澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

小渕優子議員の出直しは議員辞職から

朝日の「かたえくぼ」欄に、
 「『復活』 お久しぶり ?政治とカネ」 とある。

なるほど、昭電事件・造船疑獄・ロッキード事件・リクルート事件・佐川急便事件等々の政権の中枢を揺るがす超弩級事件はしばらくなかった。その意味では、小渕優子事件は「政治とカネ」の大型話題提供事件として「お久しぶり」の「復活」なのかも知れない。しかし、政治とカネとの問題は、政権中枢を揺るがすほどのものではないにせよ、常に話題となり続けてきた。保守政権が続く我が国の政治史に通有というだけでなく、民主主義が成熟するまでの半永久的なテーマなのかも知れない。しかも、このマグマはくすぶっていただけではない。ごく最近に限っても、いくつか火を噴く事件も起こしている。「UE・石原宏高事件」、「徳洲会・猪瀬直樹事件」、「DHC・渡辺喜美事件」など、いずれも政治をゆがめることにおいて悪質性は高い。

ところで、資本主義とはカネがものをいう社会である。利潤の追求を容認し、カネの力を率直に認め合うことがお約束。労働力すら売買の対象となって誰も怪しまない。その資本主義の社会において、なぜカネで票を買ってはならない(投票買収の禁止)のだろうか。なぜ、カネで人を雇って選挙運動をさせてはならない(運動員買収の禁止)のだろうか。選挙運動や政治活動までも規制して、政治献金の量的規制や透明性確保などという、あきらかに自由主義の原則に反するルール設定が何故に合理性を持つものとされているのだろうか。

政治活動も選挙運動も本来は自由のはず。憲法21条によって保障される表現の自由の範疇の行為として、その制約は必要最小限にとどめられるべきが大原則である。原則における「自由」が、「公正」という別の法価値からの規制を受けるという局面。どこまでの制約が合理的なものとして許されるか。そこが問題だ。

政治活動は、最終的に選挙結果に結実する。選挙は言論による有権者の支持獲得の競争と位置づけられる。競争の勝敗は有権者の支持の表明としての得票数によって決せられる。有権者が自ら競争に参加し、あるいは競争者間の言論に耳を傾ける過程をへて、有権者団が多数決をもって審判を下す。ここには、最大多数の支持獲得が暫定的にせよ最大幸福の実現につながるという理念がある。

「純粋な言論による競争」が選挙の基本理念なのだ。どのような政治が最大多数の利益になるのか、どのような政策がそれぞれの有権者の利益・不利益にどう関係するのか。政策の表明を中心に、有権者の支持獲得が競われることになる。

このような競争の武器は可及的に自由な言論に純化すべきことが要求され、それ以外のものはあるべき選挙の攪乱要素として排斥される。自由な言論戦を攪乱する要素の最たるものがカネである。カネの力によって獲得された支持や票は、けっして最大多数の最大幸福をもたらさないからだ。金持ちが選挙に投入するカネは、そのカネを出した少数金持ちの利益以外にもたらすものはない。けっして社会全体の利益にはならないのだ。従って、「カネがものを言って当然」という資本主義社会の経済原則は、ここでは意識的に排除されることになる。社会全体の利益を最大化する見地から、「票は金で買えない」とされるのだ。

「票は金で買えない」「票を金で買ってはならない」ことは、経済力の格差が言論戦に反映することも公正を欠くものとして容認しえないことになる。選挙を繰り返す中で、民主々義はそのような「常識」に到達したのだ。こうして、「選挙の公正」は次第に「選挙の自由」を浸蝕しつつある。

資金力の不公平を是正する限りにおいて、「選挙の公正」による「選挙の自由」の抑制は肯定されてしかるべきである。金権選挙・企業ぐるみ選挙は、徹底して排撃されなければならない。他方、言論戦それ自体の自由は最大限に保障されなければならない。だから、選挙運動の自由の規制は不当なものとして撤廃すべきであるが、選挙運動費用収支の量的質的規制や、収支報告の透明性の確保に関する規制は遵守すべきなのだ。

もっとも、「『選挙運動は無償を原則とする』などということは一方的な澤藤の思い込みで、間違った解釈である」という見解をネットで堂々と公開している「革新陣営」の弁護士もいる。多分、いまだにこの水準が多くの候補者や選挙運動参加者のホンネなのだろう。しかし、法は意識水準よりも先を行っている。「選挙運動は無償を原則とするものではない」などと信じ込まされるとたいへんな目に遭うことになる。

