澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「南無十万の火の柱」 ? 東京大空襲70周年

本日の東京新聞「平和の俳句」を心して読む。
    三月十日南無十万の火の柱

70年前の今日、東京が地獄と化した惨状をつぶさに目にした古谷治さん(91歳)の鎮魂の一句。
東京新聞は、古谷さんを取材して、「黒焦げの骸 鎮魂の一句」「戦争を知る世代の使命」という記事を掲載している。その記事の中に、「古谷さんは戦後、中央官庁の役人として働き、政治家を間近で見てきた。今、戦争を知らない世代の政治家たちが国を動かすことに『坂道を転げ落ちていくような』不安を覚える。」とある。そして、古谷さん自身の次の言葉で結んでいる。

「戦争を知っているわれわれが、暴走しがちな『歯車』を歯を食いしばって止めないとどうなるのか。その使命の重大さ、平和のありがたさをかみしめて、鎮魂の一句をささげた」

日露戦争後、3月10日は陸軍記念日であった。1945年の陸軍記念日の早暁、テニアン・サイパンから飛来した325機のB29爆撃機が東京を襲った。超低高度で人家密集地に1600トンの焼夷弾の雨を降らせた。折からの春の強風が火を煽って、人と町とを焼きつくした。死者10万、消失家屋27万、被災者100万に上ったと推計されている。これが、3時間足らずのできごとである。防空法と隣組制度で逃げれば助かった多くの人命が奪われた。

東京大空襲訴訟の証言で、早乙女勝元さんが甚大な被害の理由をこう解説している。
「1番目は退路のない独特の地形です。東京の下町は荒川放水路と、隅田川に挟まれて無数の運河で刻まれた所。2番目はその夜の気象状況にあったと思います。春先の猛突風が9日の夜から吹き荒れていて、火が風を呼び、風が火を呼ぶという乱気流状態になったことが挙げられましょう。そして3番目は防空当局のミスであります。ミスといいますのは、空襲警報が鳴らないうちに空襲が始まっております。4番目は‥、昭和18年に内務省が改訂版で『時局防空必携』というのを各家庭に配りました。それを守るべしということですが、1ページ目を開きますとこう書いてあります。『私たちは御国を守る戦士です。命を投げ出して持ち場を守ります』と。国は東京都民を戦士に仕立てあげたんではないのでしょうか。そういうことが大きな人的被害を生む理由になったのではないかと考えます。」

多くの都民が、命令され洗脳されて、文字どおり「持ち場を守って命を投げ出した」のだ。

同じ証言で、早乙女さんはこうも述べている。
「3月10日の正午になりますと、焼け残りの家のラジオは大本営発表を告げました。公式の東京大空襲の記録といっていいのですが、翌日の新聞にももちろん出ております。その中でたいそう気になりますのは、次の1節であります。『都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮(しゅめりょう)は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり』。100万人を超える罹災者とおよそ10万人の東京都民の命は、『其の他』の三文字でしかありませんでした。戦中の民間人は民草と呼ばれて、雑草並みでしかなかったと言えるかと思います。残念ながら、大本営発表の、『其の他』は戦後に引き継がれまして、今、被災者遺族の皆さんは私を含めて高齢ですけれども、旧軍人、軍属と違って、国からの補償は何もなく、今日のこの日を迎えています。国民主権の憲法下にあるまじき不条理であります。法の下に平等の実現を願っております。」

大日本帝国の公式発表は、10万の都民の命よりも皇室の馬小屋の方に関心を示したのだ。こうして、1945年の陸軍記念日は、「我が陸軍の誉れ」の終焉の日となった。それでも、この日軍楽隊のパレードは実行されたという。

無惨に生を断ち切られた10万の死者の無念、遺族の無念に、黙祷し合掌するしかない。空襲の犠牲者は、英霊と呼ばれることもなく、顕彰をされることもない。その被害が賠償されることも補償されることもない。それどころか、戦後の保守政権はこの大量殺戮の張本人であるカーチス・ルメイに勲一等を与えて、国民の神経を逆撫でにした。広島・長崎の原爆、沖縄の地上戦、そして東京大空襲‥。このような戦争の惨禍を繰り返してはならないという、国民の悲しみと祈りと怒りと理性が、平和国家日本を再生する原点となった。もちろん、近隣諸国への加害の責任の自覚もである。2度と戦争の被害者にも加害者にもなるまい。その思いが憲法9条と平和的生存権の思想に結実して今日に至っている。安倍政権がこれに背を向けた発言を繰り返していることを許してはならない。今日は10万の死者に代わってその決意を新たにすべき日にしなければならない。

たまたまドイツのメルケル首相が来日中である。共同記者会見でメルケルと安倍がならんだ。同じ敗戦国でありながら、罪を自覚し徹底した謝罪によって近隣諸国からの信頼を勝ち得た国と、しからざる国の両首相。それぞれが国旗を背負っている。

1940年、日独伊三国同盟が成立したとき、並んだ旗はハーケンクロイツと日の丸であった。戦後、ドイツは、ハーケンクロイツから黒・赤・金の三色旗に変えた。日本は、時が止まったごとくに70年前の「日の丸」のままである。変えた旗と変えない旗。この旗の差が、日独両国の歴史への対峙の姿勢の差を物語っている。

さて、東京大空襲70年後のこの事態である。火の柱となった十万の魂は鎮まっておられるのだろうか。
(2015年3月10日)

舛添都政1年ーその評価確定は教育行政の推移を見極めてから

昨年(2014年)2月の選挙で舛添要一都政が発足して1年が経過し、今初めての舛添予算案が都議会に上程されて審議を受けている。メディアからの評判はなかなかのものとなっている。産経の記事が「共産党も高評価」と見出しを打った。酷すぎた石原慎太郎・猪瀬直樹都政に較べれば多少はマシになった、というレベルを超えた積極評価がなされている。

自・公の推薦を受けた候補者ではあったが、都議会内各派とはそれぞれに折れ合いは良いようだ。何よりも、不必要に居丈高で威圧的だった石原・猪瀬に較べて、人と接する姿勢のソフトさに好感が持てる。

着任早々の定例記者会見で、記者に対して次のように呼びかけたことが話題となった。
「みなさん(記者)も、都民、国民の代表として、外からごらんになっていただいているんで、いつも申し上げるように、どんな質問でも全く構わないんで、自由に、この会見の場で意見をいただくということが、都民の声を反映することになると思いますので、ぜひ、そのことをお願いしたいと思います」
知事本人による、「私は、石原・猪瀬とは違う」という意識的アピールとみるべきだろう。

また、次のような発言も各紙が話題にした。
「初登庁して一日仕事をしただけで、この役所は大丈夫か、とんでもないことになっているのではないかと、心配が先立ってきた。
都庁では、職員が恐る恐る知事に説明に伺ってもよいかと、私に不安げに尋ねてきた。これは驚きで、知事に対する説明などは当然行うべきである。‥これまでの知事たちが、どういう職務姿勢であったのかが、よく分かる。週に2?3回しか職場に来ないのなら、職員からレクを受ける機会も少なくなるであろうし、重要な来客とのアポも入れられないであろう。まともな仕事もせずに、権威主義的に怒鳴り散らしていたのではないかと想像してしまう。これでは、部下の士気も減退するであろう。」
(「現代ビジネス 舛添レポート」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/38397?page=2

言うまでもなく、「まともな仕事もせずに権威主義的に怒鳴り散らして、この役所をトンデモナイものにしてしまった」のは、石原・猪瀬の前任者である。舛添はこれをまともな役所にする、と宣言したわけだ。

その後も、「ぬるま湯につかった過去3代の知事の20年間は忘れていただきたい。トップがサボっていると職員に感染しますね」(昨年5月9日)や、「終わった人のことをいろいろ言う暇があったら都民のために一歩でも都政を前に進める、そういう思いでいる」(12月16日、引退を表明した石原元知事について)などの記者会見発言が続いた。

