(2021年7月27日)
昨日(7月26日)の毎日新聞8面に、青島顕記者の[NHK経営委の議事録]についての解説記事。「全面開示まで2年も」「第三者機関答申 一時ほご」の見出しが付けられている。「ほご」は、「反故(ないし反古)」のこと。NHK経営委は、NHKが自ら定めた情報公開制度における第三者機関からの全面開示答申を一時は反故にした。そのため、問題の議事録がようやく公開されるまで2年もかかったという内容。
https://mainichi.jp/articles/20210726/ddm/004/040/023000c
私の確信するところでは、経営委員会に議事録公開の決断をさせたものは、本年4月における「不開示の場合には提訴」を予め宣言しての市民100名余による文書開示請求であり、6月の文書開示請求訴訟の提起である。残念ながら、毎日記事はこの点についての言及がない。
とは言え、この毎日記事は、(NHKというよりは)経営委員会の隠蔽体質と情報公開制度への無理解を鋭く批判する内容になっている。この件の報道については当紙(毎日)が先鞭をつけてきたとの自負が前面に出て微笑ましいが、毎日の功績は誰もが認める立派なもの。
この記事を読んであらためて思う。行政文書の開示請求への拒絶が問題となるのは、文書の公開を不都合とする行政当局者の姿勢の故である。結局のところ、公開を不都合とする行政の実態があり、これを隠蔽しなければならないからなのだ。国民の目の届かないところで、国民に知られては困る行政が進められていることが根本の問題なのだ。
情報公開とは、国民の利益のために行政に不都合な情報の公開を強制する制度である。この制度の改善と活用は、行政の透明性を高め、歪んだ密室行政を是正するために不可欠である。
NHK(日本放送協会)は行政機関ではなく、「独立行政法人等情報公開法」の適用対象となる「独立行政法人等」にも該当しない。しかし、情報公開法に倣った情報公開制度を自ら作っている。その制度の趣旨は、情報公開法と変わるところはない。「視聴者・国民の目の届かないところで、視聴者・国民に知られては困るようなNHKの運営が行われないように、NHK経営委や執行部に不都合な情報の公開を強制する制度である。この制度の進展と活用は、NHK運営の透明性を高め、歪んだNHK運営を是正する」ことにつながる。
この点を、毎日記事は、NPO法人情報公開クリアリングハウス三木由希子理事長の次のコメントを引いて批判してしている。まったくそのとおりと思う。
「(行政であろうと、独法であろうと、またNHKであろうとも)公共性のある組織の情報公開のあり方を、経営委は理解できていなかった。それが問題の根本にある」
さらに、毎日記事が批判の対象としたのが、今月8日、経営委が問題の議事録を全面開示を前にホームページに発表した下記の見解。
「18年当時の経営委での非公表を前提としたやりとりが、経営委のあずかり知らぬところで、マスコミに報じられたことは大変遺憾。ガバナンスの基本である情報管理の徹底に向けて、更なる機密保持の強化を検討する」
ここでいう「マスコミ」が毎日を指すことは周知の事実。毎日が、黙っておられるはずはない。経営委の「ガバナンスの基本である情報管理の徹底に向けて、更なる機密保持の強化を検討する」は、本来漏れてはならない個人情報等についていうべきこと。公表すべきにもかかわらず隠蔽を批判された文書について、開き直っての「機密保持強化宣言」は、「文書隠蔽強化宣言」にほかならない。
この点について毎日記事は、次の三木由希子の批判のコメントを引用している。
「危険な考え方だ。知らされるべき公益性があれば報じるのが報道機関の役割だ。『機密保持の強化』は単なる隠蔽工作の強化にならざるを得ない」
NHK経営委員会は、追い詰められて渋々と、隠したかった議事録を公開した。しかし、その土壇場でのこの悪あがきである。はっきりしていることは、経営委員会は情報公開制度の趣旨をまったく理解していないことである。この会議の当時も、そして今にしてなお、である。
(2021年7月26日)
私は月刊誌文化で育った。漫画週刊誌が世を席巻する以前のことだ。小学生だけの寄宿舎2階の隅に図書室があり、少年・少年クラブ・少年画報・まんが王・少女・少女クラブ・リボン・なかよし・女学生の友・小学三年生などなんでも読めたし、なんでも読んだ。どっぷりとその世界に浸かった。
手塚治虫・馬場のぼる・福井栄一らのマンガは文句なく面白かった。山川惣治らの絵物語というジャンルもあった。そして、それなりの文字情報もあった。連続小説もあり、歴史や科学の解説記事あり、そしてスポーツものが大きな比重を占めていた。
その子ども向けスポーツ記事には戦前のオリンピックにおける日本人選手の活躍ぶりにページが割かれていた。日本凄い、日本人立派、のオンパレードだった。記憶に残るのは、まずは村社講平のスポーツマンシップだ。そして、西田修平・大江季雄の「友情のメダル」。織田幹雄・田島直人・南部忠平、みんな世界に負けなかった。前畑がんばれ。人見絹枝はよくやった。バロン西の戦死は惜しまれる。小学生の私は、この種の話が大好きで無条件に感動した。こんな話を通じて、日本人であることを自覚し、日本に生まれたことを好運にも思った。既に、小さなナショナリストが育っていたのだ。
おそらくは、当時の日本社会が子どもたちに与えたいと願ったものが月刊出版物に忠実に反映していたのだろう。スポーツ界のヒーローの描き方の根底には、疑いもなく、敗戦の負い目や国際社会に対する劣等意識があった。これにこだわっての、本当はこんなに凄い日本、日本人は本来こんなにも立派なのだと押し付けられ、多くの子どもたちがこれを受容した。もちろん私もその中の一人。
