澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「押しつけられた憲法」ではない。「守り抜いた憲法」だ。

ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。こちらは「本郷湯島九条の会」です。「平和憲法を守ろう」、「平和を守ろう」、「日本を、再び戦争する国にしてはならない」。そのような思いで、活動している小さなグループです。小さなグループですが、同じ思いの「九条の会」は全国に7500もあります。

安倍内閣の改憲策動を許さない。平和憲法を壊してはならない。政策の選択肢として戦争をなし得る国にしてはならない。全国津々浦々で、7500の「九条の会」が声を上げています。しばらくご静聴ください。

日本国憲法は、70年前に公布されました。言わば、今年が古稀の歳。人間と違って、年老いるということはありません。ますます元気。ますます、役に立つ憲法です。私たちは、これを使いこなさなくてはなりません。

しかし、この憲法が嫌いな人がいます。なんとかしてこの憲法を壊したい。別のものに変えてしまいたい。その筆頭が、今の総理大臣。最も熱心に、最も真面目に、憲法を守らなければならない立場の人が、日本中で一番の憲法嫌い、最も熱心に日本国憲法を亡き者にしようと虎視眈々という、ブラックジョークみたいな日本になっています。

皆さまご存じのとおり、この人は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻す」と叫んでいます。「戦後レジーム」とは、日本国憲法の理念による社会のあり方のこと。日本国憲法の理念とは、国際協調による平和、民主主義、そして一人ひとりがかけ替えのない個人として人格を尊ばれる人権擁護のこと。

総理大臣殿は、そんな社会が大嫌いなのです。そのホンネが、2012年4月に自民党が公式に発表した「日本国憲法改正草案」に生々しく書かれています。

この改憲草案は、102条1項に、「すべて国民はこの憲法を尊重しなければならない」と書き込みました。これはおかしい。憲法とは、本来主権者である国民が権力を預けた者に対する命令の文書です。だから現行憲法は、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に憲法を尊重し擁護する義務を課しています。「国民に対する憲法尊重義務」を書き込むことは、憲法の体系を壊すこと、憲法を憲法でなくしてしまうことにほかなりません。

そして、自民党改憲草案は、現行憲法の「第2章 戦争の放棄」を、「第2章 安全保障」と標題を変えます。これは極めて示唆的です。日本は、戦争を放棄した国ではなくなるということです。今の自衛隊では戦争ができない。戦争するために差し支えのない国防軍を作ろうというのです。軍法会議も憲法に明記しようというのです。こうして、戦争を国の政策の選択肢のひとつとして持ちうる、戦争のできる国に変えようというのです。

もちろん、政権は、国民の権利も自由も大嫌いです。言論の自由をはじめとする国民の権利は大幅に切り下げられます。国民の自由に代わって、責任と義務が強調されることになります。「公益と公の秩序」尊重の名の下に国家・社会の利益が幅を利かせることになります。

それだけではありません。緊急事態条項というとんでもない条文まで紛れ込ませました。日本国憲法制定のための議会の審議では「権力に調法だが、それだけに危険だから憲法には置かないことにした」という代物です。戦争・内乱・自然災害などの「緊急事態」においては、国会を停止させようというのです。その代わりを内閣がする。法律でなければできないことを政令でできるようにする。予算措置も、内閣だけで可能というのです。

そして、自民党改憲草案の前文は、日本を「天皇を戴く国」とし、天皇を元首としています。憲法に、国旗国歌条項を書き入れるだけではもの足りないと、国民に国旗国歌尊重義務を課するという徹底ぶり。これが、安倍晋三が称える、「日本を取り戻す」というものの正体ではありませんか。

元首たる天皇が権威を持ち、国防軍が意のままに行動でき、反戦平和の運動や政府批判の言論が弾圧される。個人主義などもってのほか、人権ではなくお国のために尽くしなさいと教育がなされる国。それが、自民党・安倍政権が目指す「取り戻すべき日本」というほかはありません。

政権や自民党は、「憲法は外国から押しつけられたものだから変えましょう」という。これもおかしい。この70年の歴史を曇りない目で見つめれば、アメリカと日本の軍国主義者たち、日本国憲法は邪魔だという権力者たちが、日本国民からこの憲法を奪い取ろうとしてきた70年であったというべきではありませんか。

私たち国民にとっては、押しつけられたのではなく、守り抜いた日本国憲法ではありませんか。このことを私たちは、誇りにしてよいと思います。

憲法への評価は、立場によって違うのが当然のこと。一握りの権力に近い立場にいる者、経済的な強者には、邪魔で迷惑な押しつけかも知れません。しかし、大部分の国民にとっては、嫌なものの押しつけではなく、素敵なプレゼントだったのです。

もし、仮に日本国憲法を押しつけというのなら、押しつけられたものは、実は日本国憲法だけではありません。財閥解体も、農地解放も、政治活動の自由も、言論の自由も、労働運動の自由も、政教分離も、教育への国家介入禁止も、みんなみんな「押しつけられた」ことになるではありませんか。「押しつけられたものだから、ともかくいったんは、ご破算にしてしまえ」ということになりますか。

