「怒りの人」のノーベル物理学賞受賞を祝する
子供の頃、オリンピックで日本人がメダルを取ると我がことのごとくに嬉しかった。古橋広之進、橋爪四郎、石井庄八などは、まさしく英雄だった。ノーベル賞も同じ。湯川秀樹を日本の誇りと思った。敗戦の傷跡深かった時代の幼い心情。国民的なコンプレックスの投影であったのだろう。やがて国は傷跡を癒やし、私も長ずるに及んで、ナショナリズムの呪縛とは完全に縁が切れた。
国際競技において、選手が国家を背負って競技をすることを不自然とし、国別メダル争いを愚の骨頂と思うようになった。ノーベル賞についても同じ。日本人の受賞を喜ぶなどという気持ちの持ち合わせはなくなった。「あなたも日本人ならご一緒に、日本人の受賞を喜びましょう」という同調圧力がこの上なく不愉快。
科学の発達が人間を幸福にするなんてウソだと思いこんでもいる。原水爆や原発、数々の大量破壊兵器や人間監視システムを作り出した科学者を尊敬する気持ちはさらさらない。本多勝一さんの、ノーベル賞を唾棄すべきものとする意見に喝采を送って来た。だから、どこの誰がノーベル賞を取るかなど、例年は何の関心も持たない。
ところが今年だけは別だ。もしかしたら、「憲法九条にノーベル平和賞を」実行委員会が推薦した「九条を保持してきた日本国民」が受賞するかも知れないとの下馬評の故にである。申請団体ではない「九条の会」の事務局も、受賞した場合と受賞を逸した場合の二通りのコメントを用意したと聞いた。
東京新聞の報道では、集団的自衛権の行使を容認した安倍政権の憲法解釈変更が平和への脅威をもたらしているからこそ「九条」の受賞が有力なのだという。「平和賞が(戦争を抑止し、平和を希求するという)賞創設の原点に立ち返るには好機」(国際平和研究所(オスロ))だからなのだそうだ。つまりは、安倍政権の戦争志向の危険な動きを抑止するための受賞ということで、同研究所が憲法九条を最有力の平和賞候補としたのは、ひとえに安倍晋三のおかげなのだ。
「九条にノーベル賞」は、「富士に月見草ほど」は似合わない。それでも、世界に話題になるだろう。多くの人が、「日本に九条あり」と知ってくれるだろう。一国の実定憲法に非武装・平和の条文があり、これを支える思想があり、非武装による平和を守ろうとする国民的運動が存在し続けていることを知ってもらえる。まさしく、原発ではなく武器でもなく、九条の平和の理念を世界に広める好機となるのではないか。
しかし、残念ながら、本日九条は受賞を逃した。代わって、2014年のノーベル平和賞を受賞したのは、パキスタンで女子教育の権利を求め続けているマララ・ユスフザイさんと、児童労働問題に取り組むインドの非政府組織(NGO)代表のカイラシュ・サトヤルティさんの2人となった。お二人の受賞に祝意を送りたい。
ところで、今年のノーベル賞にまつわる話題で、最も興味深かったのは、物理学賞を受賞した中村修二さんの次の言葉。
「In my cace,my motivation is always anger.(私の行動の原動力は常に“怒り”です)」
毎日の報道では、「中村氏は大学構内での会見で、研究の原動力について『アンガー(怒り)だ。今も時々怒り、それがやる気になっている』と力を込めた。青色LED開発後、当時勤めていた日亜化学工業(徳島県阿南市)と特許を巡り訴訟に至った経緯に触れながら、怒りを前向きなエネルギー源に転換してきたと強調した。中村氏は、自分の発明特許を会社が独占し、技術者の自分には『ボーナス程度』しか支払われず、対立したと改めて説明。退職後も日亜化学から企業秘密漏えいの疑いで提訴されたことが『さらに怒りを募らせた』と明かした。『怒りがなければ、今日の私はなかった』と冗談交じりに語り、『アンガー』という言葉を手ぶりを入れながら何度も繰り返した」とのこと。
読売では、「社内で『無駄飯食い』と批判されていた」「会社の上司たちが私を見るたびに、『まだ辞めてないのか』、と聞いてきた。『私は怒りに震えた』。このような研究に冷ややかな周囲の目や元勤務先との訴訟への怒りが、開発への情熱につながった」という。
予定調和的なコメントがお約束となっている「晴れの場の記者会見」の席上で、歯に衣着せぬ言葉が実にすがすがしい。そうだ。そのとおり、「怒り」は行動の原動力だ。自分のこととして良く分かる。
「同じ日本人」としてなどではなく、「同じく怒れる人」として、中村さんの受賞を喜びたい。
(2014年10月10日)