今にして思う。オリンピック金メダリスト孫基禎のことも、国民的ヒーローであった力道山が在日朝鮮人であることも、少年雑誌には出て来なかった。天皇や戦争などの暗い話題は誌面から避けられていた。さすがに国粋主義は出てこなかったが、ナショナリズムは色濃くあった。
戦前の攻撃的なナショナリズムとは違い、戦後のあの時期のナショナリズムは、国民的規模の劣等感の表れであったかと思う。今は、こんなに肩身の狭い思いを余儀なくされているが、本当は日本人は優秀で、日本は世界に負けないんだ、という肩肘張っての強がりの姿勢。
オリンピックは、このようなナショナリズムを思い出させ、再構築する好機なのだ。対外的な劣等意識にとらわれている人、人生経験の浅い人ほど、日本選手の活躍に「感動」を押し売りされ、断れなくなる。私も小学生のころ、そうであったように。
(2021年7月25日)
私は小学2年生から4年生までを、清水市立駒越小学校に通った。戦後間もなくの1951年4月から54年3月までのこと。この地は富士がよく見え、三保の松原にほど近い風光明媚なところ。当時は田舎で、周囲は農村と漁村の入りまじった土地柄だった。その小学校の秋の運動会が一大行事として印象に残っている。校内行事の規模を超えて、地域行事となっていた。
運動会プログラムの最後が、地区対抗のリレーだった。確か、それぞれの地区が、1年生から6年生まで各学年の男女1名ずつを選手とする計12名のチームを作る。そのリレー競走が異様に盛り上がる。
何チームができたのかは覚えていない。増村(ぞうむら)、蛇塚(へびづか)、折戸(おりど)、駒越(こまごえ)等々の村落ナショナリズムが実に強固なのだ。運動会が近づくと、どこの地区はもう選手を決めた。特訓をやっているそうだ、という噂が伝わってくる。
この学校に通う、地元民でない2グループがあった。一つは、近所にあった東海大学の教職員宿舎の子どもたちで、「官舎の子」と呼ばれていた。もう一つが、私のような宗教団体の寄宿舎から通う、1学年15人ほどの子どもたち。宗教団体の名から「PLの子」と呼ばれていた。「官舎の子」も「PLの子」も、勉強はできて行儀がよく標準語を話す子どもたちだったが、地元の子どもたちには腕力で敵わず、運動能力も遙かに劣っていた。だから、もちろん尊敬される存在ではありえない。このグループもリレーのチームを作ったが、常に最下位を争っていた。通例、文武は両立しがたいのだ。
この最下位2チームを除いてのことだが、各チームのリレー選手に選ばれるとたいへんなプレッシャーが掛かることになる。各村落の期待を背負って、勝てば褒めそやされるが、負ければ針のムシロなのだ。リレーの勝敗には、各地区の名誉がかかっている。子どもたちが、地区の名誉のために、懸命に走るのだ。和気藹々なんてものではない、村落間の対抗意識のトゲトゲしさが印象に残る。その対抗意識のなかでの子どもたちの痛々しい姿。
もしかしたら、あの小学校のリレーが、私のスポーツ観の原点なのかも知れない。アスリートとは痛々しいもの。対抗意識で分断された部分社会を代表して、その名誉を賭けての代理戦争の選手となる者なのだ。勝てば褒めそやされるが、負ければ惨めな針のムシロの哀れな存在。
子どもたちはクラス対抗では盛り上がらない。クラスは、便宜的に区分されたに過ぎず、来年にはクラス編成は変わる。クラスに対する帰属意識は育たない。クラス・ナショナリズムは成立しないのだ。しかし、クラスを横断した村落ナショナリズムは確実に存在した。それぞれが、そこで生まれ育ち将来も生き続けなければならない村落へのアイデンティティを強固にもっていた。
地区対抗リレーでは、子どもたちが自分のためでなく、村落ナショナリズムを背負って、村落共同体の代表として走った。だから、各村落共同体がこぞって声援を送り、子どもたちは懸命に痛々しく走ったのだ。おそらくこのリレーは、普段は意識しない各村落間の対抗意識を顕在化させ煽るものであったろう。
スポーツは競技と切り離しては成立しない。競技は競争の相手方を必要とするだけでなく、自分の属する集団の名誉や経済的利益を賭して行われる。学校の名誉のために、職場対抗の選手として、地域を代表して、さらには国家のために競技をすることになる。これは、単位社会間の代理戦争である。そのゆえに、大いに盛り上がることにはなるが、選手本人には限りない重圧が掛かることになる。当然に押し潰される人も出て来る。
前回1964年東京オリンピック開催時には、私は大学2年生だった。アルバイトに明け暮れていた私には競技に関心をもつほどの暇はなく、テレビも持っていなかったから、騒々しさ以外には感動も印象も残っていない。ただ、陸上競技でのたった一人の日本人メダリスト円谷幸吉が、その後に傷ましい自殺を遂げたことから、この人についての記憶だけが鮮明に再構成されている。
次のオリンピックには金メダルを。そのような国民の期待に応えようとした律儀な自衛官は、68年メキシコオリンピックの年の1月、頸動脈を切って凄惨な自殺を遂げた。当時27歳、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」との遺書を残してのこと。
この事件は衝撃だった。国家の名誉と期待を背負わされた青年がその重みに耐えかねて、その重圧から逃れるための自殺。国家とは国民とは、そしてナショナリズムとは何と残酷なものだとあらためて知った。加えて、アスリートを押し潰すオリンピックというイベントの非人間性も印象に残った。
