れが極めて強い」と述べた、という。(この部分産経による)

これは事件だ。与党(自・公、おまけに次世代まで含めた3党)が招いた憲法学者が、政府提出の法案を違憲と明言したのだ。安全パイが、「ロン!」と当たってしまったのだ。前代未聞のことであろう。痛快きわまりない。

法案作りに関わった公明党の北側一雄は「憲法9条の下でどこまで自衛措置が許されるのか突き詰めて議論した」と理解を求めた。だが、長谷部氏は「どこまで武力行使が新たに許容されるのかはっきりしていない」と批判を続けた、と報道されている。長谷部という人、御用学者と思っていたが、研究者としての信念を持っていると見直さざるを得ない。

小林も、「憲法9条は海外で軍事活動する法的資格を与えていない。仲間の国を助けるために海外に戦争に行くのは憲法違反だ」と批判した。明快この上ない。また、政府が集団的自衛権の行使例として想定するホルムズ海峡での機雷掃海や、朝鮮半島争乱の場合に日本人を輸送する米艦船への援護も「個別的自衛権で説明がつく」との見解を示した、という。護憲論でも改憲論でもなく、解釈論ならこうなる以外にない、ということなのであろう。

そして、笹田。従来の安保法制を「内閣法制局と自民党が、(憲法との整合性を)ガラス細工のようにぎりぎりで保ってきた」と説明し、「今回、踏み越えてしまった」と述べた、という。推薦した維新はどう思ったのだろうか。想定のとおりの発言と受け止めたのか、それとも予想外のこととして驚いたろうか。

いずれにしても、専門研究者からの「法案は違憲」の指摘である。今後の審議への影響がないはずはない。まったく影響ないのなら、参考人質疑という制度自体が無意味ということになる。

さっそく官房長官が会見でフォローを試みた。
「憲法解釈として法的安定性や論理的整合性が確保されている」としたうえで、「まったく違憲でないという著名な憲法学者もたくさんいる」と述べた、とのこと。これは、ハッタリというしかなかろう。こんなことを言うから、なおのこと政府の狼狽が見えてしまうのだ。

おそらくは、「違憲でないという憲法学者もいる」だけなら、おそらくウソではないだろう。しかし、「まったく」を付ければもうウソだ。「著名な」も「たくさんいる」もみんな根拠がない。どんな憲法学者が、政府与党のチョウチンを持とうというのか。明確にして欲しいものだ。

一方、法案が憲法に違反し、重大な問題をはらんでいるとする憲法学者は、上記の3人以外に、少なくも171人はいる。明治大学の浦田一郎教授ら6人が3日、国会内で会見して明らかにした憲法学者声明の賛同者数である。法案を合憲と主張する憲法学者が存在したとしても絶対少数。無視してよい程度。どの世論調査においても、法案反対派が多数を占める。どうやら、内閣と国会だけが、世論とねじれた存在になっているのだ。

安倍クン、無理押しは、安倍内閣の存立危機事態を招くことになるぞ。
(2015年6月4日)

違憲訴訟で闘う試みー「安倍内閣・集団的自衛権行使容認違憲訴訟」

6月1日の東京新聞「こちら特報部」が、「違憲訴訟で闘う市民」を紹介している。もちろん、安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定に対する抗議の意思表示。個人での訴訟が少なくとも5件あるという。さらに、閣議決定と戦争法の双方を俎上に載せる集団訴訟を、松坂市長を先頭とする450人が準備中だとも紹介されている。小林節さんが、弁護団長引き受けの予定なのだそうだ。

この記事以来、何人かの方から問合せを受けた。「今度は違憲訴訟やらないんですか」「東京ではそんなことを企てているグループはないんですか」。そして、「もし、私がひとりで原告になろうと決意したら、代理人になっていただけますか」という方も。みんな、なんとかしなければならない。何かをやりたい、という雰囲気なのだ。

東京新聞の記事も、私に連絡をしてきた方たちも、こんな風に考えているのだと思う。
「今は憲法が大きな危機にある。その元凶である安倍政権に立法府が歯止めをかけることが難しそうだ」「それなら、三権の残る一つである司法に期待するしかない」「司法こそは、憲法の番人ではないか」「立法府や内閣は数の力を恃むところだが、司法は数を数えるところではない。純粋に違憲・違法の判断をしてくれるはず」「司法はたったひとりの市民の訴えにも耳を傾けるところではないか」

