澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

ノーモア「ヒロシマ・ナガサキ・ウォー・ヒバクシャ」

「8月は、6日9日15日」
句というほどのものではない。しかし、なるほど、言われてみればまったくそのとおり。誰がいつころ最初に呟いたのやら。

「原水爆禁止2013年世界大会」は、6日をメインに「広島集会」、9日をメインに「長崎集会」として開催された。今年の大会は、9条改憲、原発再稼動、オスプレイ配備などの反対運動と呼応して、大きな盛り上がりを見せたと報じられている。初参加の若者が多かったとのことが、まことに心強い。

また、8月9日には、恒例の長崎市主催「平和祈念式典」が行われた。そこで田上富久市長が読み上げた平和宣言がこの上なく素晴らしい。

すぐれた文章には力がある。人を感動させ、人を動かす力。疑いなく、「平和宣言」はそのような力をもっている。聴く者に感動を与えてやまない。読む者に、核廃絶のために何かをしなければという気持を湧き起こさせる。

「宣言」は、1発の原子爆弾投下による被害の悲惨さを語ったあと、「このむごい兵器をつくったのは人間です。広島と長崎で、二度までも使ったのも人間です。核実験を繰り返し地球を汚染し続けているのも人間です。人間はこれまで数々の過ちを犯してきました。だからこそ忘れてはならない過去の誓いを、立ち返るべき原点を、折にふれ確かめなければなりません。」

「宣言」は、「忘れてはならない過去の誓い」「立ち返るべき原点」を抽象的な教訓として述べているのではない。式典に列席して、耳を傾けざるを得ない立ち場の安倍首相に向かって、堂々とこう言っている。

「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます。
今年4月、ジュネーブで開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議準備委員会で提出された核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同しました。提案国は、わが国にも賛同の署名を求めました。
しかし、日本政府は署名せず、世界の期待を裏切りました。人類はいかなる状況においても核兵器を使うべきではない、という文言が受け入れられないとすれば、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府は示したことになります。これは二度と、世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国としての原点に反します。
インドとの原子力協定交渉の再開についても同じです。
NPTに加盟せず核保有したインドへの原子力協力は、核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化することになります。NPTを脱退して核保有をめざす北朝鮮などの動きを正当化する口実を与え、朝鮮半島の非核化の妨げにもなります。
日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます。」

そのとおり。日本政府は既に数々の過ちを犯している。忘れてはならない被爆国としての原点を忘れてしまっている。9条を改悪して戦争のできる国にしたいというのが安倍のホンネだ。そのホンネは、そもそも核廃絶という発想になじまない。その安倍の耳に2度繰り返された、「日本政府には、被爆国としての原点に返ることを求めます」とのフレーズ。さぞかし左右とも耳の痛みは大きかったことだろう。

また、市長は若者に向かって、こう呼び掛けている。
「若い世代の皆さん、被爆者の声を聞いたことがありますか。「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫ぶ声を。
68年前、原子雲の下で何があったのか。なぜ被爆者は未来のために身を削りながら核兵器廃絶を訴え続けるのか。被爆者の声に耳を傾けてみてください。そして、あなたが住む世界、あなたの子どもたちが生きる未来に核兵器が存在していいのか。考えてみてください。互いに話し合ってみてください。あなたたちこそが未来なのです。」

「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は、なによりも「ノーモア・ウォー」と緊密に結びついている。被爆者の願いは、「報復の核兵器を持たねばならない」ではない。「惨めな敗戦ではなく、戦いには勝利を」でも、「抑止力としての武力を蓄えよう」でもない。報復でも抑止でもなく、広島・長崎の悲劇をこの世からなくすことなのだ。核もなくし、戦争もなくする。一切の軍事力を根絶した平和な世界をつくること。憲法9条の指し示す平和の実現、それこそが被爆者の祈りである。

そして、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ」は、いま「ノーモア・ヒバクシャ」ともしっかりと結びついている。被爆者は、被曝者でもあり、「ヒバクシャ」でもある。核兵器による放射線被害も、原発事故による放射線被害も変わるところがない。反核と反原発、ともに国民的課題である。

2013年の「8月は、6日9日」までが終わった。印象的な暑さの中で。

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  『渚にて?人類最後の日』(ネヴィル・シュート著 創元SF文庫)
1957年作。米ソだけでなく、核爆弾をもってしまった小国が入り乱れて、偶発事故から核戦争を起こしてしまう。北半球で4700発もの核爆弾が使われ、1年もたたないうちに、北半球の人類は死滅する。かろうじて残ったオーストラリアでの話。座して死の運命を待つ人々の物語。

たまたま潜水していたがために汚染を免れたアメリカの原子力潜水艦が、オーストラリア軍の指揮下に入り、迫り来る放射能禍と壊滅した北半球の放射能被害状況を偵察に出かける。目標は、謎のラジオ電波が発信されてくるシアトル。万難を排して上陸してみると、打電キーに風に揺れた窓枠がふれていただけとわかる。2年間もメンテナンスされていない、電源やキーが生き延びていたということ。テーブルを囲んでパーティーの最中の人々がそのまま死んでいるのに。

潜水艦に乗り組むオーストラリア軍士官たちの家族、アメリカ軍の原潜艦長を通して、刻々と近づく放射能の風と、避けられない死が語られる。
希望も闘いもない。そんなとき、この人たちは、子どもの成長を喜び、ベビーサークルを手に入れ、来年のために家庭菜園を計画し、たくさんの水仙を植える。飲んだくれていた女性はタイプを習い始める。ガソリンが不足するので、自転車や馬車に乗る。原潜艦長はアメリカのコネチカットに残してきた家族に、絶対に生きていないことは解っているのに、妻にアクセサリ、子どもにおもちゃを入手する。
一時の感情に溺れることはない。理性的で自制的で物静かに、周りの人々を思いやる。最後は、配られた薬を服用して、自死していく。

そして地球上に人間はひとりもいなくなった。

以前に読んだときは、あまりの恐ろしさと寂しさに、これは人間の尊厳について語られた物語だと読んで慰めを見いだそうとした。今回は、絶望だけが残った。
安倍首相が長期休暇をとってゴルフをしている姿が報道されている。広島でも長崎でも「核爆弾は絶対悪」ということをどうしても認めようとしない安倍首相にこそ、読んでもらいたい物語りである。

 このいやはての集いの場所に
 われらともどもに手さぐりつつ
 言葉もなくて
 この潮満つる渚につどう

 かくて世の終わり来たりぬ
 かくて世の終わり来たりぬ
 地軸くずれるとどろきもなく ただひそやかに
T・S・エリオット(井上勇訳)
(2013年8月10日)

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Published in 土曜日, 8月 10th, 2013, at 21:46, and filed under 未分類.

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