円谷の精神の中では、国家や国民という存在が限りなく大きく重いものであったのだろう。卑小な自分は、国家や国民の期待に応えなければならないとする生真面目な倫理観があったに違いない。それが達成できなくなったときには、自分の生存自体を否定せざるを得なかったのだ。自我も主体の確立もない、ただ国家のために走らされる哀れなアスリートの悲劇である。
駒越小学校では、あの村落対抗リレーはまだ存続しているのだろうか。一昨日から始まったTOKYO2020では、まだ無数の円谷が競技をしているのではないだろうか。
(2021年7月24日)
パンデミック下の東京オリンピックの開会強行は、1941年12月8日の開戦に似ているのではないか。あの日醒めた眼をもっていた国民の気持を擬似体験している印象がある。国家というものは、ホントにやっちゃうんだ。ブレーキ効かずに突っ込んじゃう。反対しても止められない。いったい何が、本当に国家というものを動かしているのだろうか。
昨日(7月23日)は、違和感だらけ。まずは、ブルーインパルスの演技に大きな違和感がある。あれは、戦闘機だ。戦争を想定して有事に人殺しを目的とする兵器ではないか。オリンピックが平和の祭典とすればその対極にあるもの。本来、人前に出せるものではない。
ブルーインパルス飛行を見物に集まる人に、さらなる違和感。「感動した」などと口にする感性を疑う。「オリンピック開催を強行すれば空気は変わる」と、愚かな為政者にうそぶかせる国民も確かにいるのだ。それが、この国の現状を支える主権者の一面なのだ。決して、多数派だとは思わないが。
「日の丸」掲げて「君が代」歌っての開会式に違和感。私は、開会式など観てはいないが、ナショナリズム涵養の舞台となったようだ。これからは、各国対抗のメダル獲得競争が展開される。これがオリンピックやりたい連中の狙いの本音。オリンピックやらせたくない派の反対理由でもある。
本日の毎日新聞「余録」の書き出しが、「表彰式における国旗と国歌をやめてはどうか」。1964年東京五輪開幕日の毎日社説の一節であるという。こうなれば、私の違和感も、払拭されることになる。しかし、各紙、今やそんな社説を書く雰囲気ではない。
余録は、こう続けている。「元々、国家の枠を超えて国際主義を体現しようとしたのがオリンピック運動の原点だ。68年メキシコ五輪時のIOC総会では廃止に賛成が34票で反対の22票を上回ったが、採択に必要な3分の2に届かず、否決された▲その後、旧ソ連など共産圏が反対の姿勢を強めたこともあり、廃止論は姿を消す。むしろ五輪を国威発揚に結びつけることを当然と考える国が増えた。ナショナリズムの容認が五輪の商業主義や巨大イベント化を支えてきたともいえる」
さらなる違和感が、菅義偉・小池百合子の天皇に対する態度を非礼と非難する一部の論調である。天皇が開会宣言のために起立しているのに、菅・小池が直ちに起立せず遅れての起立を「不敬」とする復古主義者からの攻撃に、国際的なマナーに反するという鼻持ちならない「国際派」からの批判が重なる。そのどれもが、天皇に権威をもたせることを自分の利益と考える連中の、とるに足りないたわ言。
オリンピック憲章の大部分は、常識的な文言を連ねたものだ。たとえば、次の一節。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」
天皇とは、この憲章の一節における「社会的な出身、出自やその他の身分などの理由による、差別」の典型であり、身分差別の象徴にほかならない。貴あるからこその賤である。天皇の存在が日本の差別を支えている。「いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」とするオリンピック開会式の場で、身分差別の象徴である天皇への敬意を当然としてはならない。差別の象徴である天皇への敬意が足りないと非難される筋合いはない。
開会式のニュースで少し心和んだのは、「オリンピックはいらない」「東京五輪を中止せよ」「オリンピックより国民の命を大切に」などのデモの声が、競技場内にも届いたという。開会式の場は、別世界ではないのだ。
何よりも気になることは、今朝の各紙を見ると、緊急事態宣言下の東京であることが忘れられたような雰囲気であること。昨日の東京の人出は多かったようだ。オリンピック開会の強行は、反対論者が予想したとおりとなった。しかし、そのことによる感染拡大への影響の有無は、2週間ほども先にならないと分からない。
1941年12月8日の開戦は、多くの人の人命を奪い国を滅ぼした。2021年7月23日が、これと並ぶ禍々しい日とならないことを願うばかり。
(2021年7月23日)
昨日(7月22日)、毎日新聞(デジタル)が久々にDHCを記事にした。東京オリンピック直前のタイミングに、いま日本が直面している数々の問題を考えさせる恰好の素材を提供するものとなっている。
DHC・吉田嘉明の、ヘイト体質・独善性・時代錯誤・無反省・卑怯・姑息・批判者への攻撃性・非寛容性等々の姿勢については、これまで繰り返し指摘してきた。その多くの問題が、東京オリンピック開会直前に批判の対象となった差別・イジメ・無反省・時代錯誤・グローバルスタンダードに重なるのだ。DHC・吉田嘉明、いつもながらの反面教師ぶりである。
毎日新聞記事のタイトルが、「ヘイト声明のDHCが『マル秘』謝罪文 提出先には非公開を要求」というものである。この見出しが私には感無量である。天下の毎日が見出しに、何の遠慮もなく、「ヘイトのDHC」と書くようになった。「ヘイト」と「DHC」が何の違和感もなく自然な結びつきになっている。さらに、「『マル秘』謝罪文」「提出先には非公開を要求」と、躊躇も萎縮もなくDHCのみっともなさを追求している。確実にDHCは追い詰められているのだ。そして、その背後にはヘイトの言動に厳しい世論の高揚がある。