こうして舛添都政1年。公平な目で、功罪の「功」が優るというべきだろう。
2020年オリンピック準備では、「招致段階から施設整備費が大幅に膨らむことが分かり、舛添知事は『都民の理解が得られない』と競技会場計画の見直しに着手。三施設の新設を中止して既存施設の活用などを決めた。一時は4584億円に上った試算から「2千億円を削減した」と話す。」(東京)と報じられている。これは都民に好意的に迎えられている。

産経の記事を紹介しておきたい。
「舛添知事が熱心に取り組み、独自色が鮮明になったものの一つとして『都市外交』が挙げられる。これまで6回の海外出張をこなし、計5カ国に訪問。五輪への協力要請などに取り組んだ。

ただ、就任直後から続いた外遊の連続に、昨年9月の都議会本会議で、自民党の村上英子幹事長は『知事の海外出張が、それほど優先順位が高いとは思えない』と苦言を呈した。北京、ソウルの訪問では歴史認識に関する発言への対応をめぐり、『なぜ地方自治体が外交をやるのか』と都に2万件を超える意見が寄せられ、その大半が批判的となるなど、独自色がむしろ“裏目”に出る事態を招いた。

舛添知事が初めて編成を手がけた来年度の当初予算案についても、共産党が重視する非正規雇用の正社員転換や保育・介護分野の拡充に向けた予算付けがされたことから、共産は大型開発などを一部批判しつつも、『都民の要求を反映した施策の拡充が図られている』とするコメントを出した。『共産からこれほど前向きなコメントが出るのは異例だ』と、議会事務局のベテラン職員も驚くほどの内容という。」

右派メディアが右からの批判をおこなっている。最も気になるのは、知事の北京・ソウルへの訪問を、安倍政権の外交失策を補う自治体外交としての輝かしい成果と評価せず、「裏目に出た事態」としていることだ。「2万件を超える意見」の殆どは、嫌韓・嫌中を掲げる排外主義右派の組織的な運動によるものであったろうが、これを口実に自らの見解としては言いにくいことを記事にしているのだ。この点、リベラル側からの都知事応援のメッセージがもっとあってしかるべきだったと思う。わたしも都政に関心を持つ者の一人として反省しなければならない。

このところ、護憲勢力は、野中広務(国旗国歌法制定の立役者)、古賀誠(元・みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長、天皇の靖国参拝推進論者)、山崎拓(元自民党副総裁)、小林節(「憲法守って国亡ぶ」の著者)など保守派との共闘に熱心である。自民党改憲草案を明確に批判している舛添だって十分に改憲反対の共闘者として考慮の余地がありそうではないか。賛否いずれにせよ、誰か真剣に論じてみてはいかがか。

さて、私が最も関心を持つのは、東京都の教育行政である。とりわけ、都立校の教科書採択問題と「日の丸・君が代」強制について。明らかに、石原慎太郎という極右の政治家が知事になって東京都の教育を変えてしまった。舛添知事に交替して、正常な事態に戻る兆しがあるか。残念ながら、今のところ良くも悪くもこの点についての知事の積極的発言はなく、教育現場に目に見える変化はない。

2月24日都議会本会議の共産党代表質問で、松村友昭都議が「日の丸・君が代」強制問題を取り上げた。10・23通達に基づく教職員の大量処分についての最高裁判決が、「起立・斉唱を強制する職務命令が間接的にではあれ思想良心の制約となっていることを認め、減給と停職処分を取り消す判決を言い渡している。また、異例のこととして多くの裁判官の補足意見が都教委に対して、自由で闊達な教育現場を取り戻すよう要望を述べている」と指摘したうえ、「この最高裁判決と補足意見をどう受け止めるか」と舛添知事に見解をただした。

これに対して、知事は答弁しなかった。逃げたと言ってよい。比留間英人教育長が知事に代わって答弁し、「最高裁判決で職務命令は違憲とは言えないとされた。国旗・国歌の指導は教職員の責務だ」と強弁した。いかにも噛み合わない無理な答弁。都教委は少しも変わっていないことを印象づけた。松村都議はこの答弁に納得せず、再質問で再び知事の答弁を求めたが、またもや比留間教育長が同じ答弁を繰り返すだけで終わった。

傍聴者の報告によると、居眠りしていた保守派の都議が、教育長答弁の時だけ、にわかに活気づいて大きな拍手を送っていたという。この点について継続的に都政をウォッチしている元教員らの意見だと、舛添知事自身には「日の丸・君が代」強制の意図はなさそうだが、敢えて自民党都議団との衝突を覚悟しての「10・23通達」体制見直しの意図はなさそうだという。知事の最関心事はオリンピックの成功にあって、そのためには自民党都議団との摩擦を招く政策はとり得ないのだという解説。なるほど、そんなものか。

結局は都民の責任なのだ。石原に308万票を投じて驕らせたことが「10・23通達」を発出させた。今は、保守派の自民党都議に票を投じて、教育現場の自由闊達はなくてもよいとしているようだ。地道に世論を変えていく試みを継続する以外に、王道も抜け道もなさそうである。そうすれば、次の教育委員人事や教育長人事では、少しはマシな人物に交替できるかも知れない。あるいは、その次の次にでも‥。

石原教育行政が「10・23通達」を発したのは、初当選から4年半経ってのことだった。舛添都政における教育行政の変化ももう少し長い目で見るべきだろう。それを見極めて、私の舛添都政に対する最終評価をしたい。
(2015年3月9日)

崔善愛さんだから見えてくること

「子どもと教科書全国ネット21」の機関誌(「全国ネット21NEWS」)が先月15日付で100号となった。会の活動が充実していること、その活発な活動が求められている事態であることがよくわかる。

記事は、教科書採択問題にかかわる情報や運動を中心としながらも、これにとどまらない。教科書の内容を歪める要因となっている関連問題について、要領よくまとまった読み応え十分な記事が掲載されている。前田朗さんの「ヘイト・スピーチと闘うためにー二者択一的思考を止めて、総合的対策を」がその筆頭だろうが、心揺さぶられるものがあって、崔善愛(ちぇそんえ・ピアニスト)さんの寄稿を紹介したい。標題は、「市民にとっての『テロ』と、政府にとっての『テロ』」というもの。

冒頭の一文が、次のような問いかけとなっている。
「安倍政権が『テロとたたかう覚悟』としきりにいうとき、常に『外国人』によるテロ行為から『邦人』を守ることを想定している。しかし国内で、市民団体の平和を求めるデモが、右翼の街宣車に取り囲まれ、『殺すぞ』と大音響でののしられていることや、朝日新聞がたびたび襲撃されてきたテロにたいして『だたかう覚悟』をみせたことがあるだろうか。」
この視点は、少数者として差別される側に立たされ、果敢に差別と闘ってきた崔さんならではのものではないだろうか。

「路上で市民と警官が口論していたら、まずは市民の側に立て」とは、今は亡きマルセ太郎の遺訓である。「市民」に対する「警官」とは強者の象徴。「警官」は、政権・行政・企業・使用者・多数派・組織の上級・情報と権限の独占者・権威・世の常識などと置き換えてもよい。「市民」とは、労働者であり、消費者であり、店子であり、貧窮者であり、公害被害者であり、情報弱者であり、組織の末端であり、マイノリティーとして差別されている者のことである。要するに「弱い立場にある者」と「強い立場にある者」との衝突があれば、それぞれの主張の正邪や当不当を吟味する前に、とりあえずは「弱い立場にある者」の側に立て、という教訓である。

言うには易いが、その実践がたいへんに困難なことを幾度も経験した。「強い立場にある者」にも、それなりの世間に通りやすい言い分があるからだ。「大所高所に立って」「全体の秩序の維持のために」とのまことしやかな理由で、弱い立場にある者が切り捨てられる。弱者の側にこそ身を置こうと、常に意識し続けることは実は至難というべきなのだが、そのような姿勢を持ち続ける者にだけ不当な差別が明瞭に見えてくるのだと思う。

