澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

家計の不安を感じている方は、日本共産党に投票を。

(2022年6月25日)
 今の世は資本主義隆盛の時代です。極端に富が偏在し、経済格差にあえぐ大多数の人々にとっては、まことに生きるに厳しい社会となっています。この経済社会では、人は人として尊重されません。資本が利潤を生むための手段である労働力の提供者としてのみ重宝な存在とされ、労働力再生産過程の局面でのみ保護の対象となるに過ぎません。

 この冷徹な資本本位の経済原則を、人間尊重の理念で修正しなければ、この世は人が生きるに値しない暗黒の社会に堕してしまいます。人がその尊厳を保って暮らしていけるように資本の横暴を規制し修正する手段が民主主義の政治です。そのために、法の支配や立憲主義という大きな理念があり、種々の政党が政治活動を行っています。

 その諸政党を比較してみる視点は、富の偏在・経済格差・貧困という資本主義社会の根本的な矛盾に、誰の立場から、どのように、どの程度にまで切り込む政策をもっているのかということになります。言うまでもなく、この社会が経済的な意味での階級社会である以上、全ての人々の利害が一致することはあり得ません。基本的には、経済的な強者と弱者の対立の構造で今の世の政治は動いています。いったいどちらの側に立ってものを言うのか、が厳しく問われています。

 自民党とは、《一握りの、大資本・大金持ち》からの政治献金を受領して、その利益を代表する立場を基本とする政党です。大資本の走狗と言って差し支えありません。これに徹底して対峙し、経済的弱者の側に立つことを鮮明にしているのが、日本共産党にほかなりません。その他の諸政党は、自民党と共産党の中間にあって、自民党よりの公明・維新・国民、共産党に近い社民・立憲・れいわと位置づけることができるでしょう。

 産業革命をきっかけに資本主義が誕生して以来、その弱肉強食の冷酷さが多くの人に不幸をもたらしてきました。その経験から労働運動が勃興し革新政党も発展して、福祉国家政策が世界の常識になりました。所得や富の再分配を通じて経済的な弱者にも、人間たるに値する生活を保障し、資本主義の矛盾に対処しようという国のありかたです。

 ところが近年、資本の側の巻き返しが目立つのです。「政治や行政による資本への規制を緩和せよ撤廃せよ」「資本に、もっと利潤獲得の自由を与えよ」「資本の負担を減らせ」「資本に対する課税を減らせ。弱者に課税せよ」という、新自由主義の動きです。

 自民党は、この資本の要請にほぼ忠実に応えてきました。小泉規制改革で手を付け、アベノミクスが本格的にこれを実行して、今その破綻に至ろうとしています。押し寄せて来た物価の高騰がその破綻の一つの表れです。

 今回の参院選。物価高騰から国民生活をどう守るかが、最大争点の一つとして注目されつつあります。そして、その対策としての消費税減税が実行されるか否かが切実な具体的政策課題となっています。

 物価高騰は、けっして偶発的なウクライナ危機によるだけのものでなく、その基本的要因は、「アベノミクスによる異次元の金融緩和」にあります。これが異常円安を招き、輸入品の物価を押し上げています。しかも今、この金融緩和政策の破綻が明らかなっているのに、公定歩合引き上げなどの金融緩和政策見直しもできない窮地に陥っています。

また、自民党は労働法制の規制緩和で正社員を非正規に置き換えて、働く人を『使い捨て』にしてきました。これが日本の経済の競争力の低下の要因でもあり、多くの人の生活を苦しめてきたことも明らかです。

 財源をどうするか。大企業と大金持ちに応分の負担をしてもらえばよいだけのことです。大企業にはアベノミクスでため込んだ巨額の内部留保があります。これに課税することで、財源を確保するだけでなく、賃金を上げさせることにもなります。

 いま、賃金が上がらず、年金は下がり続け、重い教育費が家計を圧迫し続けているなかでの物価の高騰です。雇用が不安・賃金が上がらない・老後が不安・教育費の負担が不安という方は、ぜひとも共産党に投票していただきたいのです。基本は、どの政党が経済的弱者の味方なのかという視点です。

 政治の責任で賃金を上げ、社会保障と教育予算の充実をはからねばなりません。そして、まずは「消費税の引き下げ」です。消費税こそは、弱者に苛酷で金持ちに負担の軽い、「逆進性」の高い悪税と言わねばなりません。

 共産党はこう言っています。
 「消費税導入から33年、一貫して消費税反対を貫いてきた日本共産党への一票で、消費税減税を実行させよう」

「貯蓄から投資へ」とは、いったいどんなことなのか。

(2022年6月13日)
 いまや流行り言葉になってしまった「貯蓄から投資へ」。岸田内閣の大真面目な経済政策なのだが、これは、一昔前からの悪徳業者のセールストークなのだ。「リスクを取らねば損をする」「何もしないのも実はリスク」というのも、昔からの「欺しのテクニック」。それを今や、金融庁も文科省も、そして政権本体まで加わっての大合唱である。なけなしの庶民の資産までがむしりとられようとしている。

 まずは、国民全体を投資家にしようという壮大なたくらみが進行している。リスク金融商品のセールスマンは、ネット世界だけでなく、学校教育の現場を占拠しつつある。

 「学生時代に投資になじむ機会があれば、社会に出た後の資産形成の大きな力となることでしょう」「学生時代から金融教育を行う背景には、人生100年時代に備えた資産形成の知識を身につけておくべきという時代の流れもあります」「それは、新学習指導要領のテーマである「生きる力」の一部でもあると言えそうです」「教育の過程で学び始めれば、投資はもっと身近なものとなることでしょう」「学生でも銀行や証券に口座を持って、投資信託の積立をすることは可能です」「数百円のおこづかいで投資信託の積立を行う学生も増えるかもしれません」「口座の開設~税金の還付を受けるための確定申告を行えば、より詳しく金融について学ぶことができます」「親世代も子どもたちの見本となるべく、投資になじんでおきたいもの「今まで二の足を踏んでいた人も、積立投資を始めてみてはいかがでしょう」

