「民衆の怒り」と「市民的不服従」
昨日(9月7日)の赤旗「2014年夏 黙ってはいられない」欄に、守中高明(フランス現代思想)のインタビュー記事が掲載されている。タイトルは、「命がけの怒り表明しよう」というもの。
全体としてはまとまりのよい記事ではないが、下記2か所の彼の語りかけに、大いに頷き、大いに意を強くした。哲学者とか思想家をもって任ずる者は、時代が求めている言葉を、このように適切な表現で市民に届けなければならない。
まずは、
「いま最も大事なことは、ためらわずに怒りを表明することです。怒りとは命がけの感情であり、ありうる虚無主義や懐疑主義を乗り越えていく、唯一の比較すべきもののない深く倫理的な感情です。」
民衆の怒りへの讃歌である。こんなにもストレートに怒りを肯定する文章に接した憶えがない。「いま最も大事なことは、」と切り出しているのは、あまりにも低い民衆の怒りのボルテージへの焦慮の表れなのだろう。「ためらわずに怒りを表明すべき」だという怒りの鼓舞。「考える前に怒れ」、あるいは「考えるまでもなく怒らねばならない状況だろう」ということなのだ。ここまでは、時代の状況が言わしめた言葉。
ここからは、普遍性をもった思索の結論。「怒りとは命がけの感情」だという。私にはよく分かる。しかも、怒りは「ありうる虚無主義や懐疑主義を乗り越えていく感情」だという。「ありうる」は、「そう陥りがちな」くらいの意味であろう。諦めたり、逃げたり、自信を失ったりしがちなときに、これを乗り越えるのは怒りの力なのだ。このエネルギーの源を、彼は美しく「深く倫理的な感情」と讃えている。
「今こそ怒るべきとき」「忘れた怒りを取りもどせ」という呼びかけなのだ。「私憤」も「私怨」も、不当なものに向けられるときは、「唯一の比較すべきもののない深く倫理的な感情」なのだ。大いに怒ろう。巨大な怒りのエネルギーを蓄積しよう。
もう一つ。
「楽観できない状況の中で、私はマハトマ・ガンジーやキング牧師が実践した『市民的不服従』の重要性を強調したいと思います。これは国家が課す法や命令に、良心に反しなければ従うことができないとき、不服従を表明し、その法こそが不正義であることを公共に訴える態度のことで、悪法を間接的に改めさせるクリエーティブな政治的行為です。」
不当なものへの怒りこそは行動のエネルギーだが、怒りを暴力に転化させてはならない。強者の不当な仕打ちに対しても、暴力的な報復は自制しなければならず、替わっての怒りの表現手段が『市民的不服従』である。「国家が課す法や命令に、良心に反しなければ従うことができないとき、不服従を表明する」とは、法に従わず、形式的には法に抵抗して、法を破るということである。権力が命令の根拠とする法が不正義で、自らの良心の根拠たる法こそが正義であることを公共に訴えるために、敢えて法を破るのだ。
幸い、今の法体系では、良心を守る高次の法として日本国憲法が存在する。理不尽な権力の命令を、違憲なるが故に違法あるいは無効なものとして、憲法を盾に争うことができる。
この「市民的不服従」が、「悪法を間接的に改めさせるクリエーティブな政治的行為」として称揚され、その重要性が強調されている。「日の丸・君が代」不起立は、その典型といってよいだろう。
ところで権力の不当と市民的不服従による抵抗の主たる局面は、巨大な綱引きによって移動する。権力の不当に、敵わぬまでも抵抗が続けられれば、現状を維持できる。抵抗が無くなれば、ずるずると綱は引きずられ、際限なく後退を余儀なくされる。
平和も、人権も、民主主義も、怒りもて闘うことでせめては現状を悪化させずに維持し、さらには民衆の側に、半歩でも一歩でも綱を引き寄せたい。
2014年の夏が終わって、季節はすでに秋。新たなステージが始まる。
(2014年9月8日)