また、「何よりも、憲法改正の手続を僣脱して、閣議決定で違憲の宣言とは何ごとか」「今国会で進行しているのは、法律で憲法を覆えす試みではないか」「主権者をないがしろにした安倍クーデターだ」「国民世論が国会にも、内閣にも反映していないのだ」「このような事態に裁判所が無力であってよいはずはない」
そのように言いたいことが、とてもよくわかる。しかし、それでも提訴は難しいことになる。

実務法律家は、このような市民の司法への期待を、素人故の見当外れの願望と一蹴してはならない。少なくとも憲法論としてはこれらの見解の真っ当さは明白である。これを司法の場で実現する方法を真剣に検討すべきが筋だろう。

とは言うものの、私にはそのような知恵も能力もない。違憲訴訟立ち上げの運動にまったく参加していないし、東京にそのような運動があるかすらも知らない。この際、違憲訴訟をやってみようという積極的な元気も余裕もない。せいぜい、ブログを書き続けるくらいしか能がない。

もう、24年もまえのことになる。1000名を超える市民が原告になって、東京地裁に市民平和訴訟を提起した。湾岸戦争に戦費を支出するな、掃海部隊を派遣するな、そして原告各自に慰謝料1万円ずつの支払いを求めた。典型的な集団違憲訴訟である。この提訴が、この種訴訟のスタイルを作ったのではないだろうか。私はその弁護団事務局長だった。

1991年3月4日、百人を超える原告が、みんな手に手に一輪ずつの花をもって地裁に集合し提訴した。以来、法廷や集会には必ず、花を持参した。ゼッケンやワッペンにはうるさい裁判所も、さすがに花の持ち込みまでは咎めなかった。

この訴訟の請求の趣旨は、当初以下のとおりだった。
1、被告国は、湾岸協力会議に設けられた湾岸平和協力基金に対し90億ドル(金1兆1700億円)を支出してはならない。
2、被告国は、自衛隊法100条の5第1項についての「湾岸危機に伴う避難民の輸送に関する暫定措置に関する政令」(1991年1月29日公布政令第8号)に基づいて自衛隊機及び自衛隊員を国外に派遣してはならない。
3、被告国は、原告らそれぞれに対し各金1万円を支払え。
4、訴訟費用は被告の負担とする。

後に、「掃海部隊派遣差し止め」が加わり、90億ドルが現実に支出され掃海部隊が派遣されたあとは、「支出行為・派遣行為の、違憲・違法確認請求」に切り替えた。自衛隊機派遣は計画が消え、取り下げている。

市民平和訴訟の形式は、2004年に各地で取り組まれたイラク派遣差し止め訴訟に受け継がれた。

名古屋地方裁判所への提訴の請求の趣旨は以下のとおりである。
1 被告は、『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域並びに周辺海域に派遣してはならない。
2 被告が『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは、違憲であることを確認する。
3 被告は、原告らそれぞれに対し、各金1万円を支払え。
4 訴訟費用は被告の負担とする。

市民平和訴訟で請求の根拠としたものが、憲法前文中に謳われている平和的生存権、そして納税者基本権である。いろんな工夫を凝らしてはみたが、裁判所を説得することはできなかった。この種の違憲訴訟は難しい。現行の訴訟制度の中で、憲法論まで到達することが容易ではない。

何を違憲の対象として特定するのか、被告の選定、原告適格、被侵害利益、訴えの利益、請求権の根拠、どのような請求の趣旨を立てるか…。裁判を土俵に乗せるまでが至難の業なのだ。さらに、土俵上でしっかり組んだと思っても、スルリと体をかわされる。そのうっちゃり技が統治行為論である。

裁判所の頭の中には、東京地裁伊達判決を覆した砂川事件大法廷判決の法理が離れなかったのだろう。最後はこのようにして違憲判決回避という裁判所なのだ。「高度に政治性の高いテーマについては、一見きわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すべきではない」という統治行為論である。つまりは、できるだけ国会や内閣という「民主的機関」の意思を尊重して司法は軽々に違憲判断をすべきではない、というのである。一見きわめて明白な憲法の番人の職務放棄である。

