澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

明けましておめでとうございますー「目出度さもちう位也この春は」

あらたまの年の初めである。目出度くないはずはない。街は静かで人は穏やかである。誰もが、今年こそはという希望をもっている。欠乏や飢餓や恐怖は、見えるところにはない。が、その目出度さも、「ちう位」というしかない。

今年(2017年)の5月3日に、日本国憲法は施行70周年の記念日を迎える。この70年は、私の人生と重なる。振り返れば、その70年の過半は、希望とともにあった。漠然したものではあれ、昨日よりは今日、今日よりは明日が、よりよくなるという信念に支えられていた。「よりよくなる」とは、すべての人の生活が豊かになること、人が拘束から逃れて自由になること、そして貧困が克服されて格差のない平等が実現し、人が個性を育み自己実現ができること、その土台としての平和が保たれることであった。

敗戦ですべてを失った戦後の歩みは、平和を守りつつ豊かさを取り戻す過程であった。自由や平等や人権保障の不足は、「戦前の遅れた意識」のなせる業で、いずれは克服されるだろうと考えられていた。楽観的な未来像を描ける時代が長く続いた。しかし、明らかに今は違う。今日よりも明日がよりよくなり、上の世代よりも若い世代が、よりよい社会を享受するだろうとは思えない。いつから、どうしてこうなったのだろうか。

私が物心ついて以来、民主主義信仰というものがあった。戦前の誤りは、一握りの、皇族や軍部、藩閥政治家や財閥、大地主たちに政治をまかせていたからである。完全な普通選挙を実施したからには、同じ過ちが繰り返されるはずはない、というもの。天皇を頂点とする差別の構造も、官僚や資本の横暴も、民主主義の政治過程が深化する中でやがてはなくなる、そう考えていた。

しかし、経済格差のない男女平等の普通選挙制度が実現して久しい今も、多くの人が政権や天皇批判の言動を躊躇している。官僚や資本の横暴もなくなりそうもない。それどころか、平和さえ危うくなってきた。民主主義信仰は破綻した。少なくとも、懐疑なしに民主主義を語ることはできなくなった。

政治や制度が多数派国民の意思に支えられていることを民主主義と定義すれば、民主主義的な搾取や収奪の進行も、民主主義的な戦争もあり得るのだ。人種差別も思想差別も優生思想もなんでも「民主主義」とは両立する。トランプの登場やアベの政治は、そのことに警鐘を鳴らしている。

格差と貧困が拡がり深まる社会にあって、「お目出度とう」とは言いがたい。国民一人ひとりの尊厳が大切にされて、こころから「おめでとう」と言い合える、「ちう位」ではない目出度い正月をいつの日にかは迎えたいと思う。

立憲主義大嫌いのアベ政権である。今年の憲法記念日に、憲法施行70年を盛大に祝うとは到底思えない。このことは、一面「怪しからん」ことではあるが、権力によって嫌われる憲法の面目躍如でもある。日本国憲法は、政権から嫌われ、ないがしろにされ、改悪をたくらまれていればこそ、民衆の側が護るに値する憲法なのだ。

今年も、憲法改悪を阻止と、憲法の理念を実現する運動の進展を願う。その運動の進展自身が、民主主義を支える自立した市民を育むことになる。微力ではあるが、当ブログもその運動の一翼を担いたいと思う。
(2017年1月1日・元旦)

格差社会の中の「我らがパラダイス」

最近、毎日新聞の連載小説「我らがパラダイス」(林真理子)が朝の楽しみ。ストーリーは、いよいよ佳境。真っ先にここから読み始める。

何年か前の同じ著者の「下流の宴」も面白かった。こちらもテーマは社会の格差。経済格差が学歴格差と重なる実態を描きつつ、「下流」の心意気と「上流」の虚栄とを描いて痛快だった。

実直に働いている沖縄出身の高卒女性が、恋人の母親から結婚に反対される。そのときのセリフが、「ウチは医者の家系なのよ」というものだった。これに、この若い女性が猛反発する。「医者って、そんなにえらいんですか」「私医者になってみせる」。

