澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

69回目の原爆記念日にー被爆者の声の重み

  8月は、6日9日15日。

誰が言い始めたかは知らない。これで立派な句となっている。

今日は、その8月6日。特別な日である。人類にとっても、日本にとっても、そして私個人にとっても。私は、広島で爆心地近くの小学校一年生となった。まだ、街の方々に瓦礫の山があったころのこと。原爆ドームもそのうちの一つだった。

私は終戦時には2才。直接には戦争も軍国主義の空気も知らない。父と母から語られたものが戦争と旧社会の記憶である。父は幸いに一度の戦闘参加もなく、ソ満国境から帰還している。その軍隊経験の伝承には苛酷で悲惨な色彩が薄かった。下士官だった父は、楽しげな思い出として軍隊生活を語ることすらあった。これに比して、内地で銃後にあった母の苦労の話が私の戦争の原イメージをかたちづくっている。「戦争はいやだ」「あんな思いは金輪際繰り返したくない」という、日本中にあふれていた共通の思い。

私が生まれた盛岡の中心部にもB29の空襲はあった。しかし、その規模は他の都市と比べれば微々たるものだった。それでも母は、ハシカの私を負ぶって空襲警報の鳴る度に防空壕に避難したことを度々語った。なによりも母の義弟が戦争末期の招集でサイパンで戦死している。母の妹は、子どもを抱えた寡婦として戦後を生き抜いた。私の胸の内に、この叔母と同年代の従兄のことが、むごい戦争の癒しようのない疵痕として刻み込まれている。

穏やかな地方都市盛岡にも、戦後は戦争の爪痕が残り、人々の暮らしにも戦争が深く影響していたはずだ。しかし、父と母とに守られた幼い私には分からないことだった。広島で初めて、小学生の私が否応なく視覚的に戦争の痕跡と向かいあったことになる。

69年前の一発の爆弾が、人類史に与えた影響は計り知れない。人類は、自らを亡ぼす手段を手に入れたのだ。人類は、自らの手に負えない危険な代物を作り出してしまった。この人類と共存しえない絶対悪を、この世から廃絶しなければならない。この願いこそ、絶対の正義だ。子どものころから、そう思い続けて来た。私の感覚では、私の身の回りはすべて戦争の被害者であった。被害者の視点で、徴兵も空襲も被爆も見てきた。

そしてやや長じて、広島が軍都であることを知った。広島も、小倉(8月9日原爆攻撃の第一目標都市)も、軍都であるが故に原爆投下候補地として選定されていることは否めない。戦前の広島には陸軍の施設が集中し、軍需工業として重工業も発達した。都市全体に軍事的な性格が強かった。被侵略国の人々が広島に落とされた「新型爆弾」の威力に拍手をしたことも聞いた。

戦争は、一面的な被害の文脈だけでは語れない。悲しいことに、日本は加害国であった。私の父も母も戦没した伯父も、消極的にもせよ侵略戦争を起こした側にいた。被侵略側から見れば侵略の加担者である。少なくとも積極的に戦争に反対をすることはなかった。広島の被爆被害でさえ、軍都であったことからの責任なしとしないのだ。

「過ちは繰り返しません」というフレーズは限りなく重い。今再びの戦前を思わせる時代の空気の中で、愚かな為政者による戦争の危険をきっぱりと断たねばならない。なによりも今、憲法をないがしろにする集団的自衛権行使容認の解釈改憲が大きな問題である。これに反対の声を挙げることなく見過ごすことは、「過ちを繰り返して、戦争や被爆のリスクを再び背負う」ことにつながる。

8月6日、今日は、20万のヒロシマの死者に思いをいたし、あらためて安倍政権の集団的自衛権行使容認に反対の意思を表明する日としなければならない。人権も民主主義も、そして平和も、為政者の暴走を許すところから崩れていく。

本日、被爆7団体の代表が安倍首相と面談し、集団的自衛権の行使を容認した7月1日閣議決定の撤回を申し入れた。7団体は首相宛の要望書の冒頭で「政府は憲法の精神を消し去ろうとしている」と非難。面談では、「(閣議決定は、)殺し殺され、戦争の出来る国にするものだ。失われるものがあまりに大きい」との意見が出たという。

時宜を得た、まことに的確な行動ではないか。被爆者の声は、20万の死者を代理してのものだ。臆するところなく、遠慮をすることもなく、ズバリとものを言わざるを得ないのだ。その声は、安倍の耳に届いただろうか。胸の底まで響いたであろうか。骨身に沁みただろうか。
(2014年8月6日)

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