それでも、次々と新しい挑戦者が現れるだろう。イラク訴訟がその典型で、名古屋高裁判決では立派な成果を挙げている。東京と大阪で、安倍靖国参拝違憲訴訟が進行中だが、ここにも新しい試みがある。これまではこの種の国家賠償請求では、請求の根拠として原告の宗教的人格権侵害を挙げていた。いま、平和的生存権の侵害も併せて強力に主張されている。

工夫の積み重ねがやがては力になっていく。新しい挑戦者に期待したい。
(2015年6月3日)

平和憲法の原点は「非武装平和」

毎日新聞「オピニオン欄・社説を読み解く」は、月初めの火曜日に「前月の社説の主なテーマを取り上げ、他紙とも比較しながらより深く解説します」という論説委員長の署名記事。本日は、「国会審議のあり方」を取り上げて、安保法案審議に関しての自社の社説を解説している。切れ味の鋭さはないが、落ちついた姿勢で、内閣とメディアをたしなめ批判する内容となっている。

記事での言及はないが、各紙の関連社説の標題が掲記されているのが目を引く。
◇安保法案審議に対する社説の見出し
毎日 「大転換問う徹底議論を」(5月15日)
    「決めつけ議論をやめよ」(5月26日)
朝日 「この一線を越えさせるな」
    「合意なき歴史的転換」(5月15日)
読売 「的確で迅速な危機対処が肝要」
    「日米同盟強化へ早期成立を図れ」(5月15日)
日経 「具体例に基づく安保法制の議論を」(5月14日)
    「自衛隊の活動域さらに詰めよ」(5月21日)
産経 「国守れぬ欠陥正すときだ」
    「日米同盟の抑止力強化を急げ」(5月15日)
東京 「専守防衛の原点に返れ」
    「平和安全法制の欺(ぎ)瞞(まん)」(5月15日)

この見出しで、大まかに各紙のスタンスがつかめる。一方に、東京・朝日があり、対極に産経・読売がある。その間に、毎日・日経が位置するという構造。但し、この序列は当該の社説に限ってのこと。毎日の「リベラル度」は朝日と変わるまい。

東京新聞5月15日の社説にあらためて目を通した。熱のこもった、素晴らしい内容だ。読者の気持を動かす筆の力を感じる。

タイトルが「専守防衛の原点に返れ」で、三つの小見出しがついている。「平和安全法制の欺瞞」「憲法、条約の枠超える」「岐路に立つ自覚持ち」というもの。

まずは「平和安全法制」との政府のネーミングを欺瞞と断じている。
「呼び方をいかに変えようとも、法案が持つ本質は変わりようがない」「その本質は、自衛隊の活動内容や範囲が大幅に広げられ、戦闘に巻き込まれて犠牲を出したり、海外で武力の行使をする可能性が飛躍的に高くなる、ということだ」

社説子は熱く訴えている。
「思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が戦争放棄の「平和憲法」をつくり、それを守り抜いてきたのか。思い起こしてほしい。なぜ戦後の日本が「専守防衛」に徹してきたのか。
それは誤った政策判断により戦争に突入し、日本人だけで約三百十万人という犠牲を出した、先の大戦に対する痛切な反省からにほかならない。」

この社説の骨子は、戦後貫いてきた「専守防衛」の原点に返って、「海外での武力の行使に道を開く危うい法案」を批判するもの。「平和憲法を守り、専守防衛を貫いてきた先人たちの思いを胸に刻みたい」「二度と侵略戦争はしない、自国防衛以外には武力の行使や威嚇はしないという戦後日本の原点」に立ち返れ、とも言っている。

この社説の立場には賛意を表する。が、やや違和感を拭えない。我が憲法の平和主義の「原点」は何かという点についてである。

憲法9条を字義のとおりに読み、公開されている制憲議会の審議経過を通覧する限り、「非武装平和」が原点であったことに疑いはない。けっして「専守防衛」ではなかった。

東西冷戦構造の中で、警察予備隊から保安隊、そして自衛隊創設が「押しつけられた」。そのとき、国民世論のせめぎ合いの中で、設立された実力装置は、国防軍ではなく、「自衛のための実力」との位置づけにとどめられた。こうすることで憲法との折り合いをつけたのだ。これが、「専守防衛」路線の出自である。

