澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

次回口頭弁論は2月25日(水)10時30分 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第36弾

私が被告になっているDHCスラップ訴訟の次回口頭弁論が近づいてきました。日程をご確認のうえ、是非傍聴にお越しください。

2月25日(水)午前10時30分? 口頭弁論期日
東京地裁631号法廷(霞ヶ関の地裁庁舎6階南側)

同日11時00分?   弁護団会議兼報告集会
東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)

今回の法廷では、前回期日での裁判長からの指示に基づいて、
被告が再度の主張対照表を提出し、原告が被告の準備書面3・4に対する反論の準備書面を陳述の予定です。

法廷終了後の報告集会兼弁護団会議は、東京弁護士会館507号室で、11時?13時の時間をとっていますが、実際には正午少し過ぎくらいまでになると思います。

報告集会の予定議事は次のとおりです。
☆弁護団長の進行経過と次回以後の展望の説明。
  裁判所の求釈明の趣旨と本日陳述の準備書面の内容
  当日の法廷を踏まえて、次回以後の審理の展望
☆ミニ講演 「スラップ訴訟と表現の自由」
  内藤光博専修大学教授
☆議事1 審理の進行について
     本日までの審理の経過をどう見るか。
     今後の主張をどう組み立てるか。
☆議事2 DHCスラップ訴訟第1号・折本判決(1月15日・地裁民事30部)をどう評価し、本件にどう活用するか。他事件被告弁護団との連携をどうするか。
☆議題3 今後の立証計画をどうするか。
☆議題4 反訴の可否とタイミングをどうするか。
☆議題5 マスコミにどう訴え、どう取材してもらうか
☆議題6 同種の濫訴再発防止のために何をすべきか

 **************************************************************************

本件はいくつもの重要な意義をもつ争訟となっています。
(1) まず何よりも、憲法21条によって保障されている「表現の自由」が攻撃されています。この訴訟は、不当な攻撃から表現の自由を守る闘いにほかなりません。
 しかも、攻撃されている表現は、典型的な政治的言論です。仮に、いささかでも被告の表現が違法とされるようなことがあれば、およそ政治的言論は成り立ち得ません。
(2) 本件で攻撃の対象とされた表現の内容は「政治とカネをめぐる問題」です。具体的には、「大金持ちが、金の力で政治を左右することを許してはならない」とする批判の論評(意見)です。現行法体系における政治資金の透明性確保と上限規制の重要性が徹底して論じられなければなりません。
(3) しかも、原告の攻撃の直接的対象は、8億円という巨額の金員拠出の意図ないし動機を厚生行政の規制緩和を求めてのものとした常識的な批判なのです。厚生行政における対業者規制は、国民の生命や健康に直接関わる、国民生活の安全を守るために必要な典型的社会的規制です。安易な規制緩和を許してはなりません。行政の規制緩和を桎梏と広言する事業者に対する消費者(国民)の立場からの批判の封殺は許されません。
(4) さらに、言論封殺の手法がスラップ訴訟の提起という、訴権の濫用によることも大きな問題点です。経済的強者が高額請求の訴訟提起を手段として、私人の政治的言論を封殺しようとする憲法上看過できない重大問題を内包するものです。これを根絶し、被害を出さないためにどうすべきかをご一緒に考えたいと思います。

 **************************************************************************

以上のような、意義ある訴訟の舞台設定は、DHC・吉田側が作ってくれたものです。このせっかくの機会を生かさない手はありません。上記(1)の表現の自由は訴訟の結果としての判決で実現するとして、(2) 以下の各問題については、明らかになった問題点を世に大きく訴え、世論の力で制度改革に繋げたいと願っています。

その第1は、(2)の「政治とカネをめぐる問題」です。DHC吉田は、「政治資金に使われると分かりながら資金提供したことについての道義的責任」に関して、「献金なら限度額が法で定められておりますが、貸金に関してはそういう類の法規制はありません。借りた議員がちゃんと法にのっとって報告しておれば何の問題もないのです」と言っています。もし、そのとおりなら、この事件は政治資金規正法の欠陥が露呈したことになります。金力の格差が政治を歪めてはならないとする民主主義の大原則にも、政治資金規正法の趣旨にも反する脱法についての開き直りを許さないために、法改正を目ざさなくてはなりません。

今、西川農相への複数の献金問題が話題を呼んでいます。そのうちの一つが、農林水産省から補助金交付の決定を受けていた精糖工業会からの献金。これを追求された農相と政権は、「精糖工業会そのものからの献金ではなく、会が入っているビルの管理会社(精糖工業会館)からの献金だから問題ない」と言っています。これも明らかな脱法行為。「こんな脱法が許されれば、誰もが真似をして法は骨抜きとなる」と、厳しく野党からの追及を受けています。

DHC吉田から渡辺に渡ったカネも同じ。「献金ではなく貸金だから、いくら巨額になっても無制限の青天井」では、「こんな脱法が許されれば、誰もが真似をして法は骨抜きとなる」と、厳しく追及を受けねばなりません。脱法を防ぐ法改正が必要なのです。

また、(3)サプリメントの規制緩和問題についても、(4)目に余るスラップ訴訟防止の方策についても、まずはその弊害の実態をよく認識し、その上で知恵を出し合いたいと思います。

是非、次回法廷のあとの報告集会にご参加いただき、意見交換に加わっていただくよう、お願いいたします。
(2015年2月21日)

「ニッキョーソ!」は、罵り言葉たりうるか

「罵り言葉(ののしりことば)」というものがある。憎むべき相手に、最大限の打撃を与えようとして投げつけられる言葉。「悪口」・「雑言」・「悪罵」と言い替えてもよいが、「罵り言葉」が陰湿な語感をもっともよく表しているのではないか。

罵り言葉には、相手を貶め、最も深く突き刺さる言葉が選ばれる。差別用語がその典型。また、相手の身体的なコンプレックスを衝く言葉も罵り言葉の定番。しかし、罵り言葉の使い方は難しい。その鋭利な切れ味は、相手だけでなく自らをも切り裂くことになるからだ。

身体の障がいや容貌、身体的特徴についての罵りは、言葉を発したその瞬間、相手に届く以前に、自らを大きく傷つける。銃なら暴発である。既にこの種の用語は使えない時代となっているのだ。国籍・人種・民族・信仰・出自・性差等についても同様のはずだが、その理解ない人もいてまだ根絶に至っていない。そのため、ときに物議を醸すことになる。

問題は、思想的政治的立場や発言を封じようとして投げつけられる罵り言葉である。適切に使うことは難しい。何よりも言語である以上は、その言葉が人を傷つける意味を持つことについての共通の理解がなければならない。それがなければ、発言者の悪意が相手に通じることはなく、なんの打撃を与えることもできない。

多くの場合、ある属性をもっていることの指摘が悪罵となる。しかし、指摘される内容が、恥ずべきことであり、非難に当たるかは自明ではない。しかも、このような罵り言葉には、鮮度がある。陳腐なものは切れ味が落ちる。さりとてあまりに斬新を狙うと意味不明となってしまう。

