安倍「慰霊外交」のオモワク。
7月になった。今年の元日にブログを再開して以来半年。間借りしていた日民協のホームページから独立して3か月。毎日更新を続けてきた。現実化しつつある「改憲の危機感」に駆られてのこと。自力で可能な抵抗の試みである。
このブログの設定も維持もまったく費用はかからない。だれにでもできる、社会への発信手段としてこれで十分だ。飾りもなく、衒いもない、シンプルなこのブログのスタイルは、だんだんと気に入っている。
「憲法日記」として、読むに値するものとなっているのでないだろうか。自分なりに快調に飛ばしているという思いがある。
まず、テーマに困ることはない。むしろ、ありすぎて困るほどだ。
「石川や浜の真砂は尽きるとも、世に憲法問題のタネは尽きまじ」なのだ。
そして、何でも書ける。だれにも、何の遠慮も要らない。精神衛生的には絶好調である。
一次情報に接する機会あれば、できるだけ提供するように心掛けている。二次情報をネタにしたものでも、その取扱いの切り口には自分らしさを出すようにしている。素人の感想文では読むに値しない。さりとて、研究者の論文では読ませるものとならない。読むに値し、読ませる内容で、継続したいと思っている。
しかし、問題はいくつかある。まず、長文に過ぎるという苦情がある。「文章の長さだけで、辟易する」「読んでもらいたければ短く収めること」そう言われるのが悩みのタネ。さて、どうするか。ここが思案のしどころである。
**************************************************************
ときどき、まったく知らないことを教えられて、「さすが記者」と感心することがある。その一例。6月28日の毎日・「金言」(金曜日の言)というコラムに西川恵編集委員が次のように指摘している。
「この半年、安倍晋三首相は精力的な首脳外交を展開しているが、目を引くのは外国訪問で「慰霊」を意識的に日程に組み込んでいると思われる点である。首相の日々を新聞で拾うと、13カ国のうち5力国で、無名戦士の墓や追悼記念碑に献花し、黙とうする儀式に臨んでいる」「米ワシントンのアーリントン墓地(2月)を皮切りに、露モスクワ(4月)、トルコ・アンカラ(5月)、ミャンマー・ヤンゴン(同)、ポーランド・ワルシャワ(6月16日)。これほど「慰霊」を行っている首相は過去いないのではないか」
この指摘は、同首相の靖国神社参拝の布石との疑念を生じさせる。「外国では当たり前のこと。我が国でも」と言う口実にもなるし、相互主義の名のもと、外国の首脳をともなっての靖国参拝を目論んでいるのではないかという「邪推」もせざるを得ない。
しかし、西川記者は次のエピソードを紹介している。
「西独(当時)を訪問したレーガン米大統領が、同国のコール首相の求めでルクセンブルクに近い国境の独軍将兵らの墓に詣でたことがある(85年)。ところが直前にナチス親衛隊員が合まれていることが分かり、米世論が反対し、米上下両院も墓参反対を決議した。同大統領はユダヤ人の強制収容所も訪問し、墓参も短縮してバランスをとった。こうしたリスクをとった外国首脳を私は他に知らない。」
つまりは、A級戦犯を合祀したままでは、外国首脳の靖国参拝は困難なのだ。「A級戦犯が合祀されている靖国神社への参拝は、過去の戦争の正当化だ」との批判に曝されることになり、「1978年、靖国神社がA級戦犯を合祀して以降、来日する外国首脳は議論の多い同神社に足を踏み入れるのを避けている」ことにならざるを得ない。
しかし、「安倍のリスク」は、経済ばかりではない。中・韓・米・英・蘭などとは異なる、我が国による戦争犯罪被害とは無縁の国の首脳をともなっての参拝の強行はありうるのではないか。また、安倍自身が外国での慰霊を積み重ねて、自国では戦没者慰霊をせぬことの不自然さを演出しようとしているのではないか。油断をすると、危険極まりないことになる。
西川記者は、ドイツの例などに倣って、日本でも、外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所を設けるべきと提案して、「慰霊の非対称解消を」唱道する。たとえば千鳥ヶ淵墓苑を、そのような「外国首脳が戦没者を慰霊する仮の場所」とする具体的な提案である。この提案が「靖国派」から大きな反発を受けることは必定だが、それだけではない。おそらくは「反靖国派」からも、疑問符を突きつけられることになろう。
靖国問題の本質は、A級戦犯合祀にあるのではない。靖国神社という宗教性にあるのですらない。国家が戦没者の魂の管理を独占するところにある、という考え方が広範にある。A級戦犯分祀によっても、靖国神社という宗教性の払拭によっても、国家の名による戦没者の魂の管理の独占がある限り、「靖国問題」の真の解決はない。
(2013年7月1日)