原点の非武装平和の理念は大きく傷ついたが、専守防衛としてしぶとく生き残ったとも評価し得よう。今、現実的な論争テーマは、「専守防衛路線からの危険な逸脱を許してはならない」というものである。これが、許容ぎりぎりの憲法解釈の限界線を擁護する実践的議論でもあることを自覚しなければならない。
(2015年6月2日)

喫煙権2分説ー「吸煙権」擁護と「吐煙権」規制

WHOは5月31日を「世界禁煙デー」としている。日本では、同日から6月6日までが禁煙週間とされている。厚労省のホームページによれば、世界禁煙デーのテーマが「Raise taxes on tobacco」とのこと。日本では「オールジャパンで、たばこの煙のない社会を」という、両者ともなんともひねりも工夫もない平板な標語。標語の出来はともかく、このようなキャンペーンはけっこうなことである。

私は20代の一時期喫煙していたことを悔やんでいる。タバコが自らにだけではなく家族への害あることを知って止めた。もう40年ほどはまったく吸っていない。それでも、肺がんを患って手術した。担当医師の「受動喫煙の環境にあったからでしょうね」とのつぶやきが忘れられない。幸いなことに手術(右上葉切除)で予後は良好、転移も再発もないが、以来タバコは仇同然である。

個人的に、世の中の嫌いなものをならべれば、まずは戦争、そして核兵器と原発、賭博に暴力団に天皇制、その次くらいにタバコがくる。私のカバンには、「日の丸・君が代」強制反対とならんで、禁煙マークのステッカーが貼り付けてある。

大嫌いなタバコだが、私はけっして権力的タバコ規制に積極派というわけではない。最近は肩身の狭い愛煙家の、「喫煙という嗜好の享受は、幸福追求の権利の一端として保障されなければならない」という、あまり力のはいらない主張にも、耳を傾けている。強権的な喫煙禁止立法に、賛成すべきか反対か悩ましい。憲法上の問題は生じないのだろうか。

私は、ずいぶん以前から愛煙家に言ってきた。「誰にだってタバコを吸う権利はある。喫煙は人権だ。私はあなた方の『吸う権利』を断固擁護する」。しかし、「『吐く権利』となれば話は別だ。煙を吐くことは必ずしも断固守られるべき権利ではない」「対抗人権を考慮して制約あってしかるべき」「端的に言えば、吸ってもよいが、吐いてはいけないということだ」。

煙を吸う権利を「吸煙権」と名付け、吐き出す権利を「吐煙権」としよう。この両者を区別して、前者を絶対的権利とし、後者を場合次第で規制可能な権利と考える。

論理の遊びだが、案外これが憲法論の本質を衝いた議論なのだ。発がん物質を含むタバコの煙。これを多少の害あるものと知りつつ我が身に吸い込むことは、自己決定権の行使として、他からとやかく言われる筋合いではない。権力的規制をなし得るところではない。

しかし、発がん物質を含んだ煙を吐き出すことは、他人の人権との関わりを生じることになる。他の人の「健康に生きる権利」、「健康被害のリスクを回避する権利」、「不愉快な臭いから自由である権利」等々と衝突する恐れがある。人権が衝突する局面での調整原理が必要となり、これが規制を合理化する根拠となる。

発がん物質は、社会的には確実に一定数の発症者をつくり出すが、個人だけをとってみれば自分が発症する確率はけっして高くはない。これをどう扱うべきか、微妙な問題が残ることになる。また、受忍限度論という考え方もある。社会生活を送る上では、一定の限度を超えない限りの不愉快さは受忍(我慢)しなければならない、というもの。受動喫煙者側に「社会生活を送る上で喫煙くらいに目くじら立てるなよ」と受忍限度を超えていないと説得すべきか。それとも、愛煙家の側に受忍を説いて「自分の家を一歩出たら喫煙くらい我慢しろよ」というべきか。

感性レベルでは、「タバコよ、タバコ。この世からなくなってしまえ」と思いつつ、理性のレベルではこの思いにブレーキをかけている。法的制裁をもって強権的にタバコを撲滅しようという、キレイすぎる社会の不気味さに反感を禁じ得ないのだ。

タバコの害は認めつつも性急な権力的規制には慎重であるべきが、成熟した社会の在り方ではないか。まずは分煙。そして規制についての社会的合意の形成を見極めるべきだろう。

