平穏な表現行為に対する実力での妨害を厳重に処罰せよ。
(2021年7月9日)
中国のことはさて措き、私たちのこの国の民主主義的状況を語らねばならない。この日本には満足な表現の自由があるのだろうか。いや、そんな他人事のような言い方はやめよう。この日本社会の表現の自由の現実は、大きく抉られた穴だらけのものでしかない。今のうちに何とかしなければ、再びあの暗い時代の轍を踏むことになりかねない。
表現の自由とは、当たり障りのないことを発言する自由を意味するものではない。おべんちゃらを述べることは「自由」とも「権利」とも言うに値しない。誰かの人格を毀損し、誰かにとっては神聖なものを傷付け、誰かにとっては不愉快な表現が、権利として許されるということでなければならない。
端的に言えば、言いにくいことを、言いにくい相手に対して、発言する自由が基本的人権ひとつとして保障されているのだ。政治権力に反抗し、社会的な強者を批判し、社会的な権威を否定し、多数者の常識に挑戦する少数者の言論の自由が保障されなければならない。国家も、政治家も、政党も、企業も、企業主も、大学も、学者も、新聞もテレビも言論人も、法曹も、検察も最高裁も、宗教家も、芸術家も、アスリートも、そして天皇も皇室も皇祖皇宗も、批判の言論から免れることはできない。あらゆる権力や権威への批判の表現の自由の保障が、民主主義の基礎を形作っている。
国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」は、その時点までの表現の不自由の実例の展示を敢えてする問題提起の企画だった。それが、はからずも多くの人の注視のに表現の不自由を再現する場となる衝撃を社会に与えた。
あの衝撃が意味するものをもう一度考え直そうとする展示会が、今年の6月から7月の予定で企画された。東京・大阪・名古屋の3会場で行われるはずであった。しかし、またまた、この3会場の企画がともに日本社会には満足な表現の自由がないことを立証する経過をたどっている。
この事態を、「表現の自由を守ろうという陣営と、これを攻撃しようという勢力がせめぎ合っている」などと表現することは不正確で誤解を招くものと思う。正確には、「いま、表現の自由が、暴力と恫喝によって逼塞を余儀なくされようとしている」のだ。社会がこのことを重く受けとめ、この暴力と恫喝を許さないとする民主主義的な力量を持たねばならないが、残念ながらそこまでに至っていない。
しかし、平穏な表現行為に対しての実力をもってする妨害は、明らかに犯罪である。せめて我が国が法治国家であるという証しを見せてもらわねばならない。
今夏に各地で開催される予定だった「表現の不自由展・その後」の内、民間展示施設で6月25日から開催の予定であった「東京展」が、右翼による周辺での妨害行為などの末、開会予定日の前日に延期に追い込まれた。実行委員会は、「あくまでも延期です。これから更なる会場選定を行い、東京都内で「表現の不自由展」を開催いたします。」と声明したが、今のところ新たな開催の通知はない。
大阪市中央区の府の施設「エル・おおさか」で、7月16〜18日に予定されていた「表現の不自由展かんさい」の開催も同様の右翼の妨害行為があり、施設の管理者が6月25日付で利用承認を取り消した。驚くべきは、吉村洋文府知事の発言である。翌26日に記者団に対して、「安全な施設の管理・運営を果たすのは(抗議活動によって)難しい」「取り消しには賛同している」と述べたという。大阪展の主催者は同30日に指定管理者を相手取り、大阪地裁に処分の取り消しと、執行停止を申し立てた。本日(7月9日)、大阪地裁は、実行委員会に会場の利用を認める執行停止決定を出した。
そして、最も順調に見えた「名古屋展」(7月6?11日の予定)が卑劣な妨害行為に見舞われた。昨日(7月8日)午前9時半ごろ、同展が行われていた「市民ギャラリー栄」で郵便物の開封時に破裂音がする事件があった。破裂音がしたのは施設7階市文化振興事業団の事務室。郵送された茶封筒(縦約23センチ、横約12センチ)を職員が開封したところ、破裂音が10回ほど続いた。捜査関係者によると、爆竹とみられ、周囲に黒い粉が散乱したという。封筒は同ギャラリー宛てで、不自由展中止を求める内容の文書が添えられていた。
明らかに威力業務妨害である。しかし、名古屋市はこれに断乎たる姿勢を見せず、「安全上の観点」から11日まで施設を臨時休館すると決めた。展覧会は事実上の展示中止となっている。主催団体側が主張しているとおり、この犯行は「暴力による表現の封殺」を狙ったもので、その目的を遂げている。
皇室批判に対する反批判はあってもよい。歴史の真実に対する歴史修正主義的な批判も自由である。しかし、平穏な展示を実力をもって妨害することは許されない。結果としてであれ、これを許してしまっては、法的秩序が崩壊する。法治主義の国家ではなくなる。
東京・大阪・名古屋とも、表現の自由の受難がそれぞれに多様である。大阪展は、前途多難ではあろうが司法的救済がかろうじて間に合った。名古屋展は、2日だけは開催できたものの、4日の日程が潰されることになりそう。東京の苦心は続いている。日本社会の「表現の不自由」は、今なお現実のものなのだ。