崔さんは続ける。
「わたしも34年前、指紋押捺拒否が報道されるや、脅迫の手紙や電話が実家に多数届いた。いつか後ろから刺されるかもしれない、と思うようになった。わたしのデビューコンサートで父は最前列に座り、右翼の襲撃があるかもしれないから、と言った。楽観的な私は、『彼ら』は遠くの人たちだ、と思うことにした。けれど最近、『彼ら』は決して亡霊でもなく、右翼だけでもなく、同じ共同体で生活する普通の隣人だった、と実感する。政治家、学者、学校、自治会、公共放送にも‥・戦争責任や君が代を問題にしようとすれば呼吸できない空間がせまる。『茶色の朝』は、このことだったのか。そして『彼ら』とは、誰なのか、その人脈が明らかになることをねがってやまない。」

崔さんは、このような視点から、植村隆さん(北星学園大学)とその家族への卑劣な「テロ」に怒り、植村隆さん支援を決意する。

さらに、耳を傾けるべきは、崔さんの実践から語られる、市民の側からの朝日への対応の在り方だ。
「これからも次々おそろしい統制が進むだろう。新聞と市民がもっと近づき応答しあわなければ、道はないのではないか。」というのがその基本姿勢。

崔さんは、最後をこう締めくくっている。
「『朝日新聞には、失望した』『大手新聞はもうだめだ』という声を、市民運動のなかでもよく耳にする。けれどもここで朝日新聞やメディアに失望したまま離れ、見離せば、結果的に朝日バッシングに加担することにもなり、わたしたちの言論の場が失われる。それこそが、『彼ら』の積年のねらい、朝日新聞を『廃刊』に追いこみ、戦争責任も『慰安婦』問題も強制連行もすべてなかったことにするための戦略なのだ。『慰安婦』問題を語るのに、君が代問題を語るのに、いちいち相当な覚悟をしなければ、公の場で語れない。昭和天皇が亡くなったときのような空気が、暗雲のようにこの国を覆いつづける。いつになれば、おもうことを存分に誰にでも話し、心おきなく議論することができるのだろう。その日をねがってやまない。」
私も、まずは崔さんの側に立って、崔さんの言葉に耳を傾けたいと思う。そうすると、指摘されて始めて気付くことが見えてくる。
(2015年3月8日)

「文官統制」という「文民統制の中心手段」をなくしてはならない

昨日(3月6日)、防衛庁設置法改正案が閣議決定され、同日国会上程された。その内容は、防衛省内の「文官統制」を廃止するというもの。ややわかりにくい。私も、先日の日民協の学習会で、小澤隆一さんや内藤功さんからこの問題を指摘されるまでよく飲み込めていなかった。

「文官統制」とは憲法原則でもなければ、世界共通の理念ではない。我が国独特の、防衛庁時代からの省(庁)内自衛隊コントロール・ルールだ。防衛省は、文官(背広組)と、幕僚監部(制服組)とから成っている。この関係は、従来文官が圧倒的に優位で、自衛隊側から見ると「背広にあごで使われていた」(毎日)ということのようだ。この文官優位のシステムが「文官統制」。文官優位には、制服組の不満がくすぶってきた。今回の法改正はこの不満を解消するためのものという。

文官統制の位置づけは、朝日が紹介している1970年4月の佐藤栄作発言が分かり易い。
「自衛隊のシビリアンコントロールは、国会の統制、内閣の統制、防衛庁内部の文官統制、国防会議の統制による四つの面から構成される制度として確立されている」

また、政府が2008年にまとめた報告書でも、日本独特のあり方として、「防衛庁内部部局が自衛隊組織の細部に至るまで介入することが、文民統制の中心的要素とされてきた」と認めていた(朝日)。

自衛隊に対するシビリアンコントロール(=文民統制)を防衛庁(省)のレベルで担保するものとしてきたのが「文官統制」で、これは自衛隊発足(1954年)後一環した保守政権の方針だった。この度の改正案は、これを撤廃しようというもの。防衛省内の文官優位は崩れ、背広組と制服組とは対等になる。具体的には、制服組は文官の監督や指示から離脱して、自衛隊の部隊運営については文官の承認なしに、直接防衛大臣を補佐することになる。機動的な隊の運用は文官を通さずにおこなわれることが通例になるのかも知れない。

言うまでもなく、軍とは取扱いのやっかいな危険物である。とりわけ戦前の皇軍は、文民統制を嫌ってしばしば暴発して、政党政治や議会制度を破壊し、さらには国家の存立を崩壊せしめた。その弊を除くためのシビリアンコントロール(文民統制)である。

もっとも日本国憲法は軍隊の存在を想定していない。だから、憲法に文民統制の在り方が具体的に書き込まれてはいない。「自衛隊は違憲でない」「自衛隊は危険ではない」と力説しなければならない立場にあった自衛隊成立直後の政権は、自衛隊を厳重にシビリアンコントロールされているもので危険性のないものと説明しなければならなかった。その説明材料の一つが「防衛庁内における文官統制」であった。今、厳重なシビリアンコントロールを説明する必要はなくなったとして、文官統制をなくそうとしているのだ。

オリンピック誘致の時は、「放射能は、完全にコントロールされ、ブロックされています」と言わなければならないが、決まってしまえば知らん顔。あのやり口とよく似ている。

このような政策転換の際に政府の意図を読み取るには、産経社説を読むのが手っ取り早い。政府広報紙であり、政府の意図忖度広報紙でもあるのだから。

本日(3月7日)の産経社説は、「制服組と背広組 自衛隊の力生かす運用を」というもの。

「内局官僚が自衛官に指示・監督する「文官統制」の弊害を是正する措置が、ようやく取られることになった。」
これまでの文官優位のシビリアンコントロールを「弊害」と言うのが産経の立場。産経が「弊害」と言っているのだから、大切にしなければならない制度であることは当然である。

「政府は防衛相を補佐する上で防衛省の内局(背広組)と自衛隊の各幕僚監部(制服組)を対等に位置づける同省設置法改正案を閣議決定した。自衛隊の実際の部隊運用について、制服組のトップである統合幕僚長が防衛相を直接補佐する仕組みが整う。これまでは、部隊を動かす専門家ではない文官が、陸海空の自衛隊の運用などに指示・承認を行うことが認められていた。」
そもそもシビリアンコントロールとは、軍事専門家でない文官が軍を監督し統制することなのだ。軍を運営する効率よりも、その暴発を幾重にもチェックすることの方が重要だという考え方にもとづく。自衛隊トップの統合幕僚長といえども、内局に呼び出されて説明を要求されることが必要なのだ。

「法改正で、自衛隊が日本の平和と国民の安全をより実効的に守れるようになる意義は大きい。防衛出動はもとより、尖閣諸島や原発が襲われるなど、猶予なしに訪れるグレーゾーン事態にも対応できる。実現を急いでほしい。」
シビリアンコントロールを弱体化することを「自衛隊が日本の平和と国民の安全をより実効的に守れる」というのだから恐れ入る。防衛出動にも、慎重を要するグレーゾーン事態への対応にも、シビリアンコントロールを嫌う自衛隊の立場を代弁しているのだ。

「これまでの「文官統制」を評価する立場から、今回の見直しは文民統制を弱めるとの指摘もあるが、それはおかしい。有権者が選んだ政治家が、実力組織である自衛隊をコントロールし、政治が軍事に対する優位を保つ。文民しか就けない首相や防衛相が自衛隊を指揮監督し、国会は予算や法制面からチェックする。こうした原則は、法改正後もまったく変わらない。」
産経のいうことこそ、明らかにおかしい。「今回の見直しが文民統制を弱めるとの指摘」は否定しようもない。産経が言えるのは、「今回の防衛省設置法改正が実現した場合の『文官統制撤廃』は、文民統制を弱めるものではある。しかし、文官統制だけが文民統制のすべてではないのだから、文民統制がなくなったとは言えない」との範囲のこと。そうは言えても、「文民統制の中心的要素」とまで言われた、シビリアンコントロールの重要な制度を失うことの危険ははかり知れない。

産経のいうとおり、「防衛出動はもとより、尖閣諸島や原発が襲われるなど、猶予なしに訪れるグレーゾーン事態への対応」を急ぎたいことからの法改正案の提出である。産経が「実現を急いでほしい」と言っているのだから、集団的自衛権行使容認の動きと一体となった危険な改正案であることには疑いの余地がない。