 既に、2022年4月より、新しい指導要領に基づく高校家庭科の「投資教育」授業がスタートしている。事態は深刻と言わねばならない。

「家計管理については, 収支バランスの重要性とともに,リスク管理も踏まえた家計管理の基本について理解できるようにする。その際,生涯を見通した経済計画を立てるには,教育資金,住宅取得,老後の備えの他にも,事故や病気,失業などリスクへの対応が必要であることを取り上げ,預貯金,民間保険,株式,債券,投資信託等の基本的な金融商品の特徴(メリット,デメリット),資産形成の視点にも触れるようにする。」(※高等学校学習指導要領(平成30年告示)「家庭基礎」より抜粋)

 今年の新一年生から、高校生は家庭科の授業内で株式や債券、投資信託など基本的な金融商品の特徴を学ぶことになるという。金融庁も『国民一人一人が安定的な資産形成を実現し、自立した生活を営む上では、金融リテラシーを高めることが重要である一方で、そのための機会が必ずしも十分とは言えない』(金融庁「金融経済教育について」)としている。

 「さあ、子どもたちに十分リスクは教えたぞ。あとは自己責任だ。どれもこれもカモだ」という政権と財界のホンネが聞こえる。

 狙われているのは、家計の貯蓄である。庶民は老後や教育や住宅や不時の備えに貯蓄せざるを得ない。その貯蓄を金融市場に吐き出してもらわなければ資本の利益にはならない。そのため、貯蓄に対する利息は限りなくゼロとし、あるいは実質マイナスにして、投資に誘導しようとする。まずは投資や金融商品のリスクに対する恐怖心を取り除こうというのだ。そのための甘い誘いが始められている。ご用心、ご用心。岸田と政府に騙されてはならない。

 政治や行政が本来やるべきことは、老後や教育や事故や病気に心配不要の社会政策の充実である。そうすれば、庶民は「宵越しの銭」をもたなくても済む。貯蓄にこだわる必要はなくなるのだ。

 金融商品のリスクについて教育するのなら、悪徳商法と闘ってきた消費者弁護士の意見を十分に取り入れなければならない。投資や投機勧誘がどれほどの不幸を招いてきたかのリアルな語りに耳を傾けなければならない。

 そして、きちんと原則を踏まえなければならない。投機にも投資にも、必ずリスクがある。リスクは一定の確率で必ず顕在化する。投機も投資も、働かずして利益に与ろうという非倫理性を本質にする。投機とは、他人の不幸を自分の利益に変えようという反社会的存在である。投資も証券市場での他人との売買で利益を上げるのは、証券市場の規模が一定している現在、やはり他人の損を自分の利益としていると考えねばならない。

 投資も投機も賭博と変わらない。国民全部がギャンブラーになれば、この社会の生産活動は成り立たない。

 今政府がやろうとしていることは、「カジノで経済活性化」「国民階投資家社会へ」である。不健全で危うい。合い言葉は、「キシダニダマサレルナ」でなくてはなない。

日本経済の再生は、与党惨敗からしかありえませんね。

(2022年6月11日)
 え~、キシダフミオです。自分では、ごくごく普通の日本人としてのレベルの知性と教養をもっているつもりです。前任者と前々任者の知性と教養のレベルが、そりゃひどいものでしかないから、それと比べれば私は穏やかでまともに見えるでしょう。その分、確かに私は得しています。

 しかも、前任者と前々任者の経済政策の失敗ぶりがひどいもの。何しろ、この10年国民の賃金がまったく上がらない。こんなことは、他国に例がなく、意識的にやろうとしてもなかなかできることではない。「アべノミクス」は見事にこれをやってのけた。そして、野放図に大量の不安定な非正規労働者群を輩出して、格差と貧困が蔓延する社会を作りあげてしまった。ですから、コロナがなくてもアベ退陣は必然だったのです。

 そんな時勢で、私は意識的にアンチ・アベノミクスの立場を鮮明に、「成長よりは分配の重視」「富裕層に厳しい金融所得課税の強化」を掲げて総裁選に打って出て、念願の総理の座をつかんだのです。ところがね、政治は難しい。私の思うようにはならないのですよ。私の耳は、もっぱらアベ陣営の大声を聞かざるを得ない羽目となり、「新しい資本主義」の看板を「骨太の方針」にまとめる辺りで、私の独自色はすっかりなくなってしまった。元の木阿弥、昔ながらの失敗したアベノミクスに先祖返りなのですよ。なんたることだ。

 昔から言うでしょ。「国民はそのレベルにあった政治しかもてない」って。多分、今の国民のレベルには、「アべノミクス」「アべノマスク」「…デンデン」の政治がお似合いなのかなって、私がそう思うのですよ。

 でも、グチっていてもしょうがないから、私も小技で勝負せざるを得ません。
 「『貯蓄から投資』へのシフトを大胆かつ抜本的に進めて、『資産所得倍増プラン』を推進する」ナンチャッテね。個人投資家向けの優遇税制「NISA」の抜本的拡充や、国民の預貯金を資産運用に誘導する仕組みの創設など、政策を総動員して努力はしているのですよ。ね、健気でしょう。

 けれど私にはある程度の知性がある。多少は、廉恥の心も倫理感もある。国民の預貯金をリスクある資産運用に誘導するなどという国策を掲げることは、悪徳商法のセールスマンになってしまったような後ろめたさを禁じ得ないのです。

 この点の感覚は、安倍・菅の前任者にまったく持ち合わせのないところ。無知の強み、面の皮の厚さのメリットというべきでしょうね。彼ら、政策に失敗しても、違法行為が明るみに出ても、平気な顔ですよね。私にはなかなか真似ができない。