選挙に立候補する人、選挙運動に携わる人に申し上げたい。とりわけ、革新陣営の候補者に。「潔白に身を処すように心がけさえしておれば、問題を起こすようなことはあるまい」などと精神論だけで悠長に構えておられる時代ではない。選挙の公正を確保するための規制は、繰り返される脱法を防止するために複雑化している。もはや政治家自らが制度に精通していないではたいへんなことになりかねない。既に、「秘書にお任せ」「政党指導部にお任せ」では、政治家たる資格のない時代なのだ。

また、候補者の掲げる政策に賛同して選挙運動に参加する人、後援会活動に参加する人に申し上げたい。選挙運動は無償に徹すべきものなのだ。選挙をアルバイトと考えてはならない。選挙で飲み食いして、足りない分を補填してもらうなどしてもらってはならない。選挙に絡んでカネをもらうことは、実は犯罪に巻き込まれる危険にさらされることなのだ。

保守政界のプリンセスであった小渕優子も、結局は「秘書にお任せ」の実態を露呈して、政治家としての資格のないことを天下にさらけ出した。この人、けっして右翼でも靖国派でもないだけに、残念な気持ちは残るが、出直しするしかない。問題はどこまで出直しが必要になるのかということ。閣僚辞任だけでは済まない。議員辞職も必要ではないか。

この間、小渕優子後援会の政治資金収支報告書における「明治座観劇会」の収支報告のでたらめさが明白となった。数字の辻褄の合わないことから、客観的に不実の記載であることが明らかなこの報告の作成行為は、収支報告書の作成者である会計責任者において、政治資金規正法第25条第1項3号の虚偽記載罪(最高刑禁固5年)が成立することになる。

この虚偽記載罪の構成要件は本来故意犯と考えられるところ、政治資金規正法第27条第2項は「重大な過失により第25条第1項の罪を犯した者も、これを処罰するものとする」と規定して、重過失の場合も含むものとしている。その結果、「虚偽記載」とは行為者が「記載内容が真実ではないことを認識しながら記載した場合」だけでなく、「重大な過失により誤記であることを認識していなかった場合の記載」をも含むものとなっている。

本件の場合、故意犯の可能性も高いが、「わずかな注意を払いさえすれば容易に誤記であることの認識が可能であった」として重過失でも有罪となるのだから、会計責任者が処罰される可能性は限りなく高い。

問題はその場合の、小渕優子自身の責任である。政治資金規正法第25条第2項は、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合の政治団体の責任者である政治家本人の罪を定める。こちらは重過失を要せず、「会計責任者の選任及び監督についての相当の注意を怠る」という軽過失で犯罪が成立する。

法25条2項の「選任及び監督」を厳密に、会計責任者に対する「選任」と「監督」の両者についての過失を必要とするとの見解もあるようだが、些事にこだわる必要はあるまい。憲法7条の「助言と承認」、憲法19条の「思想及び良心」のいずれも、語を分けて論じる実益はないものとされている。会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に政治団体の責任者の「選任及び監督」に過失があったものと推定されなければならない。政治団体を主宰する政治家が自らの政治活動の資金の正確な収支報告に責任をもつべきは当然だからである。

この場合の責任は、政治的・道義的な責任にとどまらない法的責任である。しかも、最高刑が罰金50万円ではあっても、刑事制裁を伴う犯罪が成立するのだ。現実に罰金刑が確定すれば、公民権停止にもなる。その場合には議員としての地位を失わざるを得ない。

もっとも、今のところは明確な虚偽記載は「小渕優子後援会」の収支報告に限られ、小渕優子自身が責任者となっている資金管理団体の「未来産業研究会」については、必ずしも明確な虚偽記載があったと断定できるまでには至っていない。その意味では、小渕自身の法的責任を断定的に述べるのは尚早ではある。

しかし、自ら真摯に政治家としての出直しをするというのなら、この両者を分けて論じることに合理性を見出しがたい。真摯な反省は、国会議員を辞すところから始めるべきではないか。なお、公民権停止期間は5年間が原則である。
(2014年10月21日)

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Published in 火曜日, 10月 21st, 2014, at 23:36, and filed under 政治とカネ.

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