今年は、女性参政権が実現してから70年でもあります。46年4月の歴史的な衆議院議員選挙で、はじめて女性が選挙に参加しました。憲法を押しつけというなら、男女平等も押しつけられたもの。「外国から押しつけられた女性の参政権は、日本の醇風美俗を失わしるもの。だからご破算にして元に戻せ」などというおつもりですか。日本国憲法押しつけ論は、もうバカバカしくて何の説得力もありません。

憲法の制定にも携わった憲法学者である佐藤功が、こう言っています。
「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」

ここでいう「君たち」とは私たち、一般国民です。政治権力も経済権力もない圧倒的多数の相対的弱者のこと。「憲法は弱い立場の国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのです。だから「弱い立場にある私たち国民が憲法を守ってきた」のです。憲法を都合よく変えたいとする強い立場にある人たちとのせめぎあいを凌いでのことなのです。

これまで、日本国憲法を守り抜いて、自分たちのものにしてきたからこそ、憲法の古稀を目出度いものとしてお祝いしようではありませんか。

なお、一点付け加えます。日本国憲法は、国家よりも個人を大切にしています。ところが、今東京都の教育現場では、都教委が教員に国旗国歌(日の丸・君が代)に敬意を表するよう「起立・斉唱」の職務命令を発し、これに従わなかった教員に懲戒処分を濫発しています。これは、個人よりも国家を貴しとする思想にもとづくもの。しかも、教員の思想良心の自由を侵害する権力の行使であり、教育の内容に公権力が介入してはならないとする教育基本法が定める大原則の侵害でもあります。これではまるで戦前の日本。あるいは、まるでどこかの独裁国家のよう。到底自由な国日本の現象ではありません。

このことについては、幾つもの訴訟が提起されていますが、今最も大きな規模の「東京「君が代」裁判・4次訴訟」での原告本人尋問が、11月11日(金)に行われます。どなたでも、98席が満席になるまで、手続不要で傍聴できますので、ぜひお越しください。
 時 11月11日(金)午前9時55分~午後4時30分
所 東京地裁103号法廷

6人の原告の皆さんが、いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が生々しく語られます。きっと、感動的な法廷になります。そして、石原都政以来の憲法蹂躙の都政と東京都の教育行政に、ご一緒に怒ってください。よろしくお願いします。

ご静聴ありがとうございました。
(2016年11月8日)

自衛隊員よ。危険を背負わされて、南スーダンに行くなかれ。

アベ政権は、アフリカ・南スーダンPKO(国連平和維持活動)に派遣予定の陸上自衛隊部隊に「駆けつけ警護」と「共同防護」の任務を付与しようとしている。今月(11月)15日にも閣議決定の予定と報道されている。大統領派と副大統領派の戦闘の現実を、「戦闘ではない、衝突に過ぎない」と無責任なレトリックで、危険な地域に危険な任務を背負わしての自衛隊派遣である。これは、海外派兵と紙一重。

これまで派遣されていたのは「南スーダン派遣施設隊」の名称のとおり、施設科(工兵)が主体。道路修復などもっぱらインフラ整備を主任務としてきた。今度は、普通科(歩兵)だ。危険を認識し覚悟しての自衛隊派遣。派遣される自衛隊員も危ないし、自衛隊員の武器使用による死傷者の出ることも予想されている。

アベ政権が、危険を承知で新任務の自衛隊派遣を強行しようというのは、憲法を壊したいからだ。憲法の平和主義を少しずつ侵蝕して、改憲の既成事実を積み上げたい。いつの日にか、「巨大な既成事実が憲法の理念を押さえ込む」ことを夢みているのだ。

1992年6月成立のPKO協力法(正式には、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」)審議は、国論を二分するものだった。牛歩の抵抗を強行採決で押し切って、にようやくの成立となった。もちろん、憲法との整合性が最大の問題だった。

そもそも1954年成立の自衛隊法による自衛隊の存在自体が憲法違反ではないか。これを、与党は「自衛権行使の範囲を超えない実力は戦力にあたらない」として乗り切った。そのため、参議院では全員一致で「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」をしている。

PKO協力法は、その自衛隊を海外に派遣しようというもの。明らかに違憲ではないかという見解を、法に「PKO参加五原則」を埋め込むことで、「戦闘に参加する恐れはない。巻き込まれることもない」として、乗り切ったのだ。

そして今度は、「駆けつけ警護」と「宿営地の共同防護」だ。場合によっては、積極的に武器使用を辞さない覚悟をもっての自衛隊派遣を許容する法が成立し、運用されようとしている。これを許せば、いつたい次はどうなることやら。