DHC批判は、DHCや吉田嘉明に対する批判を超えて、DHCを支える取引企業や取引金融機関、連携する自治体へと拡がりつつある。つまりは社会的な反ヘイトの包囲網を作ろうという反ヘイト市民運動のレベルアップである。これは、注目すべき動向ではないか。
毎日新聞は、DHCとの連携自治体に関しては、情報公開制度を活用することで、DHCや自治体の反ヘイトの本気度や交渉経過を明らかにしようと思い立ったのだ。その機敏さに敬意を表したい。
毎日新聞は、DHCと協定を結ぶ自治体に情報公開請求し、DHCが提出した文書などがあれば明らかにするよう求めた。「文書は存在しない」と答えた自治体もあったが、茨城県守谷市や北海道長沼町など4市町がA4判の文書計約70枚の公開を得たという。そのようにして得た開示情報に基づく結論を毎日はこう纏めている。
「DHCがホームページに在日コリアンを差別する文章を掲載した問題で、DHCは非を認めて謝罪する文書を、協定を結ぶ自治体に水面下で提出していた。しかし、DHCは公式の謝罪や説明を避けており、謝罪文を渡した自治体にも文書の非公開を要求している。」
なるほど、さもありなん。いかにも、DHC・吉田嘉明の手口である。彼の謝罪は真摯なものではない。しかも覚悟あっての行動ではないから、陰でこそこそという姑息でみみっちいことになる。DHC・吉田嘉明の辞書には、信念の二文字はない。だから、やることが情けなくてみっともなく、正々堂々の片鱗もない。
茨城県守谷市が開示した資料には、6月9日にDHC地域健康サポート局の担当者が市役所を訪れ、松丸修久(のぶひさ)市長らに経緯を説明した際の記録がある。それによると、担当者は「人権に関わる不適切な内容の文章の非を認め、発言を撤回しました」「同様の行為を繰り返さないことをお誓い申し上げます」などと謝罪する文書を提出。「会長は、思ったよりも波紋が広がったことについて反省している。個人の意見を聞いてほしいという気持ちがあったようだ」と釈明した。
その上で、公式な謝罪や説明には消極的な姿勢を示した。守谷市に対して「(文章を)削除した経緯等の説明文をHPに載せることはしない」「問い合わせには全てノーコメントで対応する」と説明。市に渡した謝罪文も「内容はマスコミに説明いただいてよいが、文書としての開示はしないでほしい」と求め、文書に社印も押さなかった。
守谷市はその後、これらの文書について「市民への説明責任を果たせない」と不十分な点を指摘。会社の説明であることを明確にするため社印を押すことや、再発防止に向けた具体策を記載することなどをメールで求めた。しかしDHCの担当者は「文書が新たな批判や問題を呼ぶことは避けたい」として拒んだ。
東京オリンピック組織委の幹部スタッフとして任を解かれた、森・佐々木・小田山・小林らは、いずれも自分の精神の根幹にある差別意識や個人の尊厳への無理解に真摯に向き合い、これを克服しようとの誠実さをもたない。彼らは、いまだに真に自らを省みることはなかろう。この点で、DHC・吉田嘉明と軌を一にする。
吉田嘉明の精神の根幹に染みついた差別意識である。その不当、理不尽を如何に説こうとも、理解を得て矯正することはおそらく不可能であろう。しかし、この社会はヘイトの言動を許さず、ヘイトには制裁が伴うということを身に沁みて分からせることは可能である。
彼が、ヘイトの姿勢を固執すれば世論に叩かれ、社員は肩身の狭い思いを余儀なくされる。DHCにまともな人材は枯渇することになるだろう。消費者による不買という手段の制裁が功を奏する段となれば、DHC・吉田嘉明はヘイトの表現が高く付くものであることを学ぶだろう。
森・佐々木・小田山・小林らは、世論からの厳しい糾弾に曝され、その任にとどまることができなかった。吉田嘉明はオーナーであるから職を失う恐れはない。DHC・吉田嘉明のヘイトを矯正するには、「世論・消費者」の行動によって、差別・ヘイトは社会から厳しい制裁を受けるものであることを思い知らせる以外にはないのだ。
(2021年7月22日)
東京オリンピック開会の前日である。なにか禍々しいことが押し寄せて来そうな不気味な雰囲気。
その不気味さの理由の第一は、コロナ蔓延の急拡大である。東京都の新型コロナの新規感染確認者数は本日1979人となった。先週木曜日比で671人の増である。本日までの7日間平均は1373.4人で、前の週の155.7%となる。なお、本日の全国での新規感染者数は5397人と5000人の大台を超えた。感染急拡大の真っ最中での開会式となる。祝祭の気分など出てくるはずもない。今なら、まだ中止にできる。
不気味さの理由の第二は、開会式開始まで40時間を切っての幹部スタッフの解任劇である。開閉会式のディレクター・小林賢太郎の「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というコントに批判が集中しての解任。また、また、なのだ。これは深刻である。「何度も繰り返される光景に、現場は冷め切っている」(朝日)のは当然だろう。関係者の祝賀の気分もやる気も失せて当然。今なら、まだ中止にできる。
イジメ虐待吹聴の小山田や、ホロコーストごっこの小林は、本来は汚れた五輪に似つかわしい。居座ってもらった方が、オリンピックの何たるかが分かり易く、教訓的である。そのような汚れた場に出席することが、自らのイメージダウンにつながると思うのがノーマルな判断。欠席表明者が相次いでいる。
