澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

野蛮の跳梁が文明を圧殺した、香港の現状を憂うる。

(2020年7月2日)
有史以来の人類の歩みは、野蛮から文明への進化であった。もっと正確には、人類は、野蛮を排して文明を構築しようと努力を積み重ねてきた。もちろん、歴史が一直線に進化してきたわけではなく、これが法則という論証などできようもない。ときに、その逆流を見せつけられて暗澹たる思いを噛みしめることがある。30年前の天安門事件がそうだったし、香港で今進行している事態が同じ出来事である。

野蛮を象徴するものは何よりも暴力である。また、暴力にもとづく独裁であり専政でもある。文明を象徴するものは何よりも非暴力である。また、暴力に基づかない民主政であり、人権の思想である。

6月30日まで、香港は文明の圏内にあった。不完全ながらも、自由と民主主義と人権の享受が保障される世界であった。その深夜、突如として圏境を越えて野蛮が押し入って来た。一夜明けた7月1日の香港は、文明が圧殺されて野蛮に占領された別世界と化した。

何よりも重要な政治的言論の自由が失われ、民主主義と人権は逼塞した。代わって、剥き出しの権力が大手を振って闊歩する専政と弾圧国家の一部となったのだ。これは、資本主義と社会主義との対立などでは断じてない。まさしく、文明が野蛮に蹂躙された図なのだ。

民主主義の要諦は、人民の人民による人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)と定式化される。「人民による人民のための政治」(government by the people, for the people)の意は分かり易いが、「人民の政治」(government of the people)は、やや分かりにくい。分かりにくいが、これこそが民主主義の神髄だという。

「人民の政治」(government of the people)のof は、同格を表す前置詞。つまり、(government = the people)であって、治める者と治められる者とが同格で同一であること、「自同性」を意味するのだと説かれる。

7月1日以来、香港人民の治者は北京政府であり中国共産党となった。ここには、治者と被治者の自同性も、同格性も同一性もない。暴力に基づく抑圧者と非抑圧者の関係があるのみ。ここには、民主主義の片鱗もない。

文明は、長い年月をかけて人権思想を育んできた。人権を権力の恣意から擁護しようと、法の支配という原則を作り、権力分立というシステムを作り、司法の独立を守り、罪刑法定主義を世界のスタンダードとしてきた。

その香港の文明は、一夜にして潰えた。今や、野蛮が跳梁する様を見せつけられるのみ。

昨日(7月1日)の香港では、文明の側に属する1万の民衆が、野蛮の中国政府に抗議するデモに立ち上がった。参加者は恐怖心を振り払って、「国安法という悪法を恐れず、中国共産党の独裁に抵抗する」「天が共産党を滅ぼす」「今こそ革命の時だ」―、さまざまなプラカードを手にした市民が声を上げながら行進したと報じられている。その心意気には感動せざるを得ない。

しかし、機動隊は真新しい紫色の警告旗をデモ隊に見せつけた。「国家分裂や中央政権転覆に該当し、国安法違反罪で逮捕される可能性がある」。そして「香港独立」と記した旗を手にした男性がその場で逮捕された。逮捕者は300人余に及んだという。

デモ行進も「香港独立」のプラカードも、文明世界では表現の自由として保障される。しかし、野蛮の世界と化したこの地では許されないのだという見せしめ。文明と野蛮のはざまで、人は揺れ悩む。「怖いが、怒りを我慢できず、ここ(デモ)に来た」という学生の声は、事態の深刻さだけでなく、希望の芽も語っているのではないか。

この歴史の逆流を目の当たりにして、小さくても精一杯の批判の声を積み上げていこうと思う。

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