下記は、10月27日付けの法律家6団体による「南スーダン・PKO自衛隊派遣に反対する声明」である。さすがに問題点をよくとらえている。

 安倍政権は、多くの市民の反対の声を無視して、2015年9月に「戦争法」(いわゆる「安保関連法」)の制定を強行し、この中で「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(いわゆる「PKO法」)も改正された。施行された改正PKO法によって、今年11月には、南スーダンへ「派遣」される青森駐屯地の陸上自衛隊第9師団第5普通科連隊を中心とした部隊に、他国PKO要員などの救出を行う「駆け付け警護」と国連施設などを他国軍と共に守る「宿営地の共同防護」の任務を付与しようとしている。
 そもそも、1992年にPKO法が制定された時、PKO活動の変質(米ソ冷戦前は北欧やカナダなどが原則非武装で、派遣国の停戦・受入合意がある場合にPKO活動を行っていたが、米ソ冷戦後は時にアメリカなどの大国が重武装で、しかも派遣国の停戦・受入合意がない場合でもPKO活動を実施するようになった)と憲法との関係(自衛隊をPKO活動に「派遣」するのは憲法9条違反ではないかという議論)から、当時の野党は国会で牛歩戦術まで使って抵抗したほど議論があった。
 そのため、政府・与党もPKO法を制定したものの、PKO法に基づく参加に当たっての基本方針として5原則(①紛争当事者間での停戦合意の成立、②紛争当事者のPKO活動と日本のPKO活動への参加の同意、③中立的立場の厳守、④上記原則が満たされない場合の部隊撤収、⑤武器使用は要員の生命等の防護のために必要最小限のものに限られること)を定め、自衛隊のPKO活動はあくまで復興支援が中心で、武器使用は原則として自己及び自己の管理に入った者に限定し、派遣部隊も施設部隊が中心であった。
 しかし、南スーダンでは、今年4月に大統領派と反政府勢力の前第1副大統領派とが統一の暫定政府を立ち上げたが、今年7月に両派で大規模な戦闘が発生し、この戦闘ではPKO部隊に対する攻撃も発生し、中国のPKO隊員と国連職員が死亡している。国連安保理は、今年8月にアメリカ主導で南スーダン政府を含めたいかなる相手に対しても武力行使を認める権限を付与した4000人の地域防衛部隊の追加派遣をする決議案を採択したが、この決議には南スーダンの代表自体が主要な紛争当事者の同意というPKOの原則に反しているという理由で反対し、ロシアや中国なども棄権している。今月も大統領派と前第1副大統領派との間での戦闘が拡大し、1週間で60人もの死者を出している。この状況はとてもPKO参加5原則を満たしている状況とはいえない。そして、政府が今後予定しているのは、施設部隊に加えて普通科部隊や、さらに中央即応集団の部隊も派遣される可能性があり、他国部隊を守るために武器使用に踏み切るならば、憲法9条で否定された武力行使にあたることになる。
 私たち改憲問題対策法律家6団体連絡会は、憲法違反の「戦争法」(いわゆる「安保関連法」)の廃止を引き続き求めていくとともに、かかる状況の下での自衛隊の南スーダンへの派遣と新任務の付与に断固として反対するものである。
  2016年10月27日
改憲問題対策法律家6団体連絡会
 社会文化法律センター 代表理事 宮里邦雄
 自由法曹団 団長 荒井新二
 青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 原和良
 日本国際法律家協会 会長 大熊政一
 日本反核法律家協会 会長 佐々木猛也
 日本民主法律家協会 理事長 森英樹

その後さらに、事態は悪化している。国連南スーダン派遣団(UNMISS(アンミス))参加国の撤退が相次いでいるからだ。

ケニア政府は11月3日、現地部隊にUNMISSからの即時撤退を命じた。同国は南スーダンの隣国、1230人を派遣してUNMISS総人員約1万3000人の主力をなし、UNMISSの司令官を出す地位にあった。ところが、潘基文国連事務総長はこのオンディエキ司令官を解任した。同国部隊が撤退した事情は、「今年7月首都ジュバで発生した政府軍と反政府勢力との戦闘のなか、政府軍の攻撃で多くの住民が死傷し、海外の援助関係者がレイプなどの被害に遭ったにもかかわらず、UNMISSの歩兵は動かなかった」「このため、国連は1日公表の報告書で、文民保護に失敗したと断定。司令官だったオンディエキ氏はその責任を追及されたとみられる」と報じられている。

文民警察を派遣していた英国、ドイツ、スウェーデン、ヨルダンなども、7月の戦闘を契機に「安全確保」などの理由で文民警官を国外に退避させている。新たな任務を帯びた自衛隊は、そんなところに行くのだ。

UNMISSの一員としての自衛隊は、その任務遂行のためには南スーダン政府軍との交戦が避けられない。既に、PKO参加五原則の要件は崩壊している。敢えての自衛隊派遣と駆けつけ警護等による武器使用は、憲法の許すところではない。

自衛隊員よ。南スーダンに行くなかれ。
(2016年11月7日)

9条発案者を「幣原からマッカーサーに入れ替えた」ことの意味

本日(11月6日)の東京新聞1面トップの見出しが、「入れ替わった9条提案 学習漫画『日本の歴史』」「幣原→マッカーサーに」というもの。

小学館発行の学習漫画『日本の歴史』の、最終巻「現代の日本」の中の一コマの内容が、ある時期増刷の際に「9条提案者が入れ替わっていた」というもの。ことは、「平和憲法」が押しつけられたものか否かという論争に関わる。内容改変の時期は、20年余の以前に遡るものだが、東京新聞はこれを今日的に意味ある問題としてトップ記事に取り上げたのだ。

リード
 戦争放棄を盛り込んだ憲法九条は、日本側の意思でつくられたのか、それとも連合国軍総司令部(GHQ)に押し付けられたものなのか。長く論争となってきたテーマについて、読者の方から興味深い情報が寄せられた。小学館の学習漫画は当初、幣原喜重郎首相の提案と表現していたが、ある時からマッカーサーGHQ最高司令官の提案に変わったという。記載はいつごろ変わったのか、どんな事情があったのか、学習漫画を巡る『謎』を追った。