NHKの報じるところでは、「オリンピック開会式 スポンサー企業の3分の2が欠席」だという。高いカネを出してスポンサー企業となってはみたものの、この禍々しい東京五輪と親しいことは、却って明白な負のイメージなのだ。
NHKが、明日の東京オリンピック開会式に出席が認められているスポンサー企業78社に対応を取材したところ、回答した55社のうち37社(67%)が会社関係者は出席しないと答えたという。出席すると答えた企業は12社で、このうちトップが参加するのは、わずか1社。徹底的に嫌われた、イメージ最悪のオリンピックなのだ。
出席しない各社が理由をこう述べている。
アサヒビール 「感染拡大の状況や東京会場における無観客開催が決定したことを踏まえた」
東京ガス 「安心・安全な大会を開催するという組織委員会の方針に従い、連携、サポートしていくため」
表向きの理由は無観客の開会式に特権者ヅラでの出席はブランドイメージに傷が付くというだけのものだが、その裏には東京五輪のイメージの悪さがしっかりとある。
一方、「出席する」と回答したのは21%にあたる12社で、6社が未定。出席者については、会社のトップと答えたのは1社にとどまり、幹部クラスが2社。また7社は提供した物品の確認や運営の記録のために現場レベルの担当者を派遣すると答えている。
また、経団連、日本商工会議所、経済同友会の経済3団体トップが、そろって欠席するほか、各国の要人の中でも出席を見合わせるケースが相次いでいる。政治家もしかり。確実に史上人気最低のオリンピックである。
天皇(徳仁)には、このオリンピックへの出席の是非を語る自由は一切ない。大衆からの対天皇人気を気にする守旧派は、こんなオリンピックの開会式に天皇を出席させたくはないのだろうが、菅政権は天皇に出席と開会宣言の朗読を指示している。天皇と東京オリンピックが似つかわしかろうとそうでなかろうと、天皇の出席と開会宣言の朗読が、天皇や皇室のイメージにどのような影響を与えようと、天皇(徳仁)に内閣の指示を拒否する裁量の余地は一切ない。
さて、明日はどうなるのだろうか。コロナの拡大と医療の逼迫はどこまで進展するのだろうか。まさかとは思うが、スタッフの解任はさらに続くことにはならないか。開会式への出席者はさらにどれだけ減ることになるだろうか。なにか禍々しいことが押し寄せて来はしないだろうか。そんな不気味な前夜である。
(2021年7月21日)
東京五輪の開会予定日が明後日(7月23日)に迫っている。TOKYO2020の幕開けは、東京都の緊急事態宣言のさなかとなる。のみならず、なんというタイミングだろう。このオリンピック期間は、第5波のコロナ感染拡大時期にピタリと重なる。本日東京の新規コロナ感染者は1832人。1週間前の水曜日よりも680人増えている。16日間の五輪の初日は、おそらくは2000人の新規感染者を出し、最終日には3000人を越すと予想されている。
多くの人がこの感染拡大に心を痛めている。そして、確実に感染拡大のリスクファクターとなる東京オリンピックの中止を求めている。しかし、主催者側は、決してオリンピック中止の声に耳を傾けようとはしない。いったい何のために、そこまで無理をしての東京五輪なのか。五輪ってなんだ。その開催にどんな積極的意義があるというのか。
復興五輪のウソは明白となった。簡素な五輪の公約も破られた。コロナに打ち勝った証しは完全に裏目に出た。みんなして一緒にコロナと闘う? それでは何のために闘うのかという回答になっていない。分かり易いのは、金のため、利権のため、売名のため、政治的権勢のための東京五輪である。
菅義偉は、本日付けウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューで「やめることは、いちばん簡単なこと、楽なことだ」「挑戦するのが政府の役割だ」と強調したと報じられている。この人の言うことだ、本気で受けとめる読者もなかろう。
それはともかく。菅義偉よ、ならば聞きたい。政府は、何のために何を獲得しようと危険な五輪開催に固執して挑戦しているのか。楽ではないのに、国民の生命と健康を賭けてまで。
菅が明確に語るところはない。忖度しても、「安全安心」と「しっかり」と「感動」くらいしか思いつかない。
政権の第一の任務は国民の生命と健康そして暮らしを守ること。緊急事態宣言下に、国民の生命と健康を賭して五輪への挑戦をすることではない。
菅は、五輪開催強行の意図について、本音を語るところがない。代わって、これを積極的に語っているのが、安倍晋三である。彼は、「月刊Hanada」8月号での櫻井よしことの対談において、東京五輪の開催に反対する人たちのことを「反日」と攻撃しつつ、あけすけにこう語っている。
「国民が同じ想い出を作ることはとても大切なんです。同じ感動をしたり、同じ体験をしていることは、自分たちがアイデンティティに向き合ったり、日本人としての誇りを形成していくうえでも欠かすことのできない大変重要な要素です」
「日本人選手がメダルをとれば嬉しいですし、たとえメダルをとれなくてもその頑張りに感動し、勇気をもらえる。その感動を共有することは、日本人同士の絆を確かめ合うことになると思うのです」
「このコロナ禍のなかにあって、来年は北京冬季オリンピックが予定されていますが、自由と民主主義を奉じる日本がオリンピックを成功させることは歴史的な意味があり、また日本にはその責任がある」
「同じ想い出を作る」「感動の共有」「日本人としての誇り」「勇気をもらえる」「日本人同士」「絆」…。何と安っぽい手垢のついた言葉の数々。こういう言葉を使うことが恥ずかしくないのだろうか。
