澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

言論弾圧と運動弾圧のスラップ2類型-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第12弾

☆ブログを拝読し、DHCスラップ訴訟の件、知りました。
驚愕の事態ですね。気持だけですが、表現の自由のためにカンパをさせていただきます。

★ありがとうございます。多くの方のご支援に励まされています。
ご意見を寄せられる多くの方が、本件を表現の自由に対する悪質な妨害行為、とりわけ政治的言論に対する封殺の問題ととらえていらっしゃいます。私も、私一人の問題ではないと身に沁みて考え、負けられない思いです。

☆ところで、素朴な質問があります。
高江のスラップ裁判との比較で、「運動対抗型とは別に言論封殺型というものがある」とお書きになっている点についてです。高江は前者で、DHCは後者にあたるということだと思うのですが、運動対抗型と言論封殺型に相当するという論理が、よく理解できません。

★スラップを「運動対抗型」と「言論封殺型」とに分けたのは、私流の勝手な理解です。
 いずれも政治的・経済的強者が訴訟提起を手段として不当な意図を完遂しようとする点では同じですが、何を目的とした提訴なのか、あるいは提訴によって侵害されるものが何なのかの違いがあると思うのです。

仮に「運動対抗型」としたのは、市民運動・労働運動・政治運動などの弾圧を目的とした提訴をイメージしています。高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴や、反原発運動の制圧を目的とする経産省前テント撤去訴訟などは、その典型でしょう。マンション建設反対や公益通報に対するスラップも報告されています。「運動弾圧型」「運動つぶし目的型」「運動忌避型」などとネーミングもできるでしょう。

これに対して、純粋に不都合な言論の封殺を目的とする「言論封殺型」スラップ訴訟を分けた方が、闘い方の理論構築に資するのではないかと思うのです。

もちろん、両者の混交タイプはいくらでもありえます。たとえば、「DHCというサプリメントや化粧品の通販会社で、リストラに抵抗して4人が労働組合を作った。その組合のホームページの記載を名誉毀損だとして会社が損害賠償を求め、裁判に疲れた組合側は退職を条件に和解した」と複数のソースが報じています。この件などは、かたちは言論封殺型ですが、真の狙いからは労働運動弾圧型といえるのでしょう。

☆お書きになった記事をよみますと、両者は別個のものと考えられているようです。もしや、運動対抗型は違法性を持つ運動を対象にするものと(読者に)受け取られはすまいかと危惧いたします。両者の違いの強調よりは、共通であることの強調、両者とも表現の自由の侵害なのだと認識することこそが大切だと思うのですが。

★なるほど、私の記事はその点での配慮が足りなかったかも知れません。当然のことながら、運動弾圧型のスラップをいささかも許容するつもりはありません。

むしろ、私は「表現の自由」の対象を、「純粋な言論」と「言論に伴う行動」とに峻別して、純粋な言語的表現だけを手厚く保護しようとする伝統的な考え方には抵抗しているつもりなのです。それは、「日の丸・君が代」に関して、ピアノ伴奏をしたり、起立・斉唱をする行為を、「外部的な行為」に過ぎないとする考え方への反発があるからです。内心の思想・良心とは峻別された「外部的行為の強制は直ちには内心の思想・良心を侵害するものではない」という最高裁判例を容認しがたいという思いが強くあります。

言語的表現である純粋言論も、これに伴う行動も、ともに思想・良心の外部表出として保護されるべきであると思っています。場合によっては、言語的表現以上に身体的行動による表現形態こそが重要なこともありうると思います。

☆高江裁判で、最高裁で敗訴したIさんは、防衛局が敷地内に機材を搬入しようとした際、ゲート前に座り込んだ人々のなかで狙いうちされたのです。搬入を阻止しようとして思わず両腕を真ん前に伸ばして肩の位置まで上げたことが、「国の通路使用を物理的方法で妨害した」と認定されました。住民運動側は、ヘリパッド建設に反対する意思表示、抗議行動は憲法に保障された表現の自由にあたるとして、闘いました。そして今も、連日、灼熱の辺野古でオスプレイ用のヘリパッド建設反対の運動が、繰り広げられています。運動の正当性を支える表現の自由の強調をお願いします。

★了解しました。まったく異存ありません。
ただ、言語的表現を封殺するタイプのスラップは、名誉毀損の違法性阻却要件、あるいは公正な論評の法理などというかたちで、訴訟を舞台での闘い方がパターン化されています。その点では、明らかに「運動弾圧型」とは異なるものとして、少なくとも訴訟技術においては意識する必要があるとは思います。

「運動弾圧型」と「言論封殺型」、どちらも許容しがたいものですが、それぞれ特有の課題があると思います。『DHCスラップ訴訟』は、政治的な純粋言語的表現に対する直接的な封殺行為です。客観的に不当極まる高額な金額の請求をすることで言論の萎縮効果を狙っています。

なお、かつてサラ金業界の盟主だった武富士が、スラップ訴訟受任を常習とする弁護士を代理人として、同時多発的にスラップ訴訟を連発して悪名を馳せました。
被告にされたのは、「サンデー毎日」、「週刊金曜日」、「週刊プレーボーイ」、「武富士の闇を暴く」、「月刊ベルダ」、「月刊創(つくる)」など。

DHCの濫訴の実態は追い追い明らかになるはずですが、その規模において、武富士を上回るものであることは確実です。とりわけ、「政治とカネ」をめぐる批判の政治的言論に対する拒否反応の強さに驚かされます。

高江のヘリパッド建設反対運動への弾圧のスラップも許し難いものがありますが、『DHCスラップ訴訟』も明らかに驚愕の事態。これから、訴訟の進展だけでなく、「DHCスラップ」の全体像についても把握しえた情報をご報告いたします。表現の自由の今日的状況として関心をお持ちいただき、ご支援いただくようよろしくお願いします。
(2014年7月31日)

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また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
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 (カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)

「自民党改憲草案」の全体像とその批判

お招きいただき、発言の場を与えていただたことに感謝いたします。本日は、学生・生徒に接する立場の方に、私なりの憲法の構造や憲法をめぐる状況について、お話しをさせていただきます。

ご依頼のテーマが、「自民党の改憲草案を読み解く」ということです。この改憲草案は、安倍自民党の目指すところを忌憚なくあけすけに語っているという、その意味でたいへん貴重な資料だと思います。そして、同時に恐ろしい政治的目標であるとも思います。

この草案の発表は、2012年4月27日でした。4月27日は、日本が敗戦処理の占領から解放されたその日。この日を特に選んで公表された草案は、「自主憲法制定」を党是とする自民党による「現行日本国憲法は占領軍の押し付け憲法として原理的に正当性を認めない」というメッセージであると、読み取ることができます。

押し付けられた結果、現行憲法は内容にどのような欠陥があるのか。彼らは、「日本に固有の歴史・伝統・文化を反映したものとなっていない」と言います。これは、一面において、人類の叡智が到達した普遍的原理を認めないという宣言であり、他面、「固有の歴史・伝統・文化」という内実として天皇制の強化をねらうものです。

天皇という神聖な権威の存在は、これを利用する為政者にとって便利この上ない政治的な道具です。国家や社会の固定的な秩序の形成にも、現状を固定的に受容する国民の保守的心情の涵養にも有用です。民主主義社会の主権者としての成熟の度合いは、国王や皇帝や天皇などの権威からどれほど自由であるかではかられます。自民党案は、天皇利用の意図であふれています。

この草案は、なによりも日本国憲法への攻撃の全面性を特徴としています。「全面性」とは、現行憲法の理念や原則など大切とされるすべての面を押し潰そうとしていることです。

日本国憲法の構造は次のように理解されます。日本国憲法の3大原則は、3本の柱にたとえられます。国民主権、基本的人権の尊重、そして恒久平和主義。この3本の柱が、立憲主義という基礎の上にしっかりと立てられています。

堅固な基礎と3本の柱の骨組みで建てられた家には、国民の福利という快適さが保障されます。いわば、国民のしあわせが花開く家。それが現行日本国憲法の基本設計図です。今、自民党の改憲草案は、そのすべてを攻撃しています。

まず、基礎となっている立憲主義を堀り崩して、これを壊そうとしています。つまりは、憲法を憲法でなくそうとしているということです。国家権力と個人の尊厳とが厳しい対抗関係に立つことを前提として、個人の尊厳を守るために国家権力の恣意的な発動を制御するシステムとして憲法を作る。これが近代立憲主義。草案は、このような立ち場を放棄しようとしています。