本文
 学習漫画は『少年少女日本の歴史』。第一巻が一九八一年から刊行されているロングセラーだ。指摘された場面は第二十巻『新しい日本』の中で、四六年一月二十四日の幣原・マッカーサー会談を描いた一コマ。出版時期が違うものを探して比べたところ、絵柄はほぼ同じなのに発言内容が変わっていた。

 具体的には、九三年三月発行の第三十三刷は、戦争放棄を憲法に入れるよう提案したのは幣原としていたが、九四年二月発行の第三十五刷はマッカーサーの提案となっていた(第三十四刷は見つからず)。現在発行されている増補・改訂版は二十一巻で現憲法制定に触れているが二人の会談場面は描かれていない。(以下略)

記事は、、改変前後のマンガの一コマを対比している。
いずれも、左にマッカーサー右に幣原の会話の図柄。よくよく見ると、マッカーサーの帽子のふくらみ具合が少しだけ違ようだが、まったく同じと言っても差し支えない。そして、両コマに戦争放棄発案の吹き出しが付けられている。その吹き出しの向きが違っている。

ビフォアーは、幣原の発言となっている。その内容は次のとおり。
「病中いろいろ考えたのですが、新しい憲法には、戦争放棄ということをもりこみたいと思います」
そして、これにマッカーサーが「大賛成です!」と応じている。

アフターは、幣原ではなくマッカーサーの発言となっている。
「いろいろ考えたのだが、新しい憲法には、戦争放棄ということを盛りこもうと思う」

ビフォアーでは、両者の言葉遣いは対等者間のもの。これに対して、アフターではマッカーサーの言葉遣いが、やや命令口調。「押しつけ」のニュアンスがにじみ出ている。92年~93年に、どうしてこうなったか。小学館も不明といい、東京新聞も解明できなかったとしている。

東京新聞は、このことに気付いて発信を始めたという埼玉県日高市のドイツ人平和歴史学者、クラウス・シルヒトマン氏(72)のインタビューを掲載している。
インタビューは、『戦力不保持を明記した九条は際立っている。この条文を各国の憲法に生かすことができれば、大きな起爆剤となるはずだ』という同氏の発言で締められているが、内容改変の動機やその影響については、説得力ある発言となっていない。

この学習漫画「少年少女日本の歴史」のキャッチフレーズは、「『日本の歴史』学習まんがの決定版!」「30年以上にわたるベストセラーです。2015年現在、累計発行数は1800万部。あの『ビリギャル』もこのシリーズで日本史を学びました。全23巻をセットで読んでも、興味のある巻だけ読んでもしっかり楽しく学べます。」というもの。たいへんなロングセラーである。

また、このようにも宣伝されている。
「〈日本の歴史が楽しくわかる。〉綿密な時代考証にもとづき旧石器時代から現代までを大迫力のまんがで再現。子供が最初に出会う歴史書として楽しみながら正しい知識が得られる本格的な全書です。」「学習まんがだから小学生でも読みやすく、しかも内容は本格的。中学入試からセンター試験まで、小中高・・・と長く利用できます。親しみやすいまんがで学ぶ事により歴史が大好きになります。」「偏差値が上がるともっぱらの評判! 受験に役立ちます。映画『ビリギャル』のモデルが愛用して慶應大学に合格したという大人気シリーズです。」

そして、「第21巻 現代の日本(~現代)」。「この本は、1981年10月に発行されたものを、1998年2月に『改定・増補版』として新しくまとめたものです。」「この巻では、敗戦後から現代に到る日本の姿を描きます。敗戦後の日本は激動の時代でした。アメリカの占領、日本国憲法の制定、経済大国への道、そして平成の現代までをまんがでときあかします。戦後、現代の日本がどのようにしてできたかをわかりやすく描きます。」となっている。

私も、店頭でパラパラとめくって見たおぼえがある。内容悪くなかったはず、という印象がある。

インターネットは便利だ。10頁ほどの立ち読みができる。
そのマンガのなかに、こんなセリフが出てくる。
「何だ、何だ?」「農地改革だと?」
「ばあちゃんよろこべ」「地主の農地を国が買い上げて、おれたち小作人に安くはらい下げてくれるそうだ」
「えっ、ありがたいこった!」「もう小作料を払わなくてもいいんだな」「そうとも。働いた分だけ自分のものになる」
「地主の世の中は、もう終わりなんじゃな。」「もう、ペコペコせずにすむぞ」
「くそっ、GHQめ!!」

「空襲はどうだったか。」
「は、全部やけました。」
「全部、あ、そう。」
「この子たちは、戦災孤児であります。」
「あ、そう…」「元気にやりなさい」
(マークゲインを思わせるアメリカ人記者)「天皇に対する日本人の態度には、おどろかされるばかりだ」

「おや、あれは?」「NHKの街頭録音だぞ」
「あなたの今の最大の関心事は?」
 「戦地から帰らぬ長男のことじゃ。」
 「天皇の戦争責任のことだ」
 「食うこと、それが一番ですよ」

この年の五月、皇居前広場で食糧メーデーが行われました。
 「ワタシタチハ オナカガ ペコペコデス」
 「詔書 国体はゴジされたぞ。朕はタラフク食ってるぞ。 ナンジ人民飢えて死ね。ギョメイギョジ」