ここからが、作家の力量だ。日本で一番はいりやすい医学部を特定して、その入試に合格するために、どのように勉強するか。ノウハウの提供者が現れて、彼女の勉強ぶりがリアルに描かれる。本人の努力や恋人の助力もあって目出度く合格する。しかし、その合格によって幸せがつかめるかどうか…、これはまた別のはなし。

ともかく、「医者って、そんなにえらいんですか」の名セリフは、いろいろに置き換えられる。
「大学出って、そんなにえらいんですか」「東大卒って、本当にえらいんですか」「金持ちって、そんなに立派なことですか」「社長ってなんぼのものですか」「上司って、そんなに威張れる身分ですか」「政治家って、どうしてそんなに大きな顔ができるんですか」「皇族って、なぜ税金で暮らせるんですか」…。

「医者」に置き換えられるものは無限にある。「日本人」「尊属」「男性」「公務員」「正社員」「健常者」「都会人」「アスリート」…。もろもろの差別構造の優越者に対する「下流」からの告発。私も気をつけよう。「弁護士さんって、どうして依頼者の気持ちが分からないのですか」と言われぬように。

「下流の宴」では、「下流」の側が「上流」に対して、一寸の虫にも五分の魂があることを見事に示して共感を呼んだ。が、下流の闘いは個人レベルのもので終わっている。それに比較して、「我らがパラダイス」は、高齢者介護における格差をテーマに、もっと社会性を意識した作品となっている。

それぞれに自分の親の介護問題に深刻に悩む3人の女性が、超高級老人ホームに勤務する。ここで至れり尽くせりの入居者を見ているうちに、自分の親にも同じようなケアを受けさせたいとの思いが募ってくる。そして、それぞれの親をこっそりとこの施設の空き部屋にいれての「親孝行」を実行する。このくわだては、単独にはできない。仲間の協力を得てのこと。

しかし、このくわだての束の間の成功と幸福は続かない。ことは露見して、「ここは貧乏人の来るところではない」と罵倒される。この3人は追い詰められて一矢報いようと決意する。「上流の走狗」二人を人質に、施設の一角にバリケードを築いての立て籠もりを始めようというのだ。

この3人の「決起」に、他の「下流」が連帯する。「上流」に属する入居者の中からも協力者が出てくる。バリケードの組み方を指導する学生運動の元闘士まで現れる。この連帯が、前作にはないところ。さて、これからどうなることか。

本日(12月1日)のストーリー展開は、籠城のための食糧確保だ。3人のうちのひとりが厨房に駆け込んでチーフに依頼する。ここで、次のように「下流同士の連帯」が描かれる。

「食べ物を分けてくれない。二、三日分」
「そっちは何人いるんだ」
「えーと、みんな合わせて十五人ぐらいかな」
「オッケー、パンと乾麺、冷凍のもん、いろいろ持ってきな。上の階には確か電子レンジとガスコンロあるはずだよ」
あまりにもあっさりと承諾してくれたので、さつきはとまどってしまったほどだ。
「オレが上に運んでやってもいいよ。なんだか面白そうだし」
「いや、いや、チーフに迷惑はかけられない。それにエレベーターも階段も封鎖してる。今裏口のエレベーターだけが使えるけど、そこもすぐに封鎖するって」
「なんだか本格的だねえ」
チーフはうきうきとした口調になった。
「よし、オレが段ボールに入れてここに置いとく。すぐに取りに来な」

さあ、明日からの展開が目を離せない。格差社会の中の「我らがパラダイス」は、束の間のバリケード内にとどまるのだろうか。それとも、バリケードの外まで拡がりをもつことになるのだろうか。

この小説は、確実にこの社会の断面を鋭く抉っている。格差社会の下流には、不満のマグマが渦を巻いている。このマグマは、いつかは噴出することになる。地震と同じでいつとは言いがたく、その規模も予想しがたい。しかし、年金をカットし、介護保険料を上げ、金持減税・庶民増税を繰り返していては、確実にその噴出の時期は早まるばかり。そしてその噴出のマグニチュードは大きくなる。心してあれ、「上流」の諸君。そして自・公・維の走狗たちよ。
(2016年12月1日)

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