経団連の政治献金あっせん再開は国民本位の政策決定をゆがめる
数ある古川柳の中で、誰もが知る句の筆頭として挙げるべきは、
役人の子はにぎにぎをよく覚え
ではないだろうか。
明和2年(1765)年発行の「誹風柳多留(初編)」所載第78句。原典は宝暦9(1759)年の句会の作として刷られたもの。賄賂請託政治として語られる田沼意次の時代は、宝暦から明和・安永を経て天明期(1760年代?80年代)とされる。
世相を映した句であったが、古典となるべき普遍性をもっていた。「柳多留」の第2編には、
役人の骨っぽいのは猪牙にのせ
というのもある。猪牙(ちょき)とは、吉原通いの川舟のこと。金と接待、これが、富者の官僚・政治家懐柔の常套手段であった。
今も、政治がカネで動かされていることは、庶民感覚の常識。5月30日の仲畑川柳欄に次の一句がある。
「言う事が変わった カネが動いたな」
秀逸句として採用されていないのが残念だが、これは新しい古典となりうる。
ところで、田沼の時代ではなく今の世。政治を金で買おうというのは大企業の本能である。その本能を隠すか顕すか。経団連会長の交代とともに、この本能が露わになろうとしている。
6月3日に就任した榊原定征新会長(東レ)は、「政治と経済は車の両輪だ。政治との連携を強め、『強い日本』の実現に向けて協力していく」と述べた。本音を翻訳すれば、「政治の力で商売の基盤を整備してもらわねばならない。そのために政権には相応の協力を惜しまない」ということだ。具体的には、経団連を窓口にする企業献金あっせんを再開しようと言うのだ。政治とカネにまつわる大問題。この点についての中央各紙の社説が出揃った。
まずは、「重厚長大に偏らぬ経団連に」という、6月4日の日経社説。
「榊原会長は政治献金への関与を再開するかどうかを検討するとしている。関与するなら政策の評価基準や献金額への反映の仕方の透明化が欠かせない。昨年、4年ぶりに復活させた政策評価では自公政権の経済政策を高く評価した理由が曖昧だった。説明責任を果たさなければ企業不信を買う。」
世論の反感が企業不信に発展することを憂慮して、「政治献金は上手にやるように」というアドバイスである。財界紙としては、当然の姿勢。
これと対照的なのが、「経団連新体制 問われている存在意義」という、同日の東京新聞社説が歯切れ良い。
「かつての財界の力の源泉は資金支援、スポンサー役だった。(経団連は)ゼネコン汚職や政権交代などを機に政治献金のあっせんをやめ、それに伴って発言力が低下したのである。しかし、だからといって政治献金のあっせん復活を検討するというのは安易に過ぎる。
すでに政党助成金があり、国民の負担で政治活動を支えているのである。安倍晋三首相は、大胆な金融緩和などを批判した米倉弘昌前経団連会長と距離を置き、経団連は一層影響力が低下したが、そんな仕打ちができたのも政党助成金があるからである。
安倍首相は産業競争力会議で、楽天の三木谷浩史会長兼社長や経済同友会の長谷川閑史代表幹事らを重用している。今さら政治献金ですり寄ったところで『カネで政策を買うのか』といった批判を招くだけである。」
産経は、6月5日に「榊原経団連 官民一体で改革の推進を」という「主張」を掲載した。
「政治との関係では、企業に政治献金を促す組織的関与の再開を検討している点に注目したい。
企業も社会的存在として一定の献金が認められるのは当然だが、政界で政治資金の透明化への新たな取り組みがない中、単に政党の資金繰りを助けるのでは無責任だろう。受け取る側に厳しく注文もつける総合的判断を求めたい。」
同紙は、政治的には右派のスタンスを固めているが、企業の政治への介入の問題については、この程度のことしか言えないのだ。
読売は、同日「榊原経団連発足 政権との関係改善進めたい」とする社説を出した。
「政治献金への関与から手を引いた経団連は、以前より政界に対する発言力が弱まっている。昨年には、傘下企業が政治献金先を決める目安となる『政策評価』を4年ぶりに再開したが、与党だけを評価し、政策分野ごとに評点をつけるランク付けも見送った。企業が献金先を判断する指標としては不十分だろう。
企業がルールを守ったクリーンな献金を通じて、政治に参加する意義は依然として大きい。
企業献金のよき判断材料となるよう、経団連は政策評価の充実を図るべきだ。」