しかも、強く警戒すべきは、「緊急を要する防衛出動やグレーゾーン事態への対応」のすべてに特定秘密保護法の、情報秘匿の網がかけられることである。

違憲なはずの自衛隊が、次第に大手を振って一人前の軍隊としての体裁を整えようとしている。今回の改正案上程も、その重要なステップの一つとして強く反対せざるを得ない。そして、自衛隊への運用に対するコントロールは何よりも国民の目でおこなわねばならない。

それにつけても、特定秘密保護法の罪の深さを嘆かざるを得ない。
(2015年3月7日)

「分離」こそが「差別」なのだ

曾野綾子という作家。普段は読んで不愉快にならぬよう避けて遠ざけている存在。しかし、今回は産経への彼女の寄稿が人種差別だとして批判が高まっている。無視してすますわけには行かないようだ。しかも、批判の先鞭をつけたのが南アの大使だというから、関心を持たざるを得ない。

曾野は、批判に反論している様子だが、その反論の仕方にも興味津々である。この代表的右派をもってしても、「差別して何が悪い」とは開き直れない。「私が人種差別主義者とは誤解だ」と弁明に努めざるを得ないのだ。

遅ればせながら、2月11日産経の話題のコラムを読んでみた。「曾野綾子の透明な歳月の光」と題する連載のコラムのようだ。この回の標題は「労働力不足と移民」。「『適度な距離』保ち受け入れを」という副題が付けられている。

一読して、「えっ? こりゃなんじゃ?」「これはひどい」という感想。およそ作家の文章としての香りも品格もエスプリもない。ただただ、内に秘めた差別意識を丸出しに表にしただけの代物。さすがに、産経の紙面に相応しいというべきか。

コラム前半の内容をこうまとめて、大きくは間違ってない。
「今、日本は若い世代の人口が減少し、若年労働力補充のために労働移民を受け入れざるをえない」「特に高齢者の介護のために、近隣国の若い女性たちに来てもらう必要がある」「その移民には、法的規制を守ってもらわなければならない」

この人の文章は、ひねりのない平板な内容なのに文意をつかみにくい。「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない」という一文がある。うっかり、「日本人の雇い主に対して移民労働者の権利を守らせるよう制度を作れ」というのだと誤解してははならない。「条件を納得の上で出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである」と文章が続くのだ。「厳重に守るべき移民としての法的身分」とは、移民者の権利ではなく義務を指している。「法的身分を弁えてこれを守れ」と主張するのは、移民を受け入れる日本人の側なのだ。出稼ぎ労働者の虐待が問題になっているこの時代にナショナリストの面目躍如である。

さて、ここまでを前提として「外国人を理解するために、居住をともにするということは至難の業だ」と、話はいったんまとめられる。意味上は、これが結論。要するに、日本の老人の介護のために、近隣諸国の若い女性労働力を移民として受け入れざるを得ないが、「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」というのだ。これを差別という。

コラムの記事はこれで終わらない。唐突に、話題は南アに移る。「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」という結論の根拠を補充するためにである。

彼女は、ヨハネスブルグの一軒のマンションについて語る。アパルトヘイト政策の時代には白人だけが住んでいたマンションに黒人が住むようになった。彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。マンションの水の使用量が増えて水栓から水が出なくなり、白人は逃げ出して住み続けているのは黒人だけになった、

これをもって、曾野は結論を繰り返す。
「爾来、私は言っている。『人間は事業も仕事も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がよい』」

曾野の、嘘か真か検証のしようもないこの話に頷いた人があれば恥じるがよい。あなたも立派な差別主義者なのだから。

曾野が語っているのは、移民受け入れに伴う制度についてである。「労働力としての移民は受け入れざるをえないが居住は分離する」という制度についてなのだ。その制度の合理性の例証に、アパルトヘイト後の南アの「実例」を語って、居住を分離する必要を説いているのだ。

曾野のこの文章を読んで、なお曾野を差別主義者と言わないのは差別を容認する共犯者と言わねばならない。

曾野の主張はアパルトヘイトそのものである。本来、アパルトヘイトとは、差別という意味ではなく、「分離」という意味に過ぎない。「それぞれが多様な伝統や文化、言語を持っている。それぞれのグループが独自に寄り集まって発展するべきだ」「アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」とされた。公民権運動が主敵とした「セパレート・バット・イコール」の思想と通底している。「けっして差別はしませんよ。あなた方にも同等の権利を与える。ただ、一緒には暮らさない。コミュニティは別にするだけ」という。この「分離」自体が「差別」なのだ。これでは永遠に宥和は訪れない。紛争と不安の火種が永続するだけ。

アパルトヘイトでは居住区を分離したうえで出稼ぎを認めた。曾野の発想とまったく同じである。曾野は明らかに出稼ぎ移民者の宗主国意識でものを語っている。近隣諸国が怒って当然。ダシににされた南アが怒って当然。日本人である私も、不愉快で腹が立つ。
(2015年3月6日)

NHKの良心が忌憚なく語った籾井勝人会長評

上村達男さん(早稲田大学教授、会社法・金融商品取引法)は、NHK経営委員会の「良心」であり希望でもあった。委員長代行として重きをなし、存在感を示していた。すべてを過去形でしか語れないのは、同氏が2月末で退任したためである。

籾井勝人会長は、上村さんとは対照の存在。NHKの「反良心」である。心あるNHK関係者の目には、「NHKの面汚し」「NHKの恥さらし」とも見えよう。一人の人物が、一つの組織の評判をかくも貶めている実例は他にないのではなかろうか。

この度、NHKから「良心」が去り、「反良心」が居残った。上村さんに退任を望む声はなく、籾井会長には「辞任せよ」との声が国に満ちているにもかかわらず、である。これも時代の空気のなせるわざか。暗澹たる思いを禁じ得ない。

その上村さんが、朝日のインタビューに応じた。まさしく、良心の発露としての発言をしている。政府の姿勢におもねる籾井会長の姿勢を忌憚なく批判している。これは、多くの人に知ってもらいたく、要点を抜粋しておきたい。

「放送法はNHKの独立や政治的中立を定めています。しかし、就任会見時の『政府が右と言うことに対して左とは言えない』とか、従軍慰安婦問題について『正式に政府のスタンスがまだ見えない』といった最近の籾井会長の発言は、政府の姿勢におもねるもので、放送法に反します。放送法に反する見解を持った人物が会長を務めているということです」

「会長は『それは個人的見解だ』と言って、まだ訂正もしていませんが、放送法に反する意見が個人的見解というのは、会長の資格要件に反していると思います」

「(籾井会長を満場一致で選んだことは)確かに経営委に責任があります。ただ、籾井氏の経歴を見ると、一流商社である三井物産で副社長まで務め、海外経験も豊富な人物。数人の候補者がおり、籾井氏には異論が出なかった。20?30分の面接では、信条の問題まではわからない。『放送法を守ります』と繰り返していましたし」

「経営委の過半数が賛成すれば会長を罷免できます。少なくとも籾井会長を立派な会長だと思っている委員はほぼいないのではないか。ただ、就任会見直後ならともかく、今は罷免までしなくても事態を切り抜けられると考えている委員の方が多いとみています」

「私はずっと罷免すべきだと思っていた。ただ、罷免の動議をかけて、否決されると、籾井会長は『信任された』と思うでしょう。それでは逆効果になると考えました」

「経営委は専門性に乏しい12人の集まり。審議機関の理事会と情報に格差がある。しかも、会長は理事会の審議結果に拘束されないと理解されてきました。籾井会長には、びっくりするぐらい権力があることになっているんです」

「籾井会長が起こした最も大きな問題の一つは、NHKの予算案に、国会で与党だけが賛成するという状況を生み出したことです。視聴者には与党支持者も野党支持者もいるのだから、原則的に全会一致で承認されることに意味があった。NHKは時の政治状況に左右されてはならないのです。」

「NHKは多様な見方を提供して、日本の民主主義が成熟していくように貢献しなければならない。NHKの独立というのは強いものに対して発揮されるべきもの。弱いものに対しては『独立』とは言わないわけですから」