かつての日本社会では、弑逆・不敬・謀反・不忠・不孝は、最高の罵り言葉であった。しかし、今やすべて死語と言ってよかろう。惰弱・卑怯・未練なども同様ではないか。また、かつてのナショナリズムの高揚とともに、漢奸・売国奴・国賊・非国民などの語彙が生まれ、育ち、猛威を振るった。これが、今は死語になったと思っていたところ、ネットの世界でゾンビのごとく甦っている様子だ。ネットは文化の飛び地に過ぎないのか、リアル世界での排外主義復活の反映なのだろうか。「反日」という、罵り言葉としてはネット特有の未熟な用語の氾濫とともに不気味さは拭えない。

罵り言葉を適切に選んで、上手に罵ることは、意外に難しいのだ。罵る側の知性も品性もはかられることになるのだから。そんなことを考えていたときに、「事件」が起きた。「安倍晋三・トンデモ罵り事件」である。

事件は、昨日(2月19日)の衆議院予算委員会でのこと。民主党玉木雄一郎議員の質問の最中、あろうことか、安倍首相が唐突に「日教組!」などとヤジを飛ばし委員長からたしなめられる一幕となった。議員の質問は西川農水相が砂糖業界から受けた寄付金を巡ってのものだったという。

以下が、安倍首相らの発言内容。

安倍首相 「日教組!」
玉木議員 「総理、ヤジを飛ばさないでください」
玉木議員 「いま私、話してますから総理」
玉木議員 「ヤジを飛ばさないでください、総理」
玉木議員 「これマジメな話ですよ。政治に対する信頼をどう確保するかの話をしてるんですよ」
安倍首相 「日教組どうすんだ!日教組!」
大島委員長「いやいや、総理、総理……ちょっと静かに」
安倍首相 「日教組どうすんだ!」
大島委員長「いや、総理、ちょ…」
玉木議員 「日教組のことなんか私話してないじゃないですか!?」
大島委員長「あのー野次同士のやり取りしないで。総理もちょっと…」
玉木議員 「いやとにかく私が、申し上げたいのは…」
玉木議員 「もう総理、興奮しないでください」
.
この応酬に、「関係ないヤジじゃないか」などのヤジで一時議場騒然だったという。なお、玉木議員は、財務省の出で日教組出身者ではないそうだ。

安倍首相に限らず、右翼の連中は総じて日教組批判が持論。「あれもこれも、教育が悪いからだ」「日本の教育を悪くしたのは日教組だ」「だから、あれもこれもみんな日教組の責任だ」というみごとな三段論法が展開される。

持論としてのこのような信念は愚論あるいは暴論というだけのこと。ところが、安倍晋三という人物の頭の構造では、「日教組!」が罵り言葉として成立すると信じ込んでいるのだ。玉木議員にこの言葉を投げつけることが、何らかの打撃になるものと信じ込んでの発言なのだ。これは、彼がものごとを客観的に見ることができないことを示している。

「日教組どうすんだ!日教組!」という彼のヤジは軽くない。まさしく、罵る側である安倍晋三の知性も品性もさらけ出す発言なのだから。飲み屋で、どこかのオヤジが騒いでいるのではない。これが一国の首相の発言なのだ。

私たちの国の首相に対しての「罵り言葉」を探す必要はない。彼の言動を正確に再現するだけで足りるのだ。その言動の確認自体が、彼への最大限の打撃になるのだから。
(2015年2月20日)

「圧殺の海」を観に行こうー辺野古新基地建設反対闘争に連帯して

旧友からの音信は嬉しいもの。私の場合は、大学の教養課程の語学(中国語)クラスをともにした27人の仲間が最も懐かしい。人生のスタートラインに立つ手前で、見通しの効かない不透明な将来を語りあった貴重な友人たち。

あれから50年にもなるが、あのころの友人のそれぞれの未来は相互に交換可能だったのだと思う。別にあったかも知れない自分の人生を考えるとき、リアリテイを伴って思い浮かべることができるのは他の26人の現実の来し方。そのなかの一人に、「朝日」に就職して記者人生を全うし、その後「熊野新聞」に移った小村滋君がいる。「もしかしたら、私にも朝日や毎日、あるいはNHKの記者としての人生だってあり得たのかも知れない」「いやそれはあり得ないかな」などと考える。

昨年久しぶりの同級会で、小村君は、新宮の大逆事件関係者顕彰運動について熱く語った。今は廃止された刑法の大逆罪は、法定刑が死刑しかない。その罪名で起訴された者が、首魁幸徳秋水以下の26名。1911年1月に言い渡された判決は死刑24名、有期刑2名であった。この恐るべき天皇制政府による蛮行の犠牲者の中に、「紀州新宮グループ」がある。大石誠之助、高木顕明、成石勘三郎、成石平四郎、峰尾節堂、崎久保誓一の6名。

小村君は、地元の記者として、彼らの事蹟を発掘していたとのこと。いま、彼ら受難者は、「平和・博愛・自由・人権の先覚者」とされ、その「志を継ぐ」という碑が地元に建立されているそうだ。小村君などの地道な調査によるものなのだろう。

さて、刑死100年を記念して、新宮グループの中心人物だった大石誠之助を新宮市の名誉市民にしようという運動が盛りあがったのだそうだ。大石は「ドクトル(毒取る)」の異名で慕われた社会主義者の名物医師。その診療所の玄関には、「(診察費は)できるだけ払ってください」という札が掛かっていたという。

2011年3月新宮市議会は、市民運動が進めてきた「大石誠之助を名誉市民に」と求める請願について、なんと7対10の賛成少数で不採択とした。小村君はこれを残念がる。そして、「新宮の大逆事件に触れていただくときには、大石誠之助を名誉市民にする運動では、共産党市議団の裏切りで市議会で否決されたことを書くように」と念を押されている。共産党市議団にも言い分はあるのだろうが、残念ながら小村君の信頼を裏切ってしまったようだ。細かい経緯は、「大逆事件と大石誠之助ー熊野100年の目覚め」(現代書館刊)に書いてあるそうだ。この書物も、実質小村君が編集したものだという。

ところで、その小村君からEメールで「気まま通信」がときおり送られてくる。配信先は20人程度だそうだ。これは究極のミニコミ。今回は、大阪十三のミニシアターで観た映画「圧殺の海」の感想。辺野古基地建設反対に体を張る人々を描いたドキュメンタリーだ。「気まま通信」では彼の興奮が伝わってくる。これだけは観ておかなくては、と思わせる文章になっている。以下は、その抜粋。

「沖縄ファン」をヤマトに増やそうー映画「圧殺の海」を見て

黒いカーテンを開けると、小さな部屋に、ほぼ満席の観客の視線が一斉に私を見たように思った。「こんなに沢山の仲間がいる」私は、会場に暖かいものがあふれている気がした。ひとり一人、数えたら35人。

安倍政権は昨年7月から辺野古新基地建設に着工、これを阻止しようとする住民を圧倒的な力で押さえこもうとしてせめぎ合いが続いている。

カメラはいつも住民の側にいた。キャンプ・シュワブのゲート前で機動隊と揉み合うときも、海にカヌーで漕ぎ出して海保のボートに追い回され海に投げ出されたときも、カメラは住民の側から、海の中から、当局側を捉えていた。

