澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

労働者は朝礼の唱和を拒否できないのか?

TPPや消費税、あるいはNHK問題などで師と仰ぐ醍醐聰さんから、「従業員は朝礼の唱和を拒否できないのか?」という問題提起のメールをいただいた。詳細は、下記の醍醐さんのブログをご覧いただきたい。
http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-d072.html

大要は、「職場の朝礼で『唱和』を拒否した労働者が懲戒解雇され、その解雇の無効を訴えた裁判で労働者は勝訴した」「しかし、勝訴の理由は業務への支障の有無という企業側の観点からの評価に終始している」「どうして、労働者の側の『自分の意に沿わない言動を拒む』という人格権を認め、人間としての尊厳を尊重するという視点からの問題把握とならないのか」という怒りのご指摘。判決を言い渡した裁判官だけでなく、サイトで労働者の立ち場で判例解説をした弁護士を含め、「法曹界の体質もまた、ブラック企業をまかり通らせる一因になっているのではないか」とのきついお叱り。

「まことにおっしゃるとおり」と申し上げるよりほかはない。法曹界にそのようなご指摘、ご叱声をいただくことにも感謝したい。確かに、「勝訴したから、十分ではないか」では済まない。何がしかをコメントせねばならないが、労働契約に関する解説や意見は敬して遠ざけ、憲法上の観点だけを述べてみたい。

その事例で使用者が強制した唱和の内容は、「理事長の下に固く結束し」というもの。労働者はどうしてもこれを口にすることができずに解雇された。「使用者がこのような唱和の強制をする権限があるか」「労働者がこのような唱和を拒否できるか」の両面についての考察が必要となる。

使用者側から見れば、「職場の結束の重要性について労働者に自覚を促す」ことが使用者の権限として許されないはずはない。労務指揮権の具体的な内容として認められて当然との思い込みがあろう。「職場にチームワークが必要なのは自明なこと」「そもそも、『以和為貴(和を以て貴しとなす)』は普遍的真理ではないか」と考えていたとも思われる。

聖徳太子非実在説が通説化しつつあるようだが、「十七条の憲法」は我が国最古の法典として史書(日本書紀)に名をとどめている。ここでの「憲法」は近代以後の、立憲主義に基づく憲法とはおよそ別もので、「公務員心得」程度のものでしかない。権力者の立ち場から臣従する者の心得を説いて、今の世の規範としては読むに耐えない。とりわけ「和を以て貴しとなす」は、続けて「無忤為宗(逆らうことなきを旨とせよ)」と言っているとおり、「上から押しつける秩序」の維持を目的とするもので、近代憲法から見て到底許容しがたい代物。これを現代においても、「便利な規範」として使おうというアナクロの不心得者が後を絶たず問題を起こしている。

自民党改憲草案の前文に、「日本国民は、…『和を尊び』、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。」という不気味な一節がある。党の公式解説である「改正草案Q&A」では、「党内議論の中で『和の精神は、聖徳太子以来の我が国の徳性である。』という意見があり、ここに『和を尊び』という文言を入れました」と明記している。

自民党にとっても、使用者にとっても、『和の精神』、『和を貴び』は、自明の徳目であるようだが、彼らが考える「和」とは、強者が形成した秩序に弱者が抵抗せずに従順に服することを意味している。「十七条の憲法」に通底する「和」とは、一読すれば分かるとおり、天皇制政府が百卿群臣の自発的服従を得て秩序が確立されている状態を理想とするもの。強者が弱者に対して強制する「和」とは、強者の想定する秩序を維持する「和」でしかなく、対等者間の「和」には強制の要素がはいりこむ余地がない。

「固く結束する」という唱和の強制は、使用者から労働者に対してなされる「企業秩序としての和」への服従の強制にほかならない。換言すれば、「文句をいわずに、企業主の利益のために働きます」という精神を一斉に口頭表現することの強制である。私は、そのような強制は、対等者間の労働契約の本質にはずれた強制として効力をもたないと信じて疑わない。

法的な意味において、人と人とは対等であり、本来人は他者に対して強制する権限を持たず、何人も他者から強制されることはない。強制力は、国民が権限を与えた権力の作用と、契約の効果としてのみある。強制権限のあるところ、強者の横暴を許容することはできず、弱者には法的保護が与えらなければならない。

往々にして、「共同で行動する以上は、中心に立つ者に強制の権限が必要」とか、「組織である以上は、強制力がなければ運営はできない」などという不見識が軽々に語られる。こういう心根が「ブラック企業をまかり通らせる一因になっている」ことに疑いがない。人の人に対する強制という作用が、人を傷つける側面を軽んじてはならない。権力にも企業にも、そして社会のあらゆる場面で厳格に強制力の行使を監視し制約しなければならない。