至極ごもっとも。まったく同感だ。このとおりなのだから、視聴者には受信料支払いの意欲がなくなって当然。少なくも、籾井会長在任中は受信料を停止したくなる。その空気を察してか、また本日(3月5日)籾井問題発言が重ねられた。

「NHKの籾井勝人会長は5日午前、衆院総務委員会に参考人として招かれ、『(受信料の支払いを)義務化できればすばらしい。法律で定めて頂ければありがたい』と発言した」(朝日)という。

これは悪い冗談だ。現行の受信料制度では、NHKは受信料確保のためには国民の批判を気にしなくてはならない。ところが本日の籾井発言は「NHKの評判が悪いから、姿勢をただそう」というのではない。正反対に、「国民の評判など気にすることなく、政府の姿勢におもねり続けることができるようにして欲しい」「いちいち国民の批判を気にかけずに、びっくりするような権力を持ち続けたい」という居直りの発言なのだ。

放送法64条(改正前は32条)は、テレビ受像器を設置した世帯に対して、NHKとの受信契約の締結を民事的に義務づけている。しかし、受信契約締結なければ支払いの義務はないし、もちろん不払いに刑事的な制裁は一切ない。NHKは、公共放送としての姿勢をただし視聴者である国民の信頼を勝ちうる努力をすることによって、国民が「われわれの公共放送を支えよう」として受信料を支払うことを期待されているのだ。

このことについては、市民運動の中心にある「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」のサイトをご覧いただきたい。
  http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/

また、個人的には、友人である多菊和郎さんのサイトをお薦めする。彼は、NHKに奉職して、今はNHKの外から、NHKのていたらくを嘆いている。多菊さんも、生粋のNHKマンとしてNHKOB群の良心の一人。彼には、NHK受信料制度成り立ちの歴史とその性格についての本格的な論文がありホームページに掲載されている。かなりのボリュームのあるものだが、時間をかけても読むに値する。

  多菊和郎のホームページ
   http://home.a01.itscom.net/tagiku/
 「受信料制度の始まり」

この論文で、彼は「NHKが十分に『視聴者に顔を向けた』放送局でなくなった」場合に視聴者が受信料支払いを拒否することを、「視聴者の『権利』のうちの『最後の手段』の行使」として肯定的に評価している。その場合、「受信料制度は破綻したのではなく,設計どおりに機能したと言えよう」という見解。まさしく今がそのときではないか。
(2015年3月5日)

企業献金全面禁止へ政治資金規正法改正を

「天網恢々疎にして漏らさず」という。天の網は一見疎のようであって誰の悪事をも見逃すことはない、というのだ。しかし、人の作った法の網は疎にしてダダ漏れのザルになっていることが少なくない。政治資金規正法はどうやらその典型らしい。

「脱法行為」とは、本来は民事法の分野の法律用語だが、外形や形式においては違法と言えないものの明らかに法の趣旨を僣脱する行為をいう一般語彙として定着している。政治家諸君、そしてその政治家に群がる企業の幹部諸君。大いにザルの目の粗さと、ザルに開いた穴を利用しておられる。

現内閣はザル政権の様相。安倍晋三を筆頭に、西川公也、望月義夫、上川陽子、林芳正、甘利明と続いた。これを、「法に抵触しない」「違法性はない」「知らなかったのだから問題がない」と言い逃れしようとするからタチが悪い。このような言い逃れに耳を貸したのでは主権者の名が廃る。脱法や言い逃れができないようにするにはどうすればよいか。ここが智恵の働かせどころ。

まずは、法の趣旨を正確に把握することが第一歩である。その、法のコンセプトの抜け穴を塞がなくてはならない。結論から言えば、法の趣旨は企業・団体の政治家個人への献金の一切禁止である。政治献金には、当然に見返り期待がつきまとう。魚心あれば水心と心得ての、献金する側される側。阿吽の呼吸で成りたっている。

営利を目的とする企業が、政権与党や規制緩和推進を掲げる政党に献金するのは、自らの利潤追求に裨益するからにほかならない。それが社会の常識というものだ。少なくとも、企業献金は政治が一部の企業の金で動かされているのではないかという、政治の中立公正性に対する社会の信頼を損なうことになる。そのような世論に押されて、法は形作りをしたのだ。

ところが、法はザルに大穴を開けた。安倍晋三以下、多くの政治家がこの穴を大いに活用している。企業から政治家に献金することは一切禁止となっているが、企業と政治家の間に「政党」を入れれば話はまったく変わってくる。企業から、「政党」への献金は最高額年間1億円までは可能で、「政党」から政治家個人への資金提供は青天井の無制限なのだ。

さすがに、これでは穴が大きすぎると、ほんの少しだけ穴の一部を塞ごうとしたのが、「寄附の質的制限」である。「国から補助金を受けた会社その他の法人は、政治活動に関する寄附をしてはならない(法23条の3)」というもの。補助金とは、税金が出所。税金をもらっている企業からの政治献金とは、税金の一部が迂回し還流して政治家の懐に入るということ。当たり前だが、そのようなことを許しては、世間の政治の廉潔性に対する信頼は地に落ちる、と考えてのこと。

もっとも、この規制にもいくつもの小穴が開けられている。「試験研究、調査又は災害復旧に係るものその他性質上利益を伴わないもの」をもらっている企業は。献金禁止からは除かれる。企業献金禁止期間は1年だけだし、政治家の側は「知らなかった」といえば処罰は免れる。「天網恢々」とは大違いの、ザルであり穴だらけの法網なのだ。

安倍はしきりに、「補助金を受けた企業だとは知らなかった」ことを強調し「だから問題ない」を繰り返している。お粗末な話だ。

法は政治家が作った。献金を受けた政治家の側は献金元企業が補助金を受領していたことを知らなければ処罰されないとしたのは、「政治家の側は調査が困難だから」とでも言いたいのだろう。しかし、それはおかしい。政治家たるもの、自分に献金する企業の動向くらいは把握していなければならない。
本日の朝日川柳欄に、次の句。
  補助金の多さにむしろ眩暈(めまい)がし(朝広三猫子)
同感である。政治家の側は、献金企業は補助金をもらっている可能性が高いとして注意しなければならないのだ。

ばれなければもらい得、ばれたら知らなかったで済ませられる。これこそ究極のザル法というべきではないか。

報道によれば、安倍晋三は、
2012年には
  宇部興産から50万円
  協和発酵キリンから6万円
  富士フイルムから100万円(パーティ券購入)
2013年には
  宇部興産から50万円
  電通から10万円
  東西化学産業から12万円
などの違法献金を受領している。

宴席で、安倍と宇部との、こんなやり取りが想像される。
「お代官様、今年も山吹色のをお納めしておきました。あの一件よしなに願います」
「ういやつよのう。しかし、越後屋そちも悪よのう」
「いえいえ、お代官様ほどでは」
「ふふふふふ」

このような会話が現実にあるわけではなかろうが、補助金交付の可否について首相や閣僚が、陰に陽に影響を及ぼし得る以上、世間の疑惑は避けがたく、公正な政治への信頼は大きく損なわれることになる。

もっとも、政治の廉潔性にたいする信頼毀損は、何にも補助金受療企業の政治献金に限ったことではない。およそ、企業による政治家への献金がそのような性格を帯びたものにならざるを得ない。だから、政治資金規正法の大穴を全部塞ぐにしくはない。

今朝の各紙の社説が明確にその方向である。

東京新聞は「企業団体献金 全廃含め抜本見直しを」と標題して、
「そろそろ与野党は、企業・団体献金の全面禁止に向けて重い腰を上げるべきだ。企業・団体献金を残したまま、いくら規制を強化しても、抜け道が出てくるだけだ。直ちに全面禁止が難しいなら、当面は政党支部への献金を禁止して党本部に一本化し、段階的に全面禁止したらどうか。まずは決断することが重要だ。」
と明解である。

また、朝日も、「政治とカネ―企業献金のもとを断て」との見出しで、「そもそも企業・団体献金には、見返りを求めれば賄賂性を帯び、求めなければその目的を株主らから問われるという矛盾がある。こうした性格から生じる様々な問題を解消する根本的な対策は、やはり企業・団体献金を禁じることだ」と同旨。

