世界中わが憲法と同じなら
毎日新聞「万能川柳」の先月(7月)の投句は、葉書の数で1万2000通を超えているという。葉書1枚に5句の投句が可能だから、句数を計算すれば4?5万になるのだろう。その中で、たった一句の月間大賞受賞作が本日の朝刊に発表されている。それが、17日に秀逸句として掲載された次の句。
世界中わが憲法と同じなら(水戸拷問)
「短詩故の豊かな余韻が味わいふかい」と言われてしまえば反論のしようもないが、この曖昧な5・7・5のあと、どう続くのか気になってしかたがない。作者に聞いてみたいところ。
A「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら、どこの国の軍隊もなくなる。世界に軍隊がなくなればどこにも戦争は起こらない。平和な世界が実現する」
おそらく作者はそう言いたいにちがいない。そのような立ち場から、「世界に憲法9条を」「憲法9条を輸出しよう」「世界遺産として9条を登録しよう」などというという運動が広まりつつある。
しかし、句の読み方が一つだけとは限らない。安倍首相なら、こう解釈するだろう。
B「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じなら平和な世界が実現するでしょう。でも現実にはちがうのだからしょうがない。どこの国にも軍隊はある。だから日本だけが軍隊をもたないわけにはいかない」と。
「右翼の軍国主義者」も、「戦争が好き」「平和は嫌い」とは言わない。「平和を守るために敵に備えよ」「平和が大切だから戦争の準備を怠るな」「より望ましい平和のための戦争を恐れるな」というのだ。国境を接する両国がこのような姿勢でいる限り、お互いを刺激し合い、戦争の危険を増大し合うことになる。そして、ある日危険水域を越えて戦争が始まるのだ。
Aは、世界を説得しても軍隊をなくして平和を築こうとする立ち場。
Bは、世界を説得するなど夢物語。軍事力をもたねば不安とする立ち場。
最近、7月1日以後は、もっと別の読み方もできよう。
C「世界中の国の憲法がわが日本国憲法と同じであろうとなかろうと、どこの国の軍隊もなくならない。もちろん戦争もなくならない。だって、憲法に指一本触れずに政府が解釈を変えてしまえば、どんな軍隊も持てるし、世界中どんなところでも戦争ができるのだから」
7月1日閣議決定を受けて7月17日に、選者がこの句をその日の秀逸句とし、さらに月間大賞を与えたとしたら、辛口にCのような解釈をとっているのかも知れない。これはブラックユーモアの世界。
集団的自衛権行使容認の閣議決定は、憲法の存在感を著しく稀薄化した。憲法になんと書いてあろうとも、「最高責任者である私の解釈次第でどうにでもなる」と言われたのだ。「9条にどう書かれていようとも、日本は自衛を超えて戦争ができるようになりました」ということなのだ。
立憲主義を貫徹し平和主義を確立してはじめて、「世界中わが憲法と同じなら」は平和を希求する句(Aの読み方)となる。古典的安倍流(B)でも、ニューバージョン安倍流(C)でも、平和の句とは無縁なのだ。
(2014年8月12日)