そして11月の沖縄知事選、12月の総選挙で沖縄4選挙区とも辺野古反対の「オール沖縄」が勝った。にも拘わらず、安倍首相ら閣僚は、面会を求める翁長・沖縄知事に会わなかった。映画は、選挙結果について菅官房長官が「辺野古は粛々と進めるだけ」と鉄仮面のような表情で語るのを映し出していた。

映画が終わって、私は興奮を胸にエレベーターホールに出た。他の30人余も恐らく同じ気分だったろう。「昼食でも一緒しましょう!わざわざ和歌山から来た人を何もなしで返すわけにはいかん」ちょっと恰幅のいい男性が、背の低い日焼けした男性に話しかけていた。大きな声が、映画の興奮の余韻を表していた。「和歌山はどちらですか」「海南です」と二人の問答。私もエレベーターに一緒に乗り込んだ。和歌山かぁ、私も和歌山県の端っこにいた、昼食を一緒したい、と申し込もうか、いやいや見ず知らずが割り込んで邪魔してもなあ。結局、私は遠慮した。しかし胸に暖かいものが湧いた。

この映画は続映を重ねている。「問い合わせが多いので」という。ヤマトンチュウも捨てたもんじゃない。いや沖縄の民意を露骨に敵視し無視する安倍政権の態度が沖縄びいきをふやしているのかもしれない。ヤマトンチュウは元来、判官びいきなのだ。巨人・大鵬・卵焼き人種も多いが、弱い阪神や広島ファンも多いのだ。

1月30日の朝日新聞夕刊に、沖縄県に「ふるさと納税」する人が増えているというコラムが掲載された。例年、1月は1桁しかないのに今年は21日までに96件471万円余が送られてきた。安倍政権の沖縄への対応に対し、「ささやかながら沖縄を応援したい」との声が県税務課に届いているという。

沖縄の大村博さんからの年賀状に『日本の平和と民主主義の展望は沖縄から生まれると言ってよいでしょう』とあった。その前段には、保守やら革新やら古い枠組みを破って、反基地・反辺野古に結集した『オール沖縄』が、昨年の選挙で全勝したことが誇らしげに書かれていた。大村さんは、昨年8月に設立された「琉球・沖縄の自己決定権を樹立する会」の代表幹事の一人だ。「樹立する会」は、沖縄の非武の伝統に基づき基地のない島、東シナ海を平和と共生の海とし、沖縄に国連アジア本部の誘致をめざすという。私も、この会に入れてもらった。新宮の「くまの文化通信」の仲間にも入会希望者はいる。沖縄のささやかな応援団は確実に増えている。これが「本土」に平和と民主主義の展望を開くことに繋がり、大村さんの年賀状の予言が実現するのだ。2015年の初夢でもある。

映画の上映スケジュールは、下記「森の映画社」のサイトをご覧いただきたい。
http://america-banzai.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html

東京では、ポレポレ東中野で2月14日(土)?3月13日(金)まで。
小村君があれだけ勧める映画だ。私も観に行こうと思う。沖縄での闘いに連帯の気持を表すためにも。
(2015年2月19日)

「イスラム国人質救援活動と特定秘密保護法」憲法学習会にて

「根津・千駄木憲法問題学習会」は、毎月1回の例会を10年間も継続していらっしゃるとのこと。その地道な活動に敬意を表します。

本日は、2月の例会に特定秘密保護法の問題点についてお話しするようお招きを受けました。自分なりに、考えていることをお話しさせていただきます。

☆本日の「毎日」新聞投書欄に『謙虚な気持ちで名誉挽回を』という60歳男性の投稿があります。
「ウクライナ東部の停戦合意…これこそ外交、これこそ政治家…。対照的なのが、イスラム過激派組織『イスラム国』人質事件での日本政府の対応のお粗末さだ。有効な手立てもなく、交渉力ゼロ、有能な政治家ゼロの実態を世界にさらけ出してしまった。安倍首相の施政方針演説も説得力に乏しく、上すべりしているように感じられる。まずは事件を総括して、非があれば隠さず、国民の批判を仰ぎ、謙虚な気持ちで名誉挽回の道を歩み出すべきだ」

日本中の誰もの思いをズバリと代弁してくれた感があります。不祥事が起こったときには、
  事実検証→総括→公表→批判→政策の改善→次の選挙での審判
というサイクルが作動しなければなりません。さて今回、はたしてこのサイクルが有効に作動するでしょうか。

大切なことは、この検証の過程が国民の目に見えるよう保障すべきこと。主権者国民は、暫定的に権限を負託した政府の行為を監視し批判しなければなりません。これに、障碍として立ちふさがるのが、あらたに施行となった特定秘密保護法。これまでは、言わば机上の空論だったのですが、今回初めて現実の素材が提供されたことになります。

既に、「岸田文雄外相は2月4日の衆議院予算委員会で、中東の過激派「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が殺害された事件について、特定秘密保護法の対象となる情報がありうるとの認識を示した」と報じられています。

改めて、この間にシリアで起きたことを思い起こして、特定秘密保護法の別表とを見比べてください。「法」別表の第1号(防衛に関する事項)はともかく、第2号(外交関連)、第3号(特定有害活動=スパイ防止)、第4号(テロ防止)のいずれにも該当する可能性は極めて大きいといわざるを得ません。しかも、そのどれに該当するかも、指定があったかも明らかにされることはないのです。

権力の源泉は情報の独占にあります。政権を担う者は、常に情報を私物化し操作したいとの衝動をもちます。だから、情報の公開を義務づけることこそが重要なので、秘密保護法制は合理的で不可欠な、厳格に最低限度のものでなくてはなりません。

特定秘密保護法の基本的な考え方は、「国民はひたすら政府を信頼していればよい」「国民には、政府が許容する情報を与えておけばよい」ということです。そして、「情報から遮断される国民」には、国会議員も裁判官も含まれるのです。

これは民主々義・立憲主義の思想ではありません。国民は、いかなる政府も猜疑の目で監視しなければなりません。とりわけ、危険な安倍政権を信頼してはなりません。

情報操作(恣意的な情報秘匿と開示)は、民意の操作として時の権力の「魔法の杖」です。満州事変・大本営発表・トンキン湾事件・沖縄密約…。歴史を見れば明白ではありませんか。

☆特定秘密保護法の前史について、おさらいしておきたいと思います。
戦前の軍機保護(防牒)関係法として、国防保安法・軍機保護法・陸軍刑法・海軍刑法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などがありました。また、基本法である「刑法」の第83?86条が「通謀利敵罪」を規定していました。その他、治安維持法・出版法・治安警察法・無線電信法などが治安立法として猛威を振るいました。

ゾルゲと尾崎は、国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法の4法違反に問われて死刑となりました。なかでも、「最終形態としての国防保安法」(1941)は、軍事のみならず政治・経済・財政・外交の全過程を権力中枢の「国家機密」として「治安」を維持しようとするものでした。今回の特定秘密保護法は、処罰範囲の広さにおいてこれに似ています。

戦前の軍事機密法制は、国民に「見ざる。聞かざる。言わざる」を強制するものでした。「戦争は秘密から始まる」とも、「戦争は軍機の保護とともにやって来る」と言ってもよいと思います。

