官房長官の山本庸幸氏発言批判は的外れだ
前内閣法制局長官山本庸幸氏の最高裁判事就任記者会見での発言。「集団的自衛権の行使は解釈の変更では困難」と言ってのけたのだから、安倍政権の思惑を真っ向否定した内容。当然のこととしてインパクトがすこぶる大きい。その影響を無視し得ないとして、政権がこれに噛みついた。最高裁判事の憲法解釈に踏み込んだ記者会見発言も異例だが、菅官房長の最高裁判事発言への批判は、さらに輪を掛けた異例中の異例。内閣の司法権独立への配慮がたりないと攻撃を招きかねない。それほどの、政権の焦りと、思惑外れの悔しさが滲み出ている。
朝日の報道が、「最高裁判事が集団的自衛権の行使容認には憲法改正が必要だとの認識を示したことについて、菅義偉官房長官は21日の記者会見で『最高裁判事は合憲性の最終判断を行う人だ。公の場で憲法改正の必要性まで言及することは極めて違和感を感じる』と批判した」というもの。
毎日によれば、菅発言は『合憲性の最終判断を行う最高裁判事が公の場で憲法改正の必要性にまで言及したことに非常に違和感を感じる』というもの。
各紙とも、この発言を「政府高官が最高裁判事の発言を批判するのは極めて異例」と評している。
安倍内閣としては、波風立てぬようにうまい手口を考えたつもりであったろう。
例の麻生流「ナチスに学べ」の手口。ある日だれも気づかないうちに、さりげなく長官が代わって解釈が変わり、実質的に憲法を変えてしまおうという学ぶべき手口の実践。山本氏を最高裁に「栄転」させて、その後釜に自分の言うことを聞く小松氏をもってくる。しかも、山本氏の前任最高裁判事が外務省出身の竹内氏なのだから、収まりがよい。最高裁も外務省も文句なく、よもや山本氏に不満のあろうはずはない。そう読んだのが、とんでもない読み間違い。
一寸の虫にも五分の魂、「栄転」の官僚にも五尺の魂があったのだ。いや、山本氏個人の魂を読み間違えたのにとどまらない。これまで営々と憲法解釈を積み上げてきた内閣法制局全体の矜持を読み間違えたのだ。阪田雅裕元内閣法制局長官が、朝日のインタビューで「法制局は首相の意向に沿って新たな解釈を考えざるを得ないのでは?」と問われて、「そうですね。僕らも歴代内閣も全否定される」と答えている。「全否定されてはたまらん」という悲鳴が聞こえる。法制局だけではない、歴代内閣も同様ではないか。
ところで、官房長官の『公の場で憲法改正の必要性まで言及することは極めて違和感を感じる』との発言。大きく的を外した批判と指摘せざるを得ない。
山本発言は、集団的自衛権の容認は、「解釈改憲では非常に難しい」ことが主たるメッセージ。そのうえで、集団的自衛権容認を実現する手法としては「憲法改正が適切」と言ったのだ。発言の趣旨が「解釈改憲では非常に難しい」にあって、「憲法改正が適切」にはないことは、文脈から明らかである。
官房長官の本音が、「解釈改憲では非常に難しい」の側への批判にあったことは明白だが、そうは言えなかった。いうべき理屈が立たないからだ。だから、「憲法改正が適切」の方に噛みついた。「最高裁判事は合憲性の最終判断を行う人。その立場の人が憲法改正の必要性まで言及することは不適切」という理屈をこじつけてのこと。
しかし、「極めて違和感を感じる」のは、菅官房長官のこんな発言を聞かされる国民の側だ。山本氏は、「憲法改正が必要」とは語っていないではないか。解釈改憲ではできないことだから、やるんなら解釈の変更ではなく、正々堂々と真正面から憲法改正手続を踏むしかない、と言っているに過ぎない。官房長官発言は、要するに、政権としての不快感を示しておくということで、理屈の通った批判ではない。
注目すべきは、連立政権のパートナー公明党の代表が、敢えてこの件に言及したことである。目をつぶってもいられる官房長官発言に敢えて異をとなえて、山本氏の擁護にまわったことの意味は大きい。いま、山本氏擁護の風が吹いているという読みがあるということなのだから。
日経報道では、「公明代表、山本判事を擁護 『ギリギリ許される発言』」との見出しで、「公明党の山口那津男代表は22日午前の記者会見で、前内閣法制局長官の山本庸幸最高裁判事が集団的自衛権の行使容認には憲法解釈変更でなく憲法改正が適切との認識を示したことについて『立場上ギリギリ許される発言だ』と擁護した。集団的自衛権の行使容認に向けた議論に関しては『抽象的に個別的自衛権、集団的自衛権と言われてもなかなか理解しにくい』と指摘した」とのこと。
明らかに、法制局長官のクビのすげ替えによる集団的自衛権行使容認の姑息な手口は、その手口の汚さで、政権の孤立化を招きつつある。少なくとも、この件については、既に潮目は変わっている。
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『兵士たちの戦後史』(吉田裕)より〔4〕 伊藤桂一の「戦記もの」
「兵士たちの戦後史」は「兵士たちが語る戦争」にたくさんのページを割いている。その中で、「戦記もの」ブームの代表的な作家・伊藤桂一が取り上げられている。
週刊新潮に連載された「悲しき戦記」は伊藤と同じように兵士としての従軍体験をもつたくさんの読者を獲得した。吉田は、伊藤の「戦記小説」が大きな共感を呼んだ理由を次のように整理して、よく読まれた理由を明快に述べている。