現行憲法の前文は、こう書き出されています。
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」
主権者である国民が憲法を作り、憲法に基づく国をつくるのですから、当然のこととして国民が主語になっています。

ところが草案の前文の冒頭は次の一節です。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。」

国民ではなく、いきなり日本国が主語になっている。国民に先行して国家というものの存在があるという思考パターンの文章です。

国民が書いた、「権力を担う者に対する命令の文書」というのが憲法の基本的性格です。ですから命令の主体である国民に憲法遵守義務というものはありえない。憲法遵守義務は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」(99条)と定められています。
これを立憲主義の神髄と言ってよいでしょう。

草案ではどうなるか。
第102条(憲法尊重擁護義務)「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない」となります。主権者である国民から権力者に対する命令書という憲法の性格が没却されてしまっています。

同条2項は公務員にも憲法擁護義務を課します。しかし、「国会議員、国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。」と、わざわざ天皇を除外しています。

立憲主義の理念は没却され、国民に憲法尊重の義務を課し、国民にお説教をする憲法草案になりさがっています。

そして、3本の柱のどれもが細く削られようとしています。腐らせようとされているのかも知れません。
まずは、「国権栄えて民権亡ぶ」のが改正草案。公益・公序によって基本的人権を制約できるのですから、権力をもつ側にとってこんな便利なことはありません。国民の側からは、危険極まる改正案です。

もっとも人権は無制限ではありません。一定の制約を受けざるを得ない。その制約概念を現行憲法は「公共の福祉」と表現しています。しかし、最高の憲法価値は人権です。人権を制約できるものがあるとすれば、それは他の人権以外にはあり得ません。人権と人権が衝突して調整が必要となる局面において、一方人権が制約されることを「公共の福祉による制約」というに過ぎないと理解されています。

そのような理解を明示的に否定して、「公益」・「公序」によって基本的人権の制約が可能とするのだというのが、改正草案です。

9条改憲を実現して、自衛隊を一人前の軍隊である国防軍にしようというのが改正案。現行法の下では、自衛のための最低限の実力を超える装備は持てないし、行動もできません。この制約を取り払って、海外でも軍事行動ができるようにしようというのが、改正草案の危険な内容。

これは、7月1日の閣議決定による解釈改憲というかたちで、実質的に実現され兼ねない危険な事態となっています。

国民主権ないしは民主主義は、天皇の権能と対抗関係にあります。国民と主権者の座を争う唯一のライバルが、天皇という存在です。その天皇の権能が拡大することは、民主主義が縮小すること。

「日本国は天皇を戴く国家」とするのが改正草案前文の冒頭の一文。第1条では、「天皇は日本国の元首」とされています。現行憲法に明記されている天皇の憲法尊重・擁護義務もはずされています。恐るべきアナクロニズム。

その結果として大多数の国民には住み心地の悪い家ができあがります。とはいえ、経済的な強者には快適そのものなのです。自分たちの利潤追求の自由はこれまで以上に保障してくれそうだからです。日本国憲法は、経済的な強者の地位を制約し弱者には保護を与えて、資本主義社会の矛盾を緩和する福祉国家を目標としました。今、政権のトレンドは新自由主義。強者の自由を認め、弱肉強食を当然とする競争至上主義です。自助努力が強調されて、労働者の労働基本権も、生活困窮者の生存権も、切り詰められる方向に。

臆面もなくこのような改正案を提案しているのが、安倍自民党です。かつての自民党内の保守本流とは大きな違い。おそらくは、提案者自身も本気でこの改正案が現実化するとは思っていないでしょう。言わば、彼らの本音における最大限要求としてこの改憲草案があります。

特定秘密保護法を成立させ、集団的自衛権行使容認の閣議決定まで漕ぎつけた安倍自民。最大限要求の実現に向けて危険な道を走っていることは、否定のしようもありません。安倍自民が、今後この路線で、つまりは自民党改憲草案の描く青写真の実現を目指すことは間違いないところです。これを阻止することができるかどうか。すべては私たち国民の力量にかかっています。

老・壮・青の各世代の決意と運動が必要ですが、長期的には次世代の主権者である学生・生徒に接する皆様の役割か大きいと言わざるを得ません。是非とも、平和教育・憲法教育における充実した成果を上げることができますよう、期待しております。
(2014年7月30日)

経済的強者に対する濫訴防止策が必要だ-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第11弾

ハードデスクの片隅に、昔執筆した自分の原稿を見つけて読み直すことがある。自ずと、その時代を懐かしく思い起こす。

たまたま、1999年以来の「司法改革」で書いた論稿のいくつかが出てきた。あのとき、自分なりに実務家の立ち場で司法制度を論じた。最大の関心事は、民事訴訟における訴訟費用の敗訴者負担制度の導入の可否であり、私は反対論の急先鋒の一人だった。その趣旨の「自由と正義」への寄稿が、神戸大学入試小論文の素材となって驚いたこともあった。

制度導入を是とする論拠の主たるものが「濫訴の防止」であった。導入を非とする論拠の主たるものが「司法へのアクセスの確保」、あるいは「提訴の萎縮回避」であった。

今私は、スラップ訴訟の被告となった。身をもって濫訴の弊害を実感する立ち場だ。では、敗訴者負担の制度導入に反対したことを後悔しているか。ことはそんなに単純ではない。1999年に書いた論稿の抜粋を紹介しておきたい。

「何よりも市民の権利実現を-『民事司法制度改革』への見解」
※はじめに
私は、弁護士経験30年。主として労働事件・消費者事件・医療事件の分野で、もっぱら労働側・消費者側・患者側で業務に携わってきた。憲法訴訟への関与も少なくない。
実務遂行の過程で、一再ならず不本意な訴訟の結果を甘受せざるを得ず、無念な思いを経験してきた。その原因として自分の弁護士としての力量不足を認めることにやぶさかではないが、訴訟制度の不備・不公正にも過半の責任あることを疑わない。
現行の民事司法制度の改善が必要なことは自明と考え、「司法改革」には熱い期待をもって見守り、また改革の市民運動への関与もしてきた。ところが、次第に明確化しつつある司法改革審議会の「改革」の方向には、いくつかの疑問を呈せざるを得ない。審議会の「民事司法の在り方・取りまとめ(案)」を素材に現場からの意見を述べたい。

※制度改革の立場性
司法制度の改革を望む声は大きいが、誰のために、どのような「改革」を求めるかについては、立場によって大きく見解を異にする。そもそも、訴訟制度の当否は立場を抜きにして語ることができない。訴訟は鋭く対立する当事者間の紛争を取り扱う。裁判所の中立・公平はフィクションに過ぎず、訴訟手続のルール設定自体がそれぞれの立場の妥協的産物である。とりわけ、非代替的な当事者間の争訟においては、双方が完全に納得しうる訴訟手続のルール設定は本来不可能であろう。
一言で言えば、強者は形式的平等ルールを主張し、弱者は実質的平等ルールを求める。民事訴訟手続における形式的平等では、圧倒的に強者が有利で弱者が不利となる。弱者の権利を全うするためには、訴訟手続における実質的な平等原則を現実の訴訟手続において確立しなければならない。私は、弱者の側にあって、実質的平等原則の定着を強く求める立場にある。

※訴訟における「強者」対「弱者」
強者・弱者の指標は経済的力量と専門的知識ないし情報量である。経済的格差及び情報量の格差が、強者と弱者を分けている。
私は、法の目的は弱者の権利擁護にあり、司法の正義は弱者の権利の実現にあると信じて疑わない。社会的な自然状態では、常に強者が利益を独占する。紛争においては、弱者は泣き寝入りするしかない。この自然状態を不合理として是正し、弱者に「権利」を与えるのが法の体系であり、この権利を実現する手続が本来的な司法の使命である。民事訴訟手続は、この使命を全うするものでなくてはならない。
強者・弱者という用語は、当事者の力量格差を相対的に表現したものであるが、典型的には強者を企業、弱者を市民と置き換えることができる。「市民のための司法改革」とは、企業との関係で弱者である労働者・消費者を念頭においた表現であると理解する。「企業を含む市民のための司法改革」という用語法では、強者と弱者の対立構造をことさらに隠蔽する無意味なスローガンとなり、何の問題提起もしていないことになろう。
試みに、訴訟を当事者によって次のように類型化してみる。
①企業対企業の訴訟(以下、第1類型という)
②企業が市民を訴える訴訟(第2類型)
③市民が企業を訴える訴訟(第3類型)
④市民対市民の訴訟(第4類型)
今、強く「改革」が求められているのは、第3類型であって、第1でも第2でもない。このことを明確に意識することが重要だと思う。
あるいは、今求められている「改革」は、市民が企業と対抗する関係において使いやすく真に役に立つ司法を実現すること、と言ってもよい。