日本の国民は、敗戦によって身に沁みて知ることになりました。国民には正確な情報を知る権利がなければなりません。日本国憲法は、「表現の自由(憲法21条)」を保障しました。これはメディアの「自由に取材と報道ができる権利」だけでなく、国民の「真実を知る権利」を保障したものであります。

民主主義の政治過程は「選挙⇒立法⇒行政⇒司法」というサイクルをもっていますが、民意を反映すべき選挙の前提として、あるべき民意の形成が必要です。そのためには、国民が正確な情報を知らなければなりません。主権者たる国民を対象とした情報操作は民主主義の拠って立つ土台を揺るがします。戦前のNHKは、その積極的共犯者でした。

戦後の保守政治は、憲法改正を願望としただけでなく、戦前への復帰の一環として、防諜法制の立法化を企図し続けました。

たとえば、1958年自民党治安対策特別委員会「諜報活動取締法案大綱」、1961年「刑法改正準備草案」スパイ罪復活案、そして1985年国家秘密法(スパイ防止法)案上程の経過があります。国家秘密法案は、国民的な反撃でこれを廃案に追い込みましたが、その後の作土は続きました。

そして、特定秘密保護法制定の動きにつながります。2011年8月8日の「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議報告」が発端となりました。第二次安倍政権が、これを法案化して上程、2013年12月6日に強行採決して成立に持ち込みます。そして、2014年12月10日施行となりました。

☆特定秘密保護法は、戦前の軍事機密法・治安法の役割を果たすものです。
問題点として指摘されるのは、重罰化、広範な処罰、要件の不明確、秘密取扱者の適性評価などです。

何よりも、重罰による「三猿化」強制強化が狙いです。内部告発の抑止ともなります。
これまでの国家(地方)公務員法違反(秘密漏示)の最高刑が懲役1年です。自衛隊法の防衛秘密漏洩罪でも懲役5年。これに対して、特定秘密保護法違反の最高刑は懲役10年。しかも、未遂も過失も処罰します。共謀・教唆・扇動も処罰対象です。将来、更に法改正で重罰化の可能性もあります。

気骨あるジャーナリストの公務員に対する夜討ち朝駆け取材攻勢は、秘密の暴露に成功しなくても、未遂で終わっても、犯罪となり得ます。民主主義にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」の制度では、時の政府に不都合な情報はすべて特定秘密として、隠蔽できることです。国民はこれを検証する手段をもちません。国会も、裁判所もです。

さらに、国民にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」という秘密保護法制に宿命的な罪刑法定主義(あらかじめ何が犯罪かが明示されていなければならない)との矛盾です。地雷は踏んで爆発して始めてその所在が分かります。国民にとって秘密保護法もまったく同じ。起訴されてはじめて、秘密に触れていたことが分かるのです。

国がもつ国政に関する情報は本来国民のものであって、主権者である国民に秘匿することは、行政の背信行為であり、民主々義の政治過程そのものを侵害する行為であります。これを許しておけば、議会制民主々義が危うくなります。裁判所への秘匿は、刑事事件における弁護権を侵害します。人権が危うくなります。

法律は、国会で改正も廃止もできます。超党派の議員での特定秘密保護法廃止法案は昨年(2014年)11月に国会に提出されています。これを支援する国民運動の展開が期待されます。小選挙区下での現行の国会情勢では直ぐには実現できないかも知れません。しかし、訴え続け、運動を継続していくことが大切で、その運動次第で、運用は変わってくるはずです。ジャーナリストが最前線に立たされていますが、国民運動はその背中を押し、支えて励ますことによって確実に萎縮を減殺することができるはずです。

ジャーナリストの萎縮は、国の運命を左右する最重要な情報について、国民の知る権利を侵害することになり、国民に取り返しのつかない被害をもたらすことになりかねません。

まずは、学ぶことから、そして考え話し合うことから始めようではありませんか。
(2015年2月18日)

「朝日新聞元記者の名誉毀損訴訟事件弁護団」事務局長に対する業務妨害に関する会長声明

本日(2月17日)付で、標記の東京弁護士会会長声明が発表された。「朝日新聞元記者の弁護団」とは、現在北星学園大学の講師の任にある植村隆氏が今年1月9日に提訴した、文藝春秋社や西岡力氏らを被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の原告側弁護団のこと。その弁護団の実務を担っている事務局長弁護士の法律事務所に、いやがらせの悪質な業務妨害がおこなわれた。会長声明はこれを厳しく糾弾している。URLは以下のとおり。
 http://www.toben.or.jp/message/seimei/

 従軍慰安婦に関する記事を書いた朝日新聞元記者は現在週刊誌発刊会社等を被告として名誉毀損に基づく損害賠償等を請求する裁判を追行しているが、この裁判の原告弁護団事務局長が所属する法律事務所に、本年2月7日午前5時10分から午後0時27分までの間に延べ9件合計431枚の送信者不明のファクシミリが送りつけられ、過剰送信によりメモリーの容量が限界に達してファクシミリ受信が不能となる事件が起きた。ファクシミリの内容は、朝日新聞元記者に対する中傷、同記者の家族のプライバシーに触れるもの、慰安婦問題に対する揶揄などであった。

 この朝日新聞元記者に関しては、2014年5月以降その勤務する北星学園大学に対し、学生に危害を加える旨を脅迫して元記者の解雇を迫る事件が起きており、当会ではこのような人権侵害行為を許さない旨の会長声明(2014年10月23日付け)を発出したところである。しかし、その後の本年2月にも再び北星学園大学への脅迫事件は起きている。

 言うまでもなく、表現の自由は、民主主義の根幹をなすがゆえに憲法上最も重要な基本的人権のひとつとされており、最大限に保障されなければならない。仮に報道内容に問題があったとしても、その是正は健全かつ適正な言論によるべきであり、犯罪的な手段によってはならない。

 今回の大量のファクシミリ送信は、いまもなお朝日新聞元記者に対する不当な人権侵害とマスメディアの表現の自由に対する不当な攻撃が続いていることを意味するだけではなく、元記者の権利擁護に尽力する弁護士をも標的として、司法への攻撃をしていることにおいて、きわめて悪質、卑劣であり、断じて看過できない。

 当会は、民主主義の根幹を揺るがせる表現の自由に対する攻撃を直ちに中止させるため、関係機関に一刻も早く厳正な法的措置を求めるとともに、引き続き弁護士業務妨害の根絶のために取り組む決意である。
                        2015年02月17日
東京弁護士会 会長 ?中 正彦

植村氏の提訴は、脅迫や名誉毀損・侮辱、業務妨害や解雇要求の強要など、言論の域を遙かに超えた明白な犯罪行為の被害に耐えきれなくなっておこなわれた。朝日新聞社へのバッシングは、「顕名の言論」と「悪質卑劣な匿名の犯罪」とが、役割を分担し相互に補完して勢力を形づくっている。表部隊と裏部隊とが一体となることによって、「言論」が「実力」を獲得して強力な社会的影響力を発揮している。