問題は、基調としては以上のような水準にある学習歴史漫画が、どうして突然に改説したかである。当初は、明確に「9条幣原発意説」を採りながら、突然にマッカーサー発意説に、わざわざ変更したのだ。新たな資料が発見された、あるいは有力学説の大きな転換があった、などという事情は考えられない。東京新聞は、「湾岸戦争で世界の批判影響か」としているが、推測としても説得力がない。

「9条幣原発意説」と「マッカーサー発意説」のいずれが歴史的真実であるかという歴史学的論争とは関わりなく、「押しつけ憲法論」者からの圧力があったとするのが最も考え易いところではないか。

歴史は、真相を探求し真実のとおりに語るべきが当然である。自分に都合のよいように歴史を断定してはならない。私は、マッカーサーの証言を信憑性高いものとして「9条幣原発意説」を有力とみるが断定はしがたい。また、仮に「マッカーサー発意説」でも、あるいは「両者合同発意説」でも、70年経過した今日、日本国民が選び取った9条になっていることにいささかの影響もないとも思っている。

しかし、「押しつけ憲法論」の陣営にとっては、幣原発意説ではプロパガンダ上具合が悪いのだ。だから、幣原発意説を攻撃し、「学習漫画『日本の歴史』」に対しては、その圧力が奏功したと見るべきだろう。教科書だけではない。国民の監視の目が届かないところでは、あるいはその目が曇れば、あらゆる場面で歴史修正主義が跋扈することになる。このことが本日の東京新聞トップの記事が語る教訓といってよいと思う。
(2016年11月6日)

憲法の理念に真逆の首相をもつ、ねじれた日本の不幸。

下記は、一昨日(8月17日)の赤旗7面(文化欄)に載ったエッセイ。タイトルは、「君をハグしていい?」というもの。筆者西川悟平(1974年生)はニューヨーク在住で、「7本指のピアニスト」として知られている人だという。印象に深い内容にかかわらず、赤旗のデジタル版には掲載なく、ネットでの紹介記事も見あたらない。まずはその全文を紹介したい。

 2年前の1月の寒い日、二ューヨークのマンションで2人組の泥棒にあいました。夜10時ごろ、ノックの音に、ルームメートの友達だと思いドアを開けると、黒人とラテン系の男が入ってきて、注射器を突きつけられました。中には透明な液体が入っていて、なんだか分からないままホールドアップ。1人が僕に注射器を突きつけている間、もう1人がクレジットカードやパソコンなどを盗みだしました。

 初めはすごく怖かったのですが、だんだんと怒りに変わり、その後「何が彼らをこんな行動に駆り立てたんだろう?」と好奇心に変わりました。アメリカの大学で心理学を学んだことがあったんです。
 恐る恐る「しゃべっていいですか?」と聞くと「うるせえ! 黙れ!」。「ごめんなさい! ただ君たちがどんな幼少期を過ごしたのか…なんでこんなことをしなくちゃいけなくなったのか…そう思っただけです!」
 するとラテン系の男が一瞬動きを止めて、「お前にあのクソ痛みが分かるか…俺の親父は俺が子どもの時から俺に性的虐待をしてきた。母さんは、俺が物を盗ってきたら愛してると言ってくれたんだ」。僕は涙が出てきました。「つらかったね…。あるものはなんでも盗っていいから! 君をハグしていい?」。彼は「俺に近づくな! 今センシティブな(感じやすい)気分なんだ!」。注射器を持っていた男は「お前は日本人か? お前らは、人を深く尊敬する文化があるから、俺は好きだ」と言いだしました。
 「日本から届いた緑茶があるけど飲みますか?」と聞くと、2人とも「飲む」と言うのでお茶を沸かし、3人で話しました。ラテン系の男が翌週に誕生日だというので、ハッピーバースデーをピアノで演奏しました。時計は明け方4時を指していました。

 僕自身アメリカではひとりきりで、指に病気を抱えながらピアニストで頑張ってると伝えると、「お前ならきっと1年後には笑って過ごせる日がくるさ」と応援してくれました。僕は「あなたたちは、人間としての素晴らしい価値があるから、お店で働くなり、アルバイトをするなり、何か必ずできる仕事があるはずだ」と伝えました。
2人は、僕のマンションの壊れかけた暖房設備を修理し、盗んだものをすべて返してくれ、「次から相手を確認するまでドアを開けるなよ」とお説教。明るくなりはじめた頃、出て行きました。1人ずつハグをして「お前に会えて良かった」と言って。
僕は翌年そのマンションを引っ越しました。彼らが元気で幸せであることを願っています。

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このエッセイに描かれたできごとは、憲法9条の理念を寓意している。
暴力に遭遇したとき、暴力での対抗が有効か、あるいは丸腰での対応が安全か。少なくともこのケースの場合、丸腰主義と友好的対応が成功している。

いつもそうとは限らないという反論は当然にあり得る。では、このピアニストが護身用の拳銃を所持していたとして、隙を見て犯人に発砲したとすれば…。強盗被害をはるかに超えた悲惨な結末となっていたに違いない。

