臆して批判を控えてはならない。安倍晋三が遺した巨大な負のレガシーを清算するために。
(2022年8月8日)
安倍晋三銃撃という衝撃から1か月である。この事件、当初は政権政党に有利な風を起こすかに見えた。安倍晋三に「テロの犠牲者となった悲劇の政治家」「遊説中に凶弾に倒れた民主主義の犠牲者」などの虚像・虚名を冠して、その死が政治的に利用し尽くされることになるだろう、だれもがそう考えた。
国民が悲劇の安倍晋三を悼み、その死の政治的利用を可能とする風が一瞬だが確かに吹いた。その一瞬の間に参院選の投票が行われ、自民党が勝ち、野党が大敗した。さらに政権はこの風を頼みに安倍国葬を決めた。この風を大きく煽ろうという魂胆が見え見えである。この風を利しての改憲さえ可能と思ったのではないか。
しかし、その風は一瞬にして止んだ。本件の犯行は典型的な政治的テロではなく、安倍を撃った銃弾は、特定の政治思想を狙ったものでも、民主主義を撃ち抜くものでもなかった。銃撃犯と安倍晋三との関係は、政治的な確執でも思想的な対立でもなかった。
そもそもこの事件、犯人と被害者とを直接に結ぶ関係はない。銃撃犯と安倍晋三との間には、統一教会という反社会性顕著な反共団体が介在していた。これまで明らかにされている限りでのことだが、犯人は統一教会を徹底して怨み、統一教会と関連密接な存在としての安倍を銃撃したのだ。常識的にはわかりにくい構図だが、やや時を経て、世論はこの構図を理解した。そのことによって、保守勢力への順風が止んだのだ。世論のこの構図の理解の深まりは、風向きを変えつつある。国葬反対の世論の高揚が、岸田内閣支持率の低迷を招いている。
銃撃犯と統一教会と安倍晋三。この3者の関係図のうち、まず犯人と統一教会との関係が、分かりやすいものとして世論の理解を得た。統一教会とは、人をマインドコントロールして精神を支配し徹底した経済的収奪に躊躇しない憎むべき組織。犯人は、統一教会によって家庭を破壊され不幸に陥らしめられた哀れな被害者。そのように世論が理解するに難しいところはない。
問題は、統一教会と安倍との関係である。岸信介以来の自民党右派が反共という共通項で、統一教会・勝共連合と深い癒着関係を築いてきたことが、明らかにされつつある。そして、今参院選の候補者調整においてなお、安倍は統一教会の組織票と動員力を自分の手駒にして、党内政治における支配力を行使しているのだ。
統一教会と安倍との関係というピースがピタリと嵌まらないと、安倍銃撃の必然性は見えてこない。その全容はまだ十分に明らかとは言えない。しかし、安倍と安倍派が、永年にわたって、あの反社会的な教団と、こんなにもズブズブに癒着していたのかという衝撃は世論を大きく動かしている。「勝共連合」と自民、改憲草案に多くの一致点との指摘もある。
世論は既に安倍を「悲劇の政治家」と見ていない。山上徹也も「憎むべき民主主義の敵」ではなくなっている。安倍国葬は、却って現政権の安倍政治美化の思惑を炙り出し、安倍の数々の悪行を思い起こさせる動機となっている。「安倍晋三とは、本当に国葬に値する政治家だったのか。安倍政治とは、国葬に値するものなのか」と、立ち止まって考えざるを得ないからだ。
反論できない死者を批判することは、死者を鞭打つに等しく社会常識を弁えた大人のすべきことではないとされる。だからこそ、安倍の死は現政権にとって政治的利用が可能だと思われた。しかし、生死の如何にかかわらず、批判すべきはきちんと批判しなければならない。今は、そのような真っ当な雰囲気が世に戻っている。
たとえば、一昨日(8月6日)の毎日朝刊政治面の大型コラム「時の在りか」。 論説委員伊藤智永の「家業としての安倍政治批判」などはその典型であろう。
安倍政治を「家業」として捉える視点からのまことに辛口の批判である。さすがに筆を抑えての書きぶりではあるが、読みようによっては、安倍晋三とはこんなに軽薄で政治的には無能で嫌な人物と言わんばかり。事件の直後では、とてもこうは書けなかっただろう。
https://mainichi.jp/articles/20220806/ddm/005/070/006000c
その最後は、こう結ばれている。
「晋三氏の死は理不尽な遭難に違いない。だが、父祖伝来の縁ある宗教組織に自分の元秘書官の選挙応援を頼み、就職氷河期世代に逆恨みされた因果は、理解不能な不合理というだけでは済まされないわだかまりを私たちに残した。」
もちろん論者の本意ではないが、この結論はこうも読めるのだ。「晋三氏の死は本当に理不尽な遭難なのだろうか。父祖伝来の縁ある宗教組織に自分の元秘書官の選挙応援を頼んで就職氷河期世代に逆恨みされたという因果は、十分に理解可能というべきではないか」
あらためて思う。安倍晋三が遺した巨大な負のレガシーを徹底して見つめ直し、その清算をするところから、民主主義の再生をはからなければならない。今、それを可能とする風が吹き始めている。