澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「『違憲』が独り歩きしては困る」という産経「主張」の煩悶

(2021年2月25日)
昨日(2月24日)の最高裁大法廷判決。「那覇市・孔子廟事件」で、政教分離に関するやや厳格な判断が積み上げられた。

那覇市の公園の一角に「孔子廟」がある。市は、相当の使用料月額48万円の全額を免除していた。判決は、この那覇市の無償提供を「違憲」と判断したもの。最高裁による政教分離の「厳格な」判断として評価し、歓迎したい。

もっとも、この住民訴訟の原告となったのは、那覇の「右翼オバサン」である。弁護団も明白な右寄り人脈。本来、政教分離規定はリベラル・人権派、ないしは天皇制に弾圧された宗教者にとっての金科玉条。右翼が政教分離の旗を掲げての訴訟には、大きな違和感を禁じえない。どのような思惑で提訴に至ったのか理解し難いところは残る。それでも、誰が原告であろうとも、政教分離の「厳格な」判断を歓迎すべきことに変わりはない。

政教分離とは何か。今朝の毎日新聞社説は、こう言う。

「憲法の政教分離の規定は、戦前に国家と神道が結びついて軍国主義に利用され、戦争に突き進んだ反省に基づいて設けられた。」

沖縄タイムス社説はもう少し踏み込んで、説明している。

「かつて(日本は)国家神道を精神的支柱にして戦争への道を突き進んだ。政教分離の原則は、多大な犠牲をもたらした戦前の深い反省に立脚し、つくられたのだ。」

政教分離の「政」とは国家、あるいは公権力を指す。「教」とは宗教のこと。国家と宗教は、互いに利用しようと相寄る衝動を内在するが、癒着させてはならない。厳格に高く厚い壁で分離されなくてはならない。

この原則を日本国憲法に書き込んだのは、戦前に《国家と神道》が結びついて《国家神道》たるものが形成され、これが軍国主義の精神的支柱になって、日本を破滅に追い込んだ悲惨な歴史を経験したからである。国家神道の復活を許してはならない。これが、政教分離の本旨である。

《国家神道》とは、今の世にややイメージしにくい言葉となっている。平たく、『天皇教』と表現した方が分かり易い。天皇の祖先を神として崇拝し、当代の天皇を現人神とも祖先神の祭司ともするのが、明治以来の新興宗教・天皇教である。

天皇の祖先を神と崇め、その神のご託宣によって、この日本を天皇が統治する正当性の根拠とする荒唐無稽の政治的宗教。睦仁・嘉仁・裕仁と3代続いた教祖は、教祖であるだけでなく、統治権の総覧者とも大元帥ともされた。

この天皇教が、臣民たちに「事あるときは誰も皆 命を捨てよ 君のため」と教えた。天皇のために戦え、天皇のために死ね、と大真面目で教えたのだ。直接教えたのは、学校の教師だった。教場こそが、天皇教の布教所であった。目も眩むような、一億総マインドコントロール、それこそが国家神道であり、その反省が政教分離である。

もちろん、戦前の体制に対する徹底した反省のありかたとしては、天皇制の廃絶が最もふさわしい。しかし、戦後改革の不徹底さが日本国憲法における象徴天皇制となった。この象徴天皇を、再び危険な神なる天皇に先祖がえりさせないための歯止めの装置が政教分離なのだ。

だから、リベラルの陣営は厳格な政教分離の解釈を求め、歴史修正主義派は緩やかな政教分離の解釈を求めるということになる。靖国神社公式参拝・玉串料訴訟、即位の礼・大嘗祭訴訟、護国神社訴訟、地鎮祭訴訟、忠魂碑訴訟等々は、そのような立場からの訴訟であった。

もっとも、憲法の政教分離に関する憲法規定は、神道だけでなく宗教一般と国家との癒着を禁じた。そこで、仏教やキリスト教との関係でも、政教分離問題は生じうる。今回の判決も、神道に限らず儒教でも宗教性が認められれば、憲法に抵触しうることを確認したものとなっている。儒教と自治体の関係を問う訴訟は、二の丸、三の丸での闘いである。しかし、その結果は本丸としての神道と国家との関係に影響を及ぼさずにはおかない。今回の判決、リベラル派としては、喜んでよい。

本日の産経社説(「主張」)が、この点に言及していて興味深い。

表題が「那覇の孔子廟判決 『違憲』の独り歩き避けよ」というもの。右派の産経にとって、好もしからぬ判決であり、その影響を限定しようという「主張」なのだ。

同社説の立場は、はっきりしている。靖国神社公式参拝や玉串料・真榊奉納などを違憲と判断されては困るのだ。何とか、限定的に解釈しなければならない。

 「違憲」が独り歩きしては困る。今回の判決を盾に、社寺の伝統行事などにまで目くじらを立てるような「政教分離」の過熱化は避けたい。

 孔子廟は全国にあるが、湯島聖堂(東京)や足利学校(栃木)のように国や自治体が所有する歴史的施設もあり、設立経緯などが異なる。今回の違憲判決の影響は限定的とみるのが妥当だろう。

 政教分離規定の厳格な適用は好ましくない。たとえば、地域社会に伝わる文化、行事は伝統的な宗教と密接な関係にある。

 北海道砂川市の「空知太(そらちぶと)神社訴訟」で最高裁は、市有地を神社に無償提供したことを違憲とした。だが、このとき合憲とした裁判官の反対意見が「神社は地域住民の生活の一部になっている」などと指摘し、違憲とした多数意見について「日本人の一般の感覚に反している」と述べていたのはうなずける。

 首相ら公人の靖国神社参拝や真榊(まさかき)奉納に「政教分離」を持ち出す愚も避けるべきだ。

産経の当惑している様子が伝わってくる。しかし、判例というものは、独り歩きをするものである。独り歩きを止めようとて、止められるものではない。その意味で、大法廷の厳格な政教分離解釈は、リベラル陣営にとっての財産なのだ。

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