※市民のための民事訴訟制度改革とは
企業対企業の訴訟(第1)類型は、力量ある当事者相互において立場が交代しうるものである点で、形式的平等のルールになじむものと言えよう。知的財産権訴訟を典型として、「訴訟の迅速化」にも「グローバルなルール設定」にも特に違和感がない。問題は、この分野での形式的平等原理を、乱暴に第3類型にまで適用することの弊害なのである。
企業が市民を訴える訴訟(第2)類型は、典型的には貸金業者の貸金請求訴訟ないし、クレジット業者の立替金請求訴訟である。また、その延長線上に銀行の抵当権実行手続がある。周知のとおり、今全国の簡裁はクレジット・サラ金業者に占拠されている異常な事態にある。「司法が十分に利用されていない」というのはこの分野については当たらない。経済的力量も債権回収知識も豊富な業者の司法へのアクセス不備を心配する必要はまったくない、と私は思う。
しかし、この分野においても、さらに業者が司法にアクセスしやすく、訴訟費用は市民に負担させて、訴訟は迅速に行い、執行手続きも迅速厳正に行われるべし、という見解は当然立場によってはあり得る。業者の利益を代表する立場と、形式的平等論に立ってこれを擁護する立場とである。審議会の「まとめ(案)」は、その後者に当たるものとなってはいないか。不安を払拭し得ない。
強者である企業が、その活動の過程で弱者である市民の権利を損なうことこそ現代社会における典型的な権利侵害の態様であり、その救済が、第3類型の「市民が企業を訴える訴訟」である。民事司法本来の使命を果たすべき分野であって、かつ「司法改革」を求められている場である。
具体的には、リストラ・賃金不払い・不当労働行為・労災・職業病・性差別・セクハラ等々の労働事件、公害・環境・生活侵害事件、製造物責任・取引型不法行為・多重債務問題等々の消費者事件、医療過誤訴訟、欠陥住宅訴訟等々である。
この分野では、提訴数が絶対的に過小である。その理由を究明し、「市民にとっての大きな司法」を実現しなければならない。訴訟手続、判決内容、判決の執行は実質的な平等原理を実現して市民の権利実現に実効あるものとなっているか、十分に吟味考察しなければならない。

※司法へのアクセス障害の根本原因  
司法の利用がトータルで「2割」であることにはさほどの意味はない。問題は、第3類型の市民の訴訟提起が極端に少ないことにある。市民の司法利用が少ないことは、市民の権利の実現がないということであり、市民が司法を見限っていることでもある。
なぜ、司法は市民に利用されないか。とりわけ対企業提訴がなぜ少ないか。それは司法が役に立っていないからである。端的に言って、容易に訴訟に勝てないからである。
好例は、変額保険訴訟の総件数600件の提訴である。これは、やむにやまれずの提訴であった。その600件の先行訴訟を10万と言われる同種被害者が見守った。先行訴訟の勝訴判決が続けば、600件は6000件にも6万件にもなり得たと言ってよい。それが途絶えたのは、残念ながら被告の生保にも銀行にも容易に勝てない司法の現状を知った金融被害者の絶望の結果である。司法救済の限界が司法を市民から遠ざけたのだ。
勝訴に一定の時間と労力がかかるとしても、最終的に勝訴の確率が高ければ、市民は司法にアクセスする。掛けるべき時間と労力と費用が小さくなれば、さらに役立つことになる。役に立つ制度なら市民が利用することは、消費者破産が年間13万件にもなっていることがよく示している。

※弁護士報酬の敗訴者負担に反対
それどころか、「まとめ案」は、市民の提訴を抑制しようとしているごとくである。弁護士報酬の敗訴者負担制度の原則採用である。
周知のとおり、これまで弁護士報酬の敗訴者負担論議は、「濫訴・濫上訴防止」の効果をねらって提案され、それ故に批判されて実現を見なかった。大きな司法を目指すはずの司法制度改革審議会が、小さな司法維持策の道具を採用するとしたことには一驚を禁じ得ない。とってつけたような「権利の減殺・希釈論」は、現場を知らない傍観者の机上の空論というべきである。こんな風に、制度をいじられてはとてもかなわない。
確かに、弁護士報酬の敗訴者負担は、ある種の類型の提訴を増やすことにはなる。当初から証拠資料を取りそろえて勝訴確実なシンプルな訴訟を。貸金業者の貸金請求訴訟がその典型であろう。また、企業が市民を訴える訴訟類型は概ねこれに当たる。
しかし、肝心の第三類型の訴訟には確実に萎縮・抑制効果をもたらす。労働・公害・消費者、そして医療過誤等の訴訟の多くは、勝訴の確信あって提訴に至るものではない。訴訟手続において、模索的に証拠を収集し、法的な構成さえ流動的である。「敗訴の場合は、被告側弁護士報酬も負担」ということになれば、提訴を躊躇せざるを得ない。とりわけ、先駆的な訴訟、不合理な判例にチャレンジする訴訟の提起は困難を極める。
また、政策形成訴訟の多くは原告側弁護士のボランティアによってなされているのが現実であって、原告となる市民が弁護士報酬の出捐能力を持っているわけではない。敗訴の場合は被告側の弁護士報酬を負担するとなれば、提訴不可能となるだろう。
この制度の採用は、企業や行政にとって不都合な提訴の抑制効果をねらってのものとしか考えようがない。「まとめ(案)」は、原則を敗訴者負担として、「例外の範囲と例外的取扱の在り方」について検討するとのことだが、例外の範囲の設定が技術的な困難に逢着することは目に見えている。敗訴者負担の原則自体を撤回するよう、強く求める。
この問題は、他のテーマに比して、際だって市民に分かりやすい。司法改革に期待を寄せてきた多くの弁護士の注目度も高い。司法制度改革審議会のなんたるかを示すリトマス紙として機能することになろう。現状では、「市民に小さく、企業に大きな」司法を目指すものとの指摘を裏書きすることになる。(以下略)

『DHCスラップ訴訟』は、経済的強者の濫訴の典型である。弁護士費用の敗訴者負担制度の導入は、市民の提訴意欲を減殺させるだけで、スラップ防止の効果は望むべくもない。訴訟を道具にした言論封殺には、別の断固とした制裁措置が必要である。

海外には各種の「スラップ禁止法」があるという。スラップを防止し、スラップの提起があった場合には早期に被害者を被告の座から解放し、被害者へは十分な救済措置を、加害者には強力な制裁を科す。

私は、スラップ訴訟による加害行為を絶対に許さない。わが国における反スラップ法の制定をもって宿怨をはらしたいと思う。DHCとの訴訟を通じて、強者による濫訴の防止に実効ある制度の設計を考えたいと思う。これも、「弱者に閉じられ、強者に開かれた司法」ではなく、「弱者のための司法」を実現するための一環なのだ。

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        「ウナギと梅干し」の食い合わせは毒か?
今日は土用の丑の日。この日ばかりはと、大枚はたいてウナギを召し上がる人も多かろう。しかしウナギは過度の濫獲によって、国際自然保護連合(IUCN)のレッドリストで絶滅危惧種に指定されてしまった。今となっては畏れ多くて、蒲焼きなどにできない貴重種なのだ。「ヨーロッパウナギ」は野生動物の国際取引を規制するワシントン条約の規制対象となって、最も深刻な「絶滅危惧1A類」に指定されている。それなのに日本のスーパーで輸入物として売られており、またまた、グリンピースによって「資源の保護より短期的な利益を優先する姿勢がうかがえる」と非難されている(毎日新聞7月29日)。

「ニホンウナギ」もやはりレッドリストで2番目にリスクが高い「絶滅危惧1B.類」に分類されている。こちらは天然の稚魚のシラスウナギを捕獲して養殖したものが流通しているのだが、年々シラスの捕獲量が減っている。卵から育てる完全養殖も試みられて、幼体の餌や大型流水プールの試行錯誤が行われている。しかし、今の方法では一匹のウナギを育てるのに餌代を含めて数万円かかる(毎日新聞)。食卓への道はまだまだ遠い。

サケも今は卵から稚魚を育てて、川に放す。プールで育てるのではなく、「必ず戻ってこいよ」と広い海に放し飼いにする。各地の漁協が取り組んで成功している。ウナギは海に放しても、戻ってこないのだろうか。
木村伸吾・東京大学教授(水産海洋学)は「水辺再生がウナギ復活につながる可能性はある。河口からの遡上を妨げるせきやダムを含めた川のあり方を考え直すべきだ」と話す(毎日新聞)。

さて、毒の話。昔から「ウナギと梅干し」の食べ合わせは毒になると言われたものだ。本当だろうか?