 私の政権の看板政策「新しい資本主義」の実行計画を、行動計画原案として発表したのが5月31日。これについて各紙とも、悪評さくさく。まあ、さもありなんというところでしょうな。

 社説の表題だけ拾ってみると以下のとおりですよ。6月1日の朝日が「分配重視の理念消えた」、同日毎日が「アベノミクスに逆戻りだ」、同日産経「看板倒れにならぬ政策に」。2日付日経が「成長と安定を将来世代へ着実に届けよ」、3日付東京「『分配』は掛け声倒れか」、4日付読売「方向性が一層不明確になった」。もう少し忖度あってしかるべきとも思うのだがね。

 総じて、私が当初掲げた「分配重視」のトーンダウンを批判する論調。朝日は「出てきた計画は、まったくの期待外れだった」「本来、優先的に取り組むべきは、働き手への利益還元である。賃上げに消極的な企業行動を改めさせる手立てこそが、計画の柱になるべきだった」という。毎日も「政策の力点が、立場の弱い人の不安解消から、成長戦略の推進にずれていったように見える」「分配重視はどこに行ってしまったのか」と嘆く。産経までもが、「抜本的に格差是正を図るには、高所得者への富の偏在を抑制できるよう、税制などを通じた所得の再分配を併せて講じる必要があろう。岸田政権はそこまで踏み込もうとはしない」と手厳しい。

 ほんとのことを言うとね、「新しい資本主義」ってなんだか私にもよくわからない。もちろん、アベさんよりは私の方が、格段に経済学の基礎には詳しいはず。実はそれが仇になっている。アベさんの無知の強みはここでも発揮されていて、オウムのように「3本の矢」を繰り返していられるんですね。幸せな性分。失政が明らかになっても、同じことを言い続けることが苦痛にならない。とうてい私にはできない芸当。

 アベノミクスは、規制緩和とセットの新自由主義的経済政策。目指すところは、成長至上主義。いずれは成長のおこぼれが庶民にもやって来るというんだが、待てど暮らせどおこぼれはやって来ない。替わりにやって来たのは、不安定雇用と格差拡大と貧困。さらには成長すら阻害した。誰が見てもアベノミクスは失敗で、もうダメだ。3本の矢のどれもが折れてしまった。だから、新規まきなおさなくてはならない。私は、アンチの政策をイメージして「新しい資本主義」と言ってみたわけね。

 ひとことで言えば、私の言う「新しい資本主義」とは、「奪アベノミクス」ということ。その目玉のキャッチが「分配重視」。そうしなければ、既に失速しているこの国の経済の再生はないし、そうすれば分厚い中間層の底上げで格差の是正もできるし、成長へとつなげることも期待できると考えたのですよ。

 ところが、私は甘かった。これからの政策転換で潤うはずの多くの国民の支持よりは、既得権を失う大企業や富裕層の反発が強かった。庶民減税も、金持ち増税も無理。金融所得課税の強化など引っ込めざるを得ない。「成長と分配の好循環」なんて、いったい何を言っているのか、私にも分からなくなった。

 はっきり言って、日本経済には展望がない。「脱アベノミクス」「アンチ・アベノミクス」の政策は、自民党政権ではできないからです。大企業と富裕層に支えられた現政権を打破する以外に、分厚い中間層の底上げで格差を是正することはできない。ロンドンのシティーで「インベスト・イン・キシダ」なんてしゃれてみたけど、リターンはない。今度の選挙、大企業幹部と富裕層以外に与党に投票する有権者がいるとは信じられないね。経済再生は、与党惨敗からしかないと思っていますよ。もちろん、これ、オフレコの話しね。

内閣不信任案否決の過程に見えてくる各党の政治姿勢

(2022年6月9日)
 本日の衆院本会議で、立憲民主党提出の岸田内閣不信任案が賛成少数で否決された。現状での否決という結果自体は予想されたところ。むろん、大切なのはプロセスである。この不信任案への対応で各党の姿勢がよく見えてきた。

 自民・公明の与党が、反対に回ったのは謂わば当然である。
 ところが、国民民主と維新の両党も反対にまわった。これは、あるまじき対応というべきか、「ゆ・党」と「悪・党」にふさわしいありかたというべきか。いずれにしても、その立ち位置を明確にすることとなった。
 さらに、れいわ新選組は採決を棄権した。おやおや、この党は国民生活擁護、反権力をウリにしていたはずではなかったか。
 結局、賛成は,立憲民主・共産党・社民党となった。

 なお、細田博之衆院議長の不信任決議案も同様に、自民・公明に加え、維新・国民民主の反対で否決された。

 立憲民主の泉健太は、岸田内閣下での、円安・物価高を「岸田インフレ」と批判した。「補正予算においても経済無策を続け、国民生活の苦境を放置しているのは許されない」と訴えた。

 さらに、消費税率の時限的な5%への引き下げや、安倍政権から続く異次元の金融緩和を含む「アベノミクス」の見直しを主張。岸田内閣の看板政策「新しい資本主義」を「分配政策が乏しく、格差を広げるアベノミクスが継続されている」と指摘。「分配を軽視し、格差が拡大させ、国民が分断される」と強調した。

 誰もが納得せざるを得ない常識的な主張ではないか。反対派は、これに反論し得たのか。

 自民の上川陽子は反対討論で、「ウクライナ情勢などによって、不確実性を増す情勢変化に的確に対応し続けてきた。唐突な不信任決議案の提出は不誠実だ」と反論。公明の浜地雅一は内閣支持率が政権発足時から上がっていることを理由に「国政を安定的に着実に運営する岸田内閣はまったく不信任に値しない」と討論したと報じられている。

 いずれも噛み合った反論になっていない。とりわけ、岸田内閣の看板政策「新しい資本主義」について、「分配政策が乏しく、格差を広げるアベノミクスが継続されている」「分配を軽視し、格差が拡大させ、国民が分断される」との指摘に対する噛み合った議論を期待したいところだが、ない物ねだりとなってしまった。