愛煙家側は、「一服しながらよく考えてみよう」というところ。私の方は、煙に巻かれぬよう用心しつつ、性急な権力的規制を避けながらもタバコのない社会を目指したい。
(2015年6月1日)

安田浩一『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』を薦める

安田浩一著の『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書・5月20日刊)を読んだ。私は、鶴橋や新大久保でのヘイトスピーチを、知らないではない。先日は秋葉原で、ヘイトスピーチデモとカウンターと警察3者の軋轢の場に出くわしてもいる。私も編集に携わっている「法と民主主義」誌で2度の特集もしている。それでも、この書の読後感は「衝撃」というほかはない。この臨場感溢れるルポを取材し書き下ろした著者に敬意を表したい。

ともかく、この書は多くの人に広く読まれるべきである。評価・評論はじっくりと時間をかけて考えよう。政治学的に、文化論的に、経済現象から。あるいは社会学的に、心理学的に、もちろん歴史的にも…。さらには、国際的にも、学際的にも、そして最後に法的な観点から…。さまざまな切り口から、生起している現象のトータルな説明や、原因分析や、対応策が議論されねばならない。が、それより以前に、情報を共有しよう。何が起こっているのかを社会全体で確認しなければならないと思う。私も、認識が不十分だったと思うのだ。

この書は、延々とヘイトスピーチの実態を叙述する。「第1章 暴力の現状」「第2章 発信源はどこか?」「第3章 『憎悪表現』でいいのか?」「第4章 増大する差別扇動」「第5章 ネットに潜む悪意」「第6章 膨張する排外主義」…。差し支えない限りに実名で語られる。基調は「ヘイトスピーチは、表現の範疇ではない。生身の人を深く傷つける暴力そのものであり、社会を壊す」というもの。説得力に富み、たいへんな迫力である。とりわけ、「第4章 増大する差別扇動」を読むと息苦しくなる。

私の読後感の「衝撃」は、恐怖でもある。私たちの暮らすこの社会は、今とんでもなく病んでしまっているのではないだろうか。もしかしたら、壊れかかっているのではないだろうか。あるいは、日本の社会が腐りかけ腐臭を放ちつつあるのではないのだろうか。そういう恐怖である。論理も、会話も、心情も、まったく通じない人々の集団がこんなにも肥大しているのだという恐怖。

差別や排外主義、弱い者イジメは以前から社会に潜んでいるにせよ、それが恥であることは共通の認識だったはず。隠れての言動はあれ、公然と口にし、行動することは希なことではなかったか。しかもこれだけの集団で執拗に。クー・クラックス・クランでさえ覆面をしていたではないか。我が国で、白昼堂々と、大っぴらに差別用語を広言する人々の集団が街を練り歩くこの事態に薄気味悪さを通り越した恐怖を禁じ得ない。

在特会の京都朝鮮学校襲撃事件に際して、3人の子を同校に通わせていた父親の話が印象に深い(同書106ページ)、龍谷大学の教員である彼は、勤務先から現場に自転車で駆けつけた。「実は、彼ら(襲撃メンバー)を説得できないものかと考えていたんです。学校にわが子を通わせている親としては、問題はきちんと解決したいし、地元に住む人々と摩擦など起こしたくない。ここで生きていく以上、日本人との対立を望む在日など、いるわけありません。話せばきっとわかってもらえる。そんな気持でいたんです」
しかし、この常識的な考えは裏切られ、彼は現場で立ちすくむことになる。投げかけられた悪罵は「朝鮮人はウンコ喰っとけ!」というものだった。

以来5年間、彼は裁判の支援に走り回った。刑事では首謀者4名に威力業務妨害による懲役1年?2年の刑(執行猶予付)が確定し、民事訴訟では在特会に1200万円の高額認容判決が確定した。しかし、裁判で何かが本当に変わったのか、変わらないままなのか。彼も著者も、在日への冷たい視線は残ったままだという。

また、中学2年生の女子学生が、「そこで生きる人々を恐怖のどん底に落とした」という「鶴橋大虐殺スピーチ」も紹介されている。
「鶴橋に住んでいる在日クソチョンコの皆さんこんにちは!」「私もホンマ、皆さんが憎くて憎くてたまらないんです。もう、殺してあげたい」「いつまでも、調子に乗っ取ったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!」「ここはニッポンです。朝鮮半島ではありません。帰れー!」
なんということだろう。著者の表現のとおりに、息苦しいし腹だたしい。

