澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

西修参考人意見「強弁」の無力

戦争法案が違憲であることは、既に国民の常識となっている。斎藤美奈子の表現を借りれば、「いまや違憲であることがバレバレになった安保法制」(東京新聞・「本音のコラム」)なのだ。「違憲の法案を国会で成立させてはいけない」という正論も過半の国民の確信だ。大勢決したいま、敢えてこれを合憲と言い繕おうという強弁は、蟷螂の斧に等しい。

そのような蟷螂の役割を勇ましく買って出たのが西修(駒澤大学名誉教授)である。6月22日の安保特別委員会での参考人発言だ。しかし、どんなに勇ましいポーズをとろうとも、蟷螂は所詮蟷螂。その斧をいかに振りかざそうとも、天下の形勢にはそよ風ほどの影響もない。

6月22日参考人意見では、宮?礼壹、阪田雅裕の元内閣法制局長官両名の発言が話題となった。「学者だけでなく、官僚も違憲の見解なのだ」と。西の発言内容はほとんど話題にもならなかった。とはいえ、他にない珍らかなる蟷螂の言である。それなりの注意を払うべきだろう。報道されている限りで、その発言を整理してみたい。

西参考人発言は、次の10項目を内容とするものである。
1 「戦争法案」ではなくて「戦争抑止法案」だと思う。9条の成立経緯を検証すると、自衛権の行使はもちろん、自衛戦力の保持は認められる。
2 比較憲法の視点から調査分析すると、平和条項と安全保障体制、すなわち集団的自衛権を含むとは矛盾しないどころか、両輪の関係にある。
3 文理解釈上、自衛権の行使は、全く否定されていない。
4 集団的自衛権(国連憲章51条)は、個別的自衛権とともに、主権国家の持つ固有の権利、すなわち自然権である。また、両者は不可分であって、個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体がおかしな話。
5 集団的自衛権の目的は抑止効果であり、その本質は抑止効果に基づく自国防衛である。
6 我が国は、国連に加盟するに当たり、何らの留保も付さなかった。国連憲章51条を受け入れたと見るのが常識的だろう。
7 個別的自衛権にしろ集団的自衛権にしろ、自衛権行使の枠内にある。国際社会の平和と秩序を実現するという憲法上の要請に基づき、その行使は政策判断上の問題であると思います。
8 政府は、「恒久の平和を念願し」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」などという国民の願いを真摯に受けとめ、国際平和の推進、国民の生命、安全の保持のため、最大限の方策を講ずるべき義務を負っている。
9 国会は、自衛権行使の範囲、態様、歯どめ、制約、承認のありようなどについて、もっと大きな視点から審議を尽くすべきである。
10 今回の安全保障関連法案は、新3要件など、限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲である、このように思うわけであります。

私の要約は、大きく間違ってはいないはず。ところどころ、テニオハが少しおかしいが、これは、西の発言の原型を尊重しているからだ。以上をお読みになって、はたして蟷螂の斧の威力の有無以前に、そもそも西製斧の形状や素材を認識できるだろうか。主張への賛否や、説得力の有無の判断以前に、主張の筋道や論理性を理解できるだろうか。

論証の対象は、「安全保障関連2法案(戦争法案)の合憲性」「法案の9条との整合性」、少なくとも「違憲性の否定」である。上記10項目がそのような論証に向けての合目的的な立論となっているとはとても考えられない。これを聞かされた自民党・公明党の委員も、さぞ面食らったのではなかろうか。

以上の、理屈らしい理屈を述べようとした部分はきわめて分かりにくい。というよりは、合憲論の論証としてはほとんど体をなしていない。分かり易いのは、西が最後に述べたところである。大意は以下のとおりだ。

「我が国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、我が憲法9条は、我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである。」

これは分かり易い。要するに、「主権国家は平和と安全を維持するために、国際情勢の実情に即応して適当と認められることなら何でもできる」というのである。おそらくは、このあとに、「主権国家が平和と安全を維持するために国際情勢の実情に即応して適当と認められることをすることが違憲となることはありえない」「本法案は、そのような『適当と認められる』範囲内の法律を定めるものだから違憲ではない」ということになるのだろう。要するに、「国を守るためなのだから憲法の字面に拘泥してはおられない」という分かり易く乱暴な「論理」である。この「論理」で前述の10項目を読み直すと、なるほど了解可能である。もちろん、了解可能とは意味内容の理解についてだけ。けっして同感や賛同などできる訳がない。

西の立論では、憲法9条の文言が具体的にどうであるかはほとんど問題にならない。「比較憲法学的に」、一般的な安全保障のあり方の理解や、国際情勢のとらえ方次第で、憲法の平和条項はどうとでもフレキシブルに解釈可能というのだ。およそ、憲法が権力の縛りとなるという発想を欠くものというほかはない。

また、西の主張では、自衛権に個別的だの集団的だのという区別はない。どちらも国家の自然権として行使が可能というのだ。時の政権の判断次第で、我が国の存立のためなら何でもできる。憲法よりも国家が大切なのだから当然のこと、というわけだ。

これはまたなんと大胆なご主張、と驚くほかはない。あからさまな立憲主義否定の立論である。主権者が憲法制定という手続を経て、為政者に対して課した権力行使に対する制約を認めない立場と言ってよい。

立憲主義を認め、9条の実定憲法上の規範性を認めた上で、問題の法案を合憲というには、きわめて精緻でアクロバティクな立論が要求される。西流の乱暴な議論では、どうにもならないのだ。

やはり、自民党は今度も参考人の人選を誤ったようだ。とはいうものの、敢えて蟷螂たらんとする者は他になく、手札は底を突いていたのだろう。西参考人推薦は、与党側にとって合憲論での巻き返しの困難さをあらためて示したというほかはない。
(2015年6月24日)

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