権力者は軽々に「象を撃っ」てはならない。民衆は撃たせてはならない。
(2021年1月9日)
本日の毎日新聞朝刊「時の在りか」に、伊藤智永の「象を撃つ政治指導者たち」という記事。達者な筆で読ませる。
https://mainichi.jp/articles/20210109/ddm/005/070/007000c
「象を撃つ」は、作家ジョージ・オーウェルの23歳での体験だという。ビルマという英国植民地の警察官であった彼は、民衆に対して権力者として振る舞うべき立場に立たされる。
銃を手にした彼は2000人もの群衆の眼を背に意識しつつ、逃げた象と対峙する。一人のインド人を殺した象ではあったが、既に凶暴性はなかった。撃つ必要はなく、撃ちたくもなかった。伊藤の文章を引用すれば、
「あの時、どうすべきだったのだろう。オーウェルは書いている。「私にははっきりと分かっていた。近づいてみて襲ってきたら撃てばいいし、気にもかけないようなら象使いが帰ってくるまで放っておいても大丈夫だと」。でも、そうしなかった。できなかった。撃て。そう群衆が無言で命じるのを背中が聞いたからだ。民衆と権力者のその手のやり取りに言葉は要らない。」
こうして、権力者が、群衆の無言の命令のもと、群衆に迎合した無用の行動に走ることになる。その行動が「象を撃つ」であり、人種や民族の差別であり、侵略戦争でもある。「象を撃つ」は、民衆を支配しているはずの権力者が、民衆の願望に支配される、逆説の一面の象徴となる。伊藤は続ける。
「「議事堂へ行くぞ」。トランプ米大統領は、象を撃った。象は倒れたか。撃った弾数は今、何発目だろう。いや、すでに群衆は、まだ生きている象の肉を一部そいでいる。これはディストピア小説ではない。」
トランプは、自分の支持者を煽動し支配しているつもりで、実は支持者たちの過剰な期待に応えねばならない苦しい立場に立たされたのだ。「議事堂へ行くぞ」「議事を阻止せよ」と、強がりを言わざるを得ない立場に追い込まれた。こうして、トランプは撃ちたくもない「象を撃った」。トランプが撃った象とは、民主主義という巨像である。幸い、まだ、撃たれた象は致命傷には至っていない。
トランプの心境は、オーエルが綴っている、以下のとおりであったろう。
「象は静かに草をはんでいた。一目で撃つ必要はないと確信したが、いつの間にか2000人を超えた群衆は、暗い期待で興奮している。撃ちたくなかった。だが、白人は植民地で現地民を前におじけづいてはならない。撃つしかなかった。」
もちろん、この事態は、今のアメリカだけのことではない。伊藤はこう言う。
「日本にもよそ事ではない。敗戦した神国ニッポンの軍国体制、ウソを重ねて恥じない指導者をウソと知りつつ支持し続けた国民、コロナ時代の「自粛警察」に表れた相互監視にいそしむ黒々した庶民心理。どれも立派に「オーウェル的」である。」
《神国ニッポンの軍国体制》の構造は分かり易い。天皇制権力が臣民を欺いて煽動する。煽動された臣民が、本気になって「神国ニッポン」という妄想を膨らませて政府の弱腰を非難し始める。こうなると、政府は臣民をコントロールできなくなって、やみくもに「象を撃ち」始めたのだ。こうして始まった戦争は、敗戦にまで至ることになる。
《ウソを重ねて恥じない指導者と、ウソと知りつつこれを支持し続けた国民》の関係はやや分かりにくい。安倍晋三という稀代のウソつきが総理大臣になって、ウソとゴマカシで固めた政治を強行した。ところが、少なからぬ国民がこのウソつきを許容した。「株さえ上がればよい政治」という人々の責任は重い。ウソつきと知りながら、そのウソに目をつむったまま、ウソつき政治家を抱えていると、ウソつき政治家は、自分の背中を見つめる民衆の目を誤解して、間違った方向に「象を撃ち」始める。こうして、安倍晋三政権は、いくつもの負のレジームを残した。
さて、背に受けた群衆の無言の圧力に負けて発砲する指導者では困るのだ。必要なのは、象使いが到着するまで群衆の興奮を静めるだけの力量を持った政治指導者である。民衆の信頼獲得しており、民衆との誠実な対話の能力が備わっていなければならない。安倍や菅のように、質疑とは論点をずらしてはぐらかすこと固く信じている輩は、明らかに失格なのだ。