「時は大正10~12年のころ、栄養研究所のある研究者がみずからをモルモットとしてこの食べ合わせに果敢な挑戦を行った実験の結果を報告しているのである。彼、村井政善氏は第一回にウナギの蒲焼200グラムと梅干し40グラムを朝、昼、晩と1日3回3日間連続、第二回にはウナギの白焼200グラムを梅肉醤油で昼と晩の2回ずつ2日間、第3回はウナギの霜降りを刺身として200グラム夕食に、第四回には未熟な青梅4個とウナギの蒲焼き200グラムを同時に2日間、というように、とにかく手を替え品を替えして、実に綿密にウナギと梅干しを食べつづけ、なんと第八回の実験にまで至るのである。いまだったら、ウナギ代だけで研究室は破産しかねないし、第一ウナギだけでも腹がもたれて参ってしまいそうな実験である。ともあれ、村井氏はあらゆる組み合わせを考えてウナギと梅干し、あるいは梅の実を食べたが、いずれの場合も全く異常を認めることはできなかったと報告した。
この貴重な『食べ合わせ人体実験』から導き出された結論によれば、ウナギと梅干しの食べ合わせの言い伝えには科学的な根拠はまったくなかったことになる」(山崎幹夫著「毒の話」中公新書)

ウナギを食べたあとに梅干しを食して腹痛を起こす。
まるで、ブログを書いた後にスラップ訴訟の被害者となるごとくである。
ウナギを食べたあとの梅干しは梅干しは毒にはならないことが立証されたが、ブログのあとのスラップ訴訟は有害だ。解毒のための制裁措置が必要なのだ。
(2014年7月29日)
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これが都教委の言う「国旗・国歌に対する正しい認識」だ。

「国旗・国歌に対する国民としての正しい認識」というものがあるという。いったいどういうものか、想像がつくだろうか。国旗国歌への敬意表明を強制し、懲戒処分を濫発して止まないことで話題の都教委は、堂々と次のとおり述べている(東京『君が代』裁判・第四次訴訟答弁書)。

「国旗及び国歌に対する正しい認識とは、
①国旗と国歌は、いずれの国ももっていること、
②国旗と国歌は、いずれの国もその国の象徴として大切にされており、相互に尊重し合うことが必要であること、
③我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着していることを踏まえて、法律により定められていること、
④国歌である「君が代」は、日本国憲法の下においては、日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌であること、
を理解することである。」

私には、そのような理解は到底できないが、上記①~④は国旗国歌についての考え方の、無限のバリエーションの一つとして存在しておかしくはない。馬鹿げた考え方とも思わない。しかし、これを「国旗国歌に対する正しい認識」と言ってのける無神経さには、愕然とせざるを得ない。こういう無神経な輩に権力を担わせておくことは危険だ。

「公権力は特定のイデオロギーを持ってはならない」。これは民主主義国家における権力の在り方についての原点であり公理である。現実には、完全に実現するには困難なこの課題について、権力を担う者には可及的にこの公理に忠実であろうとする真摯な姿勢が求められる。しかし、都教委にはそのカケラもない。

憲法とは、国民と国家との関係をめぐる基本ルールである。国民と国家との関係とは、国民が国家という権力機構を作り、国家が権力作用を国民に及ぼすことになる。常に暴走の危険を孕む国家権力を、国民がどうコントロールするか、そのルールを形づくるものが憲法にほかならない。

だから、憲法の最大関心テーマは、国家と国民との関係なのだ。国家は目に見えない抽象的存在だが、これを目に見えるものとして具象化したものが、国旗国歌である。国家と国民の目には見えない関係が、国旗国歌と国民との目に見える関係として置き換えられる。

だから、「国民において国旗国歌をどう認識するか」は、「国民において国家をどう認識するか」と同義なのだ。「国家をどう認識するか」は、これ以上ないイデオロギー的テーマである。「正しい認識」などあるはずがない。公権力において「これが正しい認識である」などと公定することがあってはならない。

国家一般であっても、現実の具体的国家でも、あるいは歴史の所産としての今ある国家像としても、公権力が「これが正しい国家認識」などとおこがましいことを言ってはならない。それこそ、「教育勅語」「国定教科書」の復活という大問題となる。

ところが、都教委の無神経さは、臆面もなく「国旗国歌の正しい認識」を言ってのけるところにある。もし、正しい「国旗国歌に対する認識」があるとすれば、次のような、徹底した相対主義の立場以外にはあり得ないだろう。

「国家に対する人々の考え方が無数に分かれているように、国旗国歌に対しても人々がいろんな考え方をしています。民主主義社会においては、このような問題に関して、どの考え方が正しいかということに関心を持ちません。そもそも、「正しい」あるいは「間違っている」などという判断も解答もありえないのです。多数決で決めてよいことでもありません。それぞれの考え方をお互いに尊重するしかなく、決して誰かの意見を他の人に押し付け、強制・強要するようなことがあってはなりません」

上記①~④を「正しい認識」とするのが、話題の都教委である。悪名高い「10・23通達」を発して懲戒処分を濫発したのは、このようなイデオロギーを持っているからなのだ。

①「国旗と国歌は、いずれの国ももっている」という叙述には、国家や国民についての矛盾や葛藤を、ことさらに捨象しようとする姿勢が透けて見える。いずれの国の成立にも、民族や宗教や階級間の軋轢や闘争の歴史がまつわる。その闘争の勝者が国家を名乗り、国旗・国歌を制定している。「いずれの国も国旗国歌をもっている」では、1910年から1945年までの朝鮮を語ることができない。現在各地で無数にある民族独立運動を語ることもできない。

②国旗と国歌は、「いずれの国もその国の象徴として大切にされており」は、各国の多数派、強者のグループについてはそのとおりだろうが、少数派・敗者側グループにおいては、必ずしもそうではない。「相互に尊重し合うことが必要であること」は微妙な問題である。価値観を同じくしない国は多くある。独裁・国民弾圧・他国への収奪・好戦国家・極端な女性蔑視・権力の世襲・腐敗‥。正当な批判と国旗国歌の尊重とは、どのように整合性が付けられるのだろうか。

③「我が国の国旗と国歌は、永年の慣行により「日章旗」が国旗であり、「君が代」が国歌であることが広く国民の認識として定着している」ですと? 国旗国歌法制定時には、「日の丸・君が代」が国旗国歌としてふさわしいか否かが国論を二分する大きな議論を巻き起こしたではないか。政府は「国民に強制することはあり得ない」としてようやく法の制定に漕ぎつけたではないか。
わが日本国は、「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言して建国された。したがって、「戦争の記憶と結びつく、旗や歌は日本を象徴するものとしてふさわしくない」とする意見には、肯定せざるを得ない説得力がある。ことさらに、このことを無視することを「正しい認識」とは言わない。むしろ、「一方的な見解の押し付け」と言わねばならないのではないか。

④「君が代」とは、「かつて国民を膝下に置き、国家主義・軍国主義・侵略主義の暴政の主体だった天皇を言祝ぎ、その御代の永続を願う歌詞ではないか。国民主権国家にふさわしくない」。これは自明の理と言ってよい。これを「日本国民総意に基づき天皇を日本国及び日本国統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念した歌」という訳の分からぬ「ロジック」は、詭弁も甚だしいと切り捨ててよい。

以上の①~④のテーゼの真実性についての論争は実は不毛である。国民の一人が、そのような意見を持つことで咎められることはない。しかし、公権力の担い手が、これを「正しい」、文脈では「唯一正しい」とすることは噴飯ものと言うだけではなく、許されざることなのだ。

