「建国記念の日」に、天皇制との対峙をあらためて確認する。
以下は産経の記事。
安倍晋三首相は8日、平成最後の「建国記念の日」を11日に迎えるにあたり「平成のその先の時代に向かって、私たちの子や孫の世代のために、今後も努力を重ね、よりよい未来を切り拓(ひら)いていく」とのメッセージを発表した。
産経よ。「平成最後の」は、無意味・無内容、余りに陳腐。能がないし、聞き飽きた。聞き苦しくもある。いい加減にやめていただきたい。
「平成のその先の時代」もそろそろ陳腐。「これから先の時代」ではない、「平成のその先の時代」。過去のことなら、遡って元号表記ができるのだが、「平成のその先」は元号で言えない辛さが滲み出ている。
「私たちの子や孫の世代のために、今後も努力を重ね、よりよい未来を切り拓いていく」というメッセージは、具体性に欠けるとは言え意味のないものではない。しかし、わざわざ、2月11日という「右翼の聖なる日」を選んで、この男が言うと、格別の意味を感じざるを得ない。言葉とはそういうものだ。
首相は「伝統を守りながら、同時に変化をおそれず、困難な課題に対しても果敢に挑み、乗り越えていく。平成の時代においても私たちはそうした努力を積み重ねてきた」と振り返った。「先人の努力に感謝し、さらなる日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望する」とも述べた。
ここで言う「私たち」って誰のこと? アベさん、あなたは「戦前以来一貫した保守の利益誘導政治の伝統を守りながら、同時に新自由主義への変化をおそれず、専守防衛の国是を打ち破る困難な課題に対しても果敢に挑み、辺野古の美ら海を埋め立てて乗り越えようとしている。平成の時代において、私は、そうした国政私物化の努力を積み重ねてきた」というべきでしょう。
ついでに、本日(2月11日)の産経社説に目を通して見よう。何という右翼論調丸出しの、大新聞にあるまじきアナクロニズム。あたかも、新興宗教「平成天皇教」の趣き。いや「天皇宗産経派」であろうか。
《【主張】建国記念の日 国家の存続喜び祝う日に》という表題。
御代(みよ)替わりという特別な年の、建国記念の日を迎えた。
間もなく皇太子殿下が第126代の天皇に即位される。初代神武天皇が即位したとされる日を新暦に直して明治の初めに定められた祝日が、2月11日だった。もとは紀元節といった。
なんという悠久の歴史を持った国に私たちは生きていることか。驚くべき、また感謝すべきことと、改めて感嘆せずにはいられない。
歴代天皇とともに国家として続いてきたわが国の歴史をこそ、この日に思いたい。世界にもまれな国柄を誇りとしたい。建国を記念するとは、わが国の成り立ちをしのび、国家として存続していることを国民がこぞって喜び祝うことであろう。
この日は戦後の長い間、不当に扱われた。…2月11日はGHQに認められなかった。日本が独立を回復してからも、この日はしばらく祝日として復活しなかった。建国神話を皇国史観や戦争と結びつけ、それを祝うことは軍国主義の復活である、などとして反対する勢力が、国内で強くなってしまった。
昭和41年にようやく祝日法が改正され建国記念の日ができたが、怒号ともみ合いの国会だった。建国神話を忌避するような風潮はその後も残った。この祝日に反対する声は残念ながら今でもある。
しかし、このような風潮は大きな間違いである。神話であれ史実であれ、建国の物語はどの国にもあってしかるべきものだ。それは国民を結びつける太い軸となるはずのものである。
その物語を自ら否定することは、自分の国を否定することに等しい。それこそ戦後の自虐史観にほかならない。このような歴史観はいい加減に断ち切りたい。日本の安全保障への脅威が増す中、自分の国を愛せなければ国を守るという意識が高まるはずもない。
祝日法で建国記念の日は「建国をしのび、国を愛する心を養う」とされている。連綿と続く歴史を思い、この素晴らしい国を心の底からいとおしみたい。
何と、愚かな「主張」だろうか。よくぞ素面で、臆面もなく、こんなことが言えたものだ。産経教信者には、日本とは天皇の国ということなのだ。というよりは、そう理解したいのだ。これはまさしく信仰の世界。その信仰においては、建国とは天皇制の成立と同義になる。「建国をしのび」とは、「天皇制の成立に思いを馳せ」ということであり、「国を愛する」とは、天皇に恭順することにほかならない。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日に、産経が「国家の存続喜び祝う日に」という社説を掲載するのは、「天皇制の成立に思いを馳せ、天皇に恭順する心を養うべき今日の良き日を、天皇制の存続を喜び祝う日としよう。天皇あればこそのこの素晴らしい国なのだから」という呼びかけである。
日本も日本国も、天皇のものではない。歴史的に日本に住む多くの人々は、天皇を意識せずに暮らしてきた。産経流の天皇崇拝は維新政府が国民統治のために作り出したものではないか。昔から、神武東征という話をおかしいと思っていた。神武(カムヤマトイワレビコ)は、苦労して賊を平らげつつ橿原神宮にまで至る。ナガスネヒコ以下、どうして賊なのか、どうして討たれなければならないのかが分からない。神武こそ、暴虐な侵略者ではないか。
先日の赤旗文化欄に、久保田貢さん(愛知県立大学・教育学)が、「建国記念の日を考える」の論説を寄稿していた。タイトルが、「天皇崇拝と軍国主義動員」「赤紙うんだ元祖フェイク」というもの。建国記念の日を、「元祖フェイク」と言っている。なるほど、そのとおりだ。建国神話をフェイクというのではない。どこの民族ももっている建国神話を19世紀に引っ張り出して20世紀半ばまで、史実として教えたことが、「元祖フェイク」なのだ。もちろん、元祖に続いて「天皇制関連フェイク」が目白押しなのだ。敗戦に至るまで、学校教育は「天皇制関連フェイク」の洪水であった。そのフェイク後遺症から抜けきることのできない、愚かな人もまだいる。たとえば、アベ晋三とか。産経とか。
こんな、産経流の愚かな新興天皇教を再び流行らせてはならない。国をどうとらえ、どう評価するかは、自分で決める。国家に押しつられてたまるものか。ましてや、アベや産経ごときに。
(2019年2月11日)