 反対討論に立った維新の足立康史氏は「内閣を積極的に信任するわけではない」としつつも、「少数派の野党が内閣不信任を提出し、多数派の与党が粛々と否決する一連の茶番に異議を申し立てると言う意味で、反対を投じる」と述べたという。

 この人のいうことは、常によく分からない。意味が伝わらない。それでも分かることは、この党のあまりの不真面目さである。それだけでも、不信任案提出の意味はあったというべきであろう。

 一方、共産の笠井亮氏は不信任案に賛成の立場から岸田政権が検討する「敵基地攻撃能力」の保有を「専守防衛の大原則を投げ捨てるものだ」と批判した。これはこれで、あまりに真っ当な対応のコントラスト。

なお、NHKは、立民と自民との討論を、こう整理している。

 立憲民主党の泉代表は「国民が物価高で苦しむなか、政府が物価対策を届けていないことで、消費が低迷し、日本経済に打撃となる可能性がある。その事実を国民に伝え、国民の意思によって政治を動かせる限られた機会がこの不信任決議案だ」と述べ、賛同を呼びかけました。

 これに対し、自民党の上川幹事長代理は、「情勢の変化に対応し続けてきた岸田総理大臣の決断力や実行力への期待が高まっている。その歩みを止める不信任案の提出は極めて不誠実だ」と反論しました。

 立民の問題提起に自民が応え得ているか。議論は内容であって、有権者一人ひとりの判断が大切なのだ。結果としての賛否の票数だけを問題とするのは、民主主義の形骸化であり堕落である。この討論を茶番という輩が、民主主義の何たるかを知ろうとしない者なのだ。

参院選直前に吹いてきた、「物価高」という与党への逆風。

(2022年6月8日)
 来週の水曜日、6月15日に通常国会が閉幕する。そして、参院選公示となり、7月10日投開票となる。

 有権者の関心事は、けっして憲法改正にはない。そしてコロナでもなくなった。主要な論争点の一つは、日本と世界の平和の構築をどうするかであり、もう一つは今急激に国民生活を襲いつつある物価高である。

 再選の投開票まであと1か月、この間に高物価は全ての国民に厳しい生活苦を強いることになる。とりわけ、非正規労働者、フリーランス、年金生活者には深刻である。言うまでもなく、これは天変地異ではない。国民はあらためて、この10年におけるアベノミクスと名付けられた自公政権による経済政策の失敗を学ばざるを得ない。賃金は上がらず、家計は冷え込み、生産も分配も滞って、ひたすらに大企業と金持ちを優遇した減税に励み、その減税を原資とした庶民増税に邁進してきた今日の脆弱な日本経済ではないか。今日の格差と貧困の実態ではないか。

 アベ政権も、その後継スガ政権も、アベノミクスの失敗を国民に批判され、目先を変えて岸田現政権となった。「分配重視」「金融所得課税」への言及はそれゆえである。ところが、今岸田は、完全に岸田色を失った。失敗したアベノミクス路線を何の成算も希望もなく、走り続けざるを得ない立場に追い込まれている。このアベ・スガ・キシダ、3代の経済政策の失敗故の生活苦が選挙の争点とならざるを得ない。

 本日夕刻、立憲民主党が衆議院に内閣不信任案を提出した。「一貫して無為無策」な政府を追及するものだという。多くの国民の気持ちを代弁するものではないか。もとより、「ゆ党」や「悪党」といわれる連中の賛同は難しいと報道されており、「同調の動きは限定的で、否決される見通し」とされているが、この不信任案は、有権者の支持を得ることができると考えてよい。

 毎日新聞によれば、同不信任案の理由は以下のとおりである。

 「岸田内閣の『何もしない』ことを安全運転と呼んではばからない厚顔無恥な政権がこれ以上続くのは、日本のためにならない」「『岸田インフレ』は亡国の道である。首相が『令和版所得倍増』の代わりに『資産所得倍増プラン』を掲げたことを『投資信託のコマーシャル』のようで、今この日本で、どれだけの人が乏しい生活費の中から投資にまわす余力があるだろうか」

 なお同時に、立憲は細田博之衆院議長に対する不信任決議案も衆院に提出した。
 細田氏の不信任理由は、細田氏が衆院議長として「最も不適切な人物」であり、衆院小選挙区定数の「10増10減」に否定的な見解を繰り返し示したことなどを問題視。さらに週刊文春が5月19日発売号以降、女性記者らにセクハラ行為を繰り返していると報じたことについて「あってはならない疑惑」だとし、細田氏が報道を「事実無根」だと全面的に否定していることに関し、「説明責任を果たさない」と問題視したもの。

 衆院は明日9日の本会議で不信任2案を審議・採決するが、有権者は各議院の賛否をよく見極めよう。

 提出後、立憲の西村智奈美幹事長は記者団に「政治は国民の命と暮らしを守るためにある。岸田内閣はその責任を全く果たしていない」と語ったという。「平和」と「暮らし」、その両者が目前の参院選の争点となってきた。俄然、政権には大きな逆風である。

幸田露伴「渋沢栄一伝」異聞

(2021年2月15日)
したたかなはずの資本主義だが、誰の目にもその行き詰まりが見えてきている。環境問題、エネルギー問題、貧困・格差…。とりわけ、新自由主義という資本主義の原初形態の矛盾が明らかとなり、グローバル化が事態の混乱を拡大している。

その反映だろうか、ノスタルジックに「日本資本主義の父」が持ち上げられている。この「父」は、福沢諭吉に代わって間もなく1万円札の図柄になるという。そして、昨日(2月14日)が第1回だったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率も上々の滑り出しだという。