完全に企業寄り。どうして、これで部数を維持することができるのだろうか。不思議でならない。ジャイアンツファンは、社説などどうでもよいのだろうか。
本日(6月8日)朝日が書いた。「経団連と献金―「やめる」決意はどこへ」というタイトル。政治献金問題に特化したもので、実に歯切れがよい。
「経団連の会長に就いた榊原定征氏(東レ会長)は、企業が出す政治献金に経団連が再び関与するか、検討中だという。
やめた方がいい。『政策をカネで買うのか』という批判を招くだけだ。
『政治献金では物事は動かない。国民に訴えかけないと、政策を実現できない』『丁寧に国民に説明しなければ、経団連への支持は得られない』
これは一昨年末、経団連の事務総長(当時)が、朝日新聞に語った『決意表明』だ。安倍政権の発足が確実視されていたころのことである。
安倍政権は成長戦略として企業を支援する改革案を次々に打ち出している。それを後押ししつつ、ぎくしゃくした政権との関係も改善したい。そんな思いからの『変心』だろう。
ただ、政権が掲げ、経団連も求める改革案には強い反対がある。なぜか。国民の声に耳をすませ、自らを省みてほしい。」
「経団連は非自民連立政権が誕生した93年、会員企業に献金額を割り振る『あっせん方式』の廃止を決めた。04年に『口も出すがカネも出す』として、自民・民主両党への政策評価とともに会員企業に再び献金を促し始めたが、民主党政権が誕生した翌年の10年、中止した。
政権交代のたびに右往左往してきた過去を見ても、政党にすり寄る発想は捨てた方がよい。」
そして、本日の毎日社説「経団連の献金 再開は時代に逆行する」。これが真打ち。東京・朝日と並んで論旨明快と言うだけでなく、説得力がある。
「経団連は政治改革を逆行させるつもりなのか。新会長に就任した榊原定征東レ会長が「政治との連携強化」を打ち出し、政治献金のあっせん再開を検討すると明言した。
経団連の地盤沈下が言われて久しい。新体制は存在感を高めるために国政への影響力を強めたいのだろう。しかし、巨額の企業献金を束ねて影響力を強めれば民主的な政策決定をゆがめ、『政治とカネ』にまつわる国民の不信を増幅しかねない。献金あっせんは再開すべきでない。
経団連は1950年代から、主に自民党への献金総額を決め、会員の企業や業界団体に割り振るあっせんを行ってきた。多いときには総額100億円規模に達した。しかし93年に自民党が下野し、ゼネコン汚職などで政財界の癒着批判も高まったことからあっせん廃止を決めた。
2004年には各党に対する政策評価を始め、会員企業に献金の目安として示すことで献金への関与を再開したものの、民主党に政権が移った後の10年にはこれも中止した。
ところが自民党が参院選で圧勝した後の昨秋に政府・与党の政策評価を再開した。そして今度は、あっせんそのものの再開を視野に入れる。
安倍晋三首相はアベノミクスの一環として、労働規制の緩和や法人税の減税など大企業の利益につながる政策を検討している。あっせん再開を検討するのは、資金面から政権を支援し、そうした政策を充実させる狙いがあるからだろう。
経済成長に役立つ政策を提言することは経団連の大切な役割だ。しかし、巨額の献金で利益誘導を図るようでは国民本位であるべき政策決定をゆがめる。
企業献金はそうした危険性をはらむために廃止すべきものである。政治改革の一環として95年に導入された政党交付金は企業献金全廃を前提にした代償措置だったはずだ。そして毎年、交付金として300億円以上の税金がつぎ込まれている。あっせん再開は企業献金が大手を振ってまかり通ることにつながり、時代に逆行すると言わざるを得ない。」
「榊原会長が政治との連携強化を打ち出すこと自体は理解できる。しかし、献金のあっせん再開は短絡的であり、副作用が大きすぎる。」
上記東京・朝日の「『政策をカネで買うのか』という批判を招くだけ」。毎日の「巨額の献金で利益誘導を図るようでは国民本位であるべき政策決定をゆがめる」が本質を衝いている。
政治献金と「にぎにぎ」、本質において変わるところはない。今も昔も、「にぎにぎ」した政治家・官僚は、「にこにこ」し「ぺこぺこ」する。しばらくして、庶民は「言う事が変わった カネが動いたな」と嘆ずることになる。
川柳は庶民のつぶやき。名作川柳は庶民の不満である。川柳子に名作のネタが豊富というのは、庶民が不幸な時代なのだ。経団連の政治献金あっせん再開は辞めていただきたい。
(2014年06月08日)