顕名の言論に扇動された匿名の犯罪者たち。あるいは犯罪すれすれの名誉毀損や侮辱の言論を繰り返す、匿名に隠れた卑劣漢たち。その「実力」行為抑止の最有効手段として顕名者を被告とする民事訴訟が決意されたのだ。その訴訟に対する匿名者の悪質な業務妨害行為は、顕名部隊と匿名部隊の一体性を自ら証明するものと見るべきであろう。

著しい非対称性が明白となっている。植村氏の言論(20年前の記者としての記事)に、すさまじい実力によるイヤガラセがおこなわれた。これを抑止しようとする植村氏の提訴の弁護団にまで卑劣な妨害行為がおこなわれる。これがリベラルな言論に対する右翼勢力(排外主義派)からの実力妨害の実態である。

一方、右翼言論に対するリベラル派からのこのようなイヤガラセも実力行使もあり得ない。右翼勢力が原告を募集して「対朝日新聞・慰安婦報道集団訴訟」を起こしているが、この原告側弁護団への業務妨害行為などはまったく考えられない。リベラル派は、本能的に匿名発言を恥じ、卑劣行為を軽蔑する。右翼勢力は、これに付け入るのだ。

植村氏の提訴に対して、「言論人であれば、言論には言論で反論すべきではないか。提訴という手段に至ったことは遺憾」という、したり顔の批判があったやに聞く。現実をありのままに見ようとしない妄言というべきだろう。せめてもの対抗手段として有効なものは提訴以外にはないではないか。

そもそも「言論対言論」の応酬によって問題の決着がつけられるという環境の設定がない。武器対等者間での言論の応酬などという教科書的な言論空間が整えられているわけではない。排外主義鼓吹勢力が、虎視眈々と生け贄を探しているのが、実態なのだ。思想の自由市場における各言論への冷静な審判者が不在のままでの、「言論には言論で」とのタテマエ論の底意は透けて見えている。卑劣な実力を背景にした強者の論理ではないか。

このような事態に、理性に裏打ちされた弁護士会の機敏な声明はまことに心強い。弁護士会は、いつまでも、かく健全であって欲しいと願う。
(2015年2月17日)

「今の組長、筋目を外しているんじゃござんせんか」

高倉健が亡くなって懐かしむ声が高い。
彼は、ヤクザ映画で売り出した俳優。さすがに、ヤクザ、暴力団、博徒、テキ屋などという言葉は避けて、映画資本は「任侠」という言葉を選んだ。その任侠映画シリーズの花形鶴田浩二の弟分という役回りで、高倉は大衆の支持を得た。

現実の暴力団・博徒集団は、民衆の嫌われ者である。右翼組織と一体化して、政治権力や企業の手先ともなった。安保反対のデモ隊にも三池争議のピケ隊にも襲いかかった野蛮な憎むべき輩。それが、映画では美化されて民衆の喝采を得た。

アウトローや反権力は、民衆の憧れとなる一面をもっている。スパルタカス、水滸伝、ロビンフッド、カリブの海賊、アルセーヌルパン、アテルイ、平将門、国定忠治…。政治権力や社会秩序の圧力が重苦しいと感じる多くの人々の願望と空想の中で、偶像化された反逆児が自由人として羽ばたいた。あるいは、社会秩序からの自由を求めながら結局は挫折する者の生き方の美学が多くの人に受けいれられた。

それだけでなく、鶴田浩二や高倉健の世界では、民衆の道徳が語られたのではないだろうか。「弱きを助け強きを挫く」のがその動かしがたい基本。弱き立場の民衆は、これを支持した。「強きに与して」の「弱い者いじめ」は、最も恥ずべき卑怯な振るまいとして醜く描かれた。

そして、常に「筋目」を通すことが語られた。「義理」や「仁義」に外れることが嫌われる。嘘をつくこと、策略で人を陥れることは専ら悪役の役所。任侠映画は、意外に健全な民衆の道徳観に支えられていた。

安倍晋三という役者は、どうやらこの典型的な任侠道に大きく外れた悪役を演じているのではないか。筋目を外して、「強きに与して強い者いじめ」ばかり。高倉健に喝采を送った民衆が、これからも安倍晋三を支持するとは考えにくい。

本日の赤旗を引用する。「野中広務元自民党幹事長が、15日放送のTBS『時事放談』で、安倍首相の政治姿勢を厳しく批判した」というもの。その批判が、「安倍は、保守の筋目を外している」という、老ヤクザ、いや任侠の言に聞こえる。

「首相の施政方針演説について野中氏は、『昭和16年に東条英機首相の大政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときと変わらない』『重要な部分には触れないで非常に勇ましい感じで発言された』と述べました。

沖縄県辺野古への米軍新基地建設を民意に背いて強行する姿勢については、『沖縄を差別しないために政治生命を懸けてきた1人として、絶対に許すことができない。県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨している』

また来年度予算案について『防衛費だけ増えていく、そういう国づくりが本当にいいのか』と疑問を投げかけ『一番大切な中国の問題、韓国の問題を正面から捉えようという意欲がないのではないか』と指摘しました。最後に『私は戦争をしてきた生き残りの1人だ。どうか現役の政治家に“戦争は愚かなものだ”“絶対にやってはならない”ということを分かってほしい』と訴えました。」

先代親分の代貸しが、老いの身でこう呟いているのだ。
「今の組長は、筋目をはずそうとしていらっしゃる。ふたたびの出入りはしないことを誓っての組の再出発だった。これこそが筋目だということをもうお忘れか。

先の出入りを知る者も少なくなった。勇ましい言葉は組を滅ぼすこととわきまえてもらわなくてはならない。今の組長のやり方は危なっかしくって見ちゃいられない。

隣の組とは腹を割って話し合わなくっちゃならない。その懐の広さが、親分の親分たる力量の見せどころ。ところが、今の組長は貫禄に乏しく、セールスはできても、手打ちのための話し合いができない。これじゃダメだ。

そして、なによりも弱いものの立場に立って親身になってこその任侠道ではないか。いじめられている者を、かさにかかって痛めつけるようでは、任侠道もおしまいだ。今の組長、道に外れている。

それに嘘をついてはいけない。大事なことを言わないのは嘘なのだ。大事なことは言わずに、些細なことを大袈裟に言うことで組員を騙し、組の外にいる人々との緊張を高めて、最後は出入りにもっていこうとしている。

これは、先の出入りの前の時代とよく似たやり方だ。今の組長のじいさまの代が、そんなことをやって組を壊滅の寸前までもっていったのだ。私は強く危惧し憤慨している。また同じことを繰り返してはならない」
(2015年2月16日)

東京弁護士会役員選挙結果紹介 ? 理念なき弁護士群の跳梁

本年2月2日の当ブログに、東京弁護士会の役員選挙事情を掲載した。「弁護士会選挙に臨む三者の三様ー将来の弁護士は頼むに足りるか」というもの。投票日(2月6日)直前の記事だったので、選挙結果の報告もしなければなるまい。

下記は、東京弁護士会の役員選挙についての、同会ホームページの紹介である。公式の報告だから無味乾燥。外部から注目を惹くところは皆無。せいぜい、「公式ホームページで元号ではなく西暦が使用されているのか」という程度だろう。