要するに、ナショナリズム高揚のためのオリンピックなのだ。これが、コロナ蔓延拡大のリスクを押しても強行しようという東京オリパラ開催の右翼の動機なのだ。金を目当てのおぞましさもさることながら、ナショナリズム高揚目的は、さらに禍々しい。
こんな連中の思惑で危険なオリンピックをやらせてはならない。おぞましいTOKYO2020の「聖火を消せ!」と声を上げ続けよう。
(2021年7月20日)
東京五輪が、目も当てられぬぐちゃぐちゃの事態である。国民の過半が開会に反対し中止を求めている。これほど、開催国民から愛されず、期待されず、不人気で、中止せよと言われ続けたオリンピックは、過去に例を見ないだろう。おそらくは今後の五輪のあり方を変えるきっかけとなるだろう。
まずはコロナの蔓延である。本日の東京都内での新たな感染者数は1387人。火曜日としては過去最多人数という。先週火曜日の830人から、557人の増。率にすると67%のアップである。これは恐ろしいことになってきた。第5波は、第4波を遙かに凌駕する規模のものとして到来しているのだ。その重大なときに、ワクチンの供給もヨレヨレになっている。菅・河野の無責任な弁明が虚しく不安は募るばかり。そして、コロナに加えて、なんという不愉快な今日の暑さだ。こんなときに大規模運動会を予定したことは正気の沙汰ではない。
次々とバブルの穴が報告される。オリンピック出場のために来日した選手の逃亡が報じられている。国立競技場は強姦の舞台となった。得意げに自分のイジメ体験を吹聴していた異常者が開会式の楽曲を担当していたことが明らかになった。それでも、バッハや菅にも小池にも、危機意識が見えない。
本日の毎日新聞社会面トップの見出しの中に、『この大会呪われている』という言葉が踊る。一瞬そうかも知れないと誰でも思う。コロナに見舞われただけでなく、数々の不祥事の出来で、汚れてぐちゃぐちゃなのだ。
毎日の見出しは、正確には「小山田氏辞任 『この大会呪われている』 五輪組織委関係者嘆く」というもの。
私は、不明にして小山田圭吾を知らない。その辞任のインパクトの大きさはさっぱり分からないが、報道された彼が自ら吹聴する障害者の同級生2人に対する「イジメ」の凄惨さには唖然とするしかない。人が人にそこまで非道なことができるとは信じられないほどの悪行。人非人の所業といってもよい。このような明らかな犯罪行為が学校で行われ、処罰もされずに放置されてきたこと、それを加害者側が得意げにしゃべり、それを記事にする業界誌もあることが信じがたく、慄然とせざるを得ない。
この小山田イジメ記事は業界ではかなり知られたことだったという。小山田と接触した組織委の担当者も、業界には詳しかろうから、知っていたのではないか。あるいは少し調べれば分かること。こんな連中を集めてオリンピックをやっているのだ。
組織委関係者は毎日の記者に、「人間として許しがたく辞任は仕方ない。開幕直前までいろいろなことが起き、本当にこの大会は呪われている」と嘆いて見せた。しかし、そうではあるまい。おそらくは、東京五輪に群がっている連中が薄汚く、劣化しているのだ。
このぐちゃぐちゃのルーツは、安倍晋三の「フクシマは完全にアンダーコントロール」というウソの招致演説にある。その後に、竹田恒和(JOC会長)の2億円賄賂疑惑の発覚もあった。この二人だけでない。競技場デザイン問題もあり、エンブレム問題もあった。電通も、森喜朗も、佐々木宏も、そして小山田も、社会の劣化を象徴する人物なのだ。
薄汚くてぐちゃぐちゃな五輪に近づくと企業イメージが傷付く。「最高位スポンサー」というトヨタが、そう考えてオリンピックと距離を置く方針に踏み切った。五輪を利用したコマーシャルは一切打たず開会式にも出席しないという。これに、同じく最高位スポンサーであるパナソニックが続いた。同社も開会式には出席しないと発表した。「最高位」ではないがこれに次ぐ地位にあるというスポンサー企業では、NTT、NEC、富士通も開会式出席はないという。これは主催者側の大きな痛手だろう。東京五輪は、閉会後に巨大な負のレガシーを残すことになるだろうが、既に開会前からしっかりと負のイメージを焼きつけているのだ。
一方、その不人気の開会式に、天皇(徳仁)が出席し、開会を宣言することがきまったと報じられている。この出席の是非についての本人の意思はない。内閣の指示に従うだけの存在。自分のイメージにどう影響するかの考慮も、それ故の選択も一切許されない。それが彼の立場である。彼が日本の元首であるはずはないにせよ。
なお昨日、上野千鶴子や元駐仏大使の飯村豊らが、東京オリパラの中止を求める要望書と13万9576人分の署名を都や組織委に提出したことが報じられている。要望書では、大会を契機としてコロの爆発的な感染が懸念されるとして「危険なイベントを即刻中止するよう求める」というもの。
都庁で開いた記者会見で上野はこう言ったという。
「多くの人が中止を求めている中で、強行開催するのは正気の沙汰ではない。最後まで中止を訴えていく」
私もあきらめず、最後まで東京五輪中止を訴えていきたい。
(2021年7月19日)
昔学生時代に復帰前の沖縄に1か月余の滞在をしたことがある。そのとき、特別なニュアンスで「異民族支配」という言葉を何度も聞かされた。「日の丸」が、復帰運動のシンボルだった時代の話である。
ナショナリズムとは、思想でもイデオロギーでもない。おそらくは信仰に近い感情的な精神現象であろう。私自身は、そのナショナリズムの呪縛から比較的自由な立場にあると思っていたが、当時の沖縄の人が口にする「異民族支配」という言葉の忌まわしさには共感せざるを得なかった。