暴力を振るう相手に対して、「君をハグしていい?」という対応のできる人格は稀有なものだろうが、暴力に暴力で対峙の危険を避けることは常識的な発想といえよう。この「暴力に暴力で対峙する危険を避ける常識的な発想」から半歩踏み出したところに、日本国憲法の平和主義の発想がある。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのが日本国憲法の立場である。「決意した」というのだ。非武装平和主義のリスクを引き受けるということだ。非武装の平和も、武力による平和もともにリスクはある。武力による平和を求める方策は、際限のない武力拡大競争と極限化した戦争の惨禍をもたらすという大失敗に至った。しかも、次の本格戦争には核が使われることになる。だから、非武装の平和を決意したのだ。

「決意した」は、安閑としてはいられないという認識を表している。平和のために国民が団結して、知恵を出し合い、多大な努力を重ねなければならないということなのだ。

憲法前文は、非武装平和主義を採用する根拠として、「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」としている。人間を、諸国民を、胸襟を開いて話し合えば理解しえる「ハグすべき相手」と見る思想である。

この対極にあるのが、「自国は正義」「隣国は悪」という国際観。「隣国は常に自国攻撃の邪悪な意図をもっている」「だから平和のためには可能な限りの軍備が必要」となる。もちろん核武装も厭わない。現実に核武装が困難であれば、核の傘に身を寄せる選択となる。

自国を攻撃する意図をもった邪悪な隣国と対峙している以上、自国の平和のためには可能な限りの強力な武力を。どんなときにも即応できる、いつでも使える武力を。先制してでも武力の行使を辞さない能力と戦意こそが平和の保障、と考える。

だからアベは、オバマの「核兵器先制不使用宣言」には反対なのだ。日本がよるべき「核の傘」(核抑止力)は、「先制しては使わない」などという切れ味の鈍いものであってはならない。常に、日本の隣国に睨みをきかして、恫喝し続けるものでなくてはならないのだ。

アベが、広島で述べた「核兵器なき世界に向け、新たな一歩を踏み出す年に…」なんて言うのは、真っ赤なウソ。アベは憲法9条が大キライ、核抑止力大好きなのだ。アベは、自宅にピストルが欲しい。できれば、機関銃も爆弾も欲しいのだ。強盗が押し入ってきたら、撃ち殺すぞ、爆殺するぞ。そう、脅かすことが安全と平和のために必要というのだ。

あらためて、強盗二人をハグしたピアニストに敬意を表する。あなたこそ、日本国憲法の理念の体現者だ。ひるがえって、アベの何たる愚かさ。

ああ、不幸な日本よ。憲法の理念に真逆の考えの首相をもつ、ねじれた国よ。
(2016年8月19日)

「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」ーこれが9条の神髄ではないか。

昨日(8月15日)の政府主催「全国戦没者追悼式」の最高齢参列者は、フィリピンで夫を亡くした東京都の101歳、中野佳寿さん。この人の言葉が、各紙に紹介されている。「戦争は絶対に駄目」というもの。何と力強い言葉だろう。その通り、「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。

どんなに理屈をつけて戦争を合理化しようとも、101歳の「戦争は絶対に駄目」の強さには敵わない。聖戦、正義の戦争、自存自衛の戦争、東洋平和のための戦争も、「ダメなものはダメ」。防衛環境の変化も存立危機事態も「戦争は絶対に駄目」に抗いえない。

人殺しは駄目。絶対に駄目。ダメなものはダメ。人殺しがダメなことに理屈は要らないのと同じように、戦争は駄目。絶対に駄目、ダメなものはダメなのだ。

この言葉の強さは、戦没者の痛恨と遺族の戦後の労苦への共感から生まれている。戦没兵士だけではない。沖縄地上戦での死者とその遺族、各地の空襲死者とその遺族、広島・長崎での原爆死者と遺族、そして多くの生存被爆者・生存空襲被害者の痛苦・悲痛。国民はそれを知っているから、「戦争は絶対に駄目」に心底共感するのだ。

ところで、憲法は「戦争は絶対に駄目」という思いへの共感が結実したものだ。「戦争は絶対に駄目」と9条1項に書き付け、「絶対に駄目」な戦争を再び起こさないための保障として、戦争の手段をもたないと9条2項で宣言したのだ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」はそういう意味なのだ。

「戦争は絶対に駄目」の思想は、自衛のための戦争なら許すという例外を認めない。第90帝国議会(制憲国会)で、共産党の野坂参三は、日本国憲法案第9条を指して、「我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それ故に我が党は、民族独立の為にこの憲法に反対」との論陣を張った。これに対する吉田茂(当時首相)の答弁を想い起こそう。

「野坂氏は国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認めることが有害であると思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発する所以であると思うのであります。野坂氏のご意見の如きは有害無益の議論と私は考えます。」

また、吉田茂は戦争放棄に関する提案理由説明で次のようにも言っている。
これ(戦争放棄)は改正案に於ける大なる眼目をなすものであります。斯かる思ひ切つた条項は、凡そ従来の各国憲法中稀に類例を見るものでございます。斯くして日本国は永久の平和を念願して、その将来の安全と生存を挙げて平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであります。この高き理想を以て、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云ふ固き決意を此の国の根本法に明示せんとするものであります。

野坂の自衛戦争肯定論に対して、吉田は「自衛のための戦争も交戦権も放棄したものであると言明」したのだ。日本国憲法第9条を、「戦争は絶対に駄目」条項と理解した姿勢である。