第一に、歴史の中に埋もれ忘れ去られようとしている兵士の戦争体験を記録し代弁しようとした誠実な姿勢。第二に死んでいった戦友の「顕彰」ではなく「鎮魂」の姿勢。伊藤の場合、軍隊上層部に対する痛烈な批判が、むなしく死んでいった同胞を弔い、追悼することになっている。第三に、苛烈な戦闘ではなく、戦場の日常、兵隊の暮らしを書いたこと。第四に、軍隊組織の非合理性、戦場の過酷で凄惨な現実はテーマにしなかったこと。伊藤の「小説」には戦争犯罪に関わる事柄はことさらに省かれている。「書き手」の伊藤と、「読み手」である元兵士との間の「暗黙の了解」において、共犯関係が成り立っている。
伊藤自身の軍隊に対する姿勢は「兵隊たちの陸軍史」(番町書房刊)のはじめに、「昭和二十年八月十五日の印象ー序に代えて」に次のように述べられている。
「軍隊からの開放感に歓喜しつつ酔った・・軍隊という、不合理な組織全体への反感である。もっともこれは、軍隊からいえば逆に私は歓迎されざる兵隊であり、従って甚だ進級が遅れていた。軍隊に嫌われたのは初年兵時代における私の抵抗のせいであり、その祟りが、終戦時まで尾を引いたのである。・・六年六カ月にわたる下積みの意識があり、それを不当な待遇とする怒りがあり、敗戦によって軍隊の瓦解したことは、軍隊に怨みを果たしたような思いもあったのである。」「下積みだが、やるだけのことはやってきた。という自身への誇りは、私にも、他の古参兵なみにあったのである。そして同時に、むやみに威張り散らすだけの将校に対する反感も、多くの古参兵なみにあった。だから軍が崩壊し、当然この階級差も崩壊してしまったのを見ると、内心快哉を叫ばずにはいられなかったのである。実をいえば六年六カ月の間、兵隊としての私は、敵ーである中国軍と戦った、という意識より、味方ーである日本軍の階級差と戦ってきたのだ、という意識の方がはるかに強かった。陰湿にして不当な権力主義に、古参兵がいかに悩まされたかは、五年か六年隊務についた者は身にしみてわかっているはずである。・・終戦の直前、私たちの部隊は、歴然と二つの生き方に分けられていた。一つは寸暇も惜しんで陣地構築をしている兵隊たち、他の一つは、寸暇を惜しんで宴会の楽しみに耽っている部隊長と上層部将校たちーである。・・わたしにしても、そのことに抗議しようと考えたわけではなく、またそれの出来る筋合いのものでもなかった。しかし一つだけ考えたのは、この土地でこの部隊長の命令によっては絶対に死なないぞ、ということであった。」
その伊藤のインタビュー記事が今年8月11日付け東京新聞「あの人に迫る」に出た。68年前のキリギリス鳴きしきる真夏の草原で、敗戦をきいて呆然と立ち尽くす、自分の姿を見ているような目つきの、95歳の老人の写真が載っていた。その昔、心ならずも戦争に行かなければならなかった元兵士の老人は、なにかちょっと恥ずかしそうに、しかし、言うべきことは言っておきたいとインタビューに答えた。
「戦記作家になったきっかけは」という問いに「終戦直後に海外から復員した兵士への世間の目は冷たかった。出兵するときは『お国のために頑張って』と多くの人に温かく見送られた兵士たちも、敗戦後は『負けた上に、生きて帰ってきて』と陰口を言われるようなことも多く、元兵士たちの肩身は狭かった。戦争を美化するつもりはないが、兵士たちが国や家族を思い、一生懸命に戦った記録を残そうと思った。」と答えている。
次の問答が続く。
「憲法改正の動きがあります」「現行の憲法は平和国家を提唱する最良の規範だ。・・国民が無関心なのに空気や流れだけで改憲の動きが加速している気がする。とても危険だと思う。」
「今の日本をどう見ますか」「兵隊たちの犠牲と、無謀な作戦でそれを強いた指導者たちの無責任、この関係は、いたるところで今の日本にも見られる。・・日本が変わらないのは、戦後あの戦争について真面目に考えなかったからだ。・・経済発展が優先されすぎた。南京事件や従軍慰安婦の問題が今も解決できないまま国際問題になっているのも、日本政府が戦後すぐに戦争の実態の検証を怠った結果だと思う。・・福島第一原発の事故でも、広島や長崎の原爆被害を経験している中で、なぜ原発を建設したのか。・・復興への歩を進めながら、時には立ち止まり、じっくり過去を反省する時間が必要だ」「残り少ない戦中世代の人たちに『いつ死んでも心残りの無いように自身の戦場での経験を若い人に語り伝えてほしい』と言いたい。それが私たちの責任でもあり、使命でもある。」
「戦記もの」には語られなかった、「暗く凄惨な戦闘の現実」に向き合う本格的な戦争記録、戦争作品は1980年代になると現れた。森村誠一と下里正樹は「悪魔の飽食」で、関東軍細菌戦部隊・731部隊の存在を広く世間に知らしめた。本多勝一は「南京への道」(1987年) 、「天皇の軍隊」(1991年)で日中戦争時の日本軍の残虐行為を語って、侵略戦争の実態を暴いた。
森村も本多も兵役の経験がない世代。読者との「暗黙の共犯関係」を意識することがなかったのだ。それだけに、彼らへの攻撃は激しく、森村誠一は外出時には防弾チョッキを着用し、本多勝一はサングラスとカツラを着けなければならない事態となった。真実の暴露を嫌う大きな力が牙をむきだしたのである。はからずものことだが、これらの戦争の本質を語った著作は、その著作の内容においてだけではなく、その著作が社会に及ぼした影響においても、戦争の本質を暴いたのだ。
(2013年8月22日)