澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

銭湯で上野の花の噂かな(子規)

花満開の日曜日。どこに足を伸ばすべきか。上野、谷中、飛鳥山、六義園、あるいは小石川植物園、千鳥ヶ淵、墨堤、新宿御苑…。やっぱり、今日は上野だろう。

花の名所は数あるが、花見の名所は上野を措いてない。ここが花見の本場、花見のメッカだ。花見とは、花を見に行くことではない。ようやく訪れた春の、浮き浮きしたこの気分の共有を確認する集いなのだ。

花は植物で、花見は社会現象である。花は美しく、花見は猥雑である。人がいなくても花は花だが、大勢の人がいなくては花見は成立しない。老も若きも、男も女も、赤子も犬も、猫も杓子も参加しての花見だ。歩くあり、しゃがむあり、座り込むあり、寝込むもあり。杖をつく人も、車椅子の人も。人、人、人。寄せては返す人の波だ。

せわしなく歩く人と、シートに座を占めた人々。それぞれが、しゃべり、写真を撮り、弁当を開き、酒を飲んでいる。歌もあり、踊りもある。屋台の前のごった返し、席取りのいざこざ、満員のトイレの列への割り込みを非難する声も、カタクリの蕾を踏んじゃダメだという注意も、皆なくてはならない花見文化の構成要素。

年に1度のこの雑踏の雰囲気が、我々の民族的アイデンティテイ。とはいえ、この上野の人混みの中に飛び交ういくつもの外国語。そしていろんな肌の色の人々。ああ、花見文化の浸透力の強さよ。

 銭湯で 上野の花の 噂かな (子規)
子規の当時から、上野の山はこうだったのだろう。

ところで、その上野の桜ケ丘といわれる高台に、「王仁博士記念碑」と、その由来を記した副碑がある。彰義隊顕彰碑にほど近い場所。

「王仁博士」は、5世紀初日本に『論語』『千字文』を伝えたという百済人。その記念碑は、戦前植民地統治時代に建てられている。その建立の日付が、「皇紀2600年」となっていることに驚いた。朝鮮には、檀君神話に基づく檀君紀元(檀紀)という紀年法がある。その元年は、皇紀よりはるかに古い。これを用いず、西暦でもなく、わざわざ皇紀を使っているのだ。

転載だが、同碑の建立経緯は次のとおりであるという。

「昭和11年(1936)、趙洛奎という朝鮮人が、四宮憲章(国文学者・皇明会長)のもとを訪ねた。趙は、王仁の事蹟を聞き、彼を顕彰するための碑を建てたいとして、その自作の碑文を示し、四宮に添削を請うたのである。

四宮はこれを受け、建碑のための後援会を組織し、井上哲次郎・中山久四郎を主唱者に立てて寄付金を募った。この結果、協賛者として、近衛文麿・徳富蘇峰・林銑十郎・頭山満ら、特別賛助者として、水野錬太郎・鈴木貫太郎・宇野哲人・白鳥庫吉・韓相龍といった錚々たる顔ぶれが集まることになり、昌徳宮(李垠、註・大韓帝国最後の皇太子)から下賜金も交付された。また、同碑は、かつて弘文院や孔子堂などの儒学関連の建造物があったという由緒をもつ、上野公園の桜ヶ丘に建てられることが決まった。

その後、博士王仁碑は無事建立され、昭和15年(1940)4月にはその除幕式が挙行された。各大臣、朝鮮総督、東京府知事、東京市庁が祝詞を送り、来賓祝辞として荒木貞夫や林銑十郎が挨拶を行うなど、除幕式は官主導で大々的に行われた。

同碑は、将来的に、王仁の生誕地と見なされた扶余(朝鮮)や、伝王仁墓(大阪)にも建てられる予定であったが、戦局の悪化により、計画が頓挫してしまったようである。〔以上、先賢王仁建碑講演会編『紀元二千六百年記念 博士王仁碑』、1940年を参考〕

四宮憲章も李垠も、もう知る人とてないだろう。今も名を知られているのは、評判の悪い人物ばかり。この碑。王仁博士と韓国民衆にとっては、どうも屈辱の碑であるようだ。

この碑の由来なんぞには無関心に、多くの人がこの碑の周りで寛いでいた。この碑に腰掛けて弁当を開いている者も。平和な風景ではある。この碑建立当時の桜は、どんな風情だっただろうか。
(2018年3月25日)

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Published in 日曜日, 3月 25th, 2018, at 20:00, and filed under 韓国.

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