2015年度東京弁護士会役員選挙結果について(2015年2月9日)
2015年度東京弁護士会役員等選挙の投票及び開票が2015年2月6日(金)に行われました。同日、東京弁護士会選挙管理委員会において開票結果を確定し、以下の者を当選者と決定しました。

2015年度東京弁護士会役員選挙 結果
会長選挙  当選者
伊藤 茂昭 (いとう しげあき)
副会長選挙 当選者(弁護士登録年月日順)
森   徹 (もり とおる)
佐藤 貴則 (さとう たかのり)
渡辺 彰敏 (わたなべ あきとし)
大森 夏織 (おおもり かおり)
中嶋 公雄 (なかじま きみお)
湊  信明 (みなと のぶあき)
監事選挙  当選者(無投票・弁護士登録年月日順)
吉村 誠 (よしむら まこと)
鹿野 真美 (しかの まみ)
**************************************************************************
これに、もう少し情報を加えると、弁護士会事情が多少は見えてくる。

? 会長選挙
当選   伊藤茂昭 3665票 (法友会)
落選   武内更一  758票
? 副会長選挙
当選 1 湊 信明  909票 (法友会)
当選 2 大森夏織  795票 (期成会)
当選 3 渡辺彰敏  718票 (法友会)
当選 4 森  徹  635票 (法曹親和会・東京法曹会)
当選 5 佐藤貴則  593票 (法曹親和会・二一会)
当選 6 中嶋公雄  522票 (法曹親和会・大同会)
落選   赤瀬康明  305票

法友・親和が東弁の二大会派である。会派とはインフォーマルな派閥のこと。選挙人事は派閥が取り仕切っている。二大派閥による人事壟断に異を唱え、東京弁護士会民主化を掲げて誕生したのが期成会。私もその会員の一人だが、今では既成派閥の一つになったと見る人が多いようだ。各派閥は、それぞれに研修もし親睦も重ねて親密化している。そして、微妙なバランスで、役員選挙を取り仕切っている。会長候補の武内と副会長候補の赤瀬が、この微妙なバランスの外にある。もっとも、この両者はイデオロギー的には正反対の存在。

2月2日ブログに書いたとおり、私が最も注目していたのは、赤瀬康明候補の当落だった。落選したことは、まずは目出度い。しかし、この305という得票数をどう見るべきか。歯牙にかける必要もない少数集団と見てよいのか、泡沫候補と看過し得ないと危機感をもつべきなのだろうか。微妙なところ。

会長・副会長立候補者9名のうち、赤瀬を除く8名は、とにもかくにも弁護士や弁護士会の理念を語っている。会長戦に敗れた武内更一がその熱さにおいて筆頭であるが、いずれも弁護士の使命を語り、その弁護士の使命を全うするための弁護士会のあり方について所信を述べている。赤瀬だけにそれがない。むしろ、「弁護士会を任意加盟にせよ」「弁護士自治など必要はない」「弁護士会の公益活動など無用」「人権擁護活動よりは、会費を安くせよ」という。理念派ではなく、非理念派。真面目派に対して非真面目派。彼と、これを支持した300名にとっては、弁護士とは公益業務ではなく、ビジネスなのだ。弁護士の役割や使命への自覚はなく、専ら経営の安定だけが関心事と見える。

2009年には、赤瀬が所属する弁護士法人(「アデイーレ」)の所長・石丸幸人が東弁会長選挙に立候補して惨敗している。それから6年、弁護士は増員となったが、赤瀬の票は殆ど増えていない。今のところは、理念派が持ちこたえている。

今の世を席巻している新自由主義の波は、司法界にも押し寄せている。全てを市場原理に委ねて何が悪い、という開き直りである。1999年7月、内閣に「司法制度改革審議会」が設置されて本格化した「司法改革」の基調は、この新自由主義にあるというべきであろう。

企業が求めているのは、面倒な理念など持たない、使い勝手のよい安価な「法技術提供者」である。そのような弁護士の大量創出こそが「司法改革」の名で語られた。いま、その需要に応えた弁護士群が育ちつつあるのだ。主観的にはともかく客観的には、彼らは司法改革を推進した財界に弁護士会の内側から公然とこれに呼応する勢力である。警戒を緩めてはならない。
(2015年2月15日)

「日の丸・君が代」強制と闘う意義ー卒業式直前原告5団体決起集会で

弁護団の澤藤です。お集まりの皆さまに、弁護団を代表して冒頭のご挨拶を申しあげます。
石原慎太郎第2期都政下で、「10・23通達」が発出されたのが2003年。希望の春が憂鬱な春に変わった最初の卒業式が2004年春でした。それから年を重ねて今年は12回目の重苦しい春を迎えることになります。この間、闘い続けて来られた皆さまに心からの敬意を表明いたします。
 
この間、法廷の闘いでは予防訴訟があり、再発防止研修執行停止申立があり、人事委員会審理を経て4次にわたる取消訴訟があり、再雇用拒否を違法とする一連の訴訟がありました。難波判決や大橋判決があり、いくつかの最高裁判決が積み重ねられて、今日に至っています。

法廷闘争は一定の成果をあげてきました。都教委が設計した累積過重の思想転向強要システムは不発に終わり、原則として戒告を超える懲戒処分はできなくなっています。しかし、法廷闘争の成果は一定のもの以上ではありません。起立・斉唱・伴奏命令自体が違憲であるとの私たちの主張は判決に結実してはいません。戒告に限れば、懲戒処分は判決で認められてしまっています。

また、何度かの都知事選で、知事を変え都政を変えることが教育行政も変えることになるという意気込みで選挙戦に取り組みましたが、この試みも高いハードルを実感するばかりで実現にはいたっていません。

しかし、闘いは終わりません。都教委の違憲違法、教育への不当な支配が続く限り、現場での闘いは続き、現場での闘いが続く限り法廷闘争も終わることはありません。今、判決はやや膠着した状況にありますが、弁護団はこれを打破するための飽くなき試みを続けているところです。

法廷で目ざすところは、これまでの最高裁の思想良心の自由保障に関する判断枠組みを転換して、憲法学界が積み上げてきた厳格な違憲審査基準を適用して、明確な違憲判断を勝ち取ることです。まだ、1件も大法廷判決はないのですから、事件を大法廷で審査して、あらたな判例を作ることはけっして不可能ではありません。

また、憲法19条違反だけでなく、子どもの教育を受ける権利を規定した26条や教員の教授の自由を掲げた23条を根拠にした違憲・違法の判決も目ざしています。国民に対する国旗国歌への敬意表明強制はそもそも立憲主義に違反しているという主張についても裁判所の理解を得たい、そう考えています。

現在の最高裁判決の水準は、意に沿わない外的行為の強制が内心の思想・良心を傷つけることを認め、起立斉唱の強制は思想良心の間接的な制約にはなることを認めています。最高裁は、「間接的な制約に過ぎないのだから、厳格な違憲判断の必要はない」というのですが、「間接的にもせよ思想良心の制約に当たるのだから、軽々に合憲と認めてはならない」と言ってもよいのです。卒業式や入学式に「日の丸・君が代」を持ち出す合理性や必要性の不存在をもう一度丁寧に証明したいと思います。