毎日も、「補助金と献金 国会は規制強化に動け」と題して、「首相をはじめ、献金を受けた側が説明を尽くすのは当然だ。企業・団体献金そのものの是非の議論とともに、補助金交付企業の献金に早急に規制強化を講じる必要がある」と言っている。

これを機に、政治資金規正法は企業・団体献金の全面禁止を明確にする改正に踏み切るべきだ。そして、その際には、政治献金だけではなく、政治資金の融資についても、届出義務と上限規制を明確にすべきである。

言うまでもなく、昨春明らかになった、DHC吉田嘉明から渡辺喜美に対する巨額政治資金拠出の事実が問題を語っている。渡された金が全額「貸金」「融資」であったとしても、これを野放しにしてはならない。

政治資金規正法では、個人が政治家個人に金銭による寄付をすることは禁じられている。献金するなら政党に出せという趣旨なのだ。但し、金銭・有価証券以外の物品等による寄付であれば、年間150万円を限度として可能となっている。DHC吉田嘉明から渡辺喜美へ渡ったカネは明らかに政治資金である。しかも、ケタが違う8億円である。「これは融資だから禁止されてない。だから問題ない」というのは、明らかな脱法である。世間は、カネで政治が左右されると思うからである。政治の廉潔性に対する世人の信頼を損なうことにおいて献金と選ぶところがないからである。
この脱法を封じる法改正も不可欠である。

法網の目を密にし、脱法を許さず、政治がカネで歪められることのないようにするだけでなく、疑惑を断って政治の清潔さに対する信頼を確保すべき徹底した法改正の実現を期待したい。
(2015年3月4日)

道徳教育教科化の学習指導要領改定に反対するパブコメを出そうー実例編

? 学校教育法施行規則の一部を改正する省令案についての意見

案として示された学校教育法施行規則の一部「改正」と、小学校、中学校、特別支援学校小学部・中学部の各学習指導要領の「改正」に、いずれも全面的に反対し各「改正」案の撤回を求める。

省令の改正案は、「小学校,中学校及び特別支援学校小学部・中学部の教育課程における「道徳」を「特別の教科である道徳」と規定する」ものであるが、公教育において道徳を教科としてはならない。かつては「忠君愛国」「敬神尊皇」「尽忠報国」「滅私奉公」「修身斉家」「長幼の序」「男女の別」「自己犠牲」等々が疑問のない公民の道徳であった。それが崩壊した今、教訓として汲み取るべきは、「普遍的な道徳はあり得ない」ということでなければならない。

とりわけ、国家が子どもに、特定の道徳を刷り込んではならない。徳目の内容如何にかかわらず、国家が子どもに価値観を教科として教え込みこれを評価まですることは、多様な価値観の共存を当然とする憲法原則からは、国家の越権行為と言わざるを得ない。

明日の主権者が身につけるべき最も重要な資質は、批判精神であり抵抗の行動力である。権力を恐れず、富者に阿らず、多数に怯まない精神性である。そして、社会に順応するのではなく、社会を変革しようという姿勢と意欲である。

しかし、このように公教育が教えることはない。教科化された道徳は、時の秩序を維持し、時の政権を擁護し、時の多数に迎合する内容にしかなり得ない。

そのような、体制維持に資する道徳の教科化は、かつての国家主義的な天皇制教育の修身科と同様に、危険で有害なものとして反対せざるを得ない。百歩譲っても、無用、不毛なものとして改正の必要はない。

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?小学校・中学校学習指導要領案【第1章総則】 第1章総則について
「教育課程編成の一般方針」として、学校における道徳教育の「目標」と「留意事項」が掲げられている。
目標は、「人間としての生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うこと」とされている。
これは恐ろしく無内容とか評しようがない。「人間としての生き方」「主体的な判断」「自立した人間」「他者と共によりよく生きる」のそれぞれの具体性こそが問題でなければならないが。これを具体化すれば結局は特定のイデオロギーを注入することにならざるを得ない。ここに、知育とは異なる、徳育の宿命的な矛盾がある。公教育における道徳の教科化や評価がそもそも無理なのだと判断せざるを得ない。

また、道徳教育を進めるに当たっての留意事項に挙げられているキーワードは、「人間尊重の精神」「生命に対する畏敬の念」「豊かな心」「伝統と文化の尊重」「我が国と郷土を愛し」「個性豊かな文化の創造」「平和で民主的な国家及び社会の形成」「公共の精神を尊び」「社会及び国家の発展に努め」「他国を尊重」「国際社会の平和と発展」「環境の保全」「未来を拓く」「主体性のある」であり、これが全て「日本人」に係り、そのような日本人の育成に資することが留意事項とされている。

なにゆえ「日本人」なのか。なにゆえ、人間でも、国際人でも、東洋人でも、都道府県民でも、地域住民でも、家庭人でもない「日本人」なのか。日本で公教育を受ける外国人も多くなっている中で、なにゆえの「日本人」なのか。

なにゆえに「国を愛し」「国家の形成」「国家の発展に努め」なければならないのか。国家とは権力の主体であり、正統な民主主義の伝統からは、信頼ではなく猜疑の対象とすべきものである。

国家にこだわり、「国を愛する」ような道徳の教科化には、恐ろしさを感じる。

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?小学校・中学校学習指導要領案【第3章】 第1「目標」について

ここに掲げられている目標は、「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を広い視野から多面的・多角的に考え,人間としての生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる」という、およそ無内容なものである。

「よりよく生きるための基盤となる道徳性」
「道徳的諸価値についての理解」
「人間としての生き方」
「道徳的な判断力心情,実践意欲と態度」
いずれも漠然として理解しがたい。このような教科には意味がない。評価のしようもない。

「世の中と折れ合ってより巧みに生き抜くための智恵」
「右顧左眄すべしとする処世訓についての理解」
「競争社会を勝ち抜き、企業社会に適合した人間としての生き方」
「多数派と調和する道徳的な判断力、心情と態度」
といえば、わかりよいのではないか。

いずれにせよ、この目標は、けっして何を語るものでもない。

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? A主として自分自身に関することについて

ここに挙げられている徳目は、[自主,自律,自由と責任][節度,節制][向上心,個性の伸長][希望と勇気,克己と強い意志][真理の探究,創造]である。

これ自体が間違っているわけではない。しかし、およそ無数にあると思われる徳目のうちから、どのような基準でこれだけを抜き出してきたかは説明困難である。ことがらの性質上、万人が一致し、あるいは納得することはあり得ない。この困難さは徳目を選択することにつきまとう宿命である。

また、「自主,自律」は「協調性の欠如」。「自由」は「放縦」。「責任]は「小心」、「節度」は「臆病」、「節制]は「吝嗇」、「向上心」は「足るを知らず」等々、いずれも否定的評価と紙一重である。そもそも、公教育において万人に説くべき徳目などはあり得ない。

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? B 主として人との関わりに関すること

ここに挙げられている徳目は、[思いやり,感謝][礼儀][友情,信頼][相互理解,寛容]である。

これ自体が間違っているわけではない。しかし、およそ無数にあると思われる徳目のうちから、なにゆえこれだけを抜き出してきたかは説明困難である。ことがらの性質上、万人が一致し、あるいは納得することはあり得ない。この困難さは徳目を選択することにつきまとう宿命である。

[思いやり,感謝][礼儀][友情,信頼][相互理解,寛容]のいずれも、家庭生活や、地域での交際、仲間との遊び付き合いなどで自然に身につけるべきもので、教師は優れた大人の一人として子どもたちに接することで子どもたちを感化できるだろう。教科で「教える」ことに適しているとは到底考えられない。

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? C 主として集団や社会との関わりに関すること

ここに挙げられている徳目のトップが[遵法精神,公徳心]である。道徳教育教科化のホンネの一つなのであろう。
「法やきまりを進んで守る」「義務を果たして規律ある安定した社会の実現に努める」は、臣民の倫理ではあろうが、民主主義社会の主権者の道徳としては相応しくない。法は自分たちが作るもの、不合理な法は改めるよう努力すべきことに重点が置かれなくてはならない。

