今年1年「憲法日記」をお読みいただいたことに感謝いたします
たまたま目にした神奈川新聞に次の句があった。
余白なきページを重ね日記果つ(増田幸子)
日記は一年単位のもの。その日記の各ページを、年初からこつこつと余白なく埋めてきて、その繰りかえしがとうとう全ページを最後まで埋めつくしたという感慨が詠まれている。日記の記載は確実に自分の人生の一部である。年の終わりに、一年という時の経過と、その間の自分の人生のあゆみとを、余白のなくなった日記を読み返しての一入の感慨。今年1年、何ごとかを成し遂げたという充実感も読み取ることができよう。
私のブログも、本日大晦日の掲載で、今年365日は余白なきページを埋めつくした。一日の休載もなく、書き連ねたことにいささかの充実感がある。
私のブログは「憲法日記」と標題する。日々書き連ねていることにおいて日記ではあるが、我が国の伝統的な「日記」とはやや異なる。「日記」とは、通常他人の目に触れることを想定していない。あるいは、目に触れないことを前提とする体裁で書かれることが多い。自分だけの読み直しのために、自分の考えをまとめ、忘れてはならないできごとの私的な記録といってよい。
永井荷風の「断腸亭日乗」は、その典型であろうか。荷風37歳の1917年9月16日を第1日目として死ぬ前日まで42年間書き続けられたものだが、戦前には筆禍を怖れて誰にも見せなかった。見せなかったというだけでなく、懸命に隠していたともいう。隠さねばならないと思いつつも、書き残しておこうとするところが文人の文人たる本性なのだろう。「日乗」の戦後分の評価は高くない。晩年は殆どが一日一行という程度にもなっている。隠さねばならないと思いつつ、よほどの覚悟で書いた日々の文章が貴重であり、関心を呼んでいるのだ。
似た例では、神坂次郎が紹介する「元禄御畳奉行の日記」(中公新書)が実に面白い。荷風が漢学と西洋の教養を兼ね備えた風流人(相当に偏狭で自堕落ではあるが)であるのに比較して、こちらは一介の尾張藩士の日記である。取り立てて取り柄のない下級藩士朝日文左衛門は、恐るべき根気で筆まめに日記を書き続けた。その日記の名を「鸚鵡籠中記(オウムろうちゅうき)」と気取ってつけている。彼が18歳であった元禄4年6月13日から延々26年8か月、日数にして8863日間連綿と書き続けた。神坂の紹介による、ままならぬ人生模様を描いたその内容が実に面白く、「日記を書くためだけに生まれてきたような」生涯と評されている。その鸚鵡籠中記の8864日目のページには、知人の筆で「終焉」の2文字が書き加えられているという。この日記も、藩主の浪費やその生母の淫乱などについてまで書き留め、到底人に見せるつもりがあったとは考えられない。文左衛門も、自分の日記が後世こんなに多くの人に読まれる貴重な記録になろうとは夢にも思わなかったことだろう。
これに対して、ブログは社会への発信ツールである。自分だけの備忘録ではなく、後の自分ひとりを読者に想定するものではない。多くの人に知ってもらいたい情報を伝達し、意見を共有してもらいたいとする積極的な表現である。だから読んでいただくために文章を綴っている。
とりわけ、私の「憲法日記」は安倍晋三という右翼が政治家となり首相にまでなったことによる改憲への危機感を出発点としている。現在の憲法の危機を世に伝え、憲法の危機は人権の危機であり平和の危機であること、さらには多くの庶民にとっての生活の危機でもあることをうったえ、憲法を攻撃する勢力にともに対峙することを呼びかけることを本旨としている。
だから、独りよがりの文章は意味がない。「長すぎる」、「分かりにくい」という批判には耳を傾けなくてはならない。常々そうは思っているのだ。能力の不足のせいでこれが難しいのだが。
そしてブログの継続に意味があると考えている。毎日覗いていただけば、必ず何かしらの新しい情報や意見を提供できるように心掛けている。拙いブログも、継続することで私の真摯さをアピールすることもできるし、社会への発信力を獲得することができるのではないだろうか。
本日のブログ掲載で今年全日の更新をしたことになった。2013年4月1日から通算して640日連続更新ともなっている。しばらくは連続更新を続けたい。とりあえずの目標は1000回の大台である。それまでに、安倍政権が崩壊して頑張る必要がなくなることを祈りながら。
今年1年、「憲法日記」に少しでもお付き合いいただき、一部なりともお読みいただいた方に心から感謝を申しあげて、年を閉じるご挨拶といたします。
(2014年12月31日)