異民族支配においては、支配権力の正統性の根拠が被治者の同意や支持に無関係に成立している。だから支配者は被治者の利益に無関心でいられる。被治者多数の批判の声がなかなかに支配者の耳に届かない。そこから、「異民族支配」という言葉の忌まわしさが生まれる。
私の古い記憶の地層の底にある、その忌まわしさを今思い出している。IOC会長トーマス・バッハの言動に接して、である。そして、バッハをのさばらせている我が国の首相や都知事の不甲斐なさに接して、でもある。こいつ、本当に嫌な奴だ、こいつら本当に情けない奴らだ、と思わざるを得ない。
既に、オリンピックのイメージは泥にまみれ、IOCの権威も地に落ちた。バッハという人物を知らないうちはなんの批判もなかったが、この「ぼったくり男爵」の独善ぶり、高慢さがよく分かってきた。それにしても、なにゆえにこんなときに愚かな五輪の強行かと、腹が立ってならない。この人の発言の度に、「異民族支配」の忌まわしさが甦る。
「(緊急事態宣言は)東京オリンピックとは関係ない」(4月21日)、「我々はいくつかの犠牲を払わなければならない」(5月22日)、「国内の感染状況が改善した場合は観客を入れての開催を」(7月14日)、そして「日本の方は大会が始まれば歓迎してくれると思う。アスリートを温かく歓迎し、応援してください」(7月18日)というノーテンキな軽忽さ。日本国民の怒りの空気の読めなさは、天性の傲慢の故なのか、それとも生来の遅鈍のゆえなのだろうか。
昨日(7月18日)の報道では、バッハは記者団に「安全な五輪開催に自信」と述べたという。そして、話題になったのは、「五輪関係者の感染は0・1%」という安全・安心の根拠だ。
国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長は17日、東京で行われた理事会後に記者会見を開き、23日に開幕する東京オリンピック(五輪)が安全・安心に実施できるとあらためて自信を示した。マスク姿で会場に現れたバッハ会長は、根拠として大会組織委員会からの報告データを持ち出した。
「7月1日から16日までに入国した選手や関係者は約1万5千人で、新型コロナウイルス感染が確認されたのは15人。0・1%と低い確率だ。これを見れば対策は整っているし、機能している」
この「1万5千人の母集団からの感染者15人、率にして0・1%」は、決して低い数値ではない。むしろ、既に許容されざるリスクが顕在化した危険な値なのだ。おそらくは、組織委員会の担当者はこの数値の高さに困惑したに違いない。が、ものの分からない異民族支配者は、この数値を安全・安心の根拠とした。
政府の分科会は、感染状況の深刻度の最も分かり易い指標として、「直近1週間の人口10万人あたりの感染者数」を設定して、毎日国民に報告している。
バッハが最近1週間の感染者数を発表してくれれば、比較は容易なのだがそうはさせてくれない。我々は大本営発表の数値しか与えられていないが、結論としての0・1%は、10万人当たりとすると100人である。これは本格的な選手団来日以前の感染者数(率)として驚くべき数値なのだ。
分科会指標を、「7月1日から16日までに入国した選手や関係者約1万5千人のうち、新型コロナウイルス感染が確認されたのは15人」に当てはめてみよう。「7月1日から16日までに、毎日傾斜的に増加して入国した選手や関係者数の累計が1万5千人だから、この間の平均人数を7500人と仮定する。「7月1日から16日まで」を、ほぼ2週間とすれば、7500人の母集団から、一週間では7.5人の感染者を出したことになる。これを10万人当たりに換算すれば、
7.5人×10万人÷0.75万人=100人となる。
周知のとおり、この数値が「25人以上」になると、感染状況が最も深刻な「ステージ4」となる。また、「15人以上」が感染者が急増している段階である「ステージ3」に相当することになる。
16日を2週間としたことに対する批判を容れて修正すれば、
100人÷16日×14日=88人
となって大差はない。
昨日(7月18日)の都道府県別でのこの指標でのレベル4に達しているのは1都2県。最高値は、東京都の53.7人である。来日オリンピック関係者群は、その倍近い濃密な感染者集団なのだ。
なお、バブル方式とは、バブルの内側は徹底してクリーンであることを当然の前提として、バブルの外部からのバブル内部へのウィルス侵入を防いで、バブル内部のクリーンを保持しようとするコンセプトに基づくものである。ところが、既にバブルの内側が外よりも遙かに深刻な汚染状態にあることが明らかになったのである。既に、内外を遮蔽するバブルの存在は、まったく意味をなさない。選手村は、巨大なダイヤモンド・プリンセス号となっているのだ。
しかも、今後、この感染状況はさらに急激に深刻化することが予想されている。バッハによる異民族支配のリスクが、さらに顕在化しつつあるのだ。
(2021年7月18日)
小堀桂一郎という人物がいる。ドイツ文学者で東京大学名誉教授だそうだが、専門分野の業績についてはよく知らない。世に知られているのは、右翼言論人としてである。ウィキペディアには、「歴史教科書問題などが顕在化した1980年代初頭より歴史認識問題などへの発言を開始し、著名な保守系の論客となる。」と記されている。なるほど、右翼と言わずに保守系か。そして、ふーん、「論客」なんだこの人。