何ともバカバカしい限りではないか。「資本主義の父」とは、搾取と収奪の生みの親であり育ての親であるということなのだ。この「父」は、カネが支配する世の中を作りあげて自らも富を蓄積することに成功した。多くの人を搾取し収奪しての富の蓄積である。搾取され収奪された側が、「資本主義の父」の成功談に喝采を送っているのだ。

資本主義社会は、天皇親政の時代や、封建的身分制社会よりはずっとマシではある。だが、社会の一方に少数の富める者を作り、他方に多数の貧困者を作る宿命をもっている。「資本主義の父」とは本来唾棄すべき存在で、尊敬や敬愛の対象たり得ない。

仮に渋沢栄一に尊敬に値する事蹟があるとすれば、「資本主義の父」としてではなく、「資本抑制主義の父」「資本主義万能論を掣肘した論者」「野放図な資本主義否定論者の嚆矢」「資本主義原則の修正実践者」としてでしかない。彼が、そう言われるにふさわしいかは別として。

この点を意識してか、NHKは、渋沢について「資本主義の父」と呼ぶことを慎重に避けているようだ。番組の公式サイトではこう言っている。

幕末から明治を駆け抜けた実業家・渋沢栄一。豪農に生まれた栄一は、幕末の動乱期に尊王攘夷思想に傾倒する。しかし、最後の将軍・徳川慶喜との出会いで人生が転換。やがて日本の近代化に向けて奔走していく…。

「実業家」「日本の近代化」という用語の選択は無難なところ。

幸田露伴の筆になる「渋沢栄一伝」(岩波文庫)に目を通した。下記のとおり、岩波の帯の文句がこの上なく大仰であることに白ける。

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の伝記を、文豪が手掛けた。士は士を知る。本書は,類書中,出色独自の評伝。激動の幕末・近代を一心不乱に生きた一人の青年は、「その人即ち時代その者」であった。枯淡洗練された名文は,含蓄味豊かな解釈を織り込んで、人間・渋沢栄一を活写する。露伴史伝文学の名品(解説=山田俊治)

渋沢の死が1931年で、その後に執筆依頼があり露伴の脱稿は1939年となった。渋沢の顕彰会からの依頼で引き受けた伝記である。稿料の額についての記載はないが、文豪・幸田露伴たるもの、こんな伝記を書くべきではなかった。今ころは、泉下で後悔しているに違いない。

執筆の動機からも、対象を客観視しての叙述ではない。ヨイショの資料を集めてもう一段のヨイショを重ねた決定版。執筆の時期が日中戦争のさなか、太平洋戦争開戦も間近のころ。ヨイショの方向は、尊皇の一点。資本主義の権化に徹した渋沢像がまだマシだったのではないか。下記の記述が、資本主義の権化ではないとする渋沢像の描出である。

商人は古より存在した。しかしそれは単に有無を貿遷し、輜銖(ししゅ・物事の微細なこと)を計較して、財を生じ富を成すを念とせるもののみであって、栄一の如くに国家民庶の福利を増進せんことを念として、商業界に立ったものは栄一以前にはほとんど無い。金融業者も古より存在した。しかしそれも単に母を以て子を招び、資を放って利を収むるを主となせるもののみであって、栄一の如く一般社会の栄衛を豊かに健やかならしめんことを願とせるものは栄一以前にはほとんど無い。各種の工業に従事したり事功を立てたりしたものも古より存在した。しかしこれまた多くは自家一個の為に業を為し功を挙ぐるを念として、栄一の以前には其業の普及、その功の広被を念としたものは少い。

栄一以前の世界は封建の世界であった。時代は封建時代であった。従って社会の制度も経済も工業も、社会事象の全般もまた封建的であった。従って人間の精神もまた封建的であった。大処高処より観れば封建的にはおのずから封建的の美が有り利かあって、何も封建的のものが尽く皆宜しくないということは無いが、しかし日月運行、四時遷移の道理で、長い間封建的であった我邦は封建的で有り得ない時勢に到達した。世界諸国は我邦よりも少し早く非封建的になった。我邦における封建の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って非封建的の波は外国より封建的の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは尊皇攘夷の運動であった。尊皇は勿論我が国体の明顕に本づき、攘夷は勿論我が国民の忠勇に発したのであった。あるいは不純なる動機を交えたものも有る疑も無きにあらずといえども、それは些細のことで、大体において尊皇攘夷の運動は誠心実意に出で、その勢は一世に澎湃するに至って、遂に武家政治は滅び、王政維新の世は現わるるに及んだ。

上記は、切れ目のない文章を二段に分けてみたもの。前段は、私利を貪らぬ実業家としての渋沢に対するヨイショ。後段は、尊皇攘夷運動によって王政維新の世が到来したことの積極評価。露伴の頭の中では、この二つが結びついていたのであろう。

露伴は、戦後まで永らえて、47年に没している。もしかしたら、価値観の転換後は下記のように改作したいと思ったのではないだろうか。

世界諸国は我邦よりも少し早く民主主義的になった。我邦における天皇制の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って民主主義の波は外国より天皇制の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは人民の民主主義を実現せんとする一大運動であった。天皇は勿論我が守旧勢力の傀儡にして、国体は勿論我が一億国民に対する思想統制の手段であり、全ては国民欺罔と抑圧の意図に発したのものであった。敗戦を機とした、民主主義を求むる人民の運動の勢は一世に澎湃するに至って、遂に天皇制は瓦解し、人権尊重と民主主義の「日本国憲法」の世は現わるるに及んだ。

コロナが突きつける問 -「国家は何のためにあるのか」

(2021年1月2日)
めでたくもないコロナ禍の正月。年末までに解雇された人が8万と報じられたが、そんな数ではあるまい。暗数は計り知れない。一方、株価の上昇は止まらない。なんというグロテスクな社会。あらためて、この国の歪み、とりわけ貧困・格差の拡大が浮き彫りになっている。

暮れから年の始めが、まことに寒い。この寒さの中での、路上生活者がイヤでも目につく。心が痛むが、痛んでも何もなしえない。積極的に具体的な支援活動をしている人々に敬意を払いつつ、なにがしかのカンパをする程度。