都教委は権力の主体として謙虚にならねばならない。民主主義社会の基本ルールに従わなければならない。自分の主張のイデオロギー性、偏頗なことを知らねばならい。

教育委員の諸君。都教委がこんな「正しい認識」についての主張をしていることをご存じだったろうか。すべては、あなた方の合議体の責任となる。それでよいとお思いだろうか。あらためて伺いたい。
(2014年7月28日)

東京「君が代」裁判・4次訴訟の客観的アプローチ論

猛暑のさなかに「熱気」あふれる集会所にお集まりの皆様、ご苦労様です。
「東京『君が代』裁判第4次訴訟」の概要をお話しさせていただきます。

「東京『君が代』裁判」は、都立校の卒入学式において「国旗起立・国歌斉唱」「国歌伴奏」の職務命令違反を理由とする懲戒処分の取り消しを求める行政訴訟です。1次訴訟から4次訴訟まであり、1次訴訟は2012年1月16日、2次訴訟は2013年9月6日に、いずれも最高裁判決で確定しています。両判決は、22件の減給処分と1件の停職処分を取り消しましたが、もっとも軽い戒告処分については「違憲違法だから取り消せ」という原告側の請求を退けています。今、3次訴訟が一審東京地裁で結審して来年1月16日の判決期日を待っており、4次訴訟が新たに提起されてこれから本格的な審理が始まるところです。

4次訴訟の訴状は約130頁。目次を書き連ねたレジメを用意しましたが、おそらくこれでは平板に過ぎて分かりにくかろうと思われます。メリハリを付けてご質問に答えるかたちでお話しをさせていただきます。

原告側の言い分の最たるものは、訴状の冒頭「本件訴訟の概要と意義」のところに書いてあります。表題のとおり、「これまでの最高裁判決に漫然と従ってはならない」と裁判所に語りかけています。

「裁判所の果たすべき使命」の節に、最高裁判決の中に見られる『今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる』という警句や、そして、「マルティン・ニーメラー」の述懐を引いています。最近の憲法状況をみるに、人権や民主主義、あるいは平和が危うくなっているという危惧を抱かずにはおられません。厳格に憲法を遵守すべき姿勢の重大性を強調しています。

「漫然と従ってはならない、これまでの最高裁判決」とは、1次2次の各訴訟の判決を指しています。その余の10・23通達関連事件判決も同旨で、「減給以上の重い処分は量定重きに失して違法となるので取り消すが、軽い戒告にとどまる限りは違憲違法とまでは言えない」というのが、最高裁多数意見の見解です。

最高裁の判断は、減給以上の懲戒処分を取り消した限りでは、頑迷固陋な都教委に鉄槌をくだしたものと言えます。あの、行政に甘いことで知られる最高裁ですら、都教委の累積加重の機械的懲戒システムを違法としたのです。都教委は、司法から「違法行為者」という烙印を押された行政機関として恥を知らねばなりません。

しかし、戒告を違憲違法とはいえないとした点で、私たちは、この最高裁多数派の見解を到底受け容れることができません。最高裁裁判官も馴染んできたはずの憲法学界の通説的見解から大きくはずれた判断だからです。

なんとか、戒告についても違憲あるいは違法という裁判所の判断を求めたい。そのために、1次、2次の訴訟とは違った構成の訴状となっていることをご理解ください。

まずは、これまでと同様、憲法19条(思想良心の自由の保障)違反の主張について、手厚く論理を構築しています。ピアノ伴奏強制事件の判決は、「ピアノ伴奏という外部行為の強制は、客観的一般的には内心の思想良心を侵害するものではない」と言っていました。さすがにこれは、評判悪くて持ちこたえられず、1次・2次訴訟判決では、「国旗国歌への敬意表明という外部的行為の強制は、間接的には思想良心を侵害するものである」ことを認めました。しかし、同時に「間接的な侵害に過ぎないから、合憲判断に必要とされる厳格な審査基準の適用は必要なく、合理性・必要性が認められる程度で合憲と認めてよい」としたのです。

「間接的な侵害」に過ぎないという認定の吟味。「間接的な侵害」には厳格な審査基準不要という判断枠組みへの疑問と反論。そして、「必要性・合理性」存否の再点検まで追求しなければなりません。

それだけではなく、別の観点から新しい論点の設定が必要です。訴状では、「客観的アプローチ」、「客観違法」、「客観違憲」の主張をしています。19条違反、20条違反、あるいは23条違反という、「人権を侵害する」ところで行政の違法を把握し、「人権侵害故に違憲違法」とのアプローチを「主観的アプローチ」と呼ぶことにします。これとは異なり、そもそも当該行政機関にはそのような行為をすべき権能がない、という構成を「客観的アプローチ」と言ってよいと思います。

主観的なアプローチとしては一応最高裁の判断があったが、客観的なアプローチにおいての最高裁の判断はまだない、というのが私たちの立ち場です。

客観的アプローチは、立憲主義的アプローチでもあります。憲法とは、公権力と個人との関係を律するものです。先国家的な根源の存在である個人の尊厳こそが最高の憲法価値であって、主権者が後個人的な被造物として作りあげた国家が個人の尊厳に道を譲るべきは当然のことです。

ところで、国旗国歌は国家と等価な存在です。人は国家と等価な国旗国歌と向き合って、自分と国家との関係を形に表します。国家の象徴としての国旗国歌への敬意表明の強制は、国家を個人の尊厳の上に置くものとして、憲法の理念からはあるべからざることと言うしかありません。憲法的視点からは背理であり、倒錯にほかなりません。

この客観的アプローチだけでなく、10・23通達関連事件では最高裁が口を噤んでいる「教育の自由」の問題についても、重厚に論じて行きたいと思っています。

これまで、あらゆる公務員論のネックにあった、猿払事件最高裁大法廷判決の先例性に、堀越事件が切り込んでゆらぎが見えます。「七生養護学校事件判決」も、あらためて教育の自由に言及しています。

「日の丸・君が代」強制問題については、決して、最高裁判例が固まったとは考えていません。「戒告処分も違憲違法」そのような判決を目指していることをご理解ください。
(2014年7月27日)

神奈川新聞社説「ヘイトスピーチ」に敬意を表明する

優れた社説に出会うことは希である。
各「社」の公式論説ともなれば、多くの人の手が入ることになるのだろう。おそらくは、原案の切れ味の鋭さが合議の過程で角が取れ無難なものに落ち着いていく。右顧し左眄し、あっちにもこっちにも配慮した内容となる。とりわけ、権力や金力ある者への言い訳を用意した文章として完成する。そのとき既に読者を唸らせる論説の力はなくなっている。だから、優れた社説は希なのだろう。

本日、その希な「優れた社説」に出会って唸った。神奈川新聞の「ヘイトスピーチ-判決生かし差別根絶を」というもの。在特会による京都朝鮮学校への「街宣活動」の違法を断罪した大阪高裁判決を素材として、通り一遍でない「民族差別」の根絶を論じている。

「言葉の刃で傷付けられているのは民族的少数者たる在日コリアンである。その基本的人権を無視した『朝鮮人を殺せ』のフレーズは民族差別以外の何物でもない。
 それはまた、公言してみせることで差別を正当化し、蔑視観を刷り込み、排斥の空気をあおる。平等と個人の尊厳を尊重することで成り立つ民主主義社会を根底から突き崩す行為に他ならない。」
「容認、放置が許されないのは従って当然だ。大阪高裁は『在日特権を許さない市民の会』らによる京都市の朝鮮学校への街宣活動を違法な人種差別と認定した。『日本からたたき出せ』『保健所で処分しろ』という言葉の暴力が表現の自由であるはずがなかろう。」

ややごつごつとした荒削り感ある文章の迫力が十分。論者の怒りのほとばしりを感ずる。そして、問題を他人ごととしてではなく日本社会の民主主義に関わるものとしてとらえている。

この社説の評価において特筆すべきは、地域紙として、神奈川県内の現状に思いをいたしているところ。

「判決で特筆すべきは、標的とされた朝鮮学校は社会的に認知された存在で、その民族教育事業は保護されるべきだと言及した点だ。翻って、神奈川に5校ある朝鮮学校が置かれた現状はどうだろう。」

「高校無償化の対象から外され、県や横浜、川崎両市は補助金の打ち切りに踏み切った。北朝鮮による拉致問題や核実験という、学校や子どもと無関係な理由が持ち出された政策判断は合理性を欠くと言わざるを得ず、国や自治体の長による公然の差別に等しい。在日の排斥にお墨付きを与え、助長している点でヘイトスピーチと変わらない。」

