澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

1941年12月8日、このときの過ちを繰り返さないために。

(2021年12月8日)
 他の日ならぬ12月8日である。80年前のこの日に、我が国は後戻りのできない亡国への急傾斜を滑り始めた。行き着く先のどん底が1945年8月15日、この日に日本は一度亡びたのだ。市街地に繰り返された大空襲、沖縄の悲惨な地上戦、2度にわたる原爆の投下…。完膚なきまでの敗戦に、国民生活は惨状を極めた。この亡国をもたらした責任者の筆頭は天皇・裕仁であり、これに東京裁判で裁かれた東條英機以下のA級戦犯が続く。

 もしかすると、亡国へ滑り始めた日はもう少し前の37年7月7日(盧溝橋事件)か、31年9月18日(柳条湖事件)であったかも知れない。あるいは1910年8月29日(日韓併合)。しかし、12月8日の国民的衝撃はこれまでに経験したことのないものだった。明らかに、全国民の運命に直接関わる総力戦の覚悟が求められた日である。この日の日本人は、いったい何を考え、これからどうなる、これから何をなすべきと考えたのだろうか。

 10年前の2011年11月30日付「毎日新聞」に「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」という、記事がある。棚部秀行、栗原俊雄両記者の労作。「当時の小説やエッセーをひもとくと、開戦賛美一辺倒の世間のムードが伝わってくる」というトーン。内容の一部を引用させていただく。

伊藤整 「いよいよ始まった」と高揚感吐露

 作家の伊藤整(05〜69)は真珠湾攻撃のニュースを聞き、夕刊を買うため新宿へ出かけた。混雑したバスの中で<「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ興奮しているような気がして黙っている>と、高揚感を吐露している。そして<我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている>と記した(『太平洋戦争日記(一)』)。

高村光太郎 「時代は区切られた」

 また詩人の高村光太郎(1883〜1956)はこの日、大政翼賛会中央協力会議に出席していた。エッセー「十二月八日の記」に<世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた>と、開戦の感激を書き留めている。

太宰治 「けさから、ちがう日本」

 太宰治(09〜48)には、「十二月八日」という短編小説(『婦人公論』42年2月号)がある。「作家の妻」という女性の一人称で、開戦の日の興奮と感動を描いた。早朝、主人公は布団の中で女児に授乳しながら、ラジオから流れる開戦のニュースを聞く。<しめ切った雨戸のすきまから、まっくらな私の部屋に、光のさし込むように強くあざやかに聞えた。(中略)日本も、けさから、ちがう日本になったのだ>

竹内好 「うしろめたさ払拭された」

 37年に始まった日中戦争は、国民の間で不人気だった。戦争目的がよく分からないまま100万人に及ぶ兵士が動員され、死傷者と遺族が増えていったからだ。中国文学者・評論家の竹内好(10〜77)は真珠湾攻撃直後の日記で<支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも今度は払拭された>とし、新たに始まった戦争を<民族解放の戦争に導くのが我々の責務である>と記した(12月11日)。日本人は12月8日の開戦によって、アジアを欧米の植民地支配から解放するという大義名分を得たのだ。

小林秀雄 「晴れ晴れとした爽快さ」

 評論家の小林秀雄(02〜83)は開戦の日、文芸春秋社で「宣戦詔勅」奉読放送を直立して聞いた。<眼頭は熱し、心は静かであった。畏(おそれ)多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた>。さらに海軍の戦果を「名人の至藝」とたたえた(『現地報告』42年1月)。

 多くの文筆家が開戦に快哉を叫んだ。作家の坂口安吾(06〜55)も、報道に感激している。また、民衆も開戦を支持。日本は、中国との戦争やアメリカによる経済制裁などによる重圧感にあえいでいた。当時11歳だった作家の半藤一利さんは、開戦によって<晴れ晴れとした爽快さのなかに、ほとんどの日本人はあった>(『〔真珠湾〕の日』)と振り返る。

 もちろん、開戦を歓迎した人ばかりではない。本日(12月8日)の毎日新聞・余録には、次の記事がある。

当時、米映画の配給会社にいた淀川長治は号外を見て、「『しまった』という直感が頭のなかを走り、日本は負けると思った」と回想している▲名高いのは後に東大学長となる南原繁が開戦の報に詠んだ歌、「人間の常識を超え学識を超えておこれり 日本世界と戦ふ」である。
 では「えらいことになった、僕は悲惨な敗北を予感する」と沈痛な表情を浮かべたのは誰だろうか▲2カ月前に日米交渉を打開できぬまま辞任した前首相、近衛文麿だった。それより前に南部仏印進駐で米国を対日石油禁輸に踏み切らせて対米戦争への扉を開き、前年に米国に敵視と受けとられた日独伊三国同盟を締結した人である▲開戦日には、その三国同盟を「一生の不覚」と嘆いた人もいた。同盟の立役者で締結当時の外相、松岡洋右である。米国の参戦を防ぐつもりが「事ことごとく志とちがい、僕は死んでも死にきれない」。腹心に語り、落涙したという。

 余録は、こう結んでいる。「緒戦の大勝に熱狂する世論、米映画通が予感した敗戦、知や合理性を超えた政府決定にあぜんとする学者、そして戦争への道を開いた当事者らの暗鬱な予言…。学ぶべき教訓は尽きない開戦80年である。」

 今振り返って、後知恵で当時の人の考えを評価するのは僭越に過ぎるとの批判はもっともなこと。しかし、教訓とすべきは、人は案外賢くないのだということ。天皇(裕仁)や東條などの戦犯ばかりではなく、日本の知性と言われた人もである。小林秀雄などはその典型だろう。国を滅ぼす出来事の前で、やたらに高揚するばかりで、冷静さを欠いている。

 80年前、天皇制政府は大きく国策を誤って国を滅ぼした。その過ちを繰り返さないためには、可能な限りに情報を共有し、可能な限りの衆知を集約することである。つまりは、民主主義を徹底することだ。それでも、過ちをなくすることはできないかも知れない。しかし、広範な国民に批判の自由が保障されていれば、常に過ちを修正することが可能となる。民主主義こそは、大きな過ちを防止するための知恵と言うべきだろう。国家にとっても、政党やその他の諸組織にとっても。

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