ひらがなの「立憲主義」とは?
本日は青年法律家協会東京支部の総会、お呼びがかかって、私と、同期の梓澤和幸君、そして少し若い原和良さんとの「鼎談」という形のミニシンポジウムに参加した。
ディスカッションのタイトルは、「秘密保護法制定と自民党改憲案に対抗するために」というもの。若い弁護士たちが積極的に講師活動を行っている。そのような活動へのアドバイスを、という趣旨だったようだ。
私が最初に喋った。概要は以下のとおり。
「民主主義の政治過程は、選挙⇒議会⇒行政⇒司法、と考えられている。しかし、実はその前がある。国民が十分な情報に接して、正確な情勢を把握したうえでの意見形成ができなくてはならない。選挙以前に、情報の取得と意見交換の機会の保障が必要だ。秘密保護法は、国政の進路を決める最重要テーマの情報について、行政トップが許容したものだけを国民に知らせればよい、それ以外は知らせてはならない、というコンセプト。これでは、国民は情報が隠されていることすら知らないまま、情報の取捨選択に踊らされるピエロになりさがる。知る権利の十全の保障こそが、民主主義の政治過程を成り立たせる土台だ。」「実は、もうひとつある。情報を要求する自立した国民が必要だ。国家権力にも、多数者にも、そしてあらゆる中間団体からも自立して、自分の足で立ち、自分の頭で考え、自分の言葉を喋る個人。これなくして、民主主義は成り立たない」「特定秘密保護法反対だけでなく、改憲阻止のためにも、この自立した個人がどれほど輩出するか。それが鍵だと思っている」
原さんが続いた。私が把握した限りで、次のような概要。
「個人の自立は大切だ。企業からの自立が絶対に必要だし、民主的な運動における個人の自立も必要だ。意見の合う仲間内の議論だけをしていて、違う意見との議論がなければ個人の意見も運動も進歩しない。しかし、上手に空気を読みながらの建設的な議論の姿勢も大切だ。私は、『1日1ジョーク』を自分に課して、上手に人と意見交換できるように心掛けている。こうして、運動は楽しくやらないと続かない」
梓澤君は、まずエルズバーグから話を始めた。
「ベトナム戦争の時と切り出せば、当然に共通の話題だというのが大きな間違い。今の若い弁護士にとってのベトナム戦争は、我々の世代の満州事変ほどの歴史的距離だ」という。なるほどそんなものか。「北爆開始のきっかけとなったトンキン湾事件は実は仕組まれたもの。それを暴露したのがエルズバーグ」「そして、今は、スノーデンであり、マニングだ。彼らは、重刑を覚悟で自らの良心に従っている。権力といえども、良心の自由を奪うことはできないのだ」
初めは脈絡のない3人の発言が、フロアからの質問や意見を得て、だんだんと噛み合うものになっていった。憲法に関心がないという人々に、どうしたら改憲阻止の運動に加わってもらえるのだろうか。そもそも、なぜ憲法に関心が生じないのだろう。改憲問題をたいへんなことと思った人々に、どんな行動提起ができるのだろうか。それなりの意見交換がなされた。
なかで、梓澤君の名調子が光ったところが一箇所。
「立憲主義なんて漢字で喋っているうちは、人の心に響かない。権力を縛る原理なんて他人の言葉を借りて言い換えてもだめ。ひらがなに直して喋らなければだめだ。ひらがなで喋るには、咀嚼の力量が必要だ。それができて始めて人に訴えることができる」。これは難しい。もしかしたら、至難の業あるいは無理難題。その難題に応えることができたら…、名人芸の域。
井上ひさしさんが生前くり返し言っていた言葉を思い出す。
全部ひらがなで標記すると、味わい一入。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに」
こうありたいものだが、なかなかこうはいかない。
(2014年2月16日)