また、違憲とは言わないまでも、大橋判決のように、「真摯な動機からの不起立・不斉唱・不伴奏に対する懲戒処分は、戒告といえども懲戒権の逸脱・濫用に当たり違法」とする手法も考えられます。弁護団は、裁判所に憲法の理念にしたがった判決を出すよう、説得を続けたいと覚悟を決めています。

ところで、この10年余の闘いを続けて思うことは多々あります。最も、印象に強くあることは、闘うことの積極的な意義です。私たちは、先人が作ってくれた近代憲法のシステムの中で権利を享受しているだけではなく、具体的な権利の拡大の運動をしているのです。

歴史的に、思想・良心の自由も、信仰の自由も、表現の自由も、始めからあったわけではありません。文字どおり、血のにじむ闘いがあって、勝ち取られた歴史があるのです。私たちは、今まさしくそのような歴史に参加しているのです。また、憲法に書かれている条文が、現実の社会生活での具体的な権利として生きるためには、それぞれの現場での闘いが必要なのです。

私たちは、国家と対決し、国家に絡め取られることのない思想・良心の自由を勝ち取るべく闘っています。これは国民主権原理を支える重大な闘いだと思います。それだけではなく、次の世代の主権者を育てるに相応しい教育を守り、作り上げる闘いもしているのだと思います。教育を、国家の僕にしてはなりません。国旗と国歌を中心に据えた卒業式とは、生徒一人ひとりではなく国家こそが教育の主人公であることを象徴するものと言わざるを得ません。

闘うことを恐れ、安穏を求めて、長いものに巻かれるままに声をひそめれば、権力が思うような教育を許してしまうことになってしまいます。苦しくとも、不当と闘うことが、誠実に生きようとする者の努めであり、教育に関わる立場にある人の矜持でもあろうと思います。

私たち弁護団も、法律家として同様の気持で、皆さまと意義のある闘いをご一緒いたします。今年の卒業式・入学式にも、できるだけの法的なご支援をする弁護団の意思を表明してご挨拶といたします。
(2015年2月14日)

ナッツ姫に懲役1年の実刑 ? 量刑理由に「人間の自尊心を傷つけた」

趙顕娥(チョ・ヒョンア・前大韓航空副社長)という名前は日本では覚えられにくい。誰のことだかわかりにくくもある。失礼ながら、分かり易く「ナッツ姫」で通させていただく。

昨日(2月12日)ナッツ姫にソウルの地方裁判所が、懲役1年の実刑判決を言い渡した。航空保安法における「航空機航路変更罪」と、業務妨害罪の観念的競合を認めたとのことだ。実刑を選択した裁判所の「量刑理由」の説示が興味深い。

韓国の(保守系)有力紙「中央日報(日本語版)」の見出しが、韓国民の関心のありかをよく伝えている。「大韓航空前副社長に懲役1年…裁判所『職員を奴隷のように働かせた』」というのだ。以下は、その記事の抜粋である。(大意であって、原文のママではない)

「ナッツ・リターン事件で逮捕され起訴された趙顕娥(チョ・ヒョンア、41)前大韓航空副社長に懲役1年の実刑が宣告された。
ソウル西部地方裁判所刑事12部(オ・ソンウ部長)は12日、航空保安法上の航空機航路変更などの罪で起訴された趙前副社長に対して『被告人が本当の反省をしているのか疑問』として上記刑を言い渡した。」

「裁判所は量刑の理由の説示において、趙前副社長が提出した反省文の一部を公開した。趙前副社長は反省文で『すべてのことは騒動を起こして露骨に怒りを表わした私のせいだと考え、深く反省している。拘置所の同僚がシャンプーやリンスを貸してくれる姿を見て、人への配慮を学んだ。今後は施す人になる』と話したという。続けて、オ・ソンウ部長判事は『この事件は、お金と地位で人間の自尊心を傷つけた事件で、職員を奴隷のように働かせていなかったら決して起きなかった』と述べ、さらに当時のファーストクラス席の乗客の『飛行機を自家用のように運行させて数百人の乗客に被害を与えた』という陳述も引用して、実刑の宣告理由を明らかにした。また『趙前副社長は、乗務員と事務長から許しを受けることができていない』とも述べ、『趙亮鎬(チョ・ヤンホ)韓進(ハンジン)グループ会長(66)が、事務長の職場生活に困難がないようにすると言ったが、同事務長には「背信者」のレッテルが貼り付けられていると思われる』と付け加えた。」

「パク事務長」とは、パーサーあるいはチーフパーサーの職位に当たる人なのだろう。2か月前の中央日報日本語版が次のとおりに伝えている。
「『ナッツ・リターン』事件当事者の一人、パク・チャンジン大韓航空事務長(41)が(2014年12月)12日、口を開いた。5日(現地時間)に米ニューヨーク発仁川行きの大韓航空KE086航空機に搭乗し、趙顕娥(チョ・ヒョンア)前大韓航空副社長(40)の指示で飛行機から降ろされた人物だ。

パク事務長はこの日、KBS(韓国放送公社)のインタビューで、マカダミアナッツの機内サービスに触発された『ナッツ・リターン』事件当時、『趙顕娥前副社長から暴言のほか暴行まで受け、会社側から偽りの陳述も強要された』と主張した。

放送に顔と実名を表したパク事務長は『当時、趙前副社長が女性乗務員を叱責していたため、機内サービスの責任者である事務長として許しを請うたが、趙前副社長が激しい暴言を吐いた』とし『サービス指針書が入ったケースの角で手の甲を数回刺し、傷もできた』と話した。また『私と女性乗務員をひざまずかせた状態で侮辱し、ずっと指を差し、機長室の入口まで押しつけた』と当時の状況を伝えた。」

以上で、事件と裁判の概要は把握できると思う。刑事裁判であるから、罪刑法定主義の大原則に則って、あくまで起訴事実の存否とその構成要件該当性が主たる審理の対象となる。しかし、本件についての主たる審理対象は、むしろ情状にあったのではないか。ナッツ姫のパーサーやキャビンアテンダントに対する「人間としての自尊心を傷つけた行為」が断罪されたという印象が強い。両被害者からの赦しを得ていないことが実刑判決の理由として語られていることが事情をよく物語っている。実質において、一寸の虫にもある「五分の魂」毀損罪の成立であり、これに対する懲役1年実刑の制裁である。

それにしても思う。偽証まで強要されたこの被害者2名が勇気ある告発をせず、長いものに巻かれて泣き寝入りしていればどうだったであろうか。何ごともなかったかのごとく、ナッツ姫は、わがままに優雅な生活を送っていたのではないだろうか。財閥一家の傲慢さ横暴さが曝露されることもなく、韓国社会の健全な世論の憤激も起こらなかったであろう。勇気ある内部告発は、公益に資する通報として社会に有用なのだ。

日本の上原公子元国立市長の名は、覚えにくいわけではない。しかし、その行為を弾劾する意味で、失礼ながら敢えて「ナッツ上原」と言わせていただく。事情が、日韓まさしく同様なのだから、その方が分かり易い。ナッツ上原の「五分の魂毀損」事件の顛末は既に詳しく書いたから繰り返さない。かなりの長文だが、下記のブログをお読みいただきたい。