神奈川県の有力地方紙が、国や県、横浜・川崎両市の仕打ちを指して、「国や自治体の長による公然の差別に等しい。在日の排斥にお墨付きを与え、助長している点でヘイトスピーチと変わらない」と言いきっている。これには凄味さえ感じる。胸のすく思いである。

しかも、同社説は民族差別の背景に肉薄している。
「思い致すべきは、在日への差別は今に始まったものではないことだ。朝鮮半島の植民地支配や民族の名前と言葉、文化を奪った同化政策は、差別と対を成す優越思想に基づく所業だった。差別は戦後も制度的に温存され、人々の意識下で再生産されてきた。そして今、過去の反省を示したはずの河野談話や村山談話の見直しを唱える政治家がいて、同様の言説が流布する。」

そして締めくくりは、こうなっている。
「排外の言動は突如として街中に姿を現したわけではない。歴史を顧み、足元に巣くう差別の根を断ってこそ、(高裁判決に)示された良識は生かされる。」

安倍政権や黒岩県政、横浜・川崎の市政に何の遠慮も気兼ねもしない、揺るぎのない正論。今の世の言論の萎縮を振り払うようなすがすがしさと言うほかはない。

さらに、今日の神奈川新聞「論説・特報」面(21面)の紙面構成は、「時代の正体-ヘイトスピーチ考」と社説とが一体となったもの。全面を使った「朝鮮学校に吹く寒風」というルポの中には、次の一節もある。

「民族的少数者が自らの言語、文化を学ぶ権利は保障されなければならないという国際条約も、教育の現場に政治を持ち込まないという原則も一顧だにされなかった。」「補助金の打ち切りと無償化除外は、朝鮮学校はなくなっても構わないと言っているようなものだ。言葉を学び、歴史を知り、文化を身に付ける必要ない、つまり朝鮮人として生きるな、ということだ。それと『日本からたたき出せ』と叫ぶのと一体どこが違うのか-」

国も県政も、補助金の紐を握ってカネの力をちらつかせながら、恥ずべき教育への介入を行ったのだ。

この優れたルポと社説が余すところなく語っている。差別は他人ごとではない。われわれ自身が作り出したものであり、今なお、再生産しているのだ。そして、それを是正することは、われわれ自身の課題であり、われわれの社会を住み心地よくすることなのだ。

神奈川新聞の姿勢に共感と敬意を表明する。
(2014年7月26日)

「表現の自由」が危ない-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第10弾

本日は日民協の機関誌「法と民主主義」の編集会議。
10月号まではテーマが決まっている。11月号をどうするか。

編集担当者からの詳細な企画案メモが提出された。タイトルは、「日本国憲法21条の問題状況」。「現代の表現の自由を考える」という副題が付いている。

大きくは、3節から成る。「第1・メディアの現状」「第2・街角の表現の自由」「第3・プライバシーと表現の自由」というもの。各節に5項目のテーマが並んでいる。なるほど、今、「21条の問題状況」は問題だらけ。表現の自由は危機的状況にある。

議論が百出した。意見は容易にまとまらない。
「これだと全体状況はつかめても、メリハリがない」「ここが時代の中心問題だという押し出しが必要だ」「表現の自由をめぐっては、NHK問題が突出した重大性を持っているというべきだろう」「NHK問題は、『権力による表現の自由規制』という図式が分かり易い。しかも、安倍晋三のお友だち人事というメディアの私物化という特徴的な手法が顕著で、時代を象徴する事件だろう」「むしろ、時代を象徴するのは、権力的規制よりは社会的抑制ではないか。明確な権力の発動なくても、社会の雰囲気に言論が萎縮していることが重大だ」「憲法擁護や憲法の学習までが、政治的な色彩を帯びた行為として行政の末端で排斥される現場を励ます理論が必要だ」「表現の自由の現代性を考えるとすれば、ヘイトスピーチ問題を取りあげねばならない」「これは、自由な言論が人権を侵害している構図」「一見そうだが、安倍自民が一強と言われる状況と深く関わっているのではないか」「自由な言論の市場は悪質な言論を淘汰するだろう」「果たしてそう楽観できるだろうか。後戻りできないところまで、事態が進行するリスクは否めないのではないか」「いや、対抗言論と民事訴訟で克服しつつあると見るべきだろう」‥

この議論の中で、表現の自由を危うくするものの一つとして、言論封殺を目的とするスラップ訴訟の濫発が大きなテーマであると確認され、11月号の特集に取りあげられることとなった。

但し、「スラップ」、あるいは「スラップ訴訟」はやや多義的である。一昨日の東京新聞一面トップが、「スラップ訴訟 市民団体が最高裁に抗議」というもの。沖縄県・高江の米軍用ヘリパッド建設反対の市民運動をつぶす目的での国の住民に対する提訴を「スラップ訴訟」としている。

同紙の記事は、スラップ訴訟を「国や大企業が自らの事業に反対する住民らを訴える」ことによって「言論の自由を抑圧」するものとし、今後の市民運動への濫発を懸念している。スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だというから、市民運動・住民運動・内部告発などに打撃を与えることを目的とした訴訟が広く含まれるということではある。

もっとも、スラップには、運動対抗型とは別に言論封殺型がある。『DHCスラップ訴訟』はその言論封殺タイプの典型である。個人の言論を封殺する主体は直接には公権力ではない。社会的・経済的強者が、裁判所の威を借りて個人の言論を抑制しているのだ。原告にとって不都合な言論をしたとして、提訴による高額の請求は、被告となった個人を萎縮させる圧力として十分である。

『DHCスラップ訴訟』の提起は、政治的言論に対する直接的な敵対行為であることに本質がある。『DHCスラップ訴訟』が嫌忌した言論の内容は、「政治とカネ」をめぐる見解である。もっと具体的に言えば、「カネで政治を左右することは許されない」「政治はカネで左右されてはならない」という民主主義の根幹に関わる政治的意見の表明である。これを原告は封じようとしているのだ。

このことが根幹であり、その余は枝葉の問題にすぎない。『DHCスラップ訴訟』の提訴と応訴とは、政治的言論の自由が真に保障されるのか、それとも打ち捨て去られるのか、という憲法の最重要理念をめぐる厳しいせめぎ合いなのだ。

「法と民主主義」11月号には、今の課題としての「表現の自由」擁護の立場から、具体的なしかるべき論稿が掲載されることになろう。NHK問題やヘイトスピーチ、あるいは言論の萎縮問題などと並んで、『DHCスラップ訴訟』問題も紙幅を割いてもらえるはずである。

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             蓮は泥より出でて泥に染まらず
上野不忍池の蓮が咲き始めた。今が、二分咲きといったところ。大ぶりの蓮の葉を渡る風は一段と涼しい。清々しい葉のうえにスックリと立ち上がった、大きくゆったりとしたピンクの花は「悠久の美」という言葉がぴったりだ。見物人もカメラマンも言葉を発する人もなく静かにみとれている。

不忍池は武蔵野台地の東端に位置し、上野台と本郷台に挟まれた湿地に、根津から藍染川が流れ込んでできた。その余り水は隅田川に流れ出た。入る川も流れ出る川も暗渠となって、今はうかがうこともできない。

いつからその不忍池に蓮が根付いていたかは定かではないが、1677年の「江戸雀」には
 「涼しやと池の蓮を見かえりて、誰かは跡をしのばずの池」
とある。江戸の浮世絵には「不忍池と蓮」がお定まりの図柄となっている。1935(昭和10)年に調査をした大賀一郎博士は、近くに住んだ林羅山か、寛永寺の天海和尚か、不忍池に弁天島を築いた水谷伊勢守が植えたのではないかと推察している。ちなみに博士の調査によれば、当時、植えられていた蓮は10種類であったそうだ。(池畔に立てられた案内板より)

しかし、現在は素人目にはピンクの花が一種類咲いているだけだ。近年、東京都は池の観光整備にのりだした。遊歩道をめぐらせて、新しい種類の蓮を植えることにしたらしい。明鏡蓮(白花)、不忍池斑蓮(白弁をピンクの縁取り)、浄台蓮(ピンク)、大賀蓮(ピンク)、蜀紅蓮(紅花)の五種類。今見るところ小ぶりの浮き葉が水面に浮いているだけ。水面高く立ち上がる巨大な巻き葉(立ち葉)がみえないので、今年は残念ながら花を見ることはできないようだ。