コロナ禍のさなかに、安倍晋三が政権を投げ出して菅義偉承継政権が発足した。その新政権の最初のメッセージが、冷たい「自助」であった。貧困と格差にあえぐ国民に対して、「自助努力」を要請したのだ。明らかに、「貧困は自己責任」という思想を前提としてのものである。

国家とは何か、何をなすべきか。今痛切に問われている。
国家はその権力によって、社会秩序を維持している。権力が維持している社会秩序とは、富の配分の不公正を容認するものである。一方に少数の富裕層を、他方に少なくない貧困層の存在を必然とする富の偏在を容認する社会秩序と言い換えてもよい。富の偏在の容認を利益とする階層は、権力を支持しその庇護を受けていることになる。

しかし、貧困と格差が容認しえぬまでに顕在化すると、権力の基盤は脆弱化する。権力の庇護を受けている富裕層の地位も不安定とならざるをえない。そこで国家は、その事態を回避して、現行秩序を維持するために、貧困や格差の顕在化を防止する手段を必要とする。

また、貧困や格差を克服すべきことは、理性ある国民の恒常的な要求である。富裕層の利益擁護を第一とする国家も、一定の譲歩はせざるを得ない。

ここに、社会福祉制度存在の理由がある。が、その制度の内容も運用も、常にせめぎ合いの渦中にある。財界・富裕層は可能な限り負担を嫌った姿勢をしめす。公権力も基本的には同じだ。しかし、貧困・格差の顕在化が誰の目にも社会の矛盾として映ってくると、事態は変わらざるを得ない。今、コロナ禍は、そのことを突きつけているのではないか。

本来、国家は国民への福祉を実現するためにこそある。今こそ、国庫からの大胆な財政支出が必要であり、その財源はこれまで国家からの庇護のもと、たっぷりと恩恵に与っていた財界・富裕層が負担すべきが当然である。富の再配分のありかたの再設定が必要なのだ。

生活保護申請者にあきらめさせ申請撤回させることを「水際作戦」と呼んできた担当窓口の姿勢も変わらざるを得ない。

この暮れ、厚労省が「生活保護は国民の権利です」と言い始めた。
「コロナ禍で迎える初めての年末年始に生活困窮者の増加が心配されるなか、厚生労働省が生活保護の積極的な利用を促す異例の呼びかけを始めた。「生活保護の申請は国民の権利です」「ためらわずにご相談ください」といったメッセージをウェブサイトに掲載し、申請を促している。」「厚労省は22日から「生活保護を申請したい方へ」と題したページを掲載し、申請を希望する人に最寄りの福祉事務所への相談を呼びかけている。」(朝日)

結構なことだが、これだけでは足りない。相も変わらぬ「自助努力」要請路線では、人々が納得することはない。昔なら、民衆の一揆・打ち壊しの実力行使が勃発するところ。幸い、われわれは、表現の自由の権利をもち、投票行動で政権を変えることもできる。

今年は、総選挙の年である。無反省な政権に大きな打撃を与えたいものである。

制度と人と ― 西村秀夫さんを思い出す

なにかの折に、ふと袖触れあった人を思い出すことがある。その一人に西村秀夫という人がいる。東大の駒場で、新入生として一度だけ口をきいたことがある人。1963年春のことだ。この人は、「教養学部学生部長」という肩書だったはず。

確かではないが、入学手続のためにはじめて登校した日のことだった。前年までは、年額9000円だった授業料が、この年から1万2000円に増額されたことが問題となっていた。

このとき、学生自治会の2年生が、新入生に呼びかけていた。「これから学生部長交渉をする。新入生の中での苦学生は、ともに交渉に参加せよ」というのだ。で、私も、学生部まで出かけた。その席に、学生部長であった西村さんがいた。

他の学生が何を喋ったのかは憶えていない。私は、自分の経済事情を訴えた。
「僕は、1年前に大阪の高校を卒業して上京した。以来親からの仕送りは一切ない。一年間別の国立大学に通い、学費と生活費は、すべてアルバイトと奨学金でまかなってきた。今年からは、この大学の学生となるが、受験料や入学金は、アルバイトで稼いだものでしはらった。痛いのは、これまでもらっていた育英会の特別奨学金(月額7500円)が打ち切られてしまったこと。駒場寮入寮の予定だが、アルバイト漬けの生活は当分変わりそうもない。高額に過ぎる授業料を負担に感じている学生はけっして少なくないはずだ」

西村さんは、真剣に聞いてくれた。2~3の質問の後、こう言った。「キミ、たいへんだね。授業料免除の申請をしたまえ。キミのような学生のための制度だ」。

その場で、授業料免除申請書をもらった。その場で、受け付けてもらったような記憶でもある。おかげで、授業料免除の通知はすぐに来た。私は、授業料の負担からは免れて学生生活を送ることができた。西村さんには、感謝しなければならない。

西村秀夫さんは、新渡戸稲造・矢内原忠雄の直系で、無協会派のクリスチャンだった。学内でも、聖書研究会を主催していたという。しかし、私には聖書への興味はなく、矢内原も新渡戸も眼中にはなかった。西村さんにはその後会う機会もなく、アルバイトに明け暮れた学生生活が終わった。既に故人となった西村さんにお礼を言う機会を失って、ときどきあのときのことを思い出す。

私は、東大では6年間を過ごして退学した。最初の4年間は、きちんと授業料免除の手続をした。が、残りの2年は手続を怠っていた。在学5年目に、はじめて司法試験を受験して不合格となり、翌年合格した。いわゆる「東大闘争」で学内騒然としていた頃のこと。私は、退学して司法研修所に入所することとした。