ここがぶれると、自衛のための戦争なら許される、となる。自衛のための戦争に必要な武力なら違憲の戦力ではないから持つことを許される。自衛のためなら核武装も違憲とは言えない。自衛のためなら敵の基地を叩く必要も認められる。攻撃こそ最大の防御なのだから自衛のための先制攻撃もあり得る。自衛のためなら海外での戦争もしなければならない。自衛のためなら同盟国の戦争を買ってもよい。そして行く着くところは、昨日(8月15日)明らかになった「核兵器の先制不使用政策は抑止力を弱体化する」というアベ発言にまで行き着くのだ。

あらためて確認しよう。日本国憲法の平和主義とは、頑固でぶれない「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。その平和主義の実現はけっして安易なものではない。国民に安閑としていることを許さない。国民は、勇気と知恵とを総動員して、武力によらない平和を実現すべく努力を求められているのだ。
(2016年8月16日)

9条立憲の幣原喜重郎と、壊憲のアベ晋三。

各紙がオリンピック一色で辟易していたところに、本日の東京新聞朝刊一面トップは憲法制定経過に関する報道だった。「9条は幣原首相が提案」「マッカーサー、書簡に明記」「『押しつけ憲法』否定の新史料」というもの。

ここで言う「マッカーサーの書簡」とは、1958年12月15日付「マッカーサーから高柳賢三(憲法調査会会長)宛の書簡」のこと。これが新資料。ここに、「9条は幣原喜重郎(憲法改正を審議した第90回帝国議会当時の首相)が提案」したことが明記されている。内容、以下のとおり。

戦争を禁止する条項を憲法に入れるようにという提案は、幣原首相が行ったのです。首相は、わたくしの職業軍人としての経歴を考えると、このような条項を憲法に入れることに対してわたくしがどんな態度をとるか不安であったので、憲法に関しておそるおそるわたくしに会見の申込みをしたと言っておられました。わたくしは、首相の提案に驚きましたが、わたくしも心から賛成であると言うと、首相は、明らかに安どの表情を示され、わたくしを感動させました

新資料はこれまでの定説の確認だが、ダメ押しと言えよう。東京新聞が、「『押しつけ憲法』否定の新史料」というとおりだ。この新資料は、国会図書館に眠っていたもの。これを掘り起こしたのは、堀尾輝久さん。堀尾さんといえば、人も知る教育学・教育法学の大家。憲法史の専門家ではないのに、たいしたもの。

同じ報道によると、堀尾さんは、もう一通の新資料も発掘している。「同年12月5日付のマッカーサーから高柳賢三宛の書簡」。

「(憲法9条は、)世界に対して、精神的な指導力を与えようと意図したものであります。本条は、幣原首相の先見の明と英知と経国の才とえい知の記念塔として永存することでありましょう。」

東京新聞はこの資料の影響を慎重にこう述べている。
「史料が事実なら、一部の改憲勢力が主張する『今の憲法は戦勝国の押しつけ』との根拠は弱まる。今秋から各党による憲法論議が始まった場合、制定過程が議論される可能性がある。」
「改憲を目指す安倍晋三首相は『(今の憲法は)極めて短期間にGHQによって作られた』などと強調してきた。堀尾氏は『この書簡で、幣原発案を否定する理由はなくなった』と話す。」

堀尾さんのインタビューでの回答がよい。

-幣原がそうした提案をした社会的背景は。
日本にはもともと中江兆民、田中正造、内村鑑三らの平和思想があり、戦争中は治安維持法で押しつぶされていたが、終戦を機に表に出た。民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、パリ不戦条約に結実したように、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、先駆的な九条に結実したと考えていい

-今秋から国会の憲法審査会が動きだしそうだ。
「『憲法は押しつけられた』という言い方もされてきたが、もはやそういう雰囲気で議論がなされるべきではない。世界に九条を広げる方向でこそ、検討しなければならない

いまさら、「押しつけ憲法」でもあるまい。国民はこの憲法を日々選び取って、既に70年になるのだ。米国と、これと結んだ日本の保守層の改憲策動を封じての70年間は、「押しつけ憲法」論を色褪せたものにし、「勝ち取り憲法」論を日々新たにしている。

そもそも、いったい誰が誰に押しつけたというのだろうか。すべからく憲法とは、為政者にしてみれば、押しつけられるものである。

日本の国民が為政者に押しつけた憲法であったか。大局的に見て、強固な天皇制支配の大日本帝国が、敗戦と連合国の圧力がなければ、あの時期の日本国憲法制定に至らなかったことは誰もが認めるところであろう。これを「押しつけ」というのなら、素晴らしくも、何と有り難い「押しつけ」ではないか。

しかも、もっと大局的に見るならば、堀尾さんが述べたとおり、「日本にはもともと平和思想があり、民衆も『もう戦争は嫌だ』と平和への願いを共有するようになっていた。国際的にも、戦争を違法なものと認識する思想運動が起きていた。そうした平和への大きなうねりが、平和憲法をつくった」と言えるだろう。

さらに、憲法9条は、GHQの押しつけではなく、当時の首相の発案であったことが明確になった以上は、もう「押しつけ」憲法観の押しつけも、蒸し返しもたくさんだ。

制憲議会における次の幣原喜重郎答弁がよく知られている。
第9条は戦争の放棄を宣言し、わが国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って、指導的地位を占むることを示すものであります。(中略)文明と戦争とは結局両立しえないものであります。文明がすみやかに戦争を全滅しなければ、戦争がまず文明を全滅することになるでありましょう。私はかような信念を持って憲法改正案の起草の議にあずかったのであります

