闘いすんで日は暮れて…
都知事選が終わった。「圧勝舛添氏211万票」(毎日)、「細川氏らに大差」(読売)という、面白くも可笑しくもない結果。いくつかの印象を感想程度に述べておきたい。
まずは、投票率のあまりの低さについてである。
大雪が外出の意欲を阻んだのは投票前日の2月8日だけのこと。選挙当日の9日は、積もった雪こそあれ、近所の投票所まで足を運ぶことに差し支えるほどだったとは思えない。まったく影響なかったとは言わないが、投票率46.14%は盛り上がりに欠けた選挙だったというほかはない。
この都知事選限りのものであればよいのだが、政治というものの総体としての地盤沈下が進行しているのではないかと不気味である。有権者の主権者意識や、政治参加意識、あるいは民主主義が衰退しつつあるのではないか。そもそも議会制民主主義が揺らいではないだろうか。
この低投票率が細川護煕候補への逆風となった。思いがけない惨めな負け方。陣営が語っているとおり、風を恃むだけで組織力のない選挙戦の無力をさらけ出した形。素人衆団が右往左往するだけだった前回宇都宮選挙の二の舞となった。
一方、自民・公明・連合、そして共産の各組織はフル回転したようだ。
本日の毎日の夕刊で、平沢勝栄・選対本部長代理が「永田町日記」の2月6日の記事として語っている。「組織票は、自民がフル回転して120万、公明が60万。無党派層を取り込み最低250万票は欲しい」 これが、低投票率でやや目算が狂ったものの、組織票がものを言ったことになる。
また、東京選出の全衆議院議員には、秘書を一人づつ舛添陣営に送り込むことや、集票のノルマが課された。全国の各国会議員には都民100人以上の名簿の提出を求めたという。「公認候補以上の力の入れ方だ。猪瀬直樹、石原慎太郎両氏の都知事選でもここまでやっていない」とのこと。
なお、平沢は告示直後の「日記」の記事として、舛添の勝利を確信し、その勝因を「相手(対立候補)に恵まれたこと」と言っている。「相手」とは細川候補だけのことで、その他の候補はまったく眼中になかったようだ。
共産党もフル稼働だった。連日の赤旗紙面は、突然救世主が地上に舞い降りたかのごとくに「素晴らしい候補者」を持ち上げた。前回選挙とは様変わりで、振り子は反対に大きく振れた。全国から運動員を東京に集中させてもいる。外から見る限り、宇都宮選挙は共産党の選挙となった。そして、前回の無能な選対本部とは打って変わって、選挙運動実務のスムーズな進行が見て取れる。時期を接しての同じ候補者の同じ知事選で公約もほぼ同じ。選挙運動のやり方を変えて、得票数では97万票から98万票に、得票率では14.5%から20.2%に伸ばした。
しかし、それが精いっぱいのところ。私は宇都宮君には、「立候補をおやめなさい」と言い続ける。今回選挙で革新の共闘にふさわしい清新な候補者を立てることができれば、細川氏の立候補もなく、本気で勝ちに行く選挙ができたはず、というのが私の確信である。
まことに意外だったのが、極右候補・田母神俊雄の泡沫とは言いがたい得票。61万票で得票率12.5%。これは恐るべき事態ではないか。61万票とは、かつて共産党の党内候補が知事選で獲得した得票に匹敵あるいは凌駕する。12.5%は、前回都知事選の宇都宮君の得票率(14.5%)と大差ない。
安倍と田母神は、この選挙ではねじれている。しかし、安倍晋三の「極めて親しいお友だち」である百田尚樹が、田母神の応援演説を買って出て物議を醸したのは2月3日のこと。安倍・百田・田母神は一つのラインにつながっており、安倍の心情は、舛添よりは田母神に遙かに近い。安倍が田母神やその同類と本気でグループを結成すれば、いやも応もなく、対抗のための反ファシズム統一選線を模索せざるを得ない。その日は、案外近いのかも知れない。