ところが、司法研修所への入所手続には退学証明書が必要であるという。さらに、「退学証明書発行には遅滞している授業料の納入が必要」だと言われて愕然とした。ひとえに、司法修習生としての給与を得んがために、私は、やむなく2年分の授業料を納入した。気持の上では、「24000円もの大金で、退学証明書を購入」した。

それでも、司法試験と司法修習とは、苦学生にはまことにありがたい制度だった。誰でも受験でき、合格すれば翌年からは公務員に準じた地位を与えられて給与を得ながら法曹実務を学ぶことができた。今のロースクールの制度では、私が弁護士になれたとは思えない。

人は平等という建前だが、実質的な平等を実現するのは難しい。とりわけ、経済的な不平等という圧倒的な現実はまことに厳しい。経済的な格差や貧困をなくすることが、最も望ましいことではあろうが、百年河清を待ってはおれない。経済的な困窮者を救済する幾重もの制度が必要である。その制度の実効性は、はたして進歩しているであろうか。

そして、社会のあらゆるところに、ヒューマニスティクな人が欲しい。西村秀夫さんのような。
(2019年8月28日)

この参院選を、《年金一揆》に、《税制一揆》に。

普段はご無沙汰ばかりで、選挙になると、とたんに親しげな顔をして折り入ってのお願い。評判の悪いことは承知ですが、やっぱり今回も恒例の「折り入ってのお願い」です。

今回の参院選挙は、いつもの選挙とはひと味違う大事な選挙なんです。ええ、もしかしたらこの前も同じことを言ったかも知れませんが、今度こそ、本当に大切な選挙。日本国憲法の命運がかかっています。

もしこの選挙で、安倍自民党とその下駄の雪や取り巻きの連中が勝って、参議院の3分の2の議席を占め続けるようなことになると、本当に憲法があぶない。憲法改悪の手続が始まってしまうことになりかねません。

74年前に、310万人もの日本人が犠牲になった、あの忌まわしい戦争が終わりました。その戦場は海外でした。日本の侵略戦争だったのですら、当然といえば当然のこと。侵略軍である日本軍によって殺された近隣諸国の死者は日本人犠牲者よりも遙かに多数で、2000万人に及ぶとされています。

この戦争の惨禍を経て、日本人は決意しました。「勝とうと負けようと、二度とこの戦争の悲惨を繰り返してはならない」。新生日本は、「けっして再び、戦争はしない」と世界に誓い、この誓いを平和憲法として確定しました。日本国憲法は戦後日本の世界に対する平和の公約であり宣誓でした。これをなし崩しに変えてしまうことは、世界の歴史に対する裏切りというべきではありませんか。

自民党という保守政党は本来幅の広い国民政党でした。そのなかには、けっして戦争を繰り返してはならないとする大きな潮流があったはずです。ところが、いつしか自民党は変わってしまいました。どういうわけか、安倍晋三という右翼の政治家が、自民党を取り仕切るご時世になり、平和憲法を危うくしています。憲法9条の改悪に手を付けようというのが、安倍自民党の公約。けっして、これを許してはなりません。

もう一つ、今回の選挙は年金消費増税をめぐる選挙にもなっています。
私は、税制や社会保障政策というものは、富の再分配のあり方をどう決めるかに尽きるものと考えています。だから、立場によってあるべき政策が違ってきます。言わば、国民が所得や富の再分配をめぐって綱引きをしているのです。大きな綱の片方の端を少数の大企業と大金持ちが持ち、もう片方の端を無数の年金生活者・労働者・中小企業者が握っている。こうして、壮大な全国民的綱引きが行われているのですが、どうもいま、大企業・大金持ち派の勢いが強い。この綱引きのバランスを、年金生活者・労働者・中小企業者の側に戻さなくてはなりません。そのための選挙でもあります。

 今、私たちは、資本主義の世に生きています。資本主義社会は、身分制度の不合理を克服しましたが、けっして人を幸福にする制度でも社会でもありません。むしろ、冷徹な資本の論理が生身の人を搾取し収奪して、大きな格差や貧困を生み出す不条理な制度と言わねばなりません。この資本主義という暴れ馬を制御して乗りこなせるようにしようというのが、福祉国家思想と言ってよいと思います。

制御のない裸の資本主義とは、資本の衝動のままに資本の横暴の振る舞いを許す社会です。所得と富は、限りなく一極に集中し、その対極に非人間的な貧困が積み重なる社会。誰にも明らかなこの資本主義の矛盾を制御する手段が、政治的民主主義なのです。

国家という権力機構を、社会的強者の手から解放し、社会的弱者を有権者として構成される立法機関を中心とした民主的な権力機構を通じて、裸の資本の横暴を統御しようということです。

資本の横暴は、労働法規として、あるいは消費者保護法制として、あるいは公正取引ルールとして、規制の対象となりますが、今問題となっているのは、税や年金を通じての所得と富の再分配のありかたです。

安倍晋三は、大企業や大金持ちの代弁者として、最近よくこう口にします。
「年金制度の批判は簡単だが打出の小槌はない。具体的対案もなく不安を煽る無責任議論はいけない」「野党の皆さんは、『保険料は減らせ、受給額は増やせ』とおっしゃるが、そんな財源はない。消費税を上げてしっかり財源を作らなければならない」

打ち出の小槌でも手品でもない。財源の多寡は、所得と富の再分配をどこまでやるのかということできまります。これは政治的民主主義の制度においては、有権者が決めること。大企業優遇の租税特別措置法で、実効税率を下げてやる必要はない。累進度を緩和し続けてきた所得税率を元に戻す。方法はいくらでもあるではありませんか。要は、大企業と大金持ち優遇の税制にどこまで切り込むかの政治的決断なのです。

資本の論理に対抗するのは、人間の尊厳の論理です。人権の論理と言ってもよい。もともと、資本の論理を貫徹させた所得も、その集積としての富も、公正なものではありません。改めて、人権の論理に基づいて、公正に所得と富の再配分を実行させようではありませんか。その手段が、税と社会保障の制度の徹底した見直しです。どこまで徹底するか、それは有権者の意思次第。あなたの投票が決めます。