「浮き葉 巻き葉 立ち葉 折れ葉とはちすらし」山口素堂

案内板に書かれていることをメモしていると、隣に立ったおじさんが「俺は土浦の出身なんだ。土浦の蓮はこんなもんじゃない」とのたまう。「レンコンをとるんでしょ」というと、「何で正月にレンコンを食べるか知っているか」と言うので、ちょっと花を持たせて「知りません」と答えた。この辺りから、酒臭いなと思う。「穴が開いているので先が見えるから縁起がいいんだ」という。「そうですか」と言うと「あんた、ほんとはなんでも知っているのに、答えさせたね」とからんでくる。ちょっと、クスッと笑いたくなるのを押さえて、「そんなことありませんよ。ありがとう。」と答えて逃げ出す。

上野というところは朝の7時にご機嫌な人がいる場所だ。酒を嗜んで、蓮の花を愛で、池を渡る風に吹かれるのはどんなに気分がいいだろう。もう少し話し相手になってあげればよかったかなと思う。

しばらく行くと、池のなかから「グェッ、グェッ」とウシガエルの声が聞こえる。立ち上がった緑の葉と美しい花の下には、弱肉強食の現実世界があるらしい。「表現の自由」や「裁判を受ける権利」という美しい花の下に、ヘイトスピーチやスラップ訴訟がうごめいているごとくに。
(2014年7月25日)

漁業の民主化と「浜の一揆」

これまで、足がすくむ思いがつよくて三陸沿岸を訪れる勇気がなかった。
たまたま、「たっての相談ごとがある」として地元から招かれ、昨日と今日(7月23・24日)岩手県の沿岸・宮古市・山田町と田老地区とを訪れた。宮古も山田も3・11後初めての訪問。

法律相談の件は、15年前の「浜の一揆」の続編である。思い起こすと懐かしい。
ちょうど15年前のこと。私は、山田町大沢漁協から依頼されて、ある仮処分事件と本訴とを担当した。その事件を地元では、「浜の一揆」と呼んだ。私は、一揆勢に加勢したことになる。幸い、仮処分も本訴も、事件はすべて勝訴で終了した。裁判だけでなく、「浜の一揆」前編は大きな勝利を収めた。

この闘いの途中、仮処分の勝利決定の段階で、漁協が中間総括として立派なパンフレットを発行している。タイトルが、ズバリ「浜の一揆」。あらためてこれを読むと、私も精力的によく働いている。そしてなによりも、3・11前の沿岸の風景を懐かしく想い出す。

漁業に関する基本法は、1949年制定の「漁業法」である。その第1条・法の目的に、「漁業の民主化を図ることを目的とする」と書き込まれている。他に、「民主化」という言葉のある法律を知らない。明らかに、戦後改革の一端を担う意気込みの立法である。

江戸期、漁業は封建領主あるいはその家臣団が専権を領有し支配するものだった。明治期に封建領主は姿を消したが、網元支配がこれを受け継いだ。そして、戦後の民主化の中で、「浜」に社会改革が必要なことが強く意識されたのだ。ここにも「戦後レジーム」がある。

しかし、理念は必ずしも現実とはならなかった。「民主化」の実現は、ボス支配と拮抗して一進一退、容易に実現しなかった。山田町の大沢漁協は、極めてドラスティックに「一退」と「一進」を経験した。

この中規模漁協に鈴木甚左エ門という人物がいた。おそらくは、リーダーシップに優れ、魅力的な人柄でもあったのだろう。たちまちに、三陸漁業界に頭角を表し大ボスとなった。

大沢漁協の組合長を務めること40年余。岩手県漁連の会長を7期務め、県内1万9000といわれる漁民の頂点に君臨した。全国漁連の副会長でもあり、地元保守政界の大ボスの一人でもあった。

ボス支配は「民主化」による利益配分の公平と相容れない。鈴木ファミリーによる漁業利益の独占に対する一般漁民の不満はくすぶり続け、とうとう燃え上がった。これが「浜の一揆」である。

1999年大沢漁協臨時総会で、鈴木甚左エ門氏とその妻、そして両氏が主宰する定置漁業生産組合2法人の計4名について、除名決議が成立した。議決権数327のうち、賛成307票の圧倒的多数だった。さらに、大沢漁協の漁民は県漁連の総会に乗り込み、8選確実とされていた鈴木甚左エ門氏を「不適格」と弾劾し、会長の座から引き摺り下ろした。これは、支配・被支配を逆転する社会革命だ。鈴木氏と癒着している県政への批判でもある。

このあたり、私には、オッベルと象の一節を彷彿とさせる。
「象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。
『オツベルをやっつけよう』議長の象が高く叫ぶと、
『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。』みんながいちどに呼応する。
 さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。」

鈴木氏は、「法廷闘争に打って出る」と宣言。舞台は裁判所に移る。大沢漁協の除名決議が1999年6月15日のこと。同月17日には、決議無効の確認を求める本訴と、地位保全の仮処分とが盛岡の有力弁護士を代理人として申し立てられ、私が組合側の代理人として応訴を受任することになった。仮処分申立事件の却下決定は同年8月27日。これで、事実上勝負あったとなった。

もちろん、争いは経済的な実利をめぐってのものである。有限な資源の配分に際して、ボスによる独占を許すか、民主的に公平な配分を実現するかである。このことをめぐって「浜の一揆」がおこった。裁判の勝利は一揆の勝利であり、切実な経済的利益に結びつくものとなった。

その山田町・大沢を大津波が襲った。今回は漁協ではなく、漁民有志からの相談である。今、復興の途上にある漁民は、切実に新たな「浜の一揆」つまりは、漁業の民主化を必要としているという。漁業のボス支配とこれと癒着した県の漁業行政を是正することなしには、一般漁民の生計の復興ができない。後継者が育たない。地域の振興もできない。彼らは、「漁業従事者の生存権」を掲げて、再びの「一揆」に立ち上がろうとしている。これは、たいへん深刻な事態だ。

しかし、あれから15年。私の身体も衰えている。頭も固くなっている。さて、お役に立つことができるかどうか。

私の逡巡にお構いなく、私のブログをよくお読みの漁民と地域の方から、『DHCスラップ訴訟』支援の基金に多額のカンパをいただいた。あんまりありがたくて、義理にはまってしまいそう。
(2014年7月24日)

私こそは「幸せな被告」-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第9弾

昨日(7月22日)、『DHCスラップ訴訟』弁護団結成集会(弁護団会議)が開かれた。弁護団長を選任し、その他の弁護団体制も整った。これで、ようやくにして本スラップ訴訟への応訴の構えができあがったのだ。本日現在の弁護団参加弁護士数は87名。また、幸いにしてカンパの集まりも順調。多くの方に御礼を申し上げなければならない。

弁護団会議での意見交換は、訴訟上の理論的な検討に終わるものとはならなかった。「スラップ訴訟が市民の言論を萎縮させている現実を踏まえてこれにどのように対応すべきか」「スラップ訴訟提起者にたいする最も効果的な反撃手段は何か」「政治資金の透明性の確保の観点から本件をどう把握すべきか」「サプリメント販売の規制緩和における問題点を本件でどのように押し出すべきか」等々の議論があり、力量ある弁護士が次々と発言した。本訴訟をどう位置づけるかについての著名な学者からの特別報告もあった。

ともかく、これでスラップ訴訟対策弁護団の基本方針が決まり動き出すこととなった。もとより、私のためばかりの弁護団ではない。弁護団参加者は、スラップ訴訟に義憤を感じ、主としては表現の自由を獲得するために馳せ参じている。そのことは心得ているつもりだが、基本的に手弁当の弁護団の熱意に、被告本人として頭が下がる。

このスラップ訴訟の訴状送達を受けてしばらくは、まことに不愉快な思いをしていた。しかし、ようやくにして今私は、この不愉快さを完全に払拭し得ている。もしかしたら、私は、これ以上ない「幸せな被告」になり得たのではないだろうか。

訴訟の全過程と判決において、「私の幸せ」はそのまま「表現の自由の幸せ」であり、「日本国憲法の幸せ」でもある。このまま訴訟の確定まで、幸せであり続けたいとねがっている。なにしろ、それこそが憲法の幸せであるのだから。

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             植物の毒とスラップの毒
前回は動物(昆虫)の毒について書いた。今回は植物の毒について。