彼らは、在日差別だけてなく、ニューカマーへの差別も、部落差別も平然と口にする。その口舌たるやすさまじい。書中には、在特会を「反日」攻撃の一員と遇する右翼とのつながりや、現政権中枢とのつながりも示唆されている。嫌韓本や嫌中書が売れる時代の背景もある。警察の対応も問題視されている。

会話を拒否し、言葉も心も通じない集団が、容易にネットで増殖されていく恐怖。しかし、最終章で「ヘイトスピーチを追いつめる」として、カウンターデモに起ち上がった一団のことも語られる。これが救いであり、希望である。

著者の次の感想は重い。
「いま、日本は憎悪と不寛容の気分に満ちている。差別デモだけではなく、ネットで、書籍で、テレビで、飲み屋の片隅で、あるいは政治の場で、差別が扇動されている。」
おそらく、この憎悪と不寛容の気分も、煽動されている差別も、国際協調や平和への敵対物である。改憲勢力を利するものでもあろう。とにもかくにも、この社会のほころびの原因と修復の手立てを考えねばならないと思う。
(2015年5月31日)

宗教者の戦争法反対ー新宗教も仏教もクリスチャンも

新日本宗教団体連合会(新宗連)の「新宗教新聞」(月刊・2015年5月23日号)が届いた。
一面トップが、「『安保法制』に危機感」の大きな見出し。リードでは、「有識者や宗教者から『国民の理解、国会議論がないまま先行する姿勢は、民主々義の存立を脅かす』『9条だけでなく、憲法そのものを壊す』などの批判の声があがっている」と強い危機感がにじみ出ている。

5月15日国民安保法制懇の反対声明が詳しく紹介されている。「健全な相互理解と粘り強い合意形成によってなり立つはずの民主主義の『存立を脅かす』」「自衛隊に多くの犠牲を強いるばかりか、国民にも戦争のリスクを強いる」と、新ガイドライン・安保法制関連法案危険性指摘の引用が印象的である。

また、「安倍政権の戦略は『改憲』」とタイトルを付して「九条の会」の学習会や5月3日横浜・みなとみらい地区臨港パークでの「5・3憲法集会」開催も紹介されている。この集会での大江健三郎発言の「安倍首相はアメリカとの間で『安保法制』を進めようとしているが、多くの日本人は同意していない」と安倍政権批判や、樋口陽一の「憲法は70年間、改正を目指す度々の攻撃に対して、先輩の憲法学者や国民が守り支えてきた」との訴えが記事になっている。

また、大阪宗教者9条ネットワークが「戦争法案断固反対」を採択したとの記事もある。この記事では、「安保法制」ではなく、「戦争法案」断固反対との見出しが目を引く。5月16日午後2時から、「宗教者としてともに歩むー平和を尊び憲法9条を世界に」をテーマに、大阪市の大阪カテドラル聖マリア大聖堂で開かれた集会で、「宗教者9条の和」代表世話人でもある宮城泰年聖護院門跡門主、松浦悟郎カトリック司教がそれぞれ憲法の大切さ、平和への思いを語った。中学2年の時に敗戦を迎えた宮城門主は、軍事教練などの苦い思い出を語りながら、「自民党は、『安保法制』11法案の成立を企てているが、9条だけでなく、憲法そのものを壊していこうとしている。今こそもう憲法に敏感にならなければならない」と危機感を露わにし、松浦司教は「日本の世界への貢献は、軍事力とは違う土俵がある」として、平和的な支援活動がアジアや世界から信頼を得ていることを強調した。「戦争法案に断固反対する」集会アピールを採択した後パレードに移り、大阪城公園まで9条改悪反対などを訴え行進したという。

紙面の隅々に、戦争反対、世界に平和を、そして、宗派を超えた戦没者の追悼という意気込みが溢れている。さらに、戦争責任から目をそらしてはならない、戦争の危機が宗教弾圧をもたらすとの危機感などが感じられる。

また、巨大宗教団体である真宗大谷派(東本願寺)が5月21日に、里雄康意宗務総長名で、「日本国憲法の立憲の精神を遵守する政府を願うー正義と悪の対立を超えて」とする声明を発している。心して耳を傾けるべき立派な内容である。やや長いが、全文を紹介したい。