労働者各人において、「理事長の下に固く結束し」の唱和の捉え方は一様ではない。ある人にとっては、そのような唱和は自己の精神活動に何の影響も感じられない。また、ある人には、不愉快だが我慢ができる範囲であると感じられる。しかし、自分のプライドに懸けてそのような唱和はできないとする人もあろう。

強制される内容が、被強制者の信仰を傷つけるものであれば憲法20条の信教の自由を根拠とし民法90条(公序良俗違反の法律行為の無効)や民法1条3項(濫用された権利の効果否定)を媒介とした救済が可能である。また、被強制者の思想・良心を傷つけるものであれば憲法19条を根拠とすることになる。しかし、「理事長の下に固く結束し」の唱和は、一般的には、信仰や思想良心の自由を侵害しているとは言いにくいだろう。とすれば、憲法13条の個人の尊厳ないしは幸福追求権を根拠に、『自分の意に沿わない言動を拒む』ことが認められないかが問題となる。

憲法13条の幸福追求権は、通説的には「個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利の総体を言う」(人格的利益説)とされている。この「権利の総体」を具体化したものが、名誉権、肖像権、プライバシー権、環境権、日照権、平和的生存権等々という新しい権利となる。「みだりに自分の意に沿わない言動を拒む権利」も、「個人の人格的生存に不可欠な利益」である限り、幸福追求権の一環として認められてよい。

また、「個人の人格的生存にかかわる重要な私的事項については、公権力の介入干渉なしに各自が自律的に決定できる自由」を自己決定権ないし人格的自立権と呼ぶ。『自分の意に沿わない言動について、強者の強制を拒む権利』は、人格的自立権の範疇でとらえることが可能である。

もっとも、まだそのような判例があるわけではない。訴訟では、実務家は確実に勝つ手段を選ぶ。困難な一般的権利の創造よりは、目の前の労働者の生活の救済が優先する。やはり、解雇権濫用の法理で勝訴判決を得る努力にもそれなりの敬意をはらうべきだとは思う。

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  『止まってください、原発の汚染水』
悪いもの、汚れたものは「水」に流す。「水」はなんでも飲み込んで、無いものにしてくれる。日本人は昔からそう思っていたし、そうしてきた。でもそんな手品はできやしない。
製紙工場が垂れ流した「田子の浦ヘドロ公害」、あちこちの川や湖を魚も鳥も住めなくした中性洗剤や農薬、足尾銅山の鉱毒を沈殿した渡良瀬遊水池、チッソの垂れ流した有機水銀による水俣病などなど。思いだしただけでも、吐き気がする。これらは氷山のほんの一角。

我々は懲りずに、反省もせずに、次から次と有害なものを「水」に流して、経済成長を追い求めてきた。そして行き着いた先が、にっちもさっちもいかない「原発汚染水」。
事故を起こした福島第1原発。最初は原子炉内の溶けた核燃料を冷やすためにかけ続けなければならない「水」。そこへ地下水が毎日400トン流れ込む。これはみんな汚染水になって海に流せないので貯めざるをえない。あっという間に、タンクはいっぱい。そこで地下貯水槽を掘った。13000トンを7つ。ところが、その水槽の防水ポリエチレンシートに穴が開いていて、汚染水は漏れ出した。慌てて、容量1000トンの金属タンクを作って移した。見上げるような大きなタンクだけれど、2日半でいっぱいになる。タンクは作っても作っても間に合わない。もうすぐ40万トン、小学校のプール1000杯分に迫っている。原発の敷地の木を切り倒して、置き場を作っても、すぐに満杯。写真で見てもすごい量のタンクがずらりと並んでいて、息をのむ情景だ。それが、ついこの間までの状態。

それだけでも大変なのに、海側の敷地の地下に張り巡らされたトンネルのなかの高濃度(ハンパじゃない。23億ベクレルなどという数字が出ている。)汚染水問題が明らかになった。7月22日東電は、そこに地下水が流れ込んでいて、その汚染水が海に流出していることをしぶしぶ認めた。8月7日には、政府の原子力対策本部も、その流出量は1日300トンと試算した。経産省の担当者は「事故直後から流出している可能性を否定できない」と認めた。今までの400トンでも手に余っていたのに、700トンになったらどうしたらいいのだろう。

今まで東電任せで見て見ぬふりをしていた政府も、事ここにいたって、やっと汚染水対策に乗り出した。2014年度予算に盛り込む方針だとのこと。大手ゼネコン鹿島が提案している、凍土遮水壁方式を採用するらしい。福島第一原発の敷地をぐるりと囲んで、地中に凍った氷の壁を築いて、地下水の流入を防ぐというのだが、本当にそんなことができるのだろうかと思う。工事費は400億円ぐらい。これで止まるなら安いものだ。1日も早く着手してほしい。費用は政党助成金の1年分とちょっと。これを充てればよかろうと思うのだが。
(2013年8月8日)

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Published in 木曜日, 8月 8th, 2013, at 22:20, and filed under 未分類.

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