澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

本日が多喜二の命日。多喜二を虐殺したのは、天皇・裕仁である。

(2022年2月20日)
 小林多喜二は虐殺された。天皇の手先である思想警察の手によってである。多喜二の無念を忘れてはならない。権力の暴虐を忘れてはならない。

 子どものころに教えられた。あの壮大なピラミッドを作ったのは、クフなど歴代のファラオである。設計者でも石工でも運搬者でもない。万里の長城を築いたのは皇帝であって、使役された土工ではない。東大寺を建立したのは聖武天皇であって、作業に従事した宮大工ではない。ならば、多喜二を虐殺したのは、特高ではなく明らかに天皇・裕仁である。

 1933年2月20日、多喜二はスパイの手引きで路上格闘の末特高警察に身体を拘束された。拉致された築地警察署内で拷問を受け、その日のうちに虐殺された。なんの法的手続を経ることもない文字どおりの虐殺であった。スパイの名は三船留吉。多喜二殺害の責任者は特高警察部長安倍源基。その手を虐殺の血で染めたのは、特高課長毛利基、特高係長中川成夫、警部山県為三らである。が、多喜二の虐殺者として歴史に名を留めるべきは、明らかに天皇・裕仁である。

 私は、多喜二の殺害に関わった特高らを殺人鬼だとは思わない。彼らは、天皇に忠実な警察官として、当時の共産党員を天人ともに許さざる不忠の輩と真面目に思い込んでいたのであろう。天皇の神聖を害し、天皇の統治を撹乱し、天皇の宸襟を煩わす非国民。それに対する制裁は法を超越した正義であって、躊躇すべき理由はない。

 多喜二は、天皇の警察によって、天皇のために虐殺された。天皇の名による正義を実現する目的で…。天皇が多喜二を虐殺したと言って何の不都合があろうか。裕仁は、虐殺された多喜二と、その母の無念に思いをいたしたことがあっただろうか。

 多喜二は、その鋭い文筆故に満29歳と4か月で命を落とした。治安維持法で弾圧された人々の崇高な活動と悲惨を描いて、自らも弾圧に倒れた。その時代、言論の自由は保障されていなかった。今の日本に言論の自由はあるか、正確には答えにくいが、多喜二の時代よりははるかにマシと言ってよい。その自由は十分に活用されているだろうか。再び錆び付く恐れはないだろうか。

 もっとも、多喜二が虐殺されたあの時代にも、天皇を賛美し帝国の興隆を鼓吹する旺盛な言論活動は、誰からも制約されることなく社会に溢れていた。時の権力や有力者に迎合する言論をことさらに自由という意味はない。

 表現の自由は、政治的・経済的な強者に対する批判と、権威を否定する言論においてこそ保障されなければならない。このような言論が、これを制圧しあるいは報復しようという大きな圧力と対峙せざるを得ないからである。このような言論はそれ自体貴重であり萎縮させられてはならない。

 言い古された言葉であるが、言論の自由とは、政治権力や社会の権威が憎む言論の自由でなくてはならない。また、社会の多数者にとって心地よからぬ少数者の言論の自由でなくてはならない。まさしく、多喜二の言論がその典型であった。

 今、言論の自由を押さえ込み、表現者の口を封じペンを折る手段として、必ずしも暴力が有効な時代ではない。が、天皇や天皇制批判の言論が、十分であるとは思えない。

 多喜二の命日くらいには、天皇と天皇制の害悪を遠慮なく表現しようではないか。「国民の総意に任せる」などと傍観者を決めこむのではなく、自身の意見をはっきりと言おう。表現の自由を錆びつかせないためにも。 

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