澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

植村隆・北星学園応援の声を上げよう

本日(12月14日)の毎日「今週の本棚」(書評欄)トップに、将基面貴巳著「言論抑圧ー矢内原事件の構図」(「中公新書」907円)が紹介されている。書評執筆者は北大の中島岳志。紹介する書物のテーマがもつ今日性についての強い問題意識が熱く語られ、それゆえに迫力ある書評となっている。

冒頭から問題意識が明確に表示されている。
「慰安婦報道に携わった元朝日新聞記者・植村隆氏へのバッシングが続いている。植村氏は、赴任予定だった神戸松蔭女子学院大学から教授ポストの辞退に追い込まれ、現在は非常勤講師を務める北星学園大学で雇い止めの瀬戸際に立たされている。現政権は脅迫への積極的な批判や対策に乗り出さず、一方で朝日新聞叩きに加勢する。」

この状況が「いつかきた道」を想起させるのだ。
「右派からの苛烈な攻撃と過剰反応する大学。そして、権力からのプレッシャー。歴史を想起すれば、1930年代に相次いだ言論抑圧事件が脳裏をよぎる。」

1937年に東京帝国大学経済学部を追われた矢内原忠雄を取り巻く背景事情は、まさしく現在進行する北星学園大学の植村隆のそれと瓜二つなのだ。

80年前の事件では、紆余曲折の末、結局は文部大臣の圧力に屈した帝大総長の即決によって矢内原は大学を追われる。矢内原は最終講義を次の言葉で締めくくったという。「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する。諸君はそのような人間にならないように…」

中島は、書評を次のとおりの熱い言葉で締めくくっている。
「本書は約80年前の事件を取り上げながら、現代日本を突き刺している。我々は歴史を振り返ることで『いま』を客体化し、立っている場所を確認しなければならない。必読の書だ。」

この「必読の書」は、今年9月下旬に発刊されたもの。植村・北星学園バッシング事件応援のために生まれてきたような書。矢内原事件とは異なり、植村・北星学園の事件は未決着だ。「バッシングにマケルナ!」の声援が日増しに大きくなっている。中島に呼応して、多くの人が、それぞれの持ち場でその影響力を駆使して、この事件を語ってもらいたい。書く場があれば書いていただきたい。元々が根拠をもたない攻撃なのだ。多くの人の言論の集積で、必ずやこの攻撃を食い止めることができるに違いない。

私も自分のできることとして、下記のとおりこの件についてブログを書いている。

12月10日https://article9.jp/wordpress/?p=3991
植村隆の「慰安婦問題」反撃手記に共感

12月3日https://article9.jp/wordpress/?p=3958
ニューヨークタイムズに、右翼による「朝日・植村バッシング」の記事

11月29日https://article9.jp/wordpress/?p=3925
「試されているのは一人ひとりの当事者意識と覚悟」?北星学園「応援」を自らの課題に

11月15日https://article9.jp/wordpress/?p=3858
「負けるな北星!」  学内公聴会発言者に敬意を表明する

嬉しいことに、読者からの反応がある。若い友人からいただいた12月10日ブログへの感想を、2例引用しておきたい。

「12月10日の植村隆さんの手記を紹介するブログを読んで涙が止まりませんでした。植村バッシングの本質を鋭くついている点や手記最後の部分への共感など、本当に植村さんの言いたいことを代弁して下さっていて、うれしく思います。

『文藝春秋』編集部の前文はいやらしい書き方ですが、本質的批判ではないと私は受け止めています。アリバイ作りというか、『文藝春秋』は植村さんの手記を載せる以上、右翼からのバッシングを恐れてあのような前文を書かざるを得なかったのでしょう。違う意味での『委縮』だと思います。