近所の公園で、早朝のラジオ体操が始まった。待ちに待った夏休みだ。生き生きとした子どもたちの明るい声で、こちらまで嬉しくなる。

その公園の近くに、家を取り壊した跡の空き地があちこちにある。不思議なことに、つい先日まで敷地の下で、草一本生えていなかったところに、すぐに雑草が生える。その雑草のなかに有毒植物がある。空き地で昆虫採集の子どもたちがそれを口にしないか心配だ。

ヨウシュヤマゴボウはまるでブルーベリーのようなつやつやした紫色の実をつける。いかにも美味しそうだ。しかし、これを食べれば、嘔吐、下痢をし、ひどいときには呼吸障害、心臓麻痺で死に至る。赤い実をつけるヒヨドリジョウゴもラッパのような花をつけ手榴弾のような実をつけるチョウセンアサガオも猛毒を持っており、口にすれば命に関わる。

こう述べてくると、植物とみればすぐ手に取り、時には舐めてみたり噛んでみたりする私は良く生きのびてきたと思う。これまで命の危険はおろか、嘔吐もしたことがない。草刈り中のひっかき傷がせいぜいだ。運がいいのか、チャレンジ精神がまだ足りないのか。夏休み中の子どもたちの心配より、自分の心配をした方が良さそうだ。

ところで、家庭菜園で作ったヒョウタンを食べて、吐き気と腹痛で入院した方についての報道(7月14日)があった。あのユーモラスな形で、完熟すれば水や酒を入れる「瓢(ふくべ)」となるヒョウタンが毒とは知らなかった。ウリ科の果肉に含まれるククルビタシンという成文が悪さをするらしい。海苔巻きにつきものの「かんぴょう」はユウガオを細くむいて乾かしたもの。そのユウガオはヒョウタンから毒性のない、苦みのないものを選別して作られたのだという。だから苦いユウガオは食べてはいけない。

同じウリ科にはキュウリ、ヘチマ、ゴーヤー、カボチャ、ズッキーニ、メロン、スイカなど食材としておなじみのものが多い。これらとて、時には用心が必要だ。ヘチマの若い実も食用になるが、苦いものはやはり食べてはいけない。ゴーヤーの苦みは別成分なので問題はないようだ。スイカの接ぎ木苗の台木にユウガオが使われ、台木のほうに成った実で食中毒を起こした例がある。きっと台木のユウガオがヒョウタンに先祖返りしてしまったのだろう。家庭菜園で野菜を作る方はくれぐれもご用心を。

身の回りにある毒を持った植物はヒョウタンだけではない。夏のあいだ、暑さに負けず花が咲き続けるキョウチクトウも心臓に作用する猛毒を持っている。古代ギリシャのアレキサンダー大王の軍隊やナポレオン軍や太平洋戦争時に南方にいた日本軍兵士もキョウチクトウでたくさん命を落としたといわれる。肉を焼く串に使ったり、料理用の薪に使ったのだ。キョウチクトウはたき火に使ってはいけない。煙も猛毒だ。(文春新書「毒草を食べてみた」植松黎)

美しい花を咲かせるスイセン、スズラン、ヒガンバナ、フクジュソウも用心したほうがいい。スイセンは葉(ニラに似ている)や球根(小さなタマネギのよう)を食べればひどい嘔吐や下痢をする。花に触って湿疹や皮膚炎を起こす人もいる。
スズランの葉や赤い実を食べたり、花をいけた水を飲んだ人は、ひどければ不整脈を起こして心臓が止まる。フクジュソウのもじゃもじゃの根っこにも心臓に作用する毒が含まれている。

ヒガンバナの球根は救荒食物になるというが、食べられるまでには気の遠くなるような行程をこなさなければならない。そのまま食べればひどい嘔吐に悩まされる。

この世は、自然の恵みに満ちてもいるが、実は毒の危険にも満ちているのだ。光あれば闇もあるごとくに。そして、美しい表現の自由の理念もあれば、スラップ訴訟やヘイトスピーチなどという醜い現実もあるごとくに、だ。

もっとも、植物の毒の多くは薬用にも使われる。花岡清州が、チョウセンアサガオ(曼陀羅華)の毒の作用を全身麻酔薬に試みたごとくにである。これと比較すると、スラップやレイシズムなどはひたすら毒性をもつのみ。人を益するところは皆無なのだ。
(2014年7月23日)
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グララアガア、グララアガア-『DHCスラップ訴訟』を許さない・第8弾

赤旗日曜版の読みどころは断然連載漫画である。かつては、手塚治虫『羽と星くず』『八丁池のゴロ』『タイガーランド』や、永島慎二『れんさいまんが日本むかし話』などの古典と言ってよい作品群があった。中澤啓治も「チンチン電車の詩」を掲載している。近くは、矢口高雄「蛍雪時代」や、山本おさむ「今日もいい天気」の各連載が秀逸だった。

そして今は、ますむらひろしの『宮沢賢治短編集』。賢治作品の理解は読者それぞれだが、猫を借りた人物の描写も、細かく書き込んだ植物や模様も、賢治のイメージをみごとにふくらませている。

ますむらが最初に取りあげたのは「やまなし」だった。この作品は取扱注意だ。私にはいまだに難解に過ぎて分からない。小学生に読ませているのも不可解極まる。ますむらひろし作品も、結局はよく分からなかった。

しかし、「虔十公園林」から俄然おもしろくなった。登場人物の性格描写が生き生きと画に表れている。そして、11回連載の「オッベルと象」が先週終わった。これは文句なくおもしろい。傑作と賞賛してよいと思う。

宮沢賢治の作品の中で、「オッベルと象」はテーマの分かりやすさで群を抜いている。勤労大衆の弱さと強さとを象徴する白象と、支配層ないしは搾取階級のあくどさを象徴するオッベルとの関係の描き方が分かり易いのだ。労農党を支援した賢治の連帯や団結観も見えている。とはいえ賢治の作品である。陳腐な類型化を免れている。決して、オッベルが極悪非道に描かれているわけではない。そして、白象は歯がゆいほどのお人好しなのだ。

冒頭の一節が、全編のトーンを決めている。
「オツベルときたら大したもんだ。稲扱(いねこき)器械の六台も据すえつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。」

そこへ現れた白象を、オッベルはだましだましこき使う。しまいには鎖でつないで、閉じ込めてひどく扱うようにもなる。

そして、「ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、『もう、さようなら、サンタマリア。』と斯う言った。」

月のはからいで、白象から仲間に窮状を訴える手紙が到着する。
「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」という文面。

さあ、ここからだ。
「象は一せいに立ちあがり、まっ黒になって吠えだした。
『オツベルをやっつけよう』議長の象が高く叫ぶと、『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。』みんながいちどに呼応する。
さあ、もうみんな、嵐のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。」

お終いはこうだ。
「グララアガア、グララアガア、象がどしどしなだれ込む。
『牢はどこだ。』みんなは小屋に押し寄せる。丸太なんぞは、マッチのようにへし折られ、あの白象は大へん瘠やせて小屋を出た。」
『まあ、よかったねやせたねえ。』みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。『ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。』白象はさびしくわらってそう云った。」

物語の終章の空気が静謐である。団結した行動が勝利したことによる高揚感の描写はない。みんなは「しずかにそばにより」、白象が「さびしく」わらうところで幕となるのだ。

ますむらひろしの作画は、賢治のストーリー展開に負けていない。象の大群が仲間を救出する大活劇の迫力をみごとに活写する。そのうえでの、解放された白象の複雑な表情が印象的である。

私も、スラップ訴訟の被告になって、「ずいぶんな眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ」と窮状を訴える立ち場にある。「『おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア』みんながいちどに呼応する」となって欲しいと切実に思っている。

白象をひどく扱ったオッベルの運命はといえば、「五匹の象が一ぺんに、塀からどっと落ちて来た。オツベルはケースを握ったまま、もうくしゃくしゃに潰つぶれていた。」となる。しかし、これは仲間の象が意図的にした結果ではない。

翻って思う。白象にしてみれば、オッベルに対する制裁よりも、完全な損害の填補が関心事ではないか。物語の始まりの「第1日曜」から、終章「第5日曜」までの未払い賃金の支払い、そして虐待に関しての原状回復費用と慰謝料の支払いこそが切実な具体的要求となる。仲間の象たちの日当だって相当因果関係のある損害なのだ。

現実の世界では、賢治の寓話のごとくに、寂しく笑っておわる、というわけには行かない。そう、私もだ。
(2014年7月22日)
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