強権・スガ政権の正体が見えた。
(2020年10月1日)
スガ政権とは何か。その正体露呈の事態である。意に染まない官僚は切ると宣言した政権。そして、「それは当たらない」の一言で説明責任を拒絶してきた人物の率いる政権。その政権による「日本学術会議推薦の6人、任命されず」という報道に大きな衝撃を受けている。これは、大事件だ。あの、アベ政権ですらやらなかったことを、新米総理のスガがやったのだ。
50年ほどの昔のことだ。私は、23期(戦後の法曹養成制度が発足以来23年目)の司法修習生だった。1971年4月に、2年間の修習を終えた500人の同期生は、弁護士・裁判官・検察官それぞれの道に進んだ。ところが、裁判官希望者の内7人が採用を拒否された。最高裁当局は、「人事に関わる問題だから」として、その理由を一切開示しなかったが、明らかに思想差別であった。
同時に、人事権を握る最高裁当局は、裁判所内の青年法律家協会会員に執拗な脱退勧告を繰り返し、宮本康昭判事補に対する前代未聞の再任拒否まで行った。我々は、頑迷固陋な超保守主義者・石田和外を長官とする最高裁当局の、人事を通じての思想統制であると断じた。このままでは「司法の独立」・「裁判官の独立」が崩壊する、時の権力の意のままになる司法に堕すると危機感を抱いた。
あれから50年たった今、同じことが政権の学術会議会員任命をめぐって生じている。権力によるあからさまな思想差別であり、これを通じての思想統制である。裁判官も研究者も、権力からの介入に自由でなければならない。この度のスガ政権のやり口は、やってはならないことに敢えて汚れた手を突っ込んだのだ。
日本学術会議法による学術会議の会員は210名である。任期は6年で3年ごとに半数が交代する。同法第17条は「日本学術会議は、規則で定めるところにより、優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し、内閣府令で定めるところにより、内閣総理大臣に推薦するものとする」と定める。つまり、日本学術会議の候補者推薦以外に、会員となる道はない。明らかに、法は、形式上の任命権者である内閣総理大臣が専門家集団としての学術会議の推薦を尊重してこれに従うべきことを想定している。現実に、これまで、推薦した候補者が任命されなかった例はないという。
8月末、学術会議は恒例のとおりに、政府に105名の推薦書を提出した。しかし、任命されたのはそのうちの99名のみ。うち6名が任命されなかった。学術会議事務局が官邸に問い合わせたところ、「間違いや事務ミスではない」と返答があった、と報道されている。
推薦されながら任命されなかった研究者6名は、全て第1部門(人文科学分野)である。小澤隆一・東京慈恵会医科大教授(憲法学)、岡田正則・早稲田大教授(行政法学)、松宮孝明・立命館大教授(刑事法学)、芦名定道・京都大院教授(キリスト教学)、加藤陽子・東京大教授(日本近代史)、宇野重規東京大教授(政治学)。
この顔ぶれは、いずれも政権に尻尾を振る似非学者ではない。一見して、政権からその学問上の毅然たる姿勢を厭われたと言ってよい。当然のこととして、「日本学術会議法解釈の誤読」「思想差別」「学問の自由への乱暴な介入」「憲法違反」と批判が出ている。
一方、加藤勝信官房長官は本日の会見で「個々の候補者の選考過程、理由については人事に関することでありコメントは差し控える」「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」「直ちに学問の自由の侵害ということにはつながらないと考えている」と述べたという。50年前の最高裁当局と同じだ。
「首相の所轄で、人事等を通じて一定の監督権を行使することは法律上可能となっている」という、コメントがおかしい。政権は、「人事等を通じて一定の監督権を行使」したことを認めたのだ。
あからさまに言えば、こういうことだ。「この度の日本学術会議会員任命人事において、政権に不都合な学問傾向をもつ被推薦者の任命を拒否することを通じて、政権の姿勢を明確に天下に示し、政権の意向に従順ならざる者に対しては峻厳に対応することを官僚だけでなく、国民一般に知らしめることで、政権の有する監督権を適切に行使した」というのだ。これが、スガ政権の正体というしかない。
これは、ウカウカしておられない。政権に対する最大限の反論・批判が必要ではないか。