それでも、植村さんの主張が、保守系雑誌にきちんと載ったことの意義は大きいと思っております。
これからもよろしくお願いいたします。」

「12月10日の澤藤さんのブログで植村隆さんの手記が発表されたことを知って、さっそく図書館でコピーして読みました。この手記は非常に重要ですね。

この手記は、事件について教えてくれるばかりでなく、現在のわれわれの社会の政治的言論の異様な状態──自由な発言と議論と批判を排除して、嘘と隠蔽と根回しとイメージを操作することによって集団の合意を形成しようとし、自分と異なる意見にたいしては反論するのではなく圧力をかけることによって黙らせようとする──を理解するための重要な鍵をいくつか与えてくれるように思います。

植村さんの手記を読むと、この事件が、脅迫電話や脅迫状や『電凸』を仕掛けたネトウヨだけが犯した犯罪ではないことに気づかされます。

1991年8月10日の植村さんの最初の記事から2014年の植村宅や北星学園に対する嫌がらせまで、この事件を紡いでいった一つ一つの鎖の輪のなかに登場する諸個人──西岡力は中でももちろん重大ですが、その他にも、朝日新聞東京本社からはじまって、慰安婦問題を大きく取り上げようとしなかった大手新聞各社、雇用契約を一方的に破棄した神戸松蔭女子大学の幹部、本人取材をスルーした読売新聞記者、盗撮したフラッシュ女性記者、ネットで中傷を繰り広げた者たち、その中傷に屈して雇い止めを望んだ北星学園大学の一部のひとたち、謝罪会見を準備した朝日新聞本社の幹部とそれを指揮し会見を実際に行なった木村社長にいたるまで──これら諸個人の判断と行動の一つ一つの積み重なりが、この事件を構成しているのだということに気づかされます。

もし、これら諸個人の一人一人が、正しく判断し、真実を言う勇気をもっていたら、この事件は起らなかったのではないかと思います。

組織や集団において責任ある地位にいる諸個人、その人たちの不見識と無責任と怯懦が、そして、そのような人々を組織や集団のトップに押し上げるような組織運営のシステムが、今日の言論の危機を招いているのではないでしょうか。

有権者に、判断のための情報と議論をする時間を与えず、イメージだけを与えて、自分たちが勝てるうちに総選挙をやってしまおうとする安倍首相のやりかたが、ナオミ・クラインが『ショックドクトリン』と批判したまさにその手法です。また、一国の首相がフェイスブックで個人のコメントに噛みつくような世の中では、勇気も見識もない跳ねっ返りが、気にくわない相手を匿名で恫喝するのも当然のことのように思えてきます。

このようなモラルと言論空間の変容は、政治、経済、社会の変容と結びついてもいるわけで、そちらの方も別の機会に考えてみたいと思います。

いずれにしても、澤藤さんが12月10日の憲法日記で書いていらっしゃるように、この現実に起きている恐るべき悪夢について、『今何が起こっているのか、何がその原因なのか、そしてどうすればこの状況を克服できるのか。理性と良識ある者の衆知と力を結集しなければならない』という言葉に賛同します。

今日の恐るべき政治の主導者たちが、毎日のように昼夜を問わず料亭やホテルや別荘や研究所に集まって悪知恵と悪だくみに磨きをかけているのに対して、それを打ち破ろうとする者たちがなかなか彼らに勝てないのは、そして野党や市民運動が脆弱なのも、知恵を出し合って一緒に議論したり探究したりしていないからではないでしょうか(もしかしたら、すぐれた研究はたくさんあるのに、僕が勉強していないだけなのかもしれませんが)。それにしても、この現状を打開するための知の探究は、一人でできるものでははないし、また、一人ですべきものでもないように思います。

またお目にかかってお話ししましょう。寒さの折り、お体を大切になさってください。」

植村手記を我がこととして読む人がおり、また、植村手記を現代の病理を象徴する重要な事件として真剣に読み解こうとする人がいる。植村・北星学園が孤立した状況は確実に克服されつつある。

私は、この問題についてのブログを発信し続けよう。そして、弁護士としてできることを追求する。さしあたっては、仲間と語らって、ネットにアップされた典型的な悪質いやがら事案を刑事事件として立件させることに努力する。
(2014年12月14日)

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