澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

罪が深いよ 公明党さん

今国会最大の対決法案となる秘密保護法。憲法改悪への一里塚でもあるこの法案の提案内容について、与党内の調整が完了したと報じられている。公明党は、自党の修正提案が受け容れられたとして、法案の成立に積極的姿勢に転じている。

もとより、つくる必要のない法律。つくる必要があるとすれば、世界の憲兵を気取る好戦国アメリカとの共同謀議により深く関与する必要からでしかない。小手先の「修正」は、メディアの取材の権利を制約して国民の知る権利を蹂躙する、この法案の本質をいささかも変えるものではない。むしろ、このような「修正」での弥縫の必要が、法案の本質において、メディアの取材の権利を制約するものであること、国民の知る権利を侵害するものであることを露呈している。

それでも、公明の「修正」は、右派ジャーナリズムと感度の鈍い国民層には、一定の影響をもつだろう。「自民暴走のブレーキ役」などと見得を切っていた公明党だが何のことはない。自民党補完装置としての面目躍如である。一見リベラルを装っての寝返りは、罪が深いと指摘せざるを得ない。

まだ、閣議決定の対象となる法案の作成には至っていないが、与党合意となった「修正」箇所は、次の3点と報じられている。
(1)「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材の自由に十分に配慮しなければならない」と、知る権利への配慮を明記する。
(2)「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法律違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とする」と、取材行為の正当性に配慮する。
(3)「各行政機関の特定秘密指定の統一基準に意見を述べる有識者会議を設置する」ことで、各機関におけるばらつきをなくする配慮をする。

まず、第1点。何たる傲慢な法案であろうか。国民の知る権利は、民主政治のサイクルの始動点に位置づけられる国民固有の不可欠の権利である。国家や行政機関に、「配慮してもらう」筋合いのものではない。しかも、「国民の知る権利の保障に資する」ものだけを選別して特別に配慮してやろうという大きな態度。行政が「国民の知る権利の保障に資する報道又は取材ではない」と判断すれば、「配慮」の埒外に放逐される。その選別は、政府の匙加減次第ではないか。こんな「配慮」規定は、国民への目眩まし以外になんの役にも立たない。

第2点。巨大マスコミ抱き込みの意図が見え透いている反面、「出版又は報道の業務に従事する者」以外を切り捨てることの明言規定である。

それだけではない。マスコミへのリップサービスと、取材の違法性阻却の範囲限定のホンネとの狭間で論理矛盾に陥っている。まず、「法律違反の方法による取材活動」が処罰対象となることが明言されている。しかし、刑法35条の正当業務行為とは、法律違反があった場合を前提として、構成要件に該当する行為についてその違法性を阻却するという効果をもつものである。仮に修正案が、「本法の構成要件に該当する行為も、ジャーナリストの取材としてなされたものについては、これを正当な業務による行為と見なして処罰しない」というのなら意味がある。修正案は、「法律違反と認められない場合は処罰対象としない」と、当たり前のことを言っているだけで、何の意味もない。真剣にものを考えようとせず、格好を付けることだけを考えているから、こんな奇妙な表現となる。

また、「著しく不当な方法によるものと認められない限りは、正当な業務による行為として取材行為を処罰対象としない」という文言も馬鹿げたものである。「修正案」は、原案よりも取材の自由の範囲を限定してしまっていることになるのだから。本来、違法でない行為を行うことは自由なのだ。「著しく」と限定しようとも、「不当な」取材行為を公権力が禁止することはできない。原案は、「人を欺き、人に暴行を加え、‥脅迫し、窃取、施設への侵入」などの手段を伴う取材行為を犯罪としている。実はこれが大問題なのだが、「修正」案では、「そのような手段を伴わない犯罪に至らない不当のレベルの取材方法」でも処罰するぞと脅かしているのだ。

第3点。これは、権力機関相互の調整の規定に過ぎず、秘密指定の限定を画するものではない。国民の権利侵害を制約する観点とは何の関連性ももたない。

以上のとおり、「修正案」は、国民の知る権利擁護の立場からも、メディアの取材活動の自由確認の視点からも何の意味をもつものでもない。「修正」案の文言は、外務省秘密漏洩事件最高裁判決からの引用だが、体系的な位置づけの理解を欠いていることから「つまみ食い的引用」に陥っている。また、なによりも同事件全体の流れや、結局は国民の知る権利を蹂躙した最高裁判決への批判の視点を欠いていることを指摘せざるを得ない。こんなまやかしで、秘密保護法批判の筆を鈍らせるメディアがあるとすれば、ジャーナリズムの風上にも置けない。

本質的な問題の構造は、国民の知る権利を拡大することによって国家権力の横暴を監視すべしとするか、国民の知る権利を抑制しても国家の秘密を重視すべしとするか、どちらのベクトルを支持するかである。前者は、国家権力に対する猜疑を基礎とし、後者は国家権力への国民の信頼を基礎とする。私たちは、後者の選択の苦い経験を後悔して間がない。その苦さ、悲惨さを忘れてはならない。
(2013年10月20日)

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Published in 日曜日, 10月 20th, 2013, at 23:51, and filed under 未分類.

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