「韓国のナッツ姫と日本のナッツ姫ーともに傲慢ではた迷惑」
(2015年1月31日)
https://article9.jp/wordpress/?p=4305

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその6」
(2013年12月26日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1776

「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその7」
(2013年12月27日)
https://article9.jp/wordpress/?p=1783

ナッツ上原にも、肝に銘じていただきたい。「あなたの行為は、自分に権限あるものとのトンデモナイ勘違いによって、上から目線で人間の自尊心を傷つけたもの。ボランティアとして選挙運動に誠実に参加した仲間を大切にする気持ちが少しでもあれば、決して起きなかったこと」なのだ。もちろん、ナッツ上原の行為は、陣営の選挙運動に具体的な支障をもたらしている。そして、主犯熊谷伸一郎ともども、いまだもって五分の魂を傷つけられた二人に謝罪もしていなければ赦しを受けてもいない。

私は、自浄能力のない組織における内部告発(公益通報)は、その組織や運動にとっても、社会全体に対しても有益なものであると信じて疑わない。本日の記事を含め、当ブログは、公共的な事項に関して、公益をはかる目的をもって、貴重な情報を社会に発信し、革新共闘のあり方に有益な問題提起をなしえているものと確信している。

私が宇都宮陣営に「宣戦布告」をしたのは、2013年12月21日である。
「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい。」
https://article9.jp/wordpress/?p=1742

その日のブログに書いたとおり、私の闘いは「数の暴力」への言論による対抗手段としての事実の公開である。典型的な内部告発であり、公益通報である。力のない者が不当・無法と闘うための王道は、何が起こったかを広く社会に訴え多くの人に知ってもらうこと以外にない。幸いに、私にはささやかなブログというツールがあった。「宇都宮健児君、立候補はおやめなさい」シリーズは、33回を毎日連載して望外の読者の反響を得た。もちろん、覚悟した反発もあったが、その内容は説得力に乏しいお粗末なもので、その規模は事前の想定よりも遙かに小さなものだった。むしろ、多数の方から予想を遙かに超える熱い賛意をいただいて、「私憤」だけでない公益通報の公益的な意義を確信した。

「念のために申し上げれば、開戦は私の方から仕掛けたものではありません。宇都宮君側から、だまし討ちで開始されました。だから、正確には私の立ち場は「応戦」なのです。しかし、改めて私の覚悟を明確にするための「宣戦布告」です。」これが、シリーズ冒頭の一節。その宣戦布告はいまだに講和に至っていない。
(2015年2月13日)

まずは澁谷の空に輝け・六色の虹の旗

渋谷区の快挙を各紙が大きく報道している。「同性カップルに結婚相当証明書」という見出しが分かり易い。

「東京都渋谷区は2月12日、同性カップルを『結婚に相当する関係』と認め、証明書を発行する条例案を盛り込んだ2015年度予算案を発表した。条例案は3月上旬に開会予定の3月区議会に提出する」「条例案は男女平等や多様性の尊重をうたった上で、『パートナーシップ証明』を定めた条項を明記。区内に住む20歳以上の同性カップルが対象で、必要が生じれば双方が互いの後見人となる契約を交わしていることなどを条件とする。カップルを解消した場合は取り消す仕組みもつくる」

渋谷区は昨年来、有識者らによる検討委員会を立ち上げ、LGBTの区民からも聞き取りをして条例の内容を検討してきたのだという。桑原敏武区長の言がよい。「互いの違いを受け入れ尊重する多様性社会を目指すという観点から、LGBTの問題にも取り組みたい」というもの。

さらに、興味を惹くのは実効性確保の手段の工夫である。「条例の趣旨に反する行為があった場合は事業者名を公表する規定も盛り込む」と報道されている。

諸手を挙げて歓迎したい。性的マイノリティという言葉が熟さないうちに、「LGBT」という言葉が市民権を得てきた。レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、バイセクシュアル(Bisexual)、そしてトランスジェンダー(Transgender)の略語だという。当事者が、ややネガティブな語感のある「性的マイノリティ」よりは、自らのグループを「LGBT」と言うそうだ。そのLGBTに朗報であるだけでなく、人権の尊重のためにも、他のマイノリティーにとっても、そして豊かな多様性社会創造のためにも朗報なのだ。

このグループのシンボルが、6色構成(赤、橙、黄、緑、青、紫)のレインボー・フラッグ。言うまでもなく、豊かな多様性をシンボライズするもの。まずは澁谷の空にこの虹の旗が翻るよう、声援を送りたい。

人は多様である。文明化した社会は、相互に他の個性と多様性を認め合うことを基本的な約束事として成立している。人種も、民族も、性差も、年齢も、宗教も、嗜好も、思想信条もそれぞれに異なる多様な人々がそれぞれを尊重しながらこの社会を形づくっている。人種や民族による差別、宗教や出自による差別は最も忌むべきものとして克服しなければならない。同時に、皇族だの元華族だのという家柄や家系を誇る愚か者たちを持ち上げたりする陋習も意識的に排斥しなければならない。

人は生まれながらにして平等であり、誰もがありのままで尊重されなければならない。異性愛からする同性愛への差別も克服されなければならない。人はさまざま。多種多様でよいのだ。

「異性間の愛は崇高で神の摂理に適い、同性間の性的愛情は神の摂理に反するものとして認めがたい」。そのような考え方も尊重されてしかるべきであろう。しかし、そのような考えをもつものが、同性愛者のライフスタイルに介入することは許されない。ヘイトスピーチが許されないごとくにである。

社会のマジョリティは、得てしてマイノリティーに不寛容である。同調圧力をもって自らへの同化を求める。「外国人を排斥して日本人だけの社会にしたい」。「神仏以外の宗教は認めがたい」。「家族とは、両親揃っていなければならない」。「日の丸・君が代には国民こぞって敬意を表明するのが当たり前」。「男は仕事、女は家庭に」。これはまことに窮屈な社会。マイノリティーは、このような同調圧力に屈する必要はないのだ。無理に社会に合わせようとすれば、自分が自分でなくなってしまう。自分らしくありのままで暮らせる寛容な社会でなくてはならない。

マイノリティーが暮らしやすい寛容な社会は、実は誰にとっても暮らしやすい社会なのだ。人種や民族。宗教におけるマイノリティーも、思想・信条における少数派も、あるいは老齢者や、障がい者や、経済的に不遇な人も、安心して暮らせる社会を作りたいと思う。

LGBTのグループが暮らしやすい社会は、偏見や差別のない寛容な社会である。しかも、毎日新聞が伝えるところでは、信頼できる大がかりな調査によるとLGBTに属する人々は総人口の5.2パーセントにも及ぶという。

まずは渋谷区の英断を歓迎し、その条例の成立を応援したい。しかし、この条例では年金も相続も扶養も夫婦並みとは行かない。内縁関係が次第に婚姻に準じるものとして扱われた例はあるが、立法によらないその限界も明らかである。多くの先進国が既に多くの国が同性婚を法制化している。渋谷区の画期的試みが他にも広まり、法律を変える運動に発展するよう見守りたい。

すべての人がありのままの姿で尊重され、豊かな多様性あふれる社会の創造のために。虹の旗よ、輝け、ひるがえれ。
(2015年2月12日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2015. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.