彼の手記には、簡潔にこうあるそうだ。
文明が戦争を撲滅しなければ
 戦争のほうが文明を撲滅するでありましょう。

既に核の時代、戦争を回避する以外に人類の生存はない、それが9条の精神なのだ。

幣原喜重郎に日本の保守政治家の良心を見る。ああ、いま日本の保守は落ちぶれて、アベとイナダが、幣原の理念を嘲笑し、「戦争をもって文明を撲滅」しようとしているのだ。
(2016年8月12日)

東アジアの平和における憲法9条の役割

本日は日本民主法律家協会の第52回定時総会。かつてない改憲の危機の存在を共通認識として、国民的な改憲阻止運動の必要と、その運動における法律家の役割、日民協の担うべき任務を確認した。そのうえで、この大切な時期の理事長として渡辺治さんの留任が決まった。

総会記念のシンポジウム「東アジアの平和と日本国憲法の可能性」が、有益だった。パネラーは、中国事情報告の王雲海さん(一橋大学教授)と、韓国の事情を語った李京柱さん(仁荷大学教授)。お二人とも、達者な日本語で余人では語り得ない貴重な発言だった。その詳細は、「法と民主主義」に掲載になるが、印象に残ったことを摘記する。

王さんは、中国人の歴史観からお話を始めた。「近代中国の歴史はアヘン戦争に始まる」というのが共通認識。以来、帝国主義的な外国の侵略からの独立が至上命題であり続けている。だから、中国における「平和」とは、侵略を防いで独立を擁護することを意味している。改革開放路線も、「外国に立ち後れたらまた撃たれる」という認識を基礎とした、中国なりの「平和主義」のあらわれ。

1972年の国交回復後しばらくは、「日中蜜月」の時代だった。9条を持つ日本の平和主義への疑いはなく、日本の非平和主義の側面は米国の強要によるものという理解だった。それが、90年代半ばから、日本自身の非平和主義的側面を意識せざるをえなくなり、「尖閣国有化」以後は、「核武装して再び中国を侵略する国となるのではないか」という懐疑が蔓延している。一方、日本は予想を遙かに超えた経済発展の中国に対して、「中華帝国化」「海洋覇権」と非難している。

今、日中相互不信の危険な悪循環を断たねばならない。民主々義は衆愚政治に陥りやすい。ナショナリズムを煽る政治家やそれに煽動される民衆の意思の尊重ではなく、憲法原則としての平和主義が良薬となる。民主主義の尊重よりは、立憲主義を基礎とした平和主義の構築こそが重要な局面。「市民」ではなく、法律家や良識人の出番であり、その発言と民意の啓蒙が必要だと思う。

李さんは、「たまたま本日(7月27日)が朝鮮戦争停戦協定締結60周年にあたる」ことから話を始めた。朝鮮戦争当時南北合計の人口はおよそ3000万人。朝鮮戦争での戦争犠牲者は、南北の兵士・非戦闘員・国連軍・中国軍のすべて含んで630万余名。産業も民生も徹底して破壊された。当時マッカーサーは、「回復には100年以上かかるだろう」と言っている。朝鮮半島の平和の構築は、このような現実から出発しなければならなかった。

それでも、南北の平和への努力は営々と積みかさねられ、貴重な成果の結実もある。南北間には、1991年の「南北基本合意書」の締結があり、南北の和解の進展や不可侵、交流協力について合意形成ができている。92年には「韓半島非核化に関する共同宣言」もせいりつしている。そして、国際的な合意としては、2005年第4次6者会談における「9月19日共同声明」がある。ここでは、非核化と平和協定締結に向けての並行推進が合意されている。一時は、この合意に基づいた具体的な行動プログラムの実行もあった。

しかし、今、南北の関係は冷え切ったどん底にある。平和への道は、9・19共同声明と南北基本合意書の精神に戻ることだが、それは日本国憲法の平和主義を基軸とする「東アジアにおける平和的な国際関係構築の実践過程」である。その観点からは、日本における9条改憲と集団的自衛権容認の動きは、朝鮮半島の平和に悪影響を及ぼす。

王さんも李さんも、日本国憲法9条の平和主義にもとづく外交の重要性を語った。平和主義外交とは、相互不信ではなく、相互の信頼に基づく外交と言い換えてもよいだろう。会場から、浦田賢治さん(早稲田大学名誉教授)の発言があり、「日本外交の基本路線は、アメリカ追随の路線ではなく、独自の軍事力増強路線でもなく、憲法9条を基軸とした平和主義に徹した第3の路線であるべき」と指摘された。

中・南・北・日のすべての関係国が、「他国からの加害によって自国が被害を受けるおそれがある」と思い込む状況が進展している。ここから負のスパイラルが始まる。これを断ち切る「信頼関係の醸成」が不可欠なのだ。憲法9条墨守は、そのための貴重な役割を果たすことになるだろう。9条の明文改憲も、国家安全保障基本法による立法改憲も、そして集団的自衛権行使を認める解釈改憲も、東アジアの国際平和に逆行する極めて危険な行為であることを実感できたシンポジウムであった。
(2013年7月27日)

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