今年のノーベル平和賞に納得。そして来年は憲法9条に。
今年のノーベル平和賞は、女子教育の権利確立を唱える17歳のマララ・ユスザイフさんと、児童労働から子供を守る活動を続けてきたカイラシュ・サティヤルさんのお二人に決まった。「すべての子を労働から解放」し、「すべての子に教育を」という呼びかけに世界が共鳴したのだ。インドとパキスタン、国境を接して軍事衝突を繰り返す両国の平和活動家への同時授賞も心憎い。これなら、平和賞の名に恥じないと言えるだろう。
だがこの二人の願いが未だに切実なものである世界の現実を傷ましいものと考え込まざるを得ない。貧困と偏見が、子供を、とりわけ女児を教育から遠ざけている。教育こそが貧困と偏見を一掃する切り札なのだが、その教育の普及を貧困と偏見が妨げている。この悪循環克服が、平和のための世界の共通課題であることを今年の平和賞がアピールした。メッセージ性の強い、意義ある授賞との印象が深い。
「一人の教師、一冊の本、一本のペンが世界を変えうる」ことは、象徴的な比喩としては真実であっても、現実には「無数の学校、無数の教師、無数の教材、膨大な予算」が必要である。共同体としての人類の課題として、これを成し遂げなければならない。世界の平和と安定のためには、武器や原発の輸出は役立たない。教育条件の整備こそが喫緊の課題なのだ。
もっとも、教育に関してわれわれは別の次元での問題も抱えている。教育の機会均等の形骸化と教育に対する国家統制である。
国民間の経済格差の固定化は、教育における機会均等の喪失度に相関する。戦後と言われた時代の我が国には、経済格差に依存しない教育の機会均等があったように思う。国立大学の授業料は安かった。授業料免除の制度も利用できた。だから私も、私の二人の弟も大学教育を受けることができた。
本日の朝日のオピニオン欄「戦後70年へ」で、日本の近現代史研究者であるアンドルー・ゴードンさん(ハーバード大)が興味ある指摘をしている。
「60年代の統計ですが、国立大学入学者に占める最も貧しい所得層の学生の比率は、全人口に占めるこの最低所得層の比率とまったく変わらなかった。高等教育へのアクセスが、完全な平等に近い状況だったのです。公立学校の評価がまだ高かった時代です。どんな家庭の子にも道は開かれている。努力さえすれば、良い学校に入り、良い会社に就職ができると信じることができたのです」
―そういう信仰は、もはやないですね。
「いい学校に行くには塾に行かせねばなりません。親が裕福な方が有利です。所得格差が教育格差につながっています」
所得格差が教育格差につながり、教育格差が生涯賃金格差の再生産につながる。格差固定化の社会。不満と不安と絶望とが充満した社会をもたらすことになる。
国家による教育への介入の排除は永遠の課題である。この点の到達度は民主々義成熟度のバロメータでもある。教育の場において、ナショナリズムと排外主義をどう克服すべきか。これは優れて平和の課題でもある。
今年のノーベル平和賞は、世界の人々に、教育を見つめ考え語る機会を提供した。あるべき教育を通じての平和の達成を意図しての試みとして成功したと評価しえよう。
来年は「憲法9条」の受賞で、憲法による平和を世界の話題としよう。そして、非武装中立の思想と運動を世界に普及するチャンスとしよう。
それにつけても思う。マララさんはタリバン襲撃の危険をかえりみず意見の表明を貫いた。襲撃を受けて瀕死の重傷を負ってなお怯まなかった。その勇気ある姿勢に世界が感動し、賞賛した。考えようによっては、マララさんを襲撃したタリバンが、今回の授賞に一役買ったのだ。
日本国憲法9条も、今安倍政権からの不当な攻撃を受けて大きな傷を負っている。これに負けない国民運動をもって世界を感動させたいものと思う。そして、来年の今頃には、「考えようによっては、9条を攻撃した安倍晋三が、今回の9条の平和賞受賞に一役買ったのだ」と言ってみたい。
(2014年10月11日)