「私たちの教団は、先の大戦において国家体制に追従し、戦争に積極的に協力して、多くの人々を死地に送り出した歴史をもっています。その過ちを深く慙愧する教団として、このたび国会に提出された『安全保障関連法案』に対し、強く反対の意を表明いたします。そして、この日本と世界の行く末を深く案じ、憂慮されている人々の共感を結集して、あらためて『真の平和』の実現を、日本はもとより世界の人々に呼びかけたいと思います。
 私たちは、過去の幾多の戦争で言語に絶する悲惨な体験をいたしました。それは何も日本に限るものではなく、世界中の人々に共通する悲惨な体験であります。そして誰もが、戦争の悲惨さと愚かさを学んでいるはずであります。けれども戦後70年間、この世界から国々の対立や戦火は消えることはありません。
 このような対立を生む根源は、すべて国家間の相互理解の欠如と、相手国への非難を正当化して正義を立てる、人間という存在の自我の問題であります。自らを正義とし、他を悪とする。これによって自らを苦しめ、他を苦しめ、互いに苦しめ合っているのが人間の悲しき有様ではないでしょうか。仏の真実の智慧に照らされるとき、そこに顕(あき)らかにされる私ども人間の愚かな姿は、まことに慙愧に堪えないと言うほかありません。
 今般、このような愚かな戦争行為を再び可能とする憲法解釈や新しい立法が、『積極的平和主義』の言辞の下に、何ら躊躇もなく進められようとしています。
 そこで私は、いま、あらためて全ての方々に問いたいと思います。
 『私たちはこの事態を黙視していてよいのでしょうか』、
 『過去幾多の戦火で犠牲になられた幾千万の人々の深い悲しみと非戦平和の願いを踏みにじる愚行を繰り返してもよいのでしょうか』と。
 私は、仏の智慧に聞く真宗仏教者として、その人々の深い悲しみと大いなる願いの中から生み出された日本国憲法の立憲の精神を蹂躙する行為を、絶対に認めるわけにはまいりません。これまで平和憲法の精神を貫いてきた日本の代表者には、国、人種、民族、文化、宗教などの差異を超えて、人と人が水平に出あい、互いに尊重しあえる「真の平和」を、武力に頼るのではなく、積極的な対話によって実現することを世界の人々に強く提唱されるよう、求めます。」

  
さらにキリスト教も、である。日本キリスト教協議会のホームページの冒頭に、小橋孝一議長による「今月(2015年5月)のメッセージ」が掲載されている。「剣を取るものは皆、剣で滅びる」という標題。

そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取るものは皆、剣で滅びる。」マタイ26章52節

イエスを守ろうとして剣を抜いて大祭司の手下に打ち掛かった者を制して、主は「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」と断言されました。これは歴史の主の世界統治方針です。

どのような理由があろうとも、武力によって立つ者は、たとえ一時的には成功したかに見えても、結局歴史の主にその罪を裁かれ、身を滅ぼす結果になるのです。

大日本帝国は「富国強兵」のスローガンを掲げて、武力によって諸国を侵略・支配する罪を犯し、裁かれて滅びました。そして「剣を鞘に納める」誓いを内外に表明して、新しい歩みを始めました。

しかし戦後70年、その誓いを破り、再び「剣を取る者」となるための議案が国会で議決されようとしています。再び「剣で滅びる」道に歩み出そうとしているのです。何と恐ろしいことでしようか。

戦後の「平和の誓い」は、戦争によって自分たちが受けた苦しみによるもので、他国・他民族を殺し苦しめた罪の悔い改めによるものではなかったのではないか。その浅さが今露呈しているのです。

日本社会の根底に潜む罪を今こそしっかりと見つめ、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」との歴史の主の御言葉に身をもって聴き従い、世に訴えなければなりません。

「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」
これこそ、日本国憲法9条の精神ではないか。安倍晋三にも、高村正彦や中谷元にもよく聞かせたい。いや宗教者は、もっと品がよく、「安倍さんも、高村さんも、中谷さんも、皆さんよくお聞きください」というのだろう。それにしても、宗教者諸氏の平和への思い入れと、それが損なわれることへの危機感はこの上なく強い。

日本国中の津々浦々、そしてあらゆる分野に、安倍内閣の戦争法反対の声よ、満ちてあれ。
(2015年5月26日)

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