私の印象は、恐ろしくもったいぶった古めかしい文体で無内容なことを断定的に書く人というところ。自分は、こんな虚仮威しの文章を書く人にはなりたくないという、反面教師のおひとりである。
ところで、何を切っ掛けにいつからだったかはもう忘れたが、「産経ニュースメールマガジン」が、私にも毎日配信されている。その7月9日号のコラム「正論」欄に、小堀桂一郎の「政教分離原則の根本的再検討を」という一文が紹介されている。《「孔子廟訴訟」の違憲判決》を機に、「右翼の論客が政教分離原則の根本的再検討を論じる」という触れこみなのだから、興味をそそるではないか。
しかし、これが見かけ倒し。いかにも右翼の文体という、おっそろしく古風な筆致で、内容には何の説得力もない。まず、批判のマナーとして、できるだけ正確に、「小堀論文」を引用して、私の感想を述べておきたい。
《まつりごとの意味は》
この慶事(日本人の宗教心の起源が縄文時代の文明の内にある事を普通教育の教科書【自由社版】が明記したことー澤藤註)の背景には言ふまでもなく近年の考古学的遺跡発掘の包括的且(か)つ精密な学術情報の整理、出土品に対する形態学上の解釈の進歩、人類学の視点からしての形態意味解明の驚くべき成功の実績がある。其等に依(よ)れば、集落の住居址の発掘からは縄文時代人が既に立派な葬送と祖霊崇拝の文化を有してゐた事が判明した。
又、先史時代の物的資料として学界の研究対象となつて以来130年余り、その作因も用途も不明だつた奇怪な形状の土偶が、実は食用植物や漁撈(ぎよろう)の収穫たる魚介類を模して作られた一種の祭具であるとの明快な説明も為(な)された(竹倉史人『土偶を読む』)。
最近の学説の更なる紹介は紙面の制約上できないが、結論のみを言へば、縄文文化は現代の我々と同じ日本人の歴史のうちであり、その時代に我々の先祖は自然の恵みへの感謝と自己の現存在の原因としての祖先の崇拝といふ「宗教」を有してゐた。そこで人々の営む祭(まつり)は現代の祈年祭や新嘗祭(にいなめさい)の前身であつた。
その祭を行ふ祭祀共同体が村落の、そしてその集合が国家の起源であり、成員を世界観の上で統合し、相互に和合せしめる作業がまつりごとであつた。
日本人の宗教心と実生活に於けるその発現様式である祭祀には、以上の如く約5千年の沿革がある。一方西洋近世に於ける国家と教会の覇権争ひの妥協の所産たる政教分離の思想が輸入され、法制に位置を占めた歴史は漸(ようや)く70年余である。此(こ)の事実を念頭に置いて考へてみれば、宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。
この冗長な文章の趣旨は、「宗教性の存否を法的に問ふ事の非は自明であらう。」という一文に尽きる。舌足らずで分かりにくいこの一文に少し言葉を補えば、「伝統的な日本の祭祀を対象として、欧米流の政教分離原則にいう宗教性の存否を、法的に問い、あるいは裁いてはならない」ということ。結局、日本の祭祀を、政教分離原則(憲法20条)という規範で裁くことを拒否しているのだ。
その結論は何とか読み取れるのだが、「自明」とまでいうその理由ないし根拠はさっぱり分からない。「祭祀には約5千年の沿革がある。一方政教分離が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余(に過ぎない)」という一文だけが《理由》としか読みようがない。これは、恐るべき没論理というにとどまらない、恐るべき法の支配への無理解であり、立憲主義への挑戦でもある。さすがに、右翼言論人の論客の論説。
没論理は一見自明である。小堀は、こうも言うのであろうか。
「男女の不平等には日本開闢以来の沿革がある。一方欧米の両性の平等が法制に位置を占めた歴史は漸く70年余に過ぎないから、性による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
「身分制の秩序と身分差別は、人類が権力構造をつくって以来の長い々い沿革がある。一方社会の成員の平等を謳った法制は市民革命後の短い歴史しかもたない。それゆえ、身分による差別を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
「人類は、発祥以来戦争を重ねてきた。戦争の歴史は人類の歴史といっても過言ではない。一方、国際法が戦争を違法化し、一部の国内法がこれに続いたのは、せいぜい最近100年のことに過ぎない。それゆえ、戦争や戦争犯罪を法的に問ふ事の非は自明であらう。」
法的な規制は、それまでは見過ごされてきた弊害を伴う慣行や社会的事象を看過しがたいとして立法化される。法的規制の理念が、規制対象の社会的事実よりも歴史が浅いのは、事理の当然である。日本国憲法における政教分離原則は、戦前に猖獗を極めた天皇教(=国家神道、天皇とその祖先神を神聖とする信仰とこれを利用した国家の癒着体制)の害悪を廃絶するとともに、再び天皇教が復活することを予防する制度的な歯止めである。飽くまで、政教分離は厳格でなくてはならない。
これを小堀は、「祭祀には約5千年の沿革がある。裁判所はその宗教性の有無の判断をしてはならない」というのだ。小堀流論説は、政教分離原則の全面否定である。要するにこの人、日本人の祭祀を憲法で裁かせたくはないのだ。この人の頭の中には、縄文以来の祭祀こそが日本人の精神の神髄であり、村落共同体と天皇制国家の起源であるという凝り固まった考えがある。この神聖な祭祀を日本国憲法ごときに裁かせてはならないというのだ。
これは明らかに、小堀桂一郎流の、憲法無効宣言であり、憲法破壊宣言にほかならない。なるほど、「著名な保守系の論客」なればこその論説である。