安倍政権が続く限り、抜本的な年金改革も、税制改革もあり得ません。どうでしょうか。今度の選挙を、年金一揆、税制改革一揆としませんか。
それなら、ふつふつと投票の意欲も、選挙運動の意欲も湧くことになりませんか。
(2019年7月7日)

冷酷な統計が示す、これが平均的国民の老後年金生活。

昨日(7月2日)、厚労省が2018年の「国民生活基礎調査の概況」を公表した。下記の両URLで、その報告を見ることができる。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa18/dl/09.pdf

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa18/dl/10.pdf
同報告は、特に【調査結果のポイント】として、次の点を挙げている。
・1世帯当たり平均所得金額は551 万6 千円 <前年560 万2 千円>
・生活意識が「苦しい」とした世帯は57.7% <前年55.8%>
(注:生活意識は、5段階の選択肢であり、「苦しい」は「大変苦しい」「やや苦しい」の合計)

1年前に比較した国民生活は、客観的に所得が減って、主観的には生活意識を苦しいものとしている。そのことが、統計に表れている。これが、アベノミクス6年目の「前年比成果」なのだ。わずか1年で、所得は「9万円」の減、生活苦は「2%」の変動である。

折しも、参院選直前である。「年金選挙」の様相を帯びてきたこの選挙の争点に関わるものとして、この統計も「老後」の「年金問題」との関連で注目された。

この点について、同報告は、次のように特記している。

「高齢者世帯(65歳以上の者のみで構成するか、又はこれに18歳未満の未婚の者が加わった世帯)では「公的年金・恩給」が61.1%、「稼働所得」が25.4%となっている」
「公的年金・恩給を受給している高齢者世帯のなかで「公的年金・恩給の総所得に占める割合が100%の世帯」は51.1%となっている」

つまり、年金受給者の多くが、ほぼ年金だけに頼って暮らしている。稼働所得は、微々たるものに過ぎない。まったく年金だけに頼って暮らしている人も過半数に及ぶ。

さて、公的年金受給者全体の半数を上回る51.1%が、ハッピーに公的年金だけで悠々と老後の生活を楽しんでいるのか。あるいは生活費に不足ではあるが公的年金以外の収入を得ることができないアンハッピーな状態なのか。統計は、直接にその点に切り込んではいない。

しかし、高齢者世帯の「平均公的年金・恩給」受給額は、年間204万5000円であるという。この金額で、「1.5人」(高齢者世帯は、夫婦構成と単独構成とほぼ半々。所帯人員数の平均は、「1.5人」でよいと思う)が暮らしていけるはずはない。一人あたり月額にすると、11万円程度に過ぎないのだから。

また、同報告によると高齢者世帯総所得金額の「中央値」は、年額260万円である。204万円が年金、その余の年間50万円余が稼働収入ということになる。これが平均的国民の老後だ。「年金だけでは生活は成り立たず」、さりとて「働こうとして真っ当な稼働収入を得るあてもない」と覚悟しなければならない。

消費増税をしてさらに経済弱者を痛めつけたり、F35を買ったり、イージスアショアに莫大な金を注ぎ込む余裕など、この国にはないことを悟らなければならない。

毎日新聞は、老後所得『年金のみ』半数 生活苦しい55%(7月3日朝刊)との見出しで、下記のとおり簡潔に報じている。

65歳以上の高齢者世帯のうち、働いて得られる収入がなく、総所得が公的年金・恩給のみの世帯が半数に上ることが2日、厚生労働省の2018年国民生活基礎調査で分かった。生活への意識を質問したところ、高齢者世帯で「苦しい」と答えた割合は55・1%に上り、前年から0・9ポイント増加した。

無年金の人らを除く高齢者世帯のうち総所得に占める公的年金・恩給の割合が100%の世帯は51・1%。この割合が50%を超える傾向は1990年代から続く。1世帯当たりの平均所得(17年)を見ると、高齢者世帯は334万9000円。所得の内訳は「公的年金・恩給」61・1%、「稼働所得」25・4%--など。

また、時事通信はこう伝えている。

収入「年金のみ」が半数=高齢者、生活の支え-国民生活基礎調査
厚生労働省は2日、2018年の国民生活基礎調査の結果を発表した。年金や恩給をもらっている高齢者世帯について、これらの収入が総所得の100%を占めると答えた割合は51.1%と約半数だった。恩給の受給者はごく限られるため、収入源が年金のみの高齢者世帯が相当数を占めるとみられる。

17年の割合は52.2%。過去増減はあるが、13年の57.8%から微減傾向が続いている。働く高齢者が増えたことが影響しているとみられる。
老後の資金をめぐっては、公的年金以外に2000万円の蓄えが必要と指摘した金融庁報告書が注目を集めている。老後への不安が広がる中、高齢者世帯の多くが年金を支えに生活費を確保している実態が改めて浮き彫りとなった。

時事がいう「働く高齢者が増えた」のは、明らかに不十分な年金では暮らせないことの結果である。割りの悪い仕事でもやらざるを得ないのだ。年金は増やさない。いや、マクロ経済スライドで、着実に減らしていく。これが、政権の老人「反福祉」基本構想なのだ。

若者が、これを他人ごとと見過ごしてはならない。生活を「苦しい」と感じているのは、「児童のいる世帯」では、62.1%【前年58.7%】と高齢者所帯より高い。また、年代別で世帯人員1人当たり平均所得金額をみると、最も低いのが「30~39 歳」の179 万6 000円なのだ。しかも、若者が年金受給年齢に達する頃、マクロ経済スライドは今の水準には及びもつかない低年金受給額となっているのだ。

若者よ、あなたがたの老後は、さらに厳しい。あなたが、投票所に足を運んで、この政権にノーを突きつけない限りは。
(2019年7月3日)

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