今回、脱原発運動を担ってきた広範な人々が脱原発二候補の「一本化」を願った。一本化とは、当然に細川候補への一本化だった。告示前も選挙期間中も、それ以外に一本化の選択肢はなかった。宇都宮君を支持した勢力が、今、ドングリの背比べに少しだけ勝ったとして、脱原発を誠実に願う立場から一本化実現に向けての発言をした人々を非難するようなことがあってはならないと思う。舛添211万票の右翼別動隊として、田母神が61万票をとっている時代なのだから。
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命をつなぐ
「独立行政法人・森林総合研究所林木育成センター」は優良樹の育成や遺伝資源の保存をおこなっている。人間の役に立つ樹木をつくりだし、保存している。
例えば、マツノザイセンチュウ抵抗性品種の作成。松枯れの被害は、明治時代に九州から始まり、1960年代に急増し、現在は青森県にまで及んでいる。センターでは松枯れをひきおこすマツノザイセンチュウに抵抗力をもった松を作り出そうと研究を重ねている。何千本もの小松の枝にセンチュウをうえつけて、枯れないものを選び出す。現在十数種の品種が選別されているという。消えてしまった海岸の白砂青松の復元も夢ではない。
花粉症の人は春の訪れが憂鬱である。その最も大きな原因がスギ花粉だ。センターでは、「無花粉スギ」も作っている。スギの花粉は雄花から放出される。だから雄花の生育の悪い「雄性不稔スギ」の発見と改良が行われている。すでに20種類も発見され、成長や材質の優れたものが作出されているという。遺伝子組み換えによって花粉を出さない品種を作る研究も行われている。花粉症の人にとっては朗報である。
樹木の生長試験には永年にわたるモニタリングが必要なので、すぐというわけにはいかない。しかしながら、いったん優良樹が選定されれば、植物の場合、増殖は容易だ。接ぎ木や挿し木でいくらでも増やすことができる。山の杉林が絵に描かれたように整然としているのは、クローン杉で覆われているからである。
その接ぎ木技術が、同センターの東北育種所(岩手県滝沢村)で発揮され、三陸津波の被害を受けた陸前高田市の「奇跡の一本松」の保存に生かされている。高田松原の7万本におよんだクロマツとアカマツの林は、明治三陸津波(1896年)、昭和三陸津波(1933年)、チリ地震津波(1960年)には防潮林の役割を立派に果たした。しかし、今回の三陸津波では7万本ものマツが根こそぎにされ、一本の巨木だけが持ちこたえた。と思われたが、地盤沈下で潮水に犯された根はじわじわと蝕まれ、9カ月耐えて命つきた。樹齢270年、樹高28メートル。レプリカが立てられたが、永い年月保存し続けるのは至難の業だ。当然レプリカは不自然で、不満だという声も聞こえる。
その声に応えるように、この奇跡のマツは枯死する前に、滝沢の同センターに「一枝の命」を託したのである。この一枝から100本の接ぎ木が作られ、9本が活着してすくすくと育っているという。現在30センチあまりに成長している。2011年4月にやや時期はずれに行った接ぎ木苗のうち、50日後に4本の芽が出ているのが確認された。このツギキ4兄弟に故やなせたかしさんが「ノビル」「タエル」「イノチ」「ツナグ」と命名した。きっと今頃津波犠牲者の方々にやなせさんが「つながれた命」のお話を伝えていることだろうと思う。
残ったツギキ5姉妹に「朝凪」「夕凪」「さざ波」「そよ風」「思い出」と名付けたらどうだろう。その9兄弟姉妹からつぎつぎと命がつながれていけば、高田松原の再生も夢ではない。高田松原で拾われたマツボックリから600本の実生も育って、「高田松原を守る会」へ引き渡されたそうである。地盤さえしっかり作れば20年後には見栄えのする松原がきっと出来上がる。
そんな話を聞くと、私もセンターの育種所で接ぎ木をしたり、種をまいたりする手伝いをしてみたいものと切に思う。
(2014年2月10日)