ついで、[公正,公平,社会正義]である。「誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること」には、賛意を表したい。とりわけ、家柄や出自による貴賤の差別、人種や民族の別による偏見は、最も唾棄すべきものとして教えるべきである。もっとも、それが道徳の教科においてする必要はない。

[勤労]について、「勤労を通じて社会に貢献すること」は馬鹿げた言い分。どうして勤労の権利(憲法27条)、労働基本権(憲法28条)について語らないのだろうか。どうして、労働組合活動への参加を道徳として教えないのだろうか。

[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度]
「日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努める」ことは、道徳として教科において教え込むべきことではない。

愛国心は、優れて偏頗なイデオロギーである。これを良しとする立場もあり、これを忌むべしとする立場もある。また、衆目の一致するところ、過度な愛国心は危険なナショナリズムとなり、排外主義と結びつく。穏当なバランス感覚からは、今強調すべきは愛国心ではない。むしろ、過度なナショナリズムの抑制であり排外主義への警戒でなくてはならない。

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?  D 主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること
ここに挙げられている徳目は、[生命の尊さ][自然愛護][感動,畏敬の念][よりよく生きる喜び]である。
おそらく、[生命の尊さ][自然愛護]についてだけは、万人に異議がないと思われる。しかし、これを教科化した道徳の時間に教え、評価まですることには違和感を禁じ得ない。

[感動,畏敬の念][よりよく生きる喜び]は、普遍性に欠ける。道徳とも徳目とも言いがたいだけでなく、道徳の名目でここまで人の精神の領域に踏み込んではならない。「人間として生きることの喜び」の具体的内容は千差万別で、それぞれの人に固有の精神生活の在り方に任されるべき問題である。

この無神経には呆れる思いを禁じ得ない

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以上は、私の個人的な意見表明である。形式はまねてもらえば楽だと思う。
ただし、???‥は、跳ねられる。(1)(2)(3)‥に直す必要がある。
締め切りは、3月5日の終了まで。

なお、手続の詳細については、2月26日の憲法日記を。
https://article9.jp/wordpress/?p=4479
(2015年3月3日)

国は、はたして国民のために存在しているのか?松村包一詩集紹介

省かれた手間
   ??無責任体制その1

  誰も命令しなかったし
  誰も強制しなかったが
  赤紙は容赦なく配達されて
  若者達は否応なく死地へと旅立った

  従軍慰安婦になれと
  誰も命令しなかったし
  誰も強制しなかった??という
  只 口車に乗せた奴はいる

  集団自決せよとは
  誰も命令しなかった??という
  が 生きて虜囚の辱めを受けるなと
  手榴弾を配った奴はいる

  特攻隊に志願せよと強制した
  上官は居なかった??という
  只 忠君の〈大義〉に殉ぜよとの
  説諭は全将兵を呪縛した

  〈愛国〉という名の〈大義〉が
  今 再び偽造されつつある
  命令する手間を省き
  強制する手間を省くために

ピラミッド
   ??無責任体制その3

  責任には重さがある
  不思議なことに
  大きな責任ほど 軽く
  小さな責任ほど 重い

  大きかろうが小さかろうが
  とにかく重さがあるからには
  責任は下へ下へと滑り落ち
  次第次第に重くなる

  責任は最高責任者から
  上位・中位・下位責任者へと
  次々 次々と分割委譲され
  最下位責任者へと辿り着く

  最下位責任者から その先は
  何と! 責任者とは縁無き衆生の
  庶民の肩に食らい付くなり
  (自己責任)と改名する!

  かくて 最高責任者は
  最高無責任者になり
  以下の各位責任者もまた
  以下同様ということになり

  ありとあらゆる責任はすべて
  庶民の自己責任ということになり
  巨大な無責任体制のピラミッドが
  庶民の暮しに華を添える

市場(いちば)と市場(しじょう)

  市場(いちば)と市場(しじょう) それとこれとは
  目で見れば 全く同じ漢字の造語だが
  耳で聞くなら それとこれとの間には
  天国と地獄ほどの違いがある

  市場(いちば)??その響きのあたたかさ
  そこには市井の人々の哀歓が交差する
  だが市場??そこには困窮する人々や
  国土でも食い荒らす化物がたむろする

  市場(いちば)と市場(しじょう) 人間界と化物界
  生産力の増大につれ生まれ 育ち
  共存し 排斥しあう
  この互いに似ても似つかぬ双生児!

防 衛
  万里の長城は総延長八千八百キロを超える
  それは中国全土を防衛できる筈だったが
  蒙古軍の怒涛の進撃を阻むことは出来なかった
  建設に駆りだされた膨大な数の人民の
  塗炭の苦しみは遂に徒労に帰した

  中国が世界に誇る万里の長城
  世界文化遺産として登録されているのだが
  それは正に大いなる愚行の記念碑として
  永く保存されるべきである

  その後も 規模の大小こそあれ
  防衛線なるものは次々と出現した
  独仏国境には マジノ線 ジークフリート線
  また冷戦を象徴したベルリンの壁 等々
  破られない防衛線なぞ遂になかった
  すべては破られる為にのみあった

  真の防衛とは 防衛しないこと
  敵意と不信と邪悪な野望を捨てること
  虚心に 対等に 互いに尊重し合うこと
  内外にあまねく扉を開くことではなかろうか

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以上の詩は、松村包一さんの「詩集 夜明け前の断絶?テロと国家と国民と?」からの抜粋である。詩集は158頁、54編の詩が掲載されている。
「英霊に捧ぐ」「テロの源流」「ガザの子どもたち」「言葉の綾」「日米同盟とオスプレイ」「愛国心」「安全と主権の行方」等々。題名から内容のおおよそは推測できるだろう。徹底して民衆に寄り添い、徹底して国の無責任を追求する内容。それが、詩になっている。

詩集に掲載の略歴によると、松村さんは、「1931年水戸市で出生。茨城中学(旧制)、水戸高校(旧制)、茨城大学文理学部を経て1957年東京大学文学部卒」とある。その後の職歴が「劇団東演に所属して演劇活動後、川崎市立中学校教諭」と非凡である。

この詩集は、松村さんご自身からいただいた。2013年11月、ささやかな同窓会の席上でのこと。以来、ときどき頁をめくって読んでいる。滅法面白いので、人に紹介したくなって、4編を抜き出してみた。

後書きに、こうある。
「…疑いの目で日本の国や諸外国をつらつら眺めてみると、殆どの〈国〉が〈国民の為に〉存在しているのではないような気がしてきます。このような疑いの目に映った諸々の情景を描いてみたのが、この一連の作品です。私の目が狂っているのか、私の目の前の世界が狂っているのか、この作品を読まれた方々の忌憚のないご意見を聞かせて頂ければ幸いです」

詩集の奥付を見ると発行がその年の1月29日となっている。安倍政権発足直後のこと。その後の日本の情景はもっと狂っている。松村さんには、安倍政権批判のあらたな詩集を期待したい。

なお、詩集は頒価1000円となっているものの、出版社からの刊行ではない。松村さん、あまり売る気はなさそうなのだ。
(2015年3月2日)

当ブログ連続700号の日に「赤旗・君が代強制反対の主張」

思い切りよく2月のカレンダーを破り捨てて、冷たい雨の日ではあるが今日から3月である。本日は、「3・1ビキニデー」であり、韓国での「三一節」でもある。核廃絶に思いをいたし、我が国の植民地支配の歴史を痛恨の思いで省みるべき日。

私的なことだが、本日は当「憲法日記」700日連続更新という節目の日となった。多少の感慨を禁じ得ない。当「憲法日記」が日民協の軒先間借りから独立して、一人前のブログの体裁となり、新装開店第1号記事を発信したのが2013年4月1日。以来、途切れることなく毎日更新を続けて、本日(2015年3月1日)のブログで700回を重ねた。この期間が、第2次安倍政権暴走の時期とほぼ重なる。安倍内閣の終焉を見ることなく当ブログを擱筆することはできない。連続第700号を通過点として当ブログは今後も続くことになる。

日民協ホームページを間借りしていた当時には植民地支配を受けていた、などとは言わない。しかし、店子という立場は肩身が狭い。遠慮しながら配慮しながらの、当たり障りのないブログではわざわざ時間をかけて書く意味がない。ある人たちにとっては確実に不愉快な内容であっても、敢えて書くことに意味がある。むしろ、物議を醸すようなブログでなければ存在価値はない。「一国一城望むじゃないが、せめて持ちたや自前のブログ」である。このブログが私の表現の手段であり、私を、憲法(21条)が保障する表現の自由の主体としてくれている。

私のブログが、安倍政権、財界、企業、原発産業、右翼メディア、皇室、靖国、都教委、大阪府市、ネトウヨ…等々の耳に快いはずはない。いや、不愉快でなかろうはずはない。そのような仮借のない批判が必要だ。私は人権・平和・民主主義を大切にする革新の立場に立つ。しかし、同じ違法があった場合に、保守の行為だけを厳しく批判し、革新陣営の違法行為には目をつぶるというダブルスタンダードは取らない。そうでなくては、批判の切れ味を保っておくことができないからだ。

なお、600回のときに、次のように書いた。
「ときに『もの言えばくちびる寒し』と思わぬこともないではない。しかし、常に感じるのは、『もの言わぬは腹ふくるるわざ』の方である」

「当ブログの論評に対する宇都宮陣営(及びその付和雷同者)からの舌足らずな批判や、DHCとこれに類する輩からの過剰な反応も、それなりの彩りである。思いがけなくも、批判よりは、激励や連帯のエールを得ている。ありがたいことだ。そのような反応に接して、いささかの充実感を得ている」
この気持はまったく変わらない。実は「彩り」は、このほかにもいくつかあるが、「彩り」も、にぎわいのうちだ。

さて、700回の積み重ねを省みなければならない。権力や権威を批判する姿勢については変えようもないが、読者への配慮は大いに必要だと思う。以前から言われているとおり、「文章が長過ぎる」「1ブログ1テーマに押さえよ」「冗長で分かりにくい」「写真も絵もなく、親しみにくい」…。これをほんの少しは改めたいと思う。読んでいただだかねば書く意味がない。少しは短めに、もう少しは読みやすく分かり易い、こなれた文章を心掛けよう。あれっ…600回のときも同じことを書いたっけ?

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ところで、本日の「しんぶん赤旗」主張(社説)が、「『君が代』の強制ーいったい誰のための式なのか」を掲載している。
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-03-01/2015030102_01_1.html
3月の初め、卒業式シーズンの幕開けに際しての「主張」掲載。赤旗らしく、品のよい主張となっている。「いったい誰のための卒業式なのか」という切り口も、本質を衝くものとしてなかなかのもの。

政党とは政権を目指すもの。一歩一歩有権者の支持を固めていかねばならない。そのためには選挙に勝たねばならない。有権者の耳にはいることを言わねばならない。有権者の気分を見据えて、反感を持たれるような主張は避けねばならないこともある。民主主義とはそんなリアリスティックな側面をもっている。

だから、共産党の機関誌である赤旗は、天皇制批判や、ナショナリズム、国旗国歌問題への言及に慎重であるように見受けられる。

もちろん、この問題を赤旗の主張が取り上げたのは初めてではない。調べた限りでは以下のとおり春の主張の定番となっていたが、ここ3年は途絶えていた。

2007年3月6日「日の丸・君が代」/強制は教育の営みを台無しに
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-03-06/2007030602_01_0.html

2008年3月3日「強制おかしい」が国民の合意
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-03-03/2008030302_01_0.html

2009年3月31日「日の丸・君が代」処分/教育は命令では達成できない
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2009-03-31/2009033102_01_0.html

2010年3月7日「日の丸・君が代」/鳩山政権は強制方針を見直せ
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-03-07/2010030702_01_1.html

2011年2月2日「日の丸・君が代」判決/強制を続けていいはずがない
  http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-02-02/2011020201_05_1.html

4年ぶりの社説での言及はありがたい。「多様な思想良心の自由」と「教育の自由」を根拠に、「異常な強制」を批判して、「強制はただちにやめるべきです」ときっぱりしている。全文を紹介しておきたい。

「卒業式のシーズンがきました。子どもたちが自らの成長を確かめ合い、新しい旅立ちへと決意を新たにするときです。その門出をみんなで祝う式にしたいものです。

■子どもの思いを台無しに
「日の丸・君が代」への起立・斉唱の異常な強制によって、子どもたちの思いが押しつぶされ、教職員が監視され萎縮するような事態が、各地で起きています。
卒業生と在校生、保護者、教職員が向き合い、壇上には卒業生の作品が飾られる。そんな卒業式が、東京都では教育委員会の2003年の通達で認められなくなりました。壇上には「日の丸」を掲げ、全員がそちらを向かなければならないというのです。
異常な強制は他の地方にも広がりました。大阪府では府教委が13年に、校長らが卒業生をそっちのけにして、教職員が「君が代」を歌っているか口元を確認するよう通知しています。北海道では道教委が、「君が代」を「他の歌と同様」の大声で歌うよう子どもたちに指導しろと校長らに命じています。いったい何のため、誰のための式なのでしょうか。
「日の丸・君が代」については多様な意見がありますが、それらが侵略戦争に突き進んだ日本のシンボルであったことは歴史的事実です。起立したくない、歌いたくないという教職員や子どもは当然います。宗教上の理由で「君が代」は歌えないという人、日本の侵略を受けたアジア諸国出身の人もいます。
政府は1999年の国旗・国歌法制定時に「強制はしない」としていました。「日の丸・君が代」の歴史やそれに対するさまざまな思いを考えると重要なことです。だから03年以前は、式の前に「君が代」斉唱について、「内心の自由がある」ので強制ではないことを子どもや保護者に説明する学校がありました。ところが都教委はこれも禁止してしまいました。
「君が代」斉唱のさいに起立せず処分された東京都の教職員が起こした裁判では、12年1月の最高裁判決以来、減給・停職の処分は重すぎるとして、取り消す判断が続いています。これらの判決は、強制を「合憲」とし、戒告処分を容認しているという問題はありますが、起立しなかったのはそれぞれの「歴史観・世界観」によるものだということを認め、自らの信念に従って誠実に行動する教職員を重い処分で追い詰めるやり方に、一定の歯止めをかけています。
ところが都教委は、裁判で減給などの処分を取り消された教職員に対して、改めて戒告処分を出して、執拗に強制を続ける姿勢をとり続けています。その執念深さは尋常ではありません。都教委は一連の裁判の結果を真摯に受け止めるべきです。

■教育に自由な雰囲気を
教育は人間的ふれあいを通じて営まれるべきもので、自由な雰囲気が欠かせません。そのかけがえのない自由を奪うことは許されません。卒業式や入学式は、それぞれの学校で子ども・保護者・教職員が話し合って、子どもたちの新たな出発にふさわしいものにすることが本来のあり方です。
憲法や子どもの権利条約が保障する思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由を侵し、子どもたちのための式を台無しにする強制は、直ちにやめるべきです。」

なお、2011年2月2日付主張「強制を続けていいはずがない」の中に、「個性豊かな教育のために」と小見出しを付した次の一節がある。

「『日の丸・君が代』の強制は、今では生徒にも及びはじめています。挙手採決さえ禁じられた都立学校の職員会議では自由な雰囲気が影をひそめ、形式主義や事なかれがはびころうとしています。都立校は個性豊かな卒業生を世に送りだしてきました。そのひとりである歌手の忌野清志郎さんは、遅刻の多い自分を困った顔をしながら叱ってくれた先生らしくない恩師を、名曲『ぼくの好きな先生』で歌いました。強制の果てには『ぼくの好きな先生』の居場所がありません。その道を続けていいのか、考える時です」

確かに、『ぼくの好きな先生』の居場所はもうなかろう。なるほど、このような「主張」の書き方であれば、「日の丸・君が代」を語って多くの有権者からの共感と支持とを獲得することができるに違